耳嚢 巻之三 道灌歌の事
「耳嚢 巻之三」に「道灌歌の事」を収載した。
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道灌歌の事
太田道灌は文武の將たる由。最愛の美童貳人ありて其寵甲乙なかりしに、或日兩童側に有りしに、風來て落葉の美童の袖に止りしを、道灌扇をもつて是を拂ひけるに、壹人の童、聊か寵を妬(ねた)める色の有しかば、道灌一首を詠じける。
ひとりには塵をもおかじひとりにはあらき風にもあてじとぞおもふ
かく詠じけると也。面白き歌ゆへ爰に留ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:具体は繋がらぬが、卓抜な奇略と洒落という点では私にはすんなり連関して感じられる。
・「太田道灌」(永享4(1432)年~文明18(1486)年)。『室町中期の武将。名は資長。道灌は法名。資清の長男。太田氏は、丹波国桑田郡太田郷の出身といい、資清のときに扇谷上杉氏の家宰を務めた。道灌は家宰職を継ぎ、1457年(長禄1)に江戸城を築いて居城とした。76年(文明8)関東管領山内上杉顕定の家宰長尾景信の子景春が、古河公方足利成氏と結んで顕定にそむくと,主君上杉定正とともに、顕定を助けて景春と戦った。77年武蔵江古田・沼袋原に景春の与党豊島泰経らを破り、78年に武蔵小机・鉢形両城を攻略、80年景春の乱を鎮定した。この間、関東の在地武士を糾合して戦った道灌の名声は高まったが、かえって顕定・定正の警戒するところとなり、86年定正により暗殺された。道灌は兵学に通じるとともに学芸に秀で、万里集九(ばんりしゆうく)ほか五山の学僧や文人との親交が深かった。道灌が鷹狩りに出て雨に遭い、蓑を借りようとしたとき、若い女にヤマブキをさし出され、それが「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき」という古歌「後拾遺集」雑)の意だと知り、無学を恥じたという逸話は「常山紀談」(湯浅常山著、元文~明和ころ成立)や「雨中問答」(西村遠里著、1778)等に記されて著名。この話をもじって1833年(天保4)刊「落噺笑富林(おとしばなしわらうはやし)」(初世林屋正蔵著)中に現在伝えられる落語「道灌」の原形ができあがった。歌舞伎では1887年3月東京・新富座初演「歌徳恵山吹(うたのとくめぐみのやまぶき)」(河竹黙阿弥作)がこの口碑を劇化、賤女おむらは道灌に滅ぼされた豊島家の息女撫子で、父の仇と道灌に切りかかる趣向になっている。現在の新宿区山吹町より西方の早大球場、甘泉園のあたりを『山吹の里』と通称し、戸塚町面影橋西畔に『山吹の里』の碑が立てられ、その旧跡とされている。』(以上は平凡社「世界大百科事典」の下村信博氏及び小池章太郎氏記載記事。但し、記号の一部を本ページに合わせるために変更し、改行も省略した。(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)
・「ひとりには塵をもおかじひとりにはあらき風にもあてじとぞおもふ」訳の必要を感じさせない平易な歌であるが、もしかするとある種の単語には性愛的な意味が隠されている可能性があるかも知れない。識者の御教授を乞う。底本の鈴木氏注に、「続詞花和歌集」の「雑上」に所収するものとし、作者は祭主輔親(大中臣)とする。それは
ひとりには塵をもすゑじひとりをば風にもあてじと思ふなるべし
とあると記され、更に天保六年刊の儒学者日尾荊山(寛政元(1789)年~安政6(1859)年)の「燕居雜話」の「六」には太田道灌の作として、
ひとりをば塵をもおかじひとりをば荒き風にもあてじとぞ思ふ
と挙げる、とある。後者はほぼ本歌に等しい。鈴木氏は最後に『道灌が古歌を利用して作りかえたと見ることもできるが、後人による附会であろう。』とされる。道灌、基、同感。
■やぶちゃん現代語訳
太田道灌の和歌の事
太田道灌は文武両道に長けた武将として知られている。
彼には最愛の美童が二人あって、その寵愛の深さには何らの差がなかった。
ある秋の日のこと、両童が側に控えて御座ったところ、風が吹き来て、落葉が一人の美童の袖に散った。
道灌、それを見て、手にした扇をもってこれを払った。
すると、これを見て御座ったもう一人の美童、聊か妬(ねた)ましげなる表情を浮かべた。
道灌、それを見てとって一首を詠じた。その歌は、
ひとりには塵をもおかじひとりには荒き風にもあてじとぞ思ふ
かくも詠じたということにて御座る。
面白き歌なればここに記しおく。