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2010/08/23

耳嚢 巻之三 人の貧富人作に及ざる事

「耳嚢 巻之三」に「人の貧富人作に及ざる事」を収載した。


 

 人の貧富人作に及ざる事

 

 佐州澤根湊は廻船等を以家業とする者多し。濱田屋某とて至て吝嗇(りんしよく)にて追々家富みける。外々草きりの問屋共の内にも身上相應の者あれども追々衰し者もありしが、彼濱田屋が吝嗇を土地の者も恨みて、濱田屋が船は難船にもあへかしと思ふに、外々の者の船は難船などにて大きに損失あれど、濱田屋が船はその愁もなし。土地の者共濱田屋が諸(しよ)差引(さしひき)金銀貸方等のいらひどきを恨みて、或時夜に入て若き惡者共申合、濱田屋に損分を懸候樣にと、懸置し船の帆柱を二ツ三ツに切りて心よしとて忍び歸りけるに、翌日聞しに濱田屋の帆柱と思ひ切りしに、濱田屋の持舶(もちぶね)には無之、近年衰へし外廻船持(もち)の帆檣にてありしと也と、土地の者語りける由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:人には人の乳酸菌、じゃあない、固有の徳(仏教なら業とか果報とか言おうが、根岸は仏教嫌いだから言わない)で連関。お馴染み佐渡奇譚シリーズの一つ。

・「人作」人為・作為。

・「佐州澤根湊」現在の新潟県佐渡市沢根。旧新潟県佐渡郡佐和田町(さわたまち)沢根。佐渡ヶ島の南の真野湾の北西岸に位置し、旧来は北風を避けるための海路の要衝であったが、現在は島内道路交通の要、商業地域としても発展している。

・「濱田屋某」本名笹井(旧主姓は川上)。ブログ「佐渡広場」の本間氏の「歴史スポット50:佐渡・廻船業と千石船」という記載にこの浜田屋についての極めて詳しい記載があるので、以下、引用させて頂く。

   《引用開始》

1.沢根の廻船問屋・浜田屋 笹井家

①佐渡・相川へ渡来

 1500年後期石見(島根県)浜田より川上権左衛門(浜田屋本家初代)、川上伊左衛門、久保新右衛門ら3人が佐渡・相川庄右衛門町へ渡来。1596年に笹井家の先祖 佐々井九之助が越前(福井県)より渡来。(いずれも、金銀稼ぎが目的に決まっている)

②沢根に居を移し商売

 1)1663年佐々井九之助の子が浜田屋の娘婿となり沢根へ出て浜田屋権左衛門という商人になり、小船1隻を持った。相川や沢根・鶴子の金銀稼ぎは景気変動が大きく、相川にも近くて優れた港をもち、背後には米どころ国仲平野のある沢根でお客のニーズを聞きながら商売した方が、資金を投下しても一攫(いっかく)千金の夢はあるが回収に確実性がない事業に投資するより安全で、発展が期待できる好立地と見たのであろう。

 2)1677年、佐渡の廻船業として既に名高い船渡源兵衛と鮭・筋子・粗鉄・千割鉄などの取引が始まり、その後も米・大豆・鉄などの取引を続けている。

 a.本家は鉄の産地石見の出身、分家・新屋は日本海物流の中心地で鉄などが集まる敦賀がある越前の出身。浜田屋が鉄屋といわれていたのは、そういった関係からである。

 b.沢根には鶴子銀山、隣は相川金銀山があって鉄製品の需要は高く、背後は米どころ国仲平野で農工具作りや修理など鉄の需要が高い。自然、近くに鍛冶町が形成された。現に沢根に鍛冶町があり、鍛冶とは仕事上不可分な関係にある炭屋町の町名がある。

 3)1696年、新潟で船渡源兵衛より75両借りるとある。

 当時佐渡は、人口増で米不足のため米が高騰、他国への佐渡産物資の販売は物不足・物価上昇を抑えるため禁止で米・大豆などは新潟から移入。

 浜田屋は当時、まだ小資本のため江戸初期に先行して稼いだ船渡源兵衛に金融を頼み、船は持っても島外へ乗り出す程のものでないため源兵衛船に依存した。

 4)元禄年中(16881703)に、沢根・上町から沢根・下町に移転、やがて沢根町名主となる。川上から佐々井(笹井)に名前が変わる(浜田屋新屋)。1717年三代浜田屋権左衛門没。(三代の時に、浜田屋が町を代表するまでの繁昌を次第に築き上げていった)

③本格的に廻船業に乗り出す。(中古船→新造船→大型船→複数船持ち)

 1)1750年浜田屋四代目が100石積の中古船を購入し、雇い船頭で運航。1753年羽茂・赤岩の五郎兵衛船・長久丸150石の中古船を20余両で購入。1764年赤泊・腰細の弥右衛門船(150石積・5人乗り・15反帆)を購入、大黒丸と称す。船頭は宿根木の武兵衛。

 2)1768年宿根木で2代目大黒丸(200石積)を179両で新造(前年沢根の火事で、大黒丸が類焼したため)。弁財船。船大工は小木町の徳兵衛、船頭は宿根木の権兵衛。船底材にケヤキ、重木(おもき)などはヒョウガ松といった脂ののった上物を使い修理などして1807年までの41年間使ったという。3代目大黒丸の新造には、縁起をかついで2代目の船材を使用。

④大型船の購入・廻船で商圏を瀬戸内・上方に拡大

 1)1791年、相川の覚左衛門より500石船の明神丸を購入。「佐渡路を放つより否や、風よろしければ直ぐに沖梶にて下関へ4日目あるいは5日目に着して、大坂・堺・瀬戸内を掛け回った」。

 2))1792年宿根木の200石船5人乗りの有田久四郎船を購入して改造し、大乗丸(表石131石、5人乗り)と改名。1798年他に譲り、宿根木の石塚権兵衛船を購入し200石から250石に改造し幸徳丸と改称。2年後相川の葛野六郎右衛門へ譲り、宿根木の佐藤穴口家より320石積船を買い入れ、改装して幸徳丸300石船とした。1803年、赤泊の葛野伝右衛門に譲り、翌年相川の葛野家所有の400石船を買い大徳丸と名付けた。

 3)寛政~化政(17891829)にかけ家業の隆盛期は、大乗丸・幸徳丸・大徳丸が活躍。大乗丸は1794年宿根木の弁財船を改造した200石積、1799年売却、翌年宿根木の穴口家の高砂丸320石積を購入し幸徳丸と改称。1804年本家の大徳丸を手船とした。1813年時点の浜田屋の本家・分家の船は、大黒丸(1762年中古船・諸道具付きで購入、1822年再び沢根・七場で造作し510石積・9人乗り・21反帆にした)・大徳丸(308石積・9人乗り)・明神丸の3隻。

⑤廻船の航海実績と損益勘定例

 1)1805年(文化2)幸徳丸

 2月18日新潟県寺泊より村松米・金納米・地廻米を購入、3月19日広島県竹原で村松米・金納米を販売、三田尻塩を購入、4月10日島根県安来で三田尻塩一部販売、鉄を購入、4月26日寺泊で村上米・長岡米を購入、6月27日広島で村上米・長岡米を販売、同地で7月6日三田尻塩を購入、7月24日新潟で三田尻塩を販売、10月広島で米子繰綿を購入し、新潟で販売。

  粗利74両、諸払い差引純益32貫。

 2)1808年(文化5年)大徳丸 

  2月佐渡より佐渡米・冬干しイカ・干し鰯(イワシ)を購入、3月兵庫(神戸)へ佐渡米・冬干イカ・干し鰯販売、3月25日石川県小松より小松塩を購入し、4月酒田で塩を販売、その後安来で鉄を購入、4月28日酒田で米沢米・最上米を購入し、6月12日兵庫で米を販売、?[やぶちゃん注:ママ。但し、同ブログの別記事からこれは「三田尻」であることが分かった。]で三田尻塩を購入し、6月15日酒田で多くを販売、閏(うるう)6月1日酒田で庄内上御蔵米を購入、また沢根で土用干しイカを購入し、8月兵庫で米・イカを販売、閏8月16日三田尻塩、その後香川県丸亀で備中繰綿、島根県出雲で米子繰綿を購入し、10月沢根で塩を 11月備中繰綿の約半分を販売、翌年2月寺泊で残った繰綿全てを販売。

  粗利150両、諸払い86両、差引純益63両。

 3)『海陸道順達日記』編者の佐藤利夫氏は、船の年間損益の分岐点は諸勘定記録から50両と見る。粗利74両で純益32貫、粗利49両で損失45貫の実績例などあり。享和元年幸徳丸の諸経費の実例内訳は、次のとおり。

  船主小払い:銭76904文、金171分、道具代:銭646文、水主(水夫)給銭:銭19504文、船頭給銭:金2両、船糧米代:銭32860

  合計:金48860文、錢930文。

 4)新造船の建造費は、200石積船180両として年間平均粗利100両・純益30両とした場合、6年で投下資本の完全回収ができる。投下資本利益率16.6%。なお、利足(利息)は年5厘(5%)が相場(史実の断片からみられる)であるから、金を貸した場合の3倍の利益となる。また、幕府の御用船による米運搬は、7年を超える船は出来ないことになっていた。おそらく、改造船はその時点から起算するものであろう。

⑥余裕資金は、田畑購入にあてた。

 1)1756年にはじめて畑野・大久保と河内の田を購入し、廻船による利益を土地取得向けていき、幕末までに2万刈(20ヘクタール)を所有する地主となった。

 2)大黒丸と明神丸と大徳丸が記載されているのは、1875年(明治8)能登・福浦の佐渡屋客船帳が最後で、1890年(明治23)庄屋を襲った相川暴動で船問屋をやめている。

   《引用終了》

根岸が佐渡奉行であったのは天明4(1784)年3月から天明7(1787)年7月迄であるから、まさにこの浜田屋が大型船を購入し、廻船で商圏を瀬戸内や上方まで拡大したところの、寛政~化政(17891829)の家業隆盛の直前期に当っていたわけで、これはもう、眼から鱗である。

・「草きり」草分け。物事や商売の創設者。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 人の貧富というものには人為は及ばぬものであるという事

 

 佐渡ヶ島の佐和田(さわた)沢根の港は廻船業等を以って家業とする者が多い。

 濱田屋某といって、到って倹約家の廻船問屋は、その吝嗇(りんしょく)の御蔭を以って家も富み栄えて御座った。

 外にも廻船の草分け的な問屋で、以前には成功して相応な身代を築いておった者もあったが、そうした連中も次第次第に衰えて消えていったりしたので、かの濱田屋ばかりがいや栄(さか)にて栄えてあるを、土地の者どもは内心――『ど吝嗇(けち)!』『守銭奴!』と陰口を叩きながら――恨んで御座ったという。

 同じ廻船問屋の中には、

『……浜田屋の船は難破するがよいじゃ……』

なんどと不埒にも思うたりする者もあったが……そのように思う者がある時に限って……何と浜田屋の以外の者の船が難破なんど致いて、大いに損失があったりしても……当の浜田屋の船は、一向にそんな愁いもなかったという。

 ある時、土地の者共どもの中で、浜田屋から借り受けたりした諸々の貸与の金品等につき、浜田屋が貸借の日限を厳しく言い立てて取りに来たのに恨み骨髄に達し……ある深夜、闇に乗じて、不良少年どもと謀り、浜田屋に大損を仕掛けてやろうということと決し……碇泊していた浜田屋所有の船の帆柱を、こっそりと鋸(のこ)で……ごりごりごりと……二つ三つに無惨に切り、

「……ざまあ! 見ろ!……」

と、ほくそ笑んで帰ったという。……

……ところが……

……翌日聞いたところが……浜田屋の帆柱と思って切った帆柱は……これ、浜田屋の持ち船にて、これ、御座なく……最近、すっかり落ち目になってしまった別の廻船問屋の持ち船の帆柱に御座った――虫の息であったその問屋はこれにて息絶え、またまたその分、浜田屋に利が転がり込んで御座ったとのこと――と、土地の者が私に語ったことにて、御座る。

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