『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月10日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百九回
(百九)
「死んだ積で生きて行かうと決心した私の心は、時々外界の刺戟(しげき)で躍り上がりました。然し私が何(ど)の方面かへ切つて出やうと思ひ立つや否や、恐ろしい力が何處からか出て來て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないやうにするのです。さうして其力が私に御前は何をする資格もない男だと抑へ付けるやうに云つて聞かせます。すると私は其一言(げん)で直(すぐ)ぐたりと萎(しを)れて仕舞ひます。しばらくして又立ち上がらうとすると、又締め付けられます。私は齒を食ひしばつて、何で他(ひと)の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷かな聲で笑ひます。自分で能く知つてゐる癖にと云ひます。私は又ぐたりとなります。
波瀾も曲折もない單調な生活を續けて來た私の内面には、常に斯(かう)した苦しい戰爭があつたものと思(おもつ)て下さい。妻(さい)が見て齒痒がる前に、私自身が何層倍齒痒い思ひを重ねて來たか知れない位(くらゐ)です。私がこの牢屋の中に凝としてゐる事が何うしても出來なくなつた時、又その牢屋を何うしても突き破る事が出來なくなつた時、必竟私にとつて一番樂な努力で遂行出來るものは自殺より外にないと私は感ずるやうになつたのです。貴方は何故と云つて眼を睜(みは)るかも知れませんが、何時も私の心を握り締めに來るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食ひ留めながら、死の道丈を自由に私のために開けて置くのです。動かずにゐれば兎も角も、少しでも動く以上は、其道を步いて進まなければ私には進みやうがなくなつたのです。
私は今日(こんにち)に至る迄既に二三度運命の導いて行く最も樂な方向へ進まうとした事があります。然し私は何時でも妻に心を惹(ひ)かされました。さうして其妻を一所に連れて行く勇氣は無論ないのです。妻に凡てを打ち明ける事の出來ない位な私ですから、自分の運命の犧牲として、妻の天壽を奪ふなどゝいふ手荒な所作は、考へてさへ恐ろしかつたのです。私に私の宿命がある通り、妻には妻の廻(まは)り合せがあります。二人を一束(ひとたば)にして火に燻(く)べるのは、無理といふ點から見ても、痛ましい極端としか私には思へませんでした。
同時に私だけが居なくなつた後(のち)の妻を想像して見ると如何にも不憫でした。母の死んだ時、是から世の中で賴りにするものは私より外になくなつたと云つた彼女の述懷を、私は膓(はらわた)に沁み込むやうに記憶させられてゐたのです。私はいつも躊躇しました。妻の顏を見て、止して可かつたと思ふ事もありました。さうして又凝(ぢつ)と竦(すく)んで仕舞ひます。さうして妻から時々物足りなさうな眼で眺めらるのです。
記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。始めて貴方に鎌倉で會つた時も、貴方と一所に郊外を散步した時も、私の氣分に大した變りはなかつたのです。私の後(うしろ)には何時でも黑い影が括(く)ツ付いてゐました。私は妻のために、命を引きずつて世の中を步いてゐたやうなものです。貴方が卒業して國へ歸る時も同じ事でした。九月になつたらまた貴方に會はうと約束した私は、噓を吐(つ)いたのではありません。全く會ふ氣でゐたのです。秋が去つて、冬が來て、其冬が盡きても、屹度(きつと)會ふ積でゐたのです。
すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな氣がしました。最も强く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き殘つてゐるのは必竟時勢遲れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白(あから)さまに妻にさう云ひました。妻は笑つて取り合ひませんでしたが、何を思つたものか、突然私に、では殉死でもしたら可(よ)からうと調戯(からか)ひました。
[♡やぶちゃんの摑み:……先生……此處には私の想像を絕する先生の内的葛藤が語られてゐます……先生はおつしやいます……二三度自殺を考へたこともあつたと……そして何故死ななかつたのかと言へば、それは至つて單簡な理由であつたと……「妻のために」常に思ひ留まつたのだと……「Kのために」と言ひ、「妻のために」と言ふ先生……私はこの言葉が噓だとは思ひません……先生の内實にとつて、それは確かな眞理であつたと思ひます……思ひますが……先生、私は何處かで、この『誰々のために』と云ふあなたの言ひ回しに、53歳にもなつてしまつた今、或る種の胡散臭さを感じずにはゐられないのです……それは仕方がないことなのかも知れない……長い年月を生きてしまつて、嘗ての汚れたあなたよりも、更に猜疑心に富み、疑り深く、汚れてしまつた、この私の考へることなのですから……然し……然しですよ、先生……汚れてゐる筈の、この私が何故、先生、あなたのこの『誰々のために』と云ふ言葉に、或る種、何とも言へない生臭い生理的な嫌惡感を抱かねばならないのでせうか……それを考へてみて欲しいのです……いや、先生、あなたにです……濟みません、先生……つい最後に、私の自然が叫ぶ微かな不滿が口を突いて出て仕舞ひました……それでも、先生……私は、先生を愛してゐます……
♡「私は今日に至る迄既に二三度運命の導いて行く最も樂な方向へ進まうとした事があります。然し私は何時でも妻に心を惹かされました。さうして其妻を一所に連れて行く勇氣は無論ないのです。妻に凡てを打ち明ける事の出來ない位な私ですから、自分の運命の犠牲として、妻の天壽を奪ふなどゝいふ手荒な所作は、考へてさへ恐ろしかつたのです。私に私の宿命がある通り、妻には妻の廻り合せがあります。二人を一束にして火に燻べるのは、無理といふ點から見ても、痛ましい極端としか私には思へませんでした」この叙述は乃木大将の自決に妻靜子が従ったことを念頭に置いている。但し、乃木の場合は次章の遺書をお読みになれば分かる通り、靜を「一所に連れて行く」気は全くなかった。靜子は恐らく乃木の自決の日直前に彼女自身から殉死の供を懇請したものと思われる。彼女の遺体には胸部に4箇所の刺創があり、先に乃木の介錯で逝ったとも、乃木の遺体に比して体温があったことから乃木自害後の自死とも伝えられているが、事実は前者であったものらしい。
♡「記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです」先生の再開示である。これは遺書の初め、第(六十三)回の冒頭「一口でいふと、伯父は私の財産を胡魔化したのです。事は私が東京へ出てゐる三年の間に容易く行なはれたのです。凡てを伯父任せにして平氣でゐた私は、世間的に云へば本當の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、或は純なる尊い男とでも云へませうか。私は其時の己れを顧みて、何故もつと人が惡く生れて來なかつたかと思ふと、正直過ぎた自分が口惜しくつて堪りません。然しまた何うかして、もう一度あゝいふ生れたままの姿に立ち歸つて生きて見たいといふ心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知つてゐる私は塵に汚れた後の私です。きたなくなつた年數の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう。」と照応して、この遺書全体の額縁を成している。そしてそれは先生の「命令」なのである。この額縁の中をまず記憶せよ!――即ち、額縁の外にある叔父の裏切りやこの後の先生の自死に至る急転の事態、そこでの決断と意味よりも――まず、私のこの御嬢さん(靜)とKに纏わる半生を記憶せよ!――と命じているのである。
♡「九月になつたらまた貴方に會はうと約束した私は、嘘を吐いたのではありません。全く會ふ氣でゐたのです。秋が去つて、冬が來て、其冬が盡きても、屹度會ふ積でゐたのです」この台詞は私は朗読する都度にじーんと来る。先生の「私」への無限の優しさが伝わってくる。朗読の摑みの部分である。ここで聞き手を涙させない朗読者は、朗読を辞めたがいい。君には朗読の才能がない。全くない。
♡「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな氣がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き殘つてゐるのは必竟時勢遲れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました」先生にとっての明治天皇の死というもの――それが形而上的に意味するところのものが、靜を巡るKとの個別的次元をベースとして、そのメタなレベルで突如として示される。Kと先生とは正に『明治の精神』の只中に生きた――その終焉がやって来た――「最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き殘つてゐるのは必竟時勢遲れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました」――この台詞に着目せよ!――この「私ども」とはどの複数者であるか?――不特定多数の先生の同世代の明治人か?――もっと限定された同時代の高等教育を受けたインテリゲンチア(知識人)か?――明治日本の近代化を荷った西欧的近代的個人の洗礼を受けた(成りきったわけではなかった)明治の一握りの選ばれし日本人か?
違う!
――「最も強く明治の影響を受けた私ども」とは、誰でもない、Kと先生の二人である――
Kは死んでしまっているって? いや、しっかりと先生の中に――靜の影に――Kは、いるのだ。Kは先生と共に生きているのだ! だから「私ども」とは先生とK以外の何者でもないのである!
以下は私の板書。
☆「明治の影響」とは如何なるものであったか?
☆「明治の精神」とは如何なるものであったか?
☆何故に先生は「必竟時勢遅れ」であると言うのか?
……甘ったれるんじゃねえぜ! これは「やぶちゃんの好き勝手思い付き遣り放題遣りっ放し我儘牽強付会憤懣不快千万何でもありの摑み」なんだ! 何でも答えてくれると思うな! しかし、いいか! お前の、その乏しい知識で、考えちゃいけない! ブルース・リーだ! 考えるな! 感じるんだ!
♡「私は明白さまに妻にさう云ひました。妻は笑つて取り合ひませんでしたが、何を思つたものか、突然私に、では殉死でもしたら可からうと調戲ひました」ここに靜の台詞が突如として現れ、それをジョイントとして、次章の自死の決意が示されるという展開は、今まで殆んど議論されて来なかった(一部の論文で問題にしているものを読んだことはある。しかし、私は全く個人的に以下に示すような理由からオリジナルにそう考えてきた)ある一つの解釈を可能としている。それは靜の「殉死でもしたら可からう」という冗談の示唆が、先生にとっても勿論冗談ながらも、一つの先生の自死の具体的指針、自決の実行行為の初動動機として働いたという可能性である。私は現在、この考え方を支持している。靜は、勿論100%冗談で言った。しかし、それは、「靜のために」自死を堪(こら)えて来た先生に、
靜が始めて
「私独りを置いて先にお死になさってもいいですわ」
「自決なさってもいいのよ」
という仮想的許諾をしたのだ
という無意識の言質(げんち)を心的に形成させた可能性がある
ということである。いや、私には、これは突飛でも何でもないのである。寧ろ、そう考えてこそ、最後の章で何故、先生が突如として自死を決意するかが、私には逆に、すんなりと落ちてくる、とさえ言えるのである。なお、実は「殉死」と言う言葉は本作品で、ここで始めて使われるということも押えておかなくてはならない。漱石は『ずっとこの最後まで「殉死」という語を敢えて暖め続けて来た』ということは、間違いない確信犯的事実なのである。]
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