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2010/09/05

耳嚢 巻之三 御門主明德の事

「耳嚢 巻之三」に「御門主明德の事」を収載した。

 御門主明德の事

 いづれの御門主の御時にてや有けん。去る諸侯の家士不屆の事ありて死刑に極り、近き内に下屋敷にて其刑に行れんとありし時、彼罪人の親しかりしもの壹人の出家を賴み乘物供廻り等を拵へ、彼諸侯の許へ上野御使僧の由を以相越、助命御賴の由申入けるにぞ、早速大守(たいしゆ)へ申けるに、家法を侵す事其罪免しがたけれど、御門主御賴も無據とて助命して追拂ひに成りける。扨彼諸侯より使者を以、上野御本坊へ答禮ありしかば、元より御使僧出ざる事故、重(おもき)役人へ告たれども曾て知りし者なし。全く東叡山の使僧と僞り御門主の命を假しものならんと、其訳申上ければ、御門主被仰けるは、たとひ此方より使者を出さず共、上野の命といへば助(たすか)る事としりて、僞りかたり人の命を助しは則(すなはち)上野より助(たすけ)遣はせし也。御賴の趣承知にて悦入(よろこびいる)との挨拶なすべしとの仰せにて、其通り答へ濟しと也。法中の御身にはかくも有べき事と、親王の明德を各々感じけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:寛永寺御門主絡みであるが、内容は前項の裏返しで、しかも結末は同じく大団円という裏技のエピソード。組み噺しとして面白い。

・「御門主」上野東叡山寛永寺貫主。江戸の知識階級の間では東叡大王(とうえいだいおう:東叡山寛永寺におられる法親王殿下)と通称した。

・「壹人の出家」底本の鈴木氏注には前項に続いて三村鳶魚の注を引き、この人物を『世に伝ふる河内山宗俊の事なり』とする見解を提示する。河内山宗俊(生年不詳~文政61823)年)は江戸時代後期の茶坊主。以下、ウィキの「河内山宗春」から引用しておく。河内山宗春はこの実在の人物『およびそれをモデルとした講談・歌舞伎などの創作上の人物。歌舞伎・映画・テレビドラマなどの創作物では「河内山宗俊」と表記する。また「河内山宗心」とも』言う。『宗春は江戸出身で、家斉治世下の江戸城西の丸に出仕した表坊主であった。表坊主とは若年寄支配下に属した同朋衆の一つ。将軍・大名などの世話、食事の用意などの城内の雑用を司る役割で僧形となる。文化5年(1808年)から6年ごろ小普請入りとなり、博徒や素行の悪い御家人たちと徒党を組んで、その親分格と目されるようになったという。やがて女犯した出家僧を脅迫して金品を強請り取るようになった。巷説では水戸藩が財政難から江戸で行っていた富くじの経営に関する不正をつかみ、同藩を強請ったことが発覚し、捕らえられたというが、正式な記録はない。文政6年(1823年)捕縛された後、牢内で獄死』した。この死後、一種のピカレスク・ロマンとしての脚色が始まった(以下、記号の一部を変更し、脱字を補った)。『河内山は取調中に牢死したため申し渡し書(判決書)も残っておらず、具体的にどのような不正を犯して捕らえられたのかは分からない。しかしそのことがかえって爛熟した化政文化を謳歌する江戸庶民の想像をかきたて、自由奔放に悪事を重ねつつも権力者には反抗し、弱きを助け強きをくじくという義賊的な側面が、本人の死後に増幅していくこととなった。実録としては「河内山実伝」があり、明治初年には二代目松林伯圓が講談「天保六花撰」(てんぽうろっかせん)としてこれをまとめた。ここでは宗俊は表坊主ではなく、御数寄屋坊主(茶事や茶器の管理を行う軽輩)となっており、松江藩(松平家)への乗り込みと騙りが目玉になっている。さらに明治7年(1874年)には二代目河竹新七(黙阿弥)がこれをさらに脚色した歌舞伎の「雲上野三衣策前」(くものうえのさんえの さくまえ)が初演。さらに明治14年(1881年)3月にはやはり黙阿弥によってこれが「天衣紛上野初花」(くもにまごううえののはつはな)に改作されて、東京新富座で初演。ここで九代目市川團十郎がつとめた型が現在に伝わっている』とある。岩波版長谷川氏注では、この河内山の絡んだ水戸藩富籤不正事件から、『本章のような話が宗春に結び付けられたのであろう』と記されるが、その昔の勝新太郎のTVドラマで河内山宗俊が千両役者ばりの詐欺師の一面を持っていたことぐらいは、知っているが、私が馬鹿なのか、この説明、不十分に感じられ、どうしてそう言えるのかがよく分からない。なお、長谷川氏は更に『鈴木氏に薊小僧清吉にこのような犯行のあったことの指摘あり。同人処刑は文化二年(一八〇五)。』と記されている。薊小僧清吉とは鼠小僧次郎吉と並ぶ江戸で人気の儀賊。「すり抜けの清吉」の異名をとった神出鬼没の盗賊であったが、小塚原刑場で打ち首獄門となった。後の歌舞伎の白浪物や落語の鬼薊清吉のモデルである。

・「大守」古くは武家政権以降の幕府高官や領主を指すが、既に「諸候」とし、江戸時代には通常の国持ち大名全般をこう俗称したので、これは大名と読み替えてよい。

・「上野御本坊」寛永寺。

■やぶちゃん現代語訳

 御門主御明徳の事

 どの御門主の御代のことで御座ったか、さる大名諸侯の家士、不行き届きの儀、これ有り、吟味の上、死刑と相極まって、近い内にかの大名の江戸下屋敷にてその刑が執行されんとせし時、かの罪人と親しい者が、一人の出家に頼み込んで、乗物・供回りなんどを相応に拵え上げた上、かの諸侯のもとへ、

「――上野寛永寺御使僧(ごしそう)なり――」

と名乗って乗り付けると、厳かにかの家士の助命御依頼の向き申し入れたので、家人ども、慌てふためいて主人へ申し上ぐる。されば、御大名も、

「……家法を侵したるその罪、これ、許し難し……なれど……御門主の御頼みとなれば……致し方、御座らぬ……」

とのお達しにて、かの家士の命をお助けになられ、一等減じて、追放と相成った。

 ……ところが……

 さても後日、かの諸侯より上野寛永寺へ御使者を立てて、

「――御依頼の向き、有難くお受け致し、かの某なる者、死一等減じて追放と致せし――」旨、答礼致いたところ……

これを聞き及んだ役僧、もとより御使僧なんど出した覚えも、これ、御座ない――

この役僧、直ちに上役の僧侶に報告致いたところが……

さて、彼らも、かつて近頃、御使僧を遣わしたることなんどを知る者、これ、一人として御座ない――

「……全く以って東叡山の使僧と偽り、不届き千万不遜不敬にも御門主様御名を借り、たばかりし者に相違なし!……」

と、この由々しき一件につき、早速に御門主様に申し上げた。

 ところが、御門主様曰く、

「――仮令(たとい)こちらより御使者を出ださずとも――『上野の御命令』と言えば助かること知って、偽り騙(かた)り、人の命を救ったは――それでも、これ、則ち――『上野より助け遣わした』――ということで、おじゃる――『御依頼の趣御承知下されしこと、恐悦至極に存ずる』と挨拶しておじゃれ――」

との仰せにて、役僧は厳かに、その通りに答えて済ましたという。

 流石は法身の御門主なればこそ、かく御美事なる御言葉なれ、と親王の明徳に誰も深(ふこ)う感じ入ったということで、おじゃる――。

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