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2010/08/29

芥川龍之介が永遠に最愛の「越し人」片山廣子に逢った――その最後の日を同定する試み

 

僕は2004年月曜社刊の片山廣子「燈火節」を求め、その巻末にある略年譜に目を通した際、おやっと思った。それは昭和2(1927)年、芥川龍之介が自死した年の記載である。

 

 

六月末、堀辰雄の案内で芥川龍之介が廣子の自宅を訪ねる。

 

 

と、あったからだ。その次の行には、

 

 

七月二十四日、芥川龍之介、自宅で服毒自殺。

 

とある。

 

 僕が不思議に思ったのは、芥川龍之介の年譜的事実の中に、この芥川龍之介の廣子訪問という記載は全く記憶になかったからである。直ぐに、芥川龍之介詳細年譜の濫觴にして僕の御用達本である鷺只雄氏の年譜(1992年河出書房新社刊「年表作家読本 芥川龍之介」)及び新全集の宮坂覺氏の最新詳細年譜を確認したが、やはり僕の失念ではなかった。――全く記載がない。

 

 更に、本年春に僕が公開した昭和2(1927)年8月7日付片山廣子書簡(山川柳子宛)の中にも、次の一節を見出すことが出来る。

 

 

六月末にふいとわたくしの家を訪ねて下さいました堀辰雄さんを案内にして何かたいへんにするどいものを感じましたが、それが死を見つめていらつしやるするどさとは知りませんでした わたくしはいろいろと伺ひたい事もあつたのでしたが何も伺はずただ「たいへんにお黑くおなりになりましたね、鵠沼のせゐでせうか」などとつまらない事を云つておわかれしました それから一月經つてあの新聞を見た時の心持をおさつし下さいまし

 

 

勿論、「それから一月經つてあの新聞を見た時」という言葉は、7月24日の芥川龍之介自殺の報知を指していることは言うまでもない。

 

 これらから、

 

自死の凡そ一ヶ月前の昭和2(1927)年6月末に芥川龍之介は弟子堀辰雄の案内で当時大田区の新井新宿三丁目(現在の山王三丁目)にあったと思われる片山廣子の自宅を訪問した

 

事実は、はっきりしている。

 

そうして、これが芥川龍之介とその永遠の恋人越し人片山廣子の最後の邂逅の日であったと考えてよい。

 

 今日になって僕は、この日を同定したい欲求に駆られてきた。

 

 鷺・宮坂両氏のこの月の記載には大差がないが、宮坂版が、やはり、より詳細ではあるのでそれをベースとする。廣子の記載は、その書簡全体を読んで戴ければ分かる通り、亡き芥川龍之介への極めて悲痛なる思いを素直に親友へ語った私信であり、それに付随するこの記載は十分に信頼におくものである。なれば、言葉通り6月下旬月末に絞ってよい。そもそも、この6月の上旬は、芥川の盟友宇野浩二の発狂騒ぎで、芥川自身が中心になって入院手続などに奔走しており、そんな暇はなかった。中旬以降から見よう(根拠注記は省略した)。

 

   *

 

15日

 

佐佐木茂索を鎌倉に訪ね(当時、佐佐木夫妻は鎌倉在住)、

 

偶然遊びに来た菅忠雄、川端康成と会う。この日は鵠沼一泊。

 

[やぶちゃん注:鷺は「夕食をご馳走になり、タクシーを呼んで鵠沼に泊まる」とある。]

 

16日

 

鵠沼から田端の自宅に戻る。

 

20日

 

「或阿呆の一生」を脱稿。久米正雄に原稿を託す文章を書く。

 

生前最後の創作集『湖南の扇』(初刊本)刊行。

 

[やぶちゃん注:『湖南の扇』刊行元は文藝春秋出版部。]

 

21日

 

「東北・北海道・新潟」を脱稿。

 

25日(土)

 

小穴隆一とともに谷中墓地に出かけ、新原家の墓参をする。

 

浅草の「春日」に行き、馴染みに芸者小亀と会う。この日は、小穴が泊まっていく。

 

この月、人を介して中野重治に面談を申し入れたが、中野の方から来訪し、夕食を共にする。

 

   *

 

以下は既に7月の項となっている。

 

 以上の記載から、廣子がはっきりと「六月末」、自死の7月24日の「一ヶ月」前と言っている点から、まず21日以降であることは間違いないと判断される。

 

 さて、16日の田端帰還後は、芥川龍之介畢生の遺作たる「或阿呆の一生」の最終執筆と確認作業に、彼は細心の注意を払って入ったと思われ、また、久米への文章はその最後に、言わば久米への準遺書という認識の中で書かれたものと考えてよい。これらの脱稿までには物理的にも精神的にも芥川龍之介に廣子を訪ねる余裕はなかったはずであるからである。

 また、『湖南の扇』の刊行、その献呈本が手元に届くのを待つ必要があったと僕は考えているからである(芥川は訪問の際、間違いなくこの『湖南の扇』を手土産として携えて行ったに違いないと思われるからである。残念ながら廣子の蔵書の中にそれを現在確認することは出来ない。しかし廣子の「乾あんず」を読み給え。彼女の書棚には確かに、恐らく芥川から献本されたのであろう「羅生門」「支那游記」等の多くの著作が並んでいるではないか)。

 更に、「東北・北海道・新潟」の執筆があった。勿論、これはかねてより概ね完成していた原稿かも知れない。しかし、「或阿呆の一生」の超弩級の重量に比すれば、如何にも軽いアフォリズム集であり、私は同21日のうちに速成に書き上げて(当然、旅行中のメモを元にしているのであろうから芥川には一日で仕上げるのはそれ程困難なことではなかったはずである)脱稿したものと判断するからである。

 

 いや――実に、この二作こそ、芥川龍之介の傷ましき心が、廣子とダイレクトにジョイントする作品でもある――ということに気づいて欲しいのである。

 「或阿呆の一生」には、芥川龍之介の明白な廣子讃歌と、その廣子への恋情を断ち切る傷心の悲歌「三十七 越し人」が載ることは人口に膾炙している。

 

      三十七 越 し 人

 

 彼は彼と才力(さいりよく)の上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、「越し人(びと)」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脫出した。それは何か木の幹に凍(こゞ)つた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

 

   風に舞ひたるすげ笠(がさ)の

 

   何かは道に落ちざらん

 

   わが名はいかで惜しむべき

 

   惜しむは君が名のみとよ。

 

 この「或阿呆の一生」脱稿の直後に、芥川龍之介が、その心の中心に捉えていたのは――廣子の面影以外の何者でもなかった、と、僕は、はっきりと言おう。

 

 そして、後者「東北・北海道・新潟」である。これを読んでいる方は、恐らく、そう多くはあるまい。

 

 これは前述した通り、ルナール張りのアフォリズムの――如何にも軽いもの――ではある――であるが、芥川にある記憶を呼び覚ます強力な効果があるものと僕は思っているのである。それについて、僕は僕の「東北・北海道・新潟」テクスト冒頭注で詳細な推理を展開してあるので、詳しくはそれをお読み戴きたいのであるが、要は――則ち、

――あの講演旅行の新潟からの帰り
――芥川龍之介は軽井沢で廣子に逢った――

 

というのが僕の説なのである。

 これは殆ど確信に近い(宮坂年譜の日録では僕の推論は成立する可能性が著しく減衰しはするが、それでも完全に無理とは言えない。――また、鷺年譜では僕の推理の入り込む余地が十分にある。補足すると、宮坂年譜が、この旅からの5月25日帰郷を同定している、その根拠(下島勳の随筆。未見)を、現時点では、僕自身検証しておらず、是非を言い難いのである)。

 

而して――その忍び逢いのシークエンスを――廣子は後に「五月と六月」というエッセイに記したのではなかったか?

 

という僕の思いは、嘗つてより、みるみる、増殖した。その増殖のやや強引な実地検証が、昨年末にアップした僕の

 

『片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』

 

であった。

 

――とりあえず、僕のこの夢想に付き合ってもらおう。

 

……そうすると、俄然、この『21日 「東北・北海道・新潟」を脱稿。』という年譜的事実が、ある重大な心理的効果を以って見えてくるのである。

 

則ち、ほぼ、芥川龍之介が、自死する、ほぼ丁度、

 

 

一ヶ月前の6月25日か26日が、その廣子との軽井沢での密会であった(そこには、この邂逅と同じく正に堀辰雄と思しい人物の影も動いている!)

 

 

とすれば、「或阿呆の一生」「東北・北海道・新潟」の脱稿の直後、芥川には、胸搔き毟る如き廣子への思いがフラッシュ・バックを繰り返して昂まってきていたと考えてよいと断定出来るのである。

 

 すると、年譜の6月22日から24日迄の空白が、俄然、大きくクロース・アップされて僕には見えてくる。

 

――21日の「東北・北海道・新潟」の脱稿の後、芥川龍之介は即座に堀辰雄に連絡をとった。片山廣子と逢うための手筈をつけてもらうために。廣子が『堀辰雄さんを案内にして』という言い方をしたのは、廣子宅への芥川訪問に際して、都合や、その他の伺いなどを、堀を通して、かなり細心丁重に仕回したことを暗示させる。それには、一日や二日は必要であろう(性急に伺いの翌日なんどに訪問するというのはダンディな芥川にとっては、女性に対しては、礼を失する行為として許されなかったはずである)

 

 言おう。

 

芥川龍之介が片山廣子をその自宅に訪問したのは――

 

芥川龍之介が永遠に愛した「越し人」片山廣子に逢った、その最後の日は――

 

昭和2(1927)年6月23日――若しくは――24日

 

ではなかったか。

 

もっと恣意的に牽強付会するなら、芥川龍之介自死の命日7月24日と同日、

 

昭和2(1927)年6月24日

 

のことではなかったか

 

廣子の後ろ髪引かれる如き、芥川の死の決意を汲み取れなかったことへの強い悔悟の念は、その訪問の日が自死と同日であったことによって、より高められたのではなかろうか?

 

 勿論、「月末」である以上、例えば年譜の空白である26日から30日であっても、おかしくはない。

 

 しかし、25日の谷中の実家新原家墓参は、亡き母、及び、父、己の宿命的血脈(けちみゃく)たる先祖への愛憎半ばした別れのためと読むことが出来る。その日、馴染み芸者を揚げたのも、この小亀なる贔屓の芸妓へ別れを告げるためであったととってよい(鷺年譜では、まさにそう書いてある)。

 

――則ち、この時点で芥川龍之介は総てを『滅びとしての或阿呆の一生』という「現実の自分」という作品を――既にして――脱稿してしまっていた――のではなかったか?

 

……先祖の墓参、そこから精進落としのように芸妓を揚げての別れ――これは――総ての完了――を意味しているように、僕には、素直に、とれるのである。

 

――だからこそ――僕はそれ以前に――最後に愛した永遠の聖女との別れを配しておきたい

 

のである。

 

これは、それぞれの生理的な趣味の問題の相違かも知れない。そうした後に聖女には逢いたいとされる方もおられよう。

 

 

さういふ貴方には――

 

 

……私が『総てが終はる前に逢ふ』という譯が明らかに吞み込めないかも知れませんが、もし左右だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違だから仕方がありません。或は個人の有つて生れた性格の相違と云つた方が確かも知れません――と、「こゝろ」の先生のように言うしか、今の僕にはない、とのみ言っておこう。

 

最後に。

 

少なくとも、次回の芥川龍之介全集の年譜にあっては、この昭和2(1927)年6月末の部分に、

 

 

月末、堀辰雄を介して片山廣子の自宅を訪問、これが廣子との最後の邂逅となった

 

 

という記載――片山廣子の年表からの一説――としてを、是非、載せて貰いたいというのが、僕のささやかにして――絶対成就を求める望み――なのである。……それは僕のためにではない。



龍之介と廣子の――美しくも哀しき純愛――のために――である――

 

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