耳囊 卷之三 佐州團三郞狸の事
「耳嚢 巻之三」に「佐州團三郞狸の事」を収載した。
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佐州團三郞狸の事
佐州相川の山にニツ岩といへる所あり。彼所に往古より住める團三郞狸といへるある由、彼地の都鄙(とひ)老少となく申唱へけるに、古老に其證を尋しに、誰見しといふ事はなけれ共古來より申傳へぬる由なり。享保元文の頃、役人の内寺崎彌三郞といへるありし。相川にて狸を見懸て拔打に迯る所を足をなぐりし由。
此寺崎は後に不束(ふつつか)之事ありて家名斷絕せしよし。
しかるに芝町に何の元忠とかいへる外科の有しを、夜に入て急の病人ありとて駕を以て迎ひける故、何心なく元忠も駕に乘りて行しが、ニツ岩とも覺ゆる所に、門長屋其外家居等美々(びび)しき所に至り、主出てその子怪我せし由にて元忠に見せ、藥抔もらひ厚く禮を施し歸しける由。然るに其後藥を取に來る事もなく、厚く謝絕等をもなしける故又尋んと思ひけるが、曾て其所を知らず。程過て聞合せぬるに、元忠が療治なしつるは團三郞が子狸にてありしや、實(げに)も人倫の樣躰(やうてい)にあらずと語りし由、國中に語り傳へしとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:佐渡奇譚連関。
・「佐州」佐渡国。
・「團三郞狸」このよく知られた二ッ岩の団三郎狸を始めとする佐渡のタヌキ憑き及び妖獣としてのタヌキについては、例えば佐渡在住のlllo氏の『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」: 佐渡の伝説』が素晴らしい。読み易いくだけた表現を楽しみ写真なども見つつ、リンクをクリックしていると、あっと言う間に時間が経つ。それでいて生硬な学術的解説なんどより生き生きとした生(なま)の佐渡ヶ島が浮かび上がってくる。必見である。氏の記載に依れば、佐渡には元来、タヌキもキツネも棲息しなかったが、慶長6(1601)年に佐渡奉行となった大久保石見守が金山で使用する鞴(ふいご)の革素材にするためタヌキを移入したのが始まりとある(次の「天作其理を極し事」に登場)。因みに、私は実は熱烈な佐渡ヶ島ファンである。なお、佐渡では狸をムジナと呼称することが多いという。なお、底本の鈴木氏注によれば、『配下に、おもやの源助、東光寺の禅達、湖鏡庵の才喜坊などというのがいた』ともある。
・「相川」現在、佐渡市相川。旧新潟県佐渡郡相川町(あいかわまち)。佐渡島の北西の日本海に面した海岸にそって細長く位置していた。内陸は大佐渡山地で海岸線近くまで山が迫っている。南端部分が比較的なだらかな地形となっており、当時は佐渡金山(相川金山)と佐渡奉行所が置かれた佐渡国の中心であった。
・「ニツ岩」現在の新潟県佐渡市相川にある。二ツ岩団三郎狸と共に、二ツ岩明神が祭られた聖石遺跡の一つとしても知られる。以下、須田郡司氏の「日本石巡礼~聖なる石に出会う旅・36」に二ツ岩明神の写真や解説がある。要必読。
・「享保元文」西暦1716年から1741年。根岸が佐渡奉行であったのは天明4(1784)年3月から天明7(1787)年7月迄である。
・「寺崎彌三郞」不詳。少なくとも享保元文年間の歴代の佐渡奉行を確認したが寺崎姓はいない。
・「芝町」現在の相川町芝町。相川町の北部の海岸地区である。
■やぶちゃん現代語訳
佐渡の団三郎狸の事
佐渡国相川の山に二ツ岩という場所があり、ここに古くから棲んでいる団三郎と称する狸がおると言い伝えられて御座る由。
佐渡ヶ島の島中の者――老人だろうが若人であろうが、町屋の者であろうが田舎の者であろうが――これまた皆、このことをしょっちゅう口にするので、私が、
「団三郎なる狸、まことに居(お)るのか?」
と古老に訊ねてみたところ、
「……へえ、誰が見たということはないので御座いまするが……何分、古(いにしえ)から言い伝えられておりますればこそ……」
との由。
何でも享保元文の頃、本土より使わされた役人の一人に寺崎弥三郎なる者が御座った。この男、ある時、相川の部落で狸を見かけ、逃げるところを、一刀抜き打ちで、足を斬りつけた――確かに手ごたえがあったとのこと――ことがあった由。
[根岸注:この寺崎弥三郎なる人物、後日、不祥事に因って家名断絶となった由。]
ところが……柴町に何とか元忠(げんちゅう)――姓は失念致いた――という外科医が御座ったが、そこに夜に入ってから急病人が出たとのことで駕籠を以って迎えが来て御座った。遅き時間なれど駕籠もあり、急患なればとて、その駕籠に乗って行くうちに、夜景ながら、どうも二ッ岩の極近くとおぼしい所で、門や長屋その他主人家居なんども如何にも絢爛豪華なる御屋敷に辿り着いた。
早速に主(あるじ)じきじきに元忠を出迎えると、
「……私めの子倅(こせがれ)めがとんだ怪我を致しましてのぅ……」
と慇懃に告げて、元忠に診させた。――何やらん刃物の傷の様にて、深くはあったれど、命には別状なしという見立てにて――療治致いて薬なんどを渡したところ、主は元忠に厚く謝礼をなした上、再び駕籠で帰した由。
しかるにその後(ご)、薬を取りに来る事もなく、一度(ひとたび)の療治にては不相応謝礼を貰(もろ)うたこともあれば、怪我の直り具合なんど一目見んと思い、また訪ねてみようと思うたところが――かの二ッ岩の極近くとおぼしい所を――隈なく探してみたものの、一向に、あのような御殿の如、御屋敷は御座らなんだ由。
後に元忠、他の者との話の中で、かくかくの事があった由言うたところ、座の者、
「そりゃ、お前さんが療治致いたは、寺崎殿に斬られた団三郎の子狸だったんじゃねえか?」
と言うた。それを聞いた元忠も、
「……そういえば、何とのう、ただの人……『人間』のようには感じられなんだところが、あったような……」
と語って、武者震いした、との由。
この話は今も佐渡の国中に、語り伝えられておるとの由で御座る。
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