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2010/09/22

耳嚢 巻之三 鳥類其物合ひを考る事

「耳嚢 巻之三」に「鳥類其物合ひを考る事」を収載した。


 鳥類其物合ひを考る事

 有德院樣御代、熊鷹を獸にあわせ給ふ事有りしが、熊鷹その物合ひを考へし事感ずべしと古人の語りぬ。廣尾原にてありしや、飛鳥山にてありしや。狐一疋追出しけるに、熊鷹を合すべしとの上意也ければ、熊鷹は手に居へる事も成がたく、架(ほこ)に乘せてかの狐を合せけるに、狐を見たる計(ばかり)にて甚だ勢ひなく、狐の形チ見へざる程遠に迯延(にげのび)しにたたんともせざりしゆへ、公も本意(ほい)なく思召、御鷹匠(たかじやう)の類も殘念に見しに、最早狐見へざると思ふに、熊鷹翼を振つて虚空に空へ上りし。暫くありて一さんにおとし、貳拾町も隔候處にて右の狐を押へ取りけるとなり。勢ひの餘る處物合ひの近きをしりてかくありし。鳥類の智惠も怖しきもの也と咄しぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関: 鳥類の習性(特にその特異な知的行動)で直連関。

・「鳥類其物合ひを考る事」「鳥類其物合(ものあ)ひを考(かんがう)る事」と読む。「其物合ひを考る」とは、獲物としての対象との距離を測る、慮(おもんぱか)るの意。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。

・「熊鷹」タカ目タカ科クマタカ Spizaetus nipalensis。「角鷹」「鵰」などとも書く。以下、ウィキの「クマタカ」より引用する。『全長オス約75㎝、メス約80㎝。翼開長は約160㎝から170㎝。日本に分布するタカ科の構成種では大型であることが和名の由来(熊=大きく強い)。胸部から腹部にかけての羽毛は白く咽頭部から胸部にかけて縦縞や斑点、腹部には横斑がある。尾羽は長く幅があり、黒い横縞が入る。翼は幅広く、日本に生息するタカ科の大型種に比べると相対的に短い。これは障害物の多い森林内での飛翔に適している。翼の上部は灰褐色で、下部は白く黒い横縞が目立つ』。『頭部の羽毛は黒い。後頭部には白い羽毛が混じる冠羽をもつ。この冠羽が角のように見えることも和名の由来とされる。幼鳥の虹彩は褐色だが、成長に伴い黄色くなる』。『森林に生息する。飛翔の際にあまり羽ばたかず、大きく幅広い翼を生かして風を捕らえ旋回する(ソアリング)こともある。基本的には樹上で獲物が通りかかるのを待ち襲いかかる。獲物を捕らえる際には翼を畳み、目標をめがけて加速を付けて飛び込む。日本がクマタカの最北の分布域であり北海道から九州に留鳥として生息し、森林生態系の頂点に位置している。そのため「森の王者」とも呼ばれる。高木に木の枝を組み合わせた皿状の巣を作る』。『食性は動物食で森林内に生息する多種類の中・小動物を獲物とし、あまり特定の餌動物に依存していない。また森林に適応した短めの翼の機動力を生かした飛翔で、森林内でも狩りを行う』。『繁殖は1年あるいは隔年に1回で、通常1回につき1卵を産むが極稀に2卵産む。抱卵は主にメスが行い、オスは狩りを行う』。『従来、つがいはどちらかが死亡しない限り、一夫一妻が維持され続けると考えられてきたが、2009年に津軽ダムの工事に伴い設置された猛禽類検討委員会の観察により、それぞれ前年と別な個体と繁殖したつがいが確認され、離婚が生じることが知られるようになった』。『クマタカは森林性の猛禽類で調査が容易でないため、生態の詳細な報告は少ない。近年繁殖に成功するつがいの割合が急激に低下しており、絶滅の危機に瀕している』。『大型で攻撃性が強いため、かつて東北地方では飼いならして鷹狩りに用いられていた』。『クマタカは、「角鷹」と「熊鷹」と2通りの漢字表記事例がある。学術的には、学名(ラテン名)のみが種の名称の特定に用いられる。よって、学術的にどちらが「正しい」表記とはいえない。また歴史的・文学上では双方が使われてきており、どちらが「正しい」表記ともいえない。近年では、「熊鷹」と表記される辞書が多い。これは「角鷹」をそのままクマタカと読める人が少なくなったからであろう。ただし、鳥名辞典等学術目的で編集された文献では「角鷹」の表記のみである』。

・「廣尾原」現在の渋谷区麻布広尾町一帯の古称。但し、現在の港区に位置する広尾神社一帯もその地域に含まれる)。参照したKasumi Miyamura氏の「麻布細見」の「麻布広尾町」に、『この一帯は広尾原と呼ばれ、江戸初期までは荒野だった。延宝年間(16731681)頃になると、現在の有栖川宮記念公園の入り口あたりに百姓長屋ができており、それ以外は武家地と畑地になった。正徳31713)年に町方支配になった際に麻布広尾町と正式に称した。祥念寺前、鉄砲屋敷などの里俗称もあったという』とある。

・「飛鳥山」現・北区飛鳥山公園一帯の古称。ウィキの「飛鳥山公園」によれば、『徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園として知られる。吉宗の治世の当時、江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなく、花見の時期は風紀が乱れた。このため、庶民が安心して花見ができる場所を求めたという。開放時には、吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行った』。山とは言うものの、丘といった風情で『「飛鳥山」という名前は国土地理院の地形図には記載されておらず、その標高も正確には測量されていなかった。北区では、「東京都で一番低い」とされる港区の愛宕山(25.7メートル)よりも低い山ではないかとして、2006年に測量を行い、実際に愛宕山よりも低いことを確認したとしている』。因みに『北区は国土地理院に対し、飛鳥山を地形図に記載するよう要望したが採択されなかった』とある。

・「架」台架(だいぼこ)。鷹匠波多野鷹(よう)氏の「放鷹道楽」の「鷹狩り用語集」によれば、鷹狩の際、野外で用いるための止り木のことを言う。狭義には丁字形のものは含まず、四角い枠状のものを指すという。高さ五尺二寸、冠木(かぶらぎ:架の上にある枠状の横木。)四尺三寸。野架(のぼこ)。ここでは出先で用いるとある陣架(じんぼこ)の類かも知れない。

・「御鷹匠」享保元(1716)年の吉宗の頃を例に取ると、鷹匠は若年寄支配、鷹部屋の中に鷹匠頭・鷹匠組頭2名・鷹匠16名・同見習6名・鷹匠同心50名の総員約150名弱(組が二つで鷹匠以下が2倍)で組織されていた(以上は小川治良氏のHP内「鷹狩行列の編成内容と、中原地区の取り組み方」を参照させて頂いた)。

・「拾町」約2㎞180m

■やぶちゃん現代語訳

 鳥類は獲物との間合いを慮るという事

 有徳院吉宗公の御代、上様が角鷹(くまたか)を獣狩りに用いられたことが御座ったが、角鷹は、その習性、獲物を襲うに間合いを慮りしこと、誠(まっこと)感嘆致いたことで御座ったと古老の語った話で御座る。

 広尾原にてことで御座ったか、それともかの飛鳥山にてのことで御座ったか、失念致いたが、駆り立てる者どもが、叢より狐を一匹追い出したところ、即座に、

「角鷹を合わせてみよ。」

との御上意、これ、御座った。

 元来が大きな角鷹なれば、手に居(す)えることもなり難く、台架(だいほこ)に乗せて、かの狐の方(かた)に向き合わたところ、狐を見ているばかりで、その体(てい)、これ如何にも勢いなく、あれよあれよと言う間に、狐は、その姿が見えなくなってしまう程に遠くに逃げのびてしもうたにも拘わらず、一向に台架より飛び立つ気配もなき故、吉宗公も如何にも拍子抜けのことと思し召しになられ、周りに控えて御座った御鷹匠の者どもも恐縮しつつ、畜生のことなれば、ただただ残念なることと、諦め顔にて見て御座ったところ――もう狐が見えなくなってしまうと思うた頃、突如、この角鷹、翼を振って虚空高々と登って御座った――と――暫くして、一さんに舞い降りて来る――吉宗公の、

「馬引け!」

の声高らかに、者どもも徒歩にて続いて走り寄れば――何と二十町も隔てて御座った所にて、熊鷹がかの狐を踏み押え獲って御座ったということで御座る。

 その体躯巨大にして、力も並外れし角鷹なればこそ――その勢いが余る故に、獲物との間合いが余りにも近いことを自ずから視認致いて、かくの如き、仕儀と相成ったので御座った。

 ――――――

「……たかが鳥類、されど鳥類……その知恵なるものも、これ、怖しきものにて御座る……」

とは、その古老のしみじみとした言葉で御座った。

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