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2010/08/05

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月5日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百四回

Kokoro16_5   先生の遺書

   (百四)

 「私は奥さんに氣の毒でしたけれども、また立つて今閉めたばかりの唐紙を開けました。其時Kの洋燈(ランプ)に油が盡きたと見えて、室の中(なか)は殆ど眞暗でした。私は引き返して自分の洋燈を手に持つた儘、入口に立つて奥さんを顧みました。奥さんは私の後(うしろ)から隱れるやうにして、四疊の中を覗き込みました。然し這入(はい)らうとはしません。其處は其儘にして置いて、雨戸を開けて吳れと私に云ひました。

 それから後の奥さんの態度は、さすがに軍人の未亡人だけあつて要領を得てゐました。私は醫者の所へも行きました。又警察へも行きました。然しみんな奥さんに命令されて行つたのです。奥さんはさうした手續の濟む迄、誰もKの部屋へは入(い)れませんでした。

 Kは小さなナイフで頸動脈を切つて一息に死んで仕舞つたのです。外に創(きず)らしいものは何にもありませんでした。私が夢のやうな薄暗い灯で見た唐紙の血潮は、彼の頸筋から一度に迸ばしつたものと知れました。私は日中の光で明らかに其迹を再び眺めました。さうして人間の血の勢といふものゝ劇しいのに驚ろきました。

 奥さんと私は出來る丈の手際と工夫を用ひて、Kの室を掃除しました。彼の血潮の大部分は、幸ひ彼の蒲團に吸收されてしまつたので、疊はそれ程汚れないで濟みましたから、後始末はまだ樂でした。二人は彼の死骸を私の室に入れて、不斷の通り寢てゐる體(てい)に橫にしました。私はそれから彼の實家へ電報を打ちに出たのです。

 私が歸つた時は、Kの枕元にもう線香が立てられてゐました。室へ這入るとすぐ佛臭(ほとけくさ)い烟(けむり)で鼻を撲(う)たれた私は、其烟の中に坐つてゐる女二人を認めました。私が御孃さんの顏を見たのは、昨夜來此時が始めてゞした。御孃さんは泣いてゐました。奥さんも眼を赤くしてゐました。事件が起つてからそれ迄泣く事を忘れてゐた私は、其時漸(やうや)く悲しい氣分に誘はれる事が出來たのです。私の胸はその悲しさのために、何の位(くらゐ)寬ろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴の潤(うるほひ)を與へてくれたものは、其時の悲しさでした。

 私は默つて二人の傍(そば)に坐つてゐました。奥さんは私にも線香を上げてやれと云ひます。私は線香を上げて又默つて坐つてゐました。御孃さんは私には何とも云ひません。たまに奥さんと一口二口(ふくち)言葉を換(かは)す事がありましたが、それは當座の用事に即(つ)いてのみでした。御孃さにはKの生前に就いて語る程の餘裕がまだ出て來なかつたのです。私はそれでも昨夜の物凄い有樣を見せずに濟んでまだ可かつたと心のうちで思ひました。若い美くしい人に恐ろしいものを見せると、折角の美くしさが、其爲に破壞されて仕舞ひさうで私は怖かつたのです。私の恐ろしさが私の髪の毛の末端迄來た時ですら、私はその考を度外に置いて行動する事は出來ませんでした。私には綺麗な花を罪もないのに妄(みだ)りに鞭(むち)うつと同じやうな不快がそのうちに籠つてゐたのです。

 國元からKの父と兄が出て來た時、私はKの遺骨を何處へ埋(うめ)るかに就いて自分の意見を述べました。私は彼の生前に雜司ケ谷近邊(きんへん)をよく一所に散步した事があります。Kには其處が大變氣に入つてゐたのです。それで私は笑談(ぜうだん)半分に、そんなに好(すき)なら死んだら此處へ埋(うめ)て遣らうと約束した覺えがあるのです。私も今其約束通りKを雜司ケ谷へ葬つたところで、何の位の功德(くどく)になるものかとは思ひました。けれども私は私の生きてゐる限り、Kの墓の前に跪(ひざ)まづいて月々私の懺悔を新たにしたかつたのです。今迄構ひ付けなかつたKを、私が萬事世話をして來たといふ義理もあつたのでせう、Kの父も兄も私の云ふ事を聞いて吳れました。

Lineburogusironuki

 

やぶちゃんの摑み:先にも述べた通り、先生はKの自殺、その首を取り落として以降、一切、Kの死に顔を描写していない。見ていないことはあり得ない。その不自然さ、何故に描写しないかは、「心」を考察するに、重要な問題点であると私は永く思っている。なお上の通り、ここのみ白抜きの飾罫となっている。

 

♡「小さなナイフ」肥後守タイプのナイフか。以下、ウィキ「肥後守」から引用する。『肥後守(ひごのかみ)とは、日本で戦前から使われていた簡易折りたたみ式刃物(ナイフ)のこと。登録商標であり特定の製品の名称であるが、同形状のナイフの総称として呼称されることが多い(後述)』。『金属板をプレス加工した露骨なグリップに鋼材の両刃の刃部(ブレード)のものが一般的である。折りたたみのロック機構はなく「チキリ」と呼ばれる部分を親指で押さえ続けることでブレードを固定して使用する。ブレードは利器材をプレス加工で打ち抜いたあと「チキリ」のみを改めて加工したものが大半である』(中略)。『この形状のナイフの製造が始まったのは1890年代[やぶちゃん注:下線やぶちゃん。]と考えられている。この上なく単純な構造のため極めて安価に製造出来ることや、殆ど壊れる所が無いため長く使用出来る。1950年代後半頃からは文房具の一つとして子どもにも行き渡ったが、やがて鉛筆削り器やカッターナイフの普及のほか、日本全国に拡がった「刃物を持たない運動」』『などに押されて徐々に姿を消した』(中略)。『全盛期の昭和30年代、兵庫県三木市には肥後守を製造する鍛冶屋が多数存在した。また、他の地域でも同様の意匠をもつフォールディングナイフが製造され、類似の商品名で流通していたが、肥後守の商品名があまりにも有名であったため、このタイプのナイフの一般名詞として使用されている実態がある』。『2005年現在、肥後守(ひごのかみ)は兵庫県三木市にある永尾駒製作所製造の登録商標であ』る(以下略)。私はKの自殺した日を明治341901)年2月23日に同定している。既に、私にも懐かしい肥後守タイプのナイフは存在したのである。

 

♡「二口(ふくち)」「ふたくち」のルビ脱字。

 

♡「御孃さにはKの生前に就いて……」「御孃さん」の脱字。

 

♡「若い美くしい人に恐ろしいものを見せると、折角の美くしさが、其爲に破壞されて仕舞ひさうで私は怖かつたのです。私の恐ろしさが私の髪の毛の末端迄來た時ですら、私はその考を度外に置いて行動する事は出來ませんでした。私には綺麗な花を罪もないのに妄りに鞭うつと同じやうな不快がそのうちに籠つてゐたのです」この考え方――言明――こそが、先生が結婚後も、その自分の忌まわしい真実を靜に打ち明けない唯一の理由へとダイレクトに繋っているのである。即ち第(百六)回の「私はたゞ妻の記憶に暗黑な一點を印するに忍びなかつたから打ち明けなかつたのです。純白なものに一雫の印氣でも容赦なく振り掛けるのは、私にとつて大變な苦痛だつたのだ」という言明である。この事実によって、この言明自体が一種の先生の極めて利己的な自己合理化であることが、残念ながら明白となると言えないであろうか?

 

♡「けれども私は私の生きてゐる限り、Kの墓の前に跪まづいて月々私の懺悔を新たにしたかつたのです」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏は、この「月々私の懺悔」に非常に深い注釈を附しておられる。是非、当該書のそれをお読み戴きたいが、特にここで挙げておきたい部分をのみ、簡単に示したい。まず藤井氏は本作が書かれた時代が、『異常なまでの懺悔文学ブームの影響下にあった』ことをお示しになられ、『ルソー、トルストイ、そしてアウグスティヌス(当時はオーガスティンとも)の著作が、どれも広く読まれていた』とされ、当時の作家たち(青野季吉・谷崎潤一郎・安倍能成・森鷗外)がその作品にそうした懺悔録を登場させ、また『実際にもコンフェションをめぐるそういうやりとりは、たとえば森田草平と漱石のあいだでも交わされていた(森田草平『漱石先生と』私)』と記される(“confession”は英語で「白状・自白・告白」「罪の許しを得るための司祭への告解・懺悔」「信仰告白」の意)。そして、以下、「心」を解釈する上で極めて重要な見解を披見されておられる。

   《引用開始》

だとしたら『心』という作品も、まさにそうした風潮に棹さすものと受け取られたと考えられる。とりわけ、アウグスティヌス『告白』と類似性は顕著だ。一つは愛がもとで「嫉妬、猜疑、恐怖、怒り」(宮原晃一郎訳)の囚われとなるという点、二つ目は、私が邪教へと誘い込んで死に追いやってしまった親友をめぐる事件、そして三つ目が、私の告白は神ばかりでなく、ふつうの聞き手をも想定していたという懺悔うの受け手をめぐる問題、の三点において重なりを指摘できる。そして、何によりも「私は今自分の過去の汚穢と、私の魂の肉的腐敗とを想ひ起しませう」(宮原訳)といった過剰なまでの自責・懺悔のトーンにおける共通性。「愛するに私は正直な路を歩く積で、ついに足を滑らした馬鹿ものでした」〈下四十七[やぶちゃん注:「心」(百一)。]〉という一文などは『告白』からそのまま抜き出してきたといってもいいくらいだ。いずでにしてもこの時代の風潮に棹さした懺悔という枠組のほうがまず先にあって、それに合わせての「懺悔」するにふさわしい「卑怯」な行為の苦し紛れな羅列、ととることで『心』という作品の「不自然」「唐突」「極端」な展開にともなうわかりにくさがずいぶん解消されることも確かなのである。

   《引用終了》

この見解は非常に説得力を持つ。ただ遺憾ながら、私はアウグスティヌスの『告白』を読んでいない。私の成すべきことはまず、そこから始めねば成らぬ。

 

♡「今迄構ひ付けなかつたKを、私が萬事世話をして來たといふ義理もあつたのでせう、Kの父も兄も私の云ふ事を聞いて吳れました」勘当同然であったKが次章で示される通り、「厭世的な考を起して自殺した」「氣が狂つて自殺した」と新聞報道されている以上、実は実父にも実兄にとっても――二人とも新潟の名家で由緒ある真宗寺の僧職である――先生のこの申し出は渡りに舟の提案であったに違いない。Kは体よく故郷からも永遠に抹殺されてしまったのである。Kはそうした意味に於いても、死しても『故郷喪失者』であったのである。]

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