『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月8日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百七回
(百七)
「書物の中に自分を生理(いきうめ)にする事の出來なかつた私は、酒に魂を浸して、己れを忘れやうと試みた時期もあります。私は酒が好きだとは云ひません。けれども飮めば飮める質(たち)でしたから、ただ量を賴みに心を盛り潰さうと力(つと)めたのです。此淺薄な方便(はうべん)はしばらくするうちに私を猶厭世的にしました。私は爛醉(らんすゐ)の眞最中に不圖自分の位置に氣が付くのです。自分はわざと斯んな眞似をして己れを僞つてゐる愚物(ぐぶつ)だといふ事に氣が付くのです。すると身振ひと共に眼も心も醒めてしまひます。時にはいくら飮んでも斯うした假裝狀態にさへ入り込めないで無暗に沈んで行く塲合も出て來ます。其上技巧で愉快を買つた後(あと)には、屹度(きつと)沈鬱な反動があるのです。私は自分の最も愛してゐる妻と其母親に、何時でも其處を見せなければならなかつたのです。しかも彼等は彼等に自然な立塲から私を解釋して掛ります。
妻の母は時々氣拙(きまづ)い事を妻に云ふやうでした。それを妻は私に隱してゐました。然し自分は自分で、單獨に私を責めなければ氣が濟まなかつたらしいのです。責めると云つても、決して强い言葉ではありません。妻から何か云はれた爲に、私が激した例(ためし)は殆どなかつた位(くらゐ)ですから。妻は度々何處が氣に入らないのか遠慮なく云つて吳れと賴みました。それから私の未來のために酒を止めろと忠告しました。ある時は泣いて「貴方は此頃人間が違つた」と云ひました。それ丈なら未可(まだい)いのですけれども、「Kさんが生きてゐたら、貴方もそんなにはならなかつたでせう」と云ふのです。私は左右かも知れないと答へた事がありましたが、私の答へた意味と、妻の了解した意味とは全く違つてゐたのですから、私は心のうちで悲しかつたのです。それでも私は妻に何事(なにこと)も說明する氣にはなれませんでした。
私は時々妻に詫(あや)まりました。それは多く酒に醉つて遲く歸つた翌日(あくるひ)の朝でした。妻は笑ひました。或は默つてゐました。たまにぽろ/\と淚を落す事もありました。私は何方にしても自分が不愉快で堪まらなかつたのです。だから私の妻に詫まるのは、自分に詫まるのと詰(つ)まり同じ事になるのです。私はしまひに酒を止めました。妻の忠告で止めたといふより、自分で厭になつたから止めたと云つた方が適當でせう。
酒は止めたけれども、何もする氣にはなりません。仕方がないから書物を讀みます。然し讀めば讀んだなりで、打ちやつて置きます。私は妻から何の爲に勉强するのかといふ質問を度々受けました。私はたゞ苦笑してゐました。然し腹の底では、世の中で自分が最も信愛してゐるたつた一人の人間すら、自分を理解してゐないのかと思ふと、悲しかつたのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇氣が出せないのだと思ふと益(ます/\)悲しかつたのです。私は寂寞(せきばく)でした。何處からも切り離されて世の中にたつた一人住んでゐるやうな氣のした事も能くありました。
同時に私はKの死因を繰返し/\考へたのです。其當座は頭がたゞ戀の一字で支配されてゐた所爲(せゐ)でもありませうが、私の觀察は寧ろ簡單でしかも直線的でした。Kは正しく失戀のために死んだものとすぐ極めてしまつたのです。しかし段々落ち付いた氣分で、同じ現象に向つて見ると、さう容易(たやす)くは解決が着かないやうに思はれて來ました。現實と理想の衝突、―それでもまだ不充分でした。私は仕舞にKが私のやうにたつた一人で淋(さむ)しくつて仕方がなくなつた結果、急に所決(しよけつ)したのではなからうかと疑ひ出しました。さうして又慄(ぞつ)としたのです。私もKの步いた路を、Kと同じやうに辿(たど)つてゐるのだといふ豫覺が、折々風のやうに私の胸を橫過(よこぎ)り始めたからです。
[♡やぶちゃんの摑み:
♡「酒に魂を浸して、己れを忘れやうと試みた時期もあります」Kを忘れる事が出来ないという強迫観念を駆逐する手段の第2番目である。先生は忘憂物たる酒に溺れようとする。しかし酩酊の最中の覚醒が自責を生み出し、それに加えて飲酒による(短期のものであって病的ではない)抑鬱状態が顕著に現れるようになった。飲めば飲める性質であった以上、早期に節酒(「私」とビールを飲むこともあったから、完全な断酒ではない)を行ったのは幸いしたと言えるであろう。このまま飲酒を続けていたらば、恐らくアルコール性精神病に発展し、それこそ自身の意識とは無関係に衝動的な自傷や他虐行動を発症し、精神病院送致や先生が望まない惨めな「頓死」となった可能性もないとは言えないからである。
♡「然し腹の底では、世の中で自分が最も信愛してゐるたつた一人の人間すら、自分を理解してゐないのかと思ふと、悲しかつたのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇氣が出せないのだと思ふと益悲しかつたのです。私は寂寞でした。何處からも切り離されて世の中にたつた一人住んでゐるやうな氣のした事も能くありました」これは酷(むご)い。靜に酷い。何故なら、この先生のジレンマは、先生が真実を告白しない限り、根こそぎされない問題であって、奥さんには全く以って無理な要求であるからである。――勿論、それに先生は気づいてはいる――だからこそ「理解させる手段があるのに、理解させる勇氣が出せないのだと思ふと益悲しかつたのです」と付け加えるのであるが。先生の絶対の孤独感は最早救いようがないように見える。先生にもそう見えた――のであった。しかし、そこに――その絶対の孤独者であると思っていた先生のもとに――一人の救世主である学生の「私」が現れたのであった――
♡「同時に私はKの死因を繰返し/\考へた」Kの死に対する私の解釈の変容過程が示される。以下、私の板書。
△「失恋のため」
☆先生は『私の裏切りのため』とは言っていない点に注意!
↓(あの自死はそんな単純な理由では理
↓ 解出来るような行為ではない~「失
↓ 恋」を理由として排除したわけでは
↓ ない点に注意!)
○「現実と理想の衝突」
↓(この説明では不十分~「現実と理想
↓ の衝突」を理由として排除したわけ
↓ ではない点に注意!)
◎「Kが私のようにたった一人で淋(さむ)しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなからうか」という結論に至る[やぶちゃん注:下線はやぶちゃん。]
↓(そうしてKの自死の場で感じたのと
↓ 同じように「また慄(ぞっ)とした」
↓ 何故なら
「私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚」を持ってしまったから
『「Kが」「たつた一人で淋しくつて仕方がなくなつた結果」自死したように「今の私」も「たつた一人で淋しくつて仕方がな」い、そしてその「結果、」私も自死するしかないのではないか』という先生の観念こそ、「心」の核心である。ここを摑まずんばあらず!]
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