『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月3日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百二回
(百二)
「勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日餘りになります。其間Kは私に對して少しも以前と異なつた樣子を見せなかつたので、私は全くそれに氣が付かずにゐたのです。彼の超然とした態度はたとひ外觀だけにもせよ、敬服に値すべきだと私は考へました。彼と私を頭の中で並べてみると、彼の方が遙かに立派に見えました。「おれは策略で勝つても人間(にんけん)としては負けたのだ」といふ感じが私の胸に渦卷いて起りました。私は其時さぞKが輕蔑してゐる事だらうと思つて、一人で顏を赧(あか)らめました。然し今更Kの前に出て、恥を搔かせられるのは、私の自尊心にとつて大いな苦痛でした。
私が進まうか止さうかと考へて、兎も角も翌日(あゆるひ)迄待たうと決心したのは土曜の晩でした。所が其晩に、Kは自殺して死んで仕舞つたのです。私は今でも其光景を思ひ出すと慄然(ぞつ)とします。何時(いじ)も東枕で寢る私が、其晩に限つて、偶然西枕に床を敷いたのも、何かの因緣かも知れません。私は枕元から吹き込む寒い風で不圖眼を覺したのです。見ると、何時も立て切つてあるKと私の室との仕切の襖が、此間の晩と同じ位開いてゐます。けれども此間のやうに、Kの黑い姿は其處には立つてゐません。私は暗示を受けた人のやうに、床の上に肱(ひぢ)を突いて起き上りながら、屹(きつ)とKの室を覗きました。洋燈(ランプ)が暗く點つてゐるのです。それで床も敷いてあるのです。然し掛蒲團は跳返(はねかへ)されたやうに裾の方に重なり合つてゐるのです。さうしてK自身は向ふむきに突つ伏してゐるのです。
私はおいと云つて聲を掛けました。然し何の答もありません。おい何うかしたのかと私は又Kを呼びました。それでもKの身體は些(ちつ)とも動きません。私はすぐ起き上つて、敷居際(しきいきは)迄行きました。其所から彼の室の樣子を、暗い洋燈の光で見廻して見ました。
其時私の受けた第一の感じは、Kから突然戀の自白を聞かされた時のそれと略(ほゞ)同じでした。私の眼は彼の室の中(なか)を一目見るや否や、恰も硝子(がらす)で作つた義眼のやうに、動く能力を失ひました。私は棒立に立竦(たちすく)みました。それが疾風(しつぷう)の如く私を通過したあとで、私は又あゝ失策(しま)つたと思ひました。もう取り返しが付かないといふ黑い光が、私の未來を貫ぬいて、一瞬間に私の前に橫はる全生涯を物凄く照らしました。さうして私はがた/\顫(ふる)へ出したのです。
それでも私はついに私を忘れる事が出來ませんでした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に眼を着けました。それは豫期通り私の名宛になつてゐました。私は夢中で封を切りました。然し中には私の豫期したやうな事は何にも書いてありませんでした。私は私に取つて何んなに辛い文句が其中に書き列ねてあるだらうと豫期したのです。さうして、もし夫が奥さんや御孃さんの眼に觸れたら、何んなに輕蔑されるかも知れないといふ恐怖があつたのです。私は一寸眼を通した丈で、まづ助かつたと思ひました。(固(もと)より世間體(せんけんてい)の上丈で助かつたのですが、其世間體が此塲合、私にとつては非常な重大事件に見えたのです。)
手紙の内容は簡單でした。さうして寧ろ抽象的でした。自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺するといふ丈なのです。それから今迄私に世話になつた禮が、極あつさりした文句で其後に付け加へてありました。世話序に死後の片付方も賴みたいといふ言葉もありました。奥さんに迷惑を掛けて濟まんから宜しく詫(わび)をして吳れといふ句もありました。國元へは私から知らせて貰ひたいといふ依賴もありました。必要な事はみんな一口(ひとくち)づゝ書いてある中(なか)に御孃さんの名前丈は何處にも見えませんでした、私は仕舞迄讀んで、すぐKがわざと回避したのだといふ事に氣が付きました。然し私の尤も痛切に感じたのは、最後に墨の餘りで書き添へたらしく見える、もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味の文句でした。
私は顫へる手で、手紙を卷き收めて、再び封の中へ入れました。私はわざとそれを皆(みん)なの眼に着くやうに、元の通り机の上に置きました。さうして振り返つて、襖に迸ばしつてゐる血潮を始めて見たのです。
[♡やぶちゃんの摑み:私は今回、Kの自殺した日を明治34(1901)年2月23日に同定する。なお、何故、この一週間前の16日(土)でなく23日(土)であるかは、第(六)回の「小春の盡きるに間のない或る晩の事」の摑みで、20日過ぎにKの命日があった可能性が高いと私が考えるからである。牽強付会の謗りも甘んじて受けるが、この日を旧暦に換算すると――1月5日――旧暦の年始明けの直後ということになる。これはまさに1901年――正に新時代――20世紀の最初の年なのである。
♡「人間(にんけん)」「にんげん」のルビ誤植。
♡「翌日(あゆるひ)」「あくるひ」のルビ誤植。
♡「何時(いじ)」「いつ」のルビ誤植。
♡「彼の超然とした態度はたとひ外觀だけにもせよ、敬服に値すべきだと私は考へました」先生は誤っている。Kが「超然とし」ているのは、とっくに、この現実との訣別を決意しているからに他ならない。それ以外の解釈は無効である。そしてそれは、純粋にK自身の内発的要請によるものであって、先生とは無縁である。従って、決意は潔く決定し、一種の穏やかな諦観の中にあればこそ先生に対して外観を装う必要もなければ、彼に「敬服に値すべきだ」などと思ってもらう筋合いのものではない。自己否定の極北に立つKは「遙かに立派」であるどころか、「薄志弱行で到底行先の望みがないから」死ぬのである。先生の「おれは策略で勝つても人間としては負けたのだ」などという台詞は見当違いも甚だしい。勝つも負けるもない、Kは一度として先生と戦った覚えはない。先生が一人相撲で「策略で勝つても人間としては負けた」などと言うのは勝手だが、それはKの内実や決断とは何の関係もない。況や、先生が「其時さぞKが輕蔑してゐる事だらうと思つて、一人で顏を赧らめ」たなんどというのも――今やあの世のKが聞いたら笑止千万、「お前は、何を考えている? お前は何んにも、分かっていないな。」と言うであろう。そうして最後に、以前のように、少し淋しそうに笑いながら先生を見つめ、「精神的に向上心のない者は馬鹿だ、ぞ。」と、先生の両肩に優しく、その大きく暖かい手をかけながら、語りかけるに違いない――。
♡「所が其晩に、Kは自殺して」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏はここに注されて、『ここは結果のほうを先に紹介するという、推理小説でいうところの「倒叙型」の書かれ方』が成されている点に着目されている。「こゝろ」の「上 先生と私」「中 両親と私」のパート(特に前者)が極めて推理小説的に展開し、叙法自体が推理小説を模しているということは私自身授業で再三言ってきたことであるが、まさに漱石のその確信犯的叙述法がここで示されてくると言ってよい。藤井氏は以下、金園社昭和50(1975)年刊の九鬼紫郎「探偵小説百科」を参照に、こうした犯人の犯行を最初に読者に示して、徐々に探偵が犯人を追い詰めてゆくという『倒叙探偵小説の嚆矢が、一九一二年発表のオースティン・フリーマンの短編小説であるとしている』と示されて、『直接の影響関係はないにしても』と留保をされながらも、本『心』の連載が大正3(1914)年『であったことを考えると、興味深い問題がそこから引き出されてくるかもしれない。』と結ばれる。激しく同感である。
♡「見ると、何時も立て切つてあるKと私の室との仕切の襖が、此間の晩と同じ位開いてゐます。けれども此間のやうに、Kの黑い姿は其處には立つてゐません」先生はKの死の前後にあってもKの視線を見逃す。この設定が漱石の確信犯的行為であることは、最早、明白である。
★『Kの眼を見逃す先生(4)』
よく読み返して頂きたい。先生のプロポーズの夕食での描写以降、ここまで一箇所たりとも先生からの直接的なKの描写はないのである。これは、実は小説としてもかなり不自然な印象を与えており、小説作法としては技巧的には拙いと言われても仕方がないという気がするが、これは小説ではない、「先生の遺書」なのだ、と言われれば、これは確かに『有り』なのだと言い得る。
……因みに、ただ一度だけ、例外的にKの姿に画面のピントが合うシークエンスがある。……
……あの奥さんの語りの部分である。……
……そう、あれを最後――最期として……我々はもう二度と、Kの表情を見ることは、ない、のである……鬼才、夏目漱石監督の面目躍如!
……先を続けよう……
……そうした焦点が合わない先生目線のKの視線や表情の不明がカタストロフへと繋がるのだ。
――ここでは『Kの眼を見逃す先生(3)』と同じ構図の場面が選ばれる。しかし、そこには「Kの黑い姿」ない。
Kの眼を見逃す
=Kの真意を見逃す
=Kの心を見落とす先生
何度でも言おう。
見落とすべきでなかったKの眼を何度も見逃す先生
=Kの眼を見ていれば分かったはずの当然の真実を、Kの眼を見なかったばかりに段階的にも論理的にも理解出来なかった先生
=Kの心を決定的に見落とし、致命的な誤読を重ねてしまう先生
遂にKの死後もをKの真意を見逃す先生、致命的な誤読を重ねてしまう哀しい先生が、ここにいる、のではあるまいか?
最後に付け加えておくと、何故Kは襖を開けたままで死んだのか? 答えは簡単である。第一発見者を先生にするためである。勿論、それは遺恨でも当て付けでもない――そんな恨みがましいKを考えている君は、一体、今まで「心」をどう読んで来たんだ?! 「一昨日(おととい)来やがれ!」てぇんだ!――死後の処理を迅速に先生に執行してもらうための純粋に事務的で合目的的行動であって、それ以外の何の意味もない。
♡「私は暗示を受けた人のやうに、床の上に肱を突いて起き上りながら、屹とKの室を覗きました。洋燈が暗く點つてゐるのです。それで床も敷いてあるのです。然し掛蒲團は跳返されたやうに裾の方に重なり合つてゐるのです。さうしてK自身は向ふむきに突つ伏してゐるのです」Kは四畳にどのように寝、自死していたのであろうか。私は過去、Kの布団は先生と同じく西枕にして玄関方向を向いて敷かれていたと考えてきた。しかしそれは正しいだろうか? そうするとKは畳一畳分に平行に布団を敷いて寝ていたことになる。これは如何にも狭過ぎる。そもそもKは先生が見上げるほど背が高い。これはあり得ない。Kは普段は四畳に南北に布団を敷いて寝ていたと考えるのが自然である。すると日常的には彼は庭(御嬢さんの部屋)方向の南枕で寝ていたと考えてよい(Kの机は当然、庭方向の障子の端にあったと考えられ、Kの遺書もその上に載っていた)。但し、私は今回、Kは自死した際に、死に合わせて北向きに枕を置いたのではないかと思ったのである。一つは「然し掛蒲團は跳返されたやうに裾の方に重なり合つてゐるのです。さうしてK自身は向ふむきに突つ伏してゐるのです」という「向ふむきに突つ伏してゐる」という遺体の状況である。もし、南向きでKが死んでいるとすると、先生はその遺体の頭の前でKの遺書を読んでいることになり、これは映像としても慄然(ぞっ)とするどころの騒ぎではない。先生自身、恐ろしくてそんな真似は出来ないに違いない(その場合は遺書をさっと取り上げて自室に戻って読むであろう)。これは遺体が四畳の反対側にあればこそ出来ることだと思うのである。さすれば遺書読み終わって元通りにした先生が「さうして振り返つて、襖に迸ばしつてゐる血潮を始めて見たのです」という表現がしっくりくるのである。但し、もう一つ、問題がある。この「血潮」が「迸ばしつてゐる」「襖」はどの襖かという問題である。北側には布団を入れる押入れがあり、その襖ともとれるが、それでは劇的ではないし、事実にそぐわない。客観的にも北向きに端座し右頸動脈を切ったとすれば――その襖は――実に先生とKの部屋の北側の二枚の襖である。
Kの血は正に、正しく、先生に向けて吹き飛んだのである!
――正にKは先生にその血を浴びせかけたのである――
――私が比喩しているのはKの怨念や怨恨の表現ではない――
――「先生の遺書」のあの冒頭の表現との一致である――
――「私は今自分で自分の心臟を破つて、其血をあなたの顏に浴せかけやうとしてゐるのです。私の鼓動が停つた時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出來るなら滿足です。」――
♡「もう取り返しが付かないといふ黑い光が、私の未來を貫ぬいて、一瞬間に私の前に橫はる全生涯を物凄く照らしました」「黑い光」だ――私には、時々この一文全体が禪の公案への誰か――何時までたっても悟達出来ない愚鈍な雲水の――答えであるかのように思えてならない。――第一、あなたはこんな感じを抱いたことがあるか? 私は、今のところは、ない――近いうちに、肉体的にはこう考える瞬間が近づいている気がしているのだが――もし、あったとしたら――これは――救いようがない――であろう。先生は、この瞬間に――自分の人生を、かく、決定(けつじょう)してしまった――のである。こう『陳腐に』感じてしまったことによって、である。私は授業でここに「永遠に失われた謝罪の機会」という板書をして来たが、――これは、お門違いだった。――「もう取り返しが付かない」とは――当然のことながら、Kの死をダイレクトに意味している語である――先生は『愛したK』を最早、もう二度とは――Kの生身の肉体としてのKの体を抱きしめることは出来ないという謂いである――これは、間違っても同性愛的な意味で言っているのではない――我々が愛する人を失った時に感じるところの、現世的な意味での永遠の喪失感の謂いに於いて、私は言っているのである。――謝罪、なんかじゃあ、ないんだ……。
♡「それでも私はついに私を忘れる事が出來ませんでした」この二つ目の「私」は、本作品中に現われる無数の「私」の中でも、最も痛烈にして鋭く悲痛な「私」ではないか!
■「Kの遺書」を考えるに当たって――藤村操の影
我々はまず、「Kの遺書」を考えるに当たって漱石が、少なくともKの自殺や遺書を創作するに際して、必ずや念頭に浮かべた実在の自殺者を考察しておく必要がある。すると当然の如く、明治36(1903)年に華厳の滝に入水自殺し、自殺当時の青年や知識人に激しいシンパシーや波紋を投げかけた北海道出身の旧制第一高等学校学生藤村操の存在を挙げねばなるまい。以下、ウィキの「藤村操」から詳細を引用しておく。藤村操(ふじむらみさお 明治19(1886)年~明治36(1903)年5月22日)『祖父の藤村政徳は盛岡藩士であった。父の胖(ゆたか、政徳の長子)は明治維新後、北海道に渡り、事業家として成功する』。『操は、1886年(明治19年)に北海道で胖の長男として生まれ、12歳の札幌中学入学直後まで北海道で過ごした。この間の1899年(明治32年)に胖が死去している』。『その後、東京へ移り、京北中学を経て第一高等学校に入学した』。『父の藤村胖は、屯田銀行頭取』、『弟の藤村朗は、建築家で三菱地所社長とな』り、『妹の夫安倍能成は、漱石門下の哲学者。学習院院長や文部大臣を歴任した』。『叔父の那珂通世(胖の弟)は、歴史学者である』。『1903年(明治36年)5月22日、日光の華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」(がんとうのかん)を書き残して自殺。厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。警戒中の警察官に保護され未遂に終わった者が多かったものの、藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名にのぼった(内既遂が40名)。華厳の滝がいまだに自殺の名所として知られるのは、操の死ゆえである』。『墓所は東京都港区の青山霊園』にある。『藤村が遺書を記したミズナラの木は、警察により伐採されたという。しかし、それを撮影した写真が現存し、現在でも華厳の滝でお土産として販売されている』。以下、遺書であるが、ここのみ、現在残された写真画像を私自身で複数確認し翻刻した。遺書標題「巌頭之感」は実際には冒頭三行の真上に大きな文字で掘り込まれている。標題及び遺書中の「巌」の字体はママ。「我この恨」の「この」は左からの吹き入れのように見える)。
巌頭之感 悠々たる哉 天壤、 遼々たる哉 古今、 五尺の小躯を以て
此大をはからむとす、 ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ、 萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、 胸中何等の
不安あるなし。 始めて知る、 大いなる悲觀は
大いなる樂觀に一致するを。
以下、ウィキの引用に戻る。『ホレーショとはシェイクスピア『ハムレット』の登場人物を指すといわれている』。『「終に死を決するに至る」の箇所を「終に死を決す」としている資料が多いが、誤りである』。以下、「自殺の波紋」という項は極めて興味深い。『彼の死は、一高で彼のクラスの英語を担当していた夏目漱石の精神にも大きな打撃を与えた。漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年、うつ病となった一因とも言われる』(下線部やぶちゃん。但し、この項には「要出典」の要請が求められており、鵜呑みにするのは注意を要する)。『また、黒岩涙香、井上哲次郎、坪内逍遥ら当時の知識人の間でも、藤村の死に対する評価を巡って議論が交わされた。当時のメディアでも、『萬朝報』が叔父那珂道世の痛哭文を載せ、『近時画報』が「巌頭の感」の写真版を載せたのを始め、雑誌も多くこの事件を取り挙げた』。以下、「言及の例」の項。に夏目漱石「吾輩は猫である」の十から引用があるが、岩波版旧全集に当たって表記を正字とした。
打ちやつて置くと巖頭(がんとう)の吟(ぎん)でも書いて華巖滝(けごんのたき)から飛び込むかも知れない。
以下、明治40(1907)年に書かれた藤村操が実は生き延びて書いたとする偽「煩悶記」書について記されているが、荒唐無稽で不快な記載であるから省略する。次に「自殺の原因」の項。『自殺直後は、遺書「巖頭之感」の影響もあって、藤村は哲学的な悩みによって自殺をしたものと推測された。今日でもこのように考える者は多い。しかし、自殺の前に藤村が失恋していたことが明らかになり』、『これを自殺の原因と考える者もいる。恋慕の相手は、菊池大麓の長女多美子である。なお、藤村の自殺の年に多美子は美濃部達吉と結婚した』。なお、以下続く注の中に「ホレーショ」について、以下の3及び4の注があるので抜粋しておく。まず注3。
《引用開始》
劇中、ハムレットがホレーショに以下のように語るシーンがある。
"There are more things in heaven and earth, Horatio. Than are dreamt of in your philosophy.(世界には君の哲学では思いも寄らないことがある)"
遺書の5行目と類似したセリフであり、遺書の不可知論的内容と関連づけて説明されることが多い。
《引用終了》
次に注4。
《引用開始》
西洋古典学者の逸身喜一郎は、「ホレーショ」はローマ詩人ホラティウスではないかと指摘している。この場合藤村は、「未来に思い悩まされることなく、一日一日を楽しめ」というホラティウスの快楽主義を批判していることになる。(逸身喜一郎『ラテン語のはなし』2000年 大修館書店 ISBN 978-4-469-21262-4)
《引用終了》
また最後には「関連項目」として、藤村操と関係のあった人物として、単行本「こゝろ」の出版を強く漱石に懇請した岩波茂雄の名が見え、『一高では藤村操の一学年先輩で、藤村の自殺に強い影響を受けたと言われる』とあり、更に尾崎放哉は一高時代の同級生であった旨、記載がある。自由律俳人「層雲」同人尾崎放哉――ご存知の通り、私(やぶちゃん)の卒業論文は「尾崎放哉論」である。
■「Kの遺書」の初期化
まず大事なことを確認しておきたい。先生は原文をそのまま引き写しているのではないということを確認せよ!
特に「最後に墨の餘りで書き添へたらしく見える、もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味の文句でした。」に欺かれてはならないのだ! 即ち、我々は
原「Kの遺書」
を、是が非でも想定復元しなくてはならないのである!
まず、第一に我々の発想の転換を求めねばならないのは、
①遺書は擬古文で書かれていた
可能性が高いという点である。明治時代及びその後の多くの遺書にあっても擬古文が主流であったこと及び、先生が遺書を
「簡單で」
「寧ろ抽象的」
であったとし、更に遺書の内容を
「といふ丈」
「極あつさりした文句」
「といふ言葉」
「といふ句」
「といふ依賴」
「といふ意味の文句」
という形で示していることからも明らかである。
但し、これらの先生による現代語訳は擬古文に復元する場合、多様な表現の可能性が考えられ、復元それ自体が相当に困難であること――否、完全復元は実際には不可能であること――をまず言っておかねばならぬ。
更にこの遺書が擬古文であったとすれば、復元の最大のネックがここに明らかになる。即ち、
★遺書の「最後に墨の餘りで書き添へたらしく見える」と先生が言う「もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味の文句」とは、そのままの文字列では有り得ない
という点である。それは、
◎『もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味』を持ったように見える『ある』擬古文で書かれた「文句」
であって、
×「もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらう」
と書いてあったのではない! という事実を明確に押さえておく必要がある、ということなのである!
■「Kの遺書」の概要(くどいが『本文』では、ない!)
・宛名を含め毛筆。外装は通常書簡用封筒を使用したものと思われる。本文紙質は不明であるが、Kが高級和紙類を用いたり、持っている可能性はないに等しいので、書道用書簡用の巻紙のようなものを切截したものと考えてよいであろう。
○先生宛【先生の予想通り】
○内容【先生が予想していたような先生に対する「辛い文句」は全く記されておらず、「必要な事はみんな一口づゝ書いてあ」ったものの、御嬢さんに関わる叙述は全くない、簡単な抽象的な遺書であった】
○自殺の理由
「自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺する」【「といふ丈」の記載であった】
○今まで世話になった私への簡潔な礼【前記の自殺の理由の後に附されていた】
○「世話序に死後の片付方も賴みたい」【「といふ」死後の処理を依頼する「言葉」もあった】
○「奥さんに迷惑を掛けて濟まんから宜しく詫をして吳れ」【「といふ句」もあった】
○「國元へは私から知らせて貰ひたい」【「といふ依賴」もあった】
○末尾書き添え
◎『もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味』を持ったように見える『ある』擬古文で書かれた「文句」【それは「最後に墨の餘りで書き添へたらしく見える」ものであるから、最期に――末期の眼の中で――どうしてもKが表現したかったことであると考えてよい】
■「Kの遺書」の素型的復元案
最初に述べた通り、実際には擬古文での復元は不可能である。しかし、それでは我々は「Kの遺書」を、ひいては「心」という作品を謎のまま放棄するに等しい。
以下、私が考える、復元案のやや擬古文調の現代語訳の素型を提示して、諸氏の考察のよすがにして貰えれば、恩幸之に過ぎたるはない。
〔遺書(封筒)宛名書案〕
○○○○君
[やぶちゃん注:通常書簡用封筒を使用したものと思われる。「○○○○」は先生のフル・ネーム。]
〔遺書本文案〕
[やぶちゃん注:外装は改行も私が書いた場合を想定して、私ならここで改行するという位置で行った。カタカナは全体に漢字よりもポイント落ちとしたい。「貴君」「奥サン」「吳レ」という語や表記が果たして当時、一般的であった否かは不明であるが、これは時代考証ではなく、案であるのでそこまで追求してはいない。]
自分ハ薄志弱行而シテ到底行先ノ望無之
故ニ死ヲ決ス
貴君ニハ種々世話ニナツタ心ヨリ禮ヲ云フ
世話序乍恐縮ナレド小生ノ死後ノ片付方モ
宜敷賴ム
奥サンニハ迷惑ヲ掛ケテ濟マンカラ
宜敷詫ビテ吳レ
國元ヘノ知ラセハ惡ヒガ君カラ賴ム
宜敷申上候以上
□□□□ □□□□
[やぶちゃん注:「□□□□ □□□□」は『もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味』を持ったように見える『ある』擬古文で書かれた「文句」。]
■『もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味』を持ったように見える『ある』擬古文で書かれた「文句」
これは何であったのか? 単純に漢文を考えるなら、例えば
須死迅速而何爲長生也
(須らく迅速(すみや)かに死すべきに無爲(なんす)れぞ長生せしや)
なんどが浮かぶが、これは漢文をちょいと齧った高校生が「漢文の句法」なんどを片手に悪戯書きしたみたような如何にもなもので、退けたい。――しかしそれは先に述べた通り、
★「最後に墨の餘りで書き添へたらしく見える」ものであるから、最期に――末期の眼の中で――どうしてもKが表現したかったことである
ことは確かなことである。
以上から私はこれを、
★禪の公案かその答案を引き写したもの
であった可能性を第一に考えている。
若しくは、
★禪の公案かその答案を真似てKが創案したもの
であった可能性を考えている。
――考えながら、未だ嘗てそれに相当する公案文や答案文に出逢ったことはない――ないが――
★必ずそれに相当するものはある
と確信している。
但し、それは
★『もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味の文句』ではない
可能性が高い。
――即ち私は、
★先生はその遺書の末尾の『文句』を完全に誤読・誤訳している
と考えている。
――否――
確信しているものである。
――識者の方で想起される句があられる方は、どうか御教授の程、よろしくお願い申し上げる。
――それは私のためではなく――
――Kのために――
である――。
★Kは今――この21世紀に!――新たなKとして――復権されなければならない!
♡「必要な事はみんな一口づゝ書いてある中に御孃さんの名前丈は何處にも見えませんでした、私は仕舞迄讀んで、すぐKがわざと回避したのだといふ事に氣が付きました。然し私の尤も痛切に感じたのは、最後に墨の餘りで書き添へたらしく見える、もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味の文句でした」この冒頭の部分は単行本「こゝろ」で「必要な事はみんな一口づゝ書いてある中に御孃さんの名前丈は何處にも見えません。」に変更される(この読点は原稿では正しく句点で、誤植である)。冒頭注で述べた通り、Kに「御嬢さん」を自死と関連付けて遺書に書く必要も内的要請も全くない。従って、先生の「回避」はお門違いも甚だしい誤解であり、先生の側の愚劣が表出した完全誤答の憶測である。更に既に述べた通り、その遺書末尾の謎の語の解釈も完膚なきまでの誤読であるわけだが、少なくともその誤読の結果、先生が「尤も痛切に感じた」以上、その「尤も痛切に感じた」先生側の考える心内での解釈を明らかにしておかなくてはならない。
私は過去、それを以下に類した形で板書してきた。
①これはKが、
(α)先生の裏切りを知り、同時に
(β)K自身の御嬢さんへの失恋を認識した。それによって、
(γ)自分自身が遂にこの世でたった独りになってしまった、絶対の孤独者となってしまった、ことを痛感した
ところの表現ではないか?
②これはKが、
(α)自分の平生の信条を裏切りしていながら、おめおめとずるずると生き続けてしまったこと、更に
(β)唯一の親友たる先生の予てよりの御嬢さんへの恋心にさえ気づくことなく、ずうずうしくも何とその先生に御嬢さんへの恋情を告白して恥じなかった自分自身のエゴイズム、お目出度い利己心を痛烈に感じたこと、加えて
(γ)自身を裏切った自分がさっさと死ななかったために、先生を『友を裏切る行為にまで』追い詰めてしまったということへの悔い
の表現ではなかったか?
但し、これらはあくまで先生の側の心の解釈に過ぎないのだということを再度、確認しておく。また、これが真に正しい先生の側の心の解釈であるかどうかも留保する。
♡「私は顫へる手で、手紙を卷き收めて、再び封の中へ入れました。私はわざとそれを皆なの眼に着くやうに、元の通り机の上に置きました。さうして振り返つて、襖に迸ばしつてゐる血潮を始めて見たのです」最も忌まわしい先生の映像がここにある。そして、本「心」というモノクロ映画には、初めてここでフィルムの迸った血の部分に真紅の着色が成される。元の通り、まだ読んでもいないかのように、そうして――そうして「みんなの目に着くように」Kの遺書を置く先生――己の虚像を公的に認知させるための、おぞましい偽善的行為をする先生――私はこんな先生の姿を見たくなかった……こんな愛する先生の姿を思い浮かべねばならないことが、この遺書を読む私(やぶちゃん)には……哀しく辛いのである……]
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