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« 耳嚢 巻之三 狂歌流行の事 | トップページ | 耳嚢 巻之三 人の貧富人作に及ざる事 »

2010/08/22

耳嚢 巻之三 無賴の者も自然と其首領に伏する事

「耳嚢 巻之三」に「無賴の者も自然と其首領に伏する事」を収載した。

 無賴の者も自然と其首領に伏する事

 願人とて無法の坊主有。色々當世抔の思ひ付をし、或ひは大山石尊へ奉納もの也とて異樣の物を拵(こしらへ)、町々を持あるきて錢を乞ふなどして世を渡り、寒天に水をあび又は辻々にて代參の由いふて、錫杖をふりて一錢二錢を乞ふ、乞丐(かたゐ)同樣の者也。無賴の惡少年、父親族の勘氣を受て此類と成也。然るに淺草柳原に右の者共住ひする長屋ありて、頭は鞍馬流の□□といへり。土井故大炊頭(おほいのかみ)寺社奉行の節、右願人壹人駈込て、仲間の事且町方の者に打擲(ちやうちやく)に逢ひし由訴ふ。然るに奉行所にては其頭たるものゝ添翰(てんかん)なければ不取上事故、其譯寺社の役人品々利害を述て申渡けれど、元來頑愚の凡僧一向理非の辨(わきなへ)なく、公(おほやけ)の大法をも不辨、頻に其身の申事のみ言(いひ)て承知せざりける故、彼(かの)觸頭(ふれがしら)を呼て其譯申けるに、觸頭來りて二三言申談じ叱りければ、閉口して立歸りぬるを、予留役の節まのあたり見侍りき。又火消役の役場中間といへるあり。是も寒暑看板ひとつにて博奕(ばくえき)大酒を事とし、金錢に窮する時は日々はき候草鞋或は下帶を質に入る樣成(やうなる)無賴の者共也。

  此草鞋を質に入ける間は、たとへ役場へ駈付候ても素足にて出る事

  の由。無賴なる者にも仲間の掟又嚴重もおかし。

 予が屋敷向ふに火消役の御役屋敷ありし。或日予近隣に若山某とて秋元家の家士有りしが、彼僕と右の役場中間口論のうへ打擲に逢しなど跡方なき事申懸て、右中間兩三人理不盡に若山が玄關へ上り、打擲に逢し間最早役場難勤、殺し貰(もらひ)度(たし)とて騷ぎあばれける故、若山も大きに難儀して、則火消役の家來迄其事申通じければ、右役場中間の頭の由、ちいさき親仁來りて一通り叱り、早々歸候樣申けれども、何分酒に醉候や承知いたさゞるを、彼親仁引捕へ玄關前へ投出して、外々(ほかほか)まいり候者共に引立させ屋敷へ連歸りぬ。其樣よわ/\としたる親仁なりしが、彼者の取始末(とりしまつ)せしさま、大の男を小兒のごとく取扱ひける。其首領の威は自然とあるもの也とおかしかりき。

□やぶちゃん注

○前項連関:あまり連関を感じさせないが、当世流行の狂歌話から、当世流行りの願人坊主の話ではある。既出の評定所留役時代の実見録シリーズ。本件には当時の差別的意識が微妙に反映している。そうしたものへの批判的視点及び被差別の事実を示す歴史的資料としての側面を忘れずにお読みになられるよう、お願いしたい。因みに――何故か自分でもよく分からないのだが――この古き良き侠客の話が好きだ。特に後半の小柄な老人――何だか私は、この老人に逢ったことがあるような気がするほど――それほど目の前にこの老人の姿が見えるのだ――ひどく懐かしい思いが過ぎるのである。

・「願人」願人坊主のこと。江戸時代、門付けや大道芸を演じたりしながら御札を売ったり、人に代わって参詣・祈願の修行や水垢離(みずごり)などの代行を請け合い金品をせびった乞食僧。Noriaki Ishida氏の「願人坊主って何だ?」によれば「鞍馬寺史」に「願人を以て勧進の意なりと解せば、少なくとも鎌倉時代にまで遡り得べきなり。江戸時代の願人はこの勧進の後身にして……」とあり、『このため、願人は勧進から来たとされている。すなわち、願人は毎年正月に鞍馬寺より祈祷札を請い受け諸国に持ち回り、加持祈祷を行って生活費を得るとともに鞍馬寺への参詣を勧誘した。いわば鞍馬寺の営業担当のようなものだったらしい』。『本来、鞍馬寺大蔵院に所属する人々だけを「願人」と呼んでいた。願人は、頭(かしら)を中心に組織化されており、その組織は江戸、大坂、駿府、甲府などに存在した。大蔵院は、判物を与え身分を保証するとともに祈祷札を与えその地位を証明した。すなわち、江戸時代の身分制度の中で、彼等が無宿人ではなく鞍馬寺の意を受けた存在である事を保証したのである』。『しかし、願人は祈祷などだけでは生活できなくなり、次第に乞食と変わらなくなった。なかでも、才ある者は“異形滑稽の品を持ち歩き見せ”たり、“歌浄瑠璃”を歌ったりして日銭を稼いだ。「江戸職人歌合」には、願人坊主を右図のように描いている』(リンク先に絵)。『また、こんな表現もある、“願人坊主 裸にして鉢巻し、しめ縄のようにわらを腰にさげ、手に扇を開き、錫杖を持てり”。どうやら坊主とは名ばかりであったようだ。願人坊主は、「すたすた坊主」、「チョボクレ坊主」などとも呼ばれていた。これらの言葉からも彼等の姿が見える気がする。しかし、次第にその行状が目に余るものとなり、1842年(天保1311月には、江戸の寺社奉行阿部正弘は「願人取締」を命じている。ところで、日銭を得るための彼等の口承文芸は、近代の浪曲などに直接つながっている』とされ、最後に『願人坊主の実体は、ほぼ非人と同様であったようだ』と結ばれている。この根岸の書きぶりや、頭の意識的欠字にもそうした差別意識が見て取れる。岩波版長谷川氏注に願人坊主は『神田橋本町が集住地として知られていた。』とある(後の「淺草柳原」注を参照)。――勧進(Kangin)が願人(Gannin)という語に転訛したというのは、目から鱗。

・「大山石尊」現在の神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)のこと。私の大好きな落語の「大山詣り」でも知られるように、江戸時代は庶民の根強い信仰を集めた。以下、ウィキの「大山阿夫利神社」より引用すると、祭神は『本社に大山祇大神(オオヤマツミ)、摂社奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)』を祀るが、江戸時代までの『神仏習合時代には、本社の祭神は、山頂で霊石が祀られていたことから「石尊大権現」と称された。摂社の祭神は、俗に大天狗・小天狗と呼ばれ、全国八天狗に数えられた相模大山伯耆坊である』。社伝によれば崇神天皇の御代の創建され、『延喜式神名帳では「阿夫利神社」と記載され、小社に列している』。『天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた』。『中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けた。江戸時代には当社に参詣する講(大山講)が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣した』。『明治時代になると神仏分離令を機に巻き起こった廃仏毀釈の大波に、強い勢力を保持していた大山寺も一呑みにされる。この時期に「石尊大権現・大山寺」の称は廃され、旧来の「阿夫利神社」に改称された』とある。

・「淺草柳原」筋違橋(現在の万世橋)から神田川が隅田川に注ぐ柳橋辺りまでの神田川南岸を言う。江戸切絵図でも柳が書き込まれており数多く植えられていたようすが分かる。ここは現在の千代田区神田須田町1及び2丁目・岩本町3丁目・東神田2丁目・日本橋馬喰町2丁目・東日本橋2丁目北端に当る。岩波版長谷川氏注によれば、先に掲げた願人坊主の集住地であった橋本町は、この浅草柳原一帯に『に接しており、橋本町居住者を指すのであろう』と記されている。この橋本町とは江戸切絵図で見ると現在の東神田1丁目付近に相当する。なお、この記載は、あくまで同和的歴史的な過去の事実としてのみ理解されたい。

・「鞍馬流」現在の京都府京都市左京区鞍馬本町にある鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)の流れを汲むという意。鞍馬寺は当時は天台宗の寺院で(1949年に独立して現在は鞍馬弘教という仏教宗派の総本山という位置付けである)、開基は伝承上は鑑真の高弟鑑禎(がんてい)とされている。往時の鞍馬寺は十院九坊より成りその中の大蔵院と円光院の二つの願人坊主の流れがあったらしく、鞍馬寺を本とすることから、ここに示されるように寺社奉行が彼等を管轄していた。

・「□□といへり」底本では「□□」の右に『(原本約二字分空白)』の注を附す。当時の被差別者集団の頭領であることから、意識的に欠字としたものか。

・「土井故大炊頭」土井利里(どいとしさと 享保7(1722)年~安永6(1777)年)のこと。肥前国唐津藩第3代藩主・下総国古河藩初代藩主・京都所司代・土井家宗家8代。ウィキの「土井利里」より引用する。『父利清は土井家の分家5000石の旗本で、本家の唐津藩主・土井利実に子がなかったため、兄の土井利延が家督を相続していたが、利延が間もなく死去したため、利延の弟の利里が家督を相続した』。『幕府では奏者番となった後、古河へ国替されて土井家は家祖利勝時代の領地古河へ復帰。さらに利里は寺社奉行を経て京都所司代にのぼり、老中の一歩前まで来たところで死去する』。『利里も子に恵まれず、はじめ旗本・久世広武の子を迎え利剛と名乗らせ養嗣子としていたが早世』、『その後、川越藩主・越前松平朝矩の子を迎え利建と名乗らせていたが安永4年(1767年)廃嫡、ついで西尾藩主・大給松平乗祐の子を利見と名乗らせ家督を相続させた』とある。同記事の「官職位階履歴」によれば利里は延享元(1744)年に従五位下大炊頭(おおいのかみ)に叙せられている。彼が寺社奉行であったのは宝暦131763)年から明和6(1769)年の間である(この間、根岸は評定所留役から御勘定組頭(明和5(1768)年)となっている)。従って本文の記載から、本話柄は宝暦131763)年から明和5(1768)年の間の出来事となる(但し、もっと限定できる可能性がある。以下の「秋元家」注を参照されたい)。単なる官職位階であるから意味はないが、「大炊頭」について一応説明しておくと、宮内省配下の大炊寮の長官である。宮中の神事・仏会その他諸宴席等に於ける食材管理から調理全般及び諸国から献納される米穀の収納と分配を司った役職である。なお、「故」が入っているのは孫(土井利見の養子)に当る根岸の同時代人土井利厚(としあつ 宝暦9(1759)年~文政5(1822)年)が安永6(1777)年1220日利見の養嗣子となって古河藩襲封した際、同じく大炊頭に叙せられており、同じ役職を勤めていたためである。因みに、本巻が執筆された下限である天明6(1786)年頃は、この土井利厚の方は寺社奉行で、享和元(1801)年には京都所司代、享和2(1802)年には老中に就任しており、根岸より22歳年下ながら、出世街道をひた走った感がある人物である。

・「添翰」訴訟手続きをする際の、委細を支配頭が認(したた)めた添え状。

・「觸頭」社寺及びそれに準ずる集団の中から選ばれた、寺社奉行が発した命令の伝達及び寺社から出る訴訟の取り次ぎに従事したその代表社寺及びその担当者を指す。

・「留役」評定所留役。現在の最高裁判所予審判事相当。

・「役場中間」ここでの「役場」は特殊な用法で、火事場の意である。火消し役が役する火事場の謂いであろう。専ら消防作業に従事した中間のこと。

・「看板」武家の中間や小者(こもの)などがお仕着せにした短い衣類。背に主家の紋所などを染め出したものを言う。

・「予が屋敷」根岸鎭衞の屋敷は駿河台にあった。現在の神田駿河台1町目の日本大学のあった位置で、その道を隔てた台形をした現在の神田小川町3丁目は、江戸切絵図では全区画が「御用屋敷」(次注参照)と表示されている。

・「火消役の御役屋敷」旗本が任ぜられた定火消(じょうびけし)の役屋敷(消防担当役となった者が待機する指定された屋敷)。定火消は明暦3(1657)年1月に起こった明暦の大火の後、四代将軍家綱が命じて作られた消防団組織である。若年寄支配で江戸市中の消防に当った。万治元(1658)年に4組が設置され、後に10組に増やされた。十人火消し、寄合火消しとも言う。

・「若山某」未詳。

・「秋元家」山形藩。譜代大名6万石。時代的に見て、この時の秋元家当主は老中、武蔵国川越藩主、後に出羽国山形藩主となる秋元凉朝(あきもとすけとも 享保2(1717)年~安永4(1775)年)であったと思われる。以下、ウィキの「秋元凉朝」から引用する。『4000石を領した大身旗本・秋元貞朝の三男。子は娘(阿部正陳正室)。官位は従四位下、摂津守、但馬守。名はすみともとも読む。隠居後は休弦と号する』。『寛保2年(1742年)、先代川越藩主・秋元喬求が29歳で早世したため、藩主の座を継ぐ。幕府では寺社奉行、若年寄、老中を歴任した。老中在職は延享4年(1747年)- 明和元年(1764年)』であったが、彼は『田沼意次の権勢が強まるのを不快に思っていた節があり、当時側衆の一人に過ぎなかった意次と殿中ですれ違ったとき、挨拶を欠いたのは老中に対する礼を失していると、その非礼をとがめたエピソードは有名である』。『明和元年(1764年)に老中を辞任するが、田沼の権勢に対する抗議の辞任とみられ、のちに川越から山形に転封させられたのは意次による報復と見る説もある』。『明和5年(1768年)隠居。養子だった先代・喬求の次男・秋元逵朝が早世していたため、家督は甥で嫡子の座を継いだ秋元永朝に譲る。安永4年(1775年)死去した。「秋元家の家士有り」として根岸が敢えて彼を老中としなかった点を考えると(するのが当然である)、少なくともこの話柄の後半の出来事は、秋元凉朝が出羽山形に転封を命ぜられた明和4(1767)年から翌明和5(1768)年の一年間に限定出来るのかも知れない。

■やぶちゃん現代語訳

 無頼の者も自ずとその首領には服するという事

 当世には願人坊主と呼ばれる無法者の乞食僧がおる。

 昨今、思いつきで手を変え品を変えしては――例えば、ある時は、『大山石尊へ奉納致す物じゃ』と言うて、凡そ神社への奉納に適う物とは思えぬ異様なむくつけき物を拵えては町々を練り歩いて銭を乞い、ある時は荒行と称して寒空(さむぞら)の下(もと)無闇に冷水を浴びては喜捨を請い、ある時は代参の御用を仕ると言うては乱暴に錫杖を振り回しつつ通りを闊歩して一銭、二銭の駄賃を乞う――といった乞食と変わらぬ者どもである。だいたいが無頼の少年――父や親族の勘気に触れて勘当された不良少年が、一体にこうした輩に堕す。

 浅草柳原に、こうした連中が住んでいる長屋があって、その頭(かしら)は鞍馬流の□□という者である。土井故大炊頭(おおいのかみ)利里殿が寺社奉行を勤めておられた頃、この願人坊主の一人が奉行所に駆け込んで来、仲間及び町方の者どもから理不尽な打擲(ちょうちゃく)を受けたと訴え出た。

 しかるに奉行所では、このような事件の場合には、必ず、その支配の頭(かしら)である者の一件に関わる添え状なしには取り上げない決まりとなって御座る故、寺社奉行配下の役人が、あれやこれや、分かり易く、そうした事情を説明した上、更に、その程度のことで、訴訟なんどを起こしたらば、いろいろと面倒なること、これ生ずるによってと、利害をも述べて申し渡したのだが、元来がとんでもない頑愚ならんか、この凡僧、一向、納得せず、御公儀の定めた大法をも弁えず、ただただその身の不満を言い募って承知する気配これなく、果てはぎゃあぎゃあ騒いで手がつけられない状態になった。

 埒が明かぬと見た下役の者が、仕方なく、かの触頭である鞍馬流の□□を呼び出し、かくかくしかじかと訳を述べると、触頭は奉行所へ赴き、かの願人坊主に二言三言何やらん、恫喝叱責した――それだけで、さっきまで気違いのように手をつけられなかった願人坊主が――叱られた子供のように急にしょぼんとして――一言もなくこそこそと立ち去って御座った。これは私が評定所留役をして御座った折りに、目の当たりに見た事実にて御座る。

 また、火消役の者に役場中間という者らがおるが、これがまた、寒かろうが暑かろうが、のべつまくなし半被看板一枚で通し、博打、大酒を常として、金銭に窮した折りには、何と普段はいている草鞋や褌までも質に入れてかぶくといった、とんでもない無頼の輩である。

[根岸注:彼らは草履を質に入れている間は、万一、火事があって火事場へ駆けつけるに際しても、素足のままにて出るという。無頼の者とはいえど、その仲間内の掟は、厳重に守られているのである。誠(まっこと)面白い。]

 私の屋敷の向いには、実は、この火消役の御役屋敷がある。ある日のこと、私の家の近隣に若山某という、秋元家御家中の者が住もうて御座ったが、彼の下僕とこの役場中間が口論の末に一悶着あったらしい。ところがこの中間の者ども、

「理不尽なる打擲に遇(お)うた!」

なんどという如何にもな言い掛かりを申し立てながら――そうさな、中間三人ばかりであったか――それこそ理不尽に若山の宅(うち)の玄関へと上がり込み、

「……おうおうおうおう! 儂(あっし)ら、天下の往来で、打擲に遇(お)うて赤っ恥、掻いた! 最早、火事場のお勤めも、こんな恥掻かされては、勤めちゃ、居らんねえ! さあ、いっそのこと、殺せ! ああん? さ、殺せや!……」

と狂うた馬の如く大騒ぎして暴れ回る故、若山も大層難儀なれば、自ら御役屋敷のへ出向き、そこの御家来衆にかくかくと告げ、対処方宜しくと申し入れたところが、彼ら役場中間の頭と称する、如何にも小柄な親爺がやって来て、一通り、かの男どもを叱りつけて、

「早々に帰りませ!」

と言い放った。ところが、この連中、何分にも既にしっかり酒が入って気が大きくなっておったからか、全く以って馬の耳に念仏の体たらく、全く言うことをきかずに玄関内でぐだぐだしている。―― 

――と――

この小さな親爺、玄関内に入り込むと、それぞれの者の襟首を軽々と引っ捕らえ――

すたん!――すとん!――すたあん!――

――と三人纏めて玄関前の地べたに放り投げた。――

――そうして、親爺が連れて来た役場中間の子分どもに引っ立たせ、御役屋敷へと連れ帰って御座ったのであった。――

 一見、その様如何にも弱々しげな親爺で御座ったれど、かの連中を捌いた、その鮮やかな手は、正に大の男を子供のように扱(あつこ)うて御座った……

……とは若山の話にて御座る。

 何ごとにあっても、あるものの頭(かしら)となる者には、やはり、自ずと不可思議なる威厳や威力があるものなのであると、興味深く聞いたことである。

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