耳嚢 巻之三 行脚の者異人の許に泊し事
「耳嚢 巻之三」に「行脚の者異人の許に泊し事」を収載した。
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行脚の者異人の許に泊し事
前々しるしぬる虚舟、上方筋行脚なしけるに、信濃美濃のあたりにてとある絶景の地に休らひ、懷中より矢立取出して短册に一句を印し居たりし後ろへ、年頃四十許(ばかり)にて大嶋の布子を着し、山刀さして頭巾を冠りける者立留りて虚舟に申けるは、御身は俳諧なし給ふと見へたり。今晩は行脚の御宿我等いたし可申間立寄給へとていざなひしかば、嬉しき事に思ひてかの者に連て行しに、道程三四里も山の奧へ伴ひ行て一ツの家あり。彼家へ伴ひしに妻子ありて家居も見苦しからず。然れ共あたりに人家なく誠に山中の一家なり。俳諧の事抔夜もすがら咄して麁飯(そはん)抔振廻ひける故、夜も更ぬれば一ト間成所に入て臥ぬ。いか成者や、狩人といへど鐵砲弓などの物も見えず。夜中は度々表の戸の出入多く、燒火(たきび)などしてあたり語るさま年老(としより)の者共見へず、不思議なる者と思ひぬる故夜もよく寢られざるが、程なく夜明ぬれば食事などして暇を乞、御身は何家業(わざ)なし給ふや又こそ尋(たづね)め、何村の内也と尋しに、しかじかの答もなさゞりしを考れば強盜にてもありしや。發句などを見せ物など讀み書などせしさま、むげに拙(つたな)き人とも見へず。翌日は返りして山の口元まで案内し立別れぬるが、今に不審はれずと語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:前項とは無縁乍ら、本文にもある通り、四項前の「其業其法にあらざれば事不調事」の話者虚舟の体験談で隔世連関。
・「虚舟」「其業其法にあらざれば事不調事」の同注参照のこと。
・「信濃美濃のあたりにてとある絶景の地」信濃国(現在の岐阜県南部)と美濃国(現在の長野県)の国境に近い景勝地となると、中山道沿いならば寝覚の床、やや離れるが木曽川の絶景としては国境に最も近い恵那峡が挙げられる。
・「大島」大島紬(つむぎ)のこと。絣(かすり)織りの紬。主に奄美大島で産したことからかく言う。手で紡いだ絹糸を泥染めし、それを手織り平織りにした絹布で縫製した和服を言う。
・「布子」現在は木綿の綿入れを言うが、古くは麻布の袷(あわせ)や綿入れを言った。ここでは後者であろう。
・「山刀」猟師や樵が山仕事に使用する鉈の一種。
・「燒火(たきび)」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
旅致す者山中異人の家に泊まれる事
四話前に記した虚舟が、上方の方へ旅致いた折りのことという。
……さても、信濃や美濃の辺りにて、とある絶景絶佳の渓谷景勝の地に休ろうて、徐ろに懐中より矢立を取り出だいて、短冊に発句なんど認(したた)めて御座ったところ……我らが背に、突然、年頃四十ばかりの、大島の布子を着て山刀(やまがたな)を腰に差し、頭巾を被った男が立ち現われ、声をかけて参ったので御座る。……
「……御身は俳諧をお嗜みになられると拝見致す。……さても、今宵の旅宿を我ら御世話致さんと存ずれば……どうか切に、お立ち寄りあられんことを……」
と誘われて御座ったれば、拙者も願ってもないことと喜んで、かの者に従って御座った。……
……ところが、その後、そうさ、かれこれ三、四里ばかりも山中深く分け入って御座ったろうか……へとへとになった頃、やっとこさ、草深きうちに一軒家が御座った。
家内に誘われてみれば、妻子の出迎えあり、家居造作もこのような深山幽谷の内ながらも見苦しいものにてはこれなく、相応な構え。なれど、辺りには一軒の人家として、これなく、文字通り、山中の一つ家で御座った。……
……俳諧のことなんど、夜もすがら談笑の上、ささやかなれど食事も振舞って下され、夜も更けて御座ったれば、一と間なるところに導かれ、眠りに就いて御座った。……
……我ら、布団内にて思うたことは……
――この主人、一体、何者じゃろ?……自らは狩人と称したれど……鉄砲や弓なんどの一物も家内には、これ、見当たらなんだが――
と不審の種。……更に……
……すっかり夜更けてからも……度々表の戸から出入りする物音が致いて……ぱちぱちと木っ端の爆ぜる音……どうも、戸外にては大きなる焚き火を焚いて御座る様子……その焚き火にあたりながら、かの主人の誰やらと話す声が聞こえて御座った……が、その語り口は、さっきまで我らと語って御座ったのとはうって変わって、年老いた者とも思えぬきりりとした鋭い口調で御座った。……
――如何にも不思議な人物じゃ――
と思い始めて仕舞(しも)うた故……もう、目が冴えて仕舞いましての……その夜はよう寝られませなんだ。……
……程のう夜も明け、朝飯なんども戴き、改まって暇乞いの挨拶を致いた折り、思い切って、
「……御身は何を生業(なりわい)となさって御座らるるのか、の?……また、ここは、その、何という村内にて御座るのか、の?」
と尋ねてみましたが……
……どうも、口を濁して……はっきりとした答えは、これ、御座らなんだ……そのことを考え合わせると……さても、あの男、盗賊の――その元締め――首領首魁にても……御座ったものでしょうか?……
……なれど、前夜、談笑の折りには、自作の発句なんども見せ……俳諧談義の内には、相応の書を語り、またものなど書きすさぶ様は……それ程にては賤しく忌まわしき人とも、これ、見えず御座ったが……
「……翌日、見送りに山の麓まで案内(あない)して下され、そこで立ち別れて御座ったれど……何やらん、今に至るまで……不審、これ、晴れませぬのじゃ…………」
と語って御座った。