耳嚢 巻之三 上野淸水の觀音額の事
「耳嚢 巻之三」に「上野淸水の觀音額の事」を収載した。
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上野淸水の觀音額の事
上野清水(きよみづ)の觀音に、主馬(しゆめ)の判官(はうぐわん)盛久と見へて、大刀取(たちとり)の刀段々壞(だんだんゑ)と成りし繪馬あり。盛久の繪馬ならんと人々のいゝしに、堂守成僧かたりけるは、右繪馬を盛久と見給ふはさる事ながら、盛久にはあらず、あの繪馬に付物語りあり。去る大名の勝手方を勤ぬる武士、其役儀に付私欲の事にてもありしや、吟味に成て死刑に極る事也しに、彼妻深く歎き、日々清水の觀音へ詣ふで堂の廻りを百遍宛(づつ)廻りて一心不亂に祈りしに、髮形(かた)チ取亂し面(おも)テも垢によごれ其姿もやつれ果て、雨雪もいとわず日々歎きて祈けるを、或日御門主右の清水堂に詣ふで給ひて彼女の樣を見給ひ、いか成願ひなるやと人を以尋給ひしに、しか/\の由申けるにぞ、哀れに不便とおもひ給ひしや、御使僧(ごしそう)を以(もつて)彼(かの)諸侯のもとへ被仰遣(おほせやられ)けるは、何某事罪のやうは御存にあらず、極惡の事にもあらずば命を助け給へと御賴也けるにぞ、諸侯にても御門主の御賴無據、命を助け追拂ひに成しと也。其後かの妻ひとへに觀音の利益也と、其樣を繪馬として納たる也と語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:観音現世利益で直連関。しかし、根岸は必ずしも観音菩薩の利益を信じているという訳ではない気がする。
・「上野清水の觀音」現在も不忍池を見下ろす東の位置に建つ清水観音堂。法華堂や常行堂に遅れること4年、寛永8(1631)年に天台宗東叡山寛永寺の開山慈眼大師天海大僧正によって創建された。天海は平安京に於いて比叡山が御所の鬼門を鎮護したのに倣って、東叡山寛永寺を江戸城の鬼門の守りとして置いた上で、京都の著名な寺院に擬えた堂舎を次々と建立した中の一つが、この清水寺を模した清水観音堂であった。
・「主馬の判官盛久」以下、ここに登場する絵馬が、参詣した人々から、しばしば謡曲「盛久」等で知られる話を絵馬にしたものであろうと思われがちなのであるが、実はそうではない、という語りであるが、とりあえず謡曲「盛久」で知られる原話を注しておく。「盛久」とは平主馬(しゅめ)判官盛久(生没年未詳)のこと。平安末・鎌倉初期の武将で、平盛国の子、通称は主馬八郎。元暦2(1185)年壇ノ浦の戦いで平家が敗れた後、京都で捕らえられて鎌倉へ護送、由比ヶ浜にて斬罪に処せられんとしたところ、日頃より信心していた清水観音の加護で救われたと伝えられる。謡曲「盛久」については私は未見にて語り得ないので、高橋春雄氏の「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」の「盛久1 もりひさ」の「ストーリー」より引用する。『源平の乱後、主馬判官盛久は生け捕りにされ、土屋何某の手で鎌倉へ護送されることになります。途中、盛久は年来信仰した清水観音に暇詣でをすると、都を後に悲哀に満ちた海道下りの旅を続け、鎌倉に着きます』。『盛久は獄中で世の無常を思い、生き恥を晒すことよりも死を望みます。盛久に同情する土屋がこの暁か明夜に処刑だと知らせると盛久は観音経をこれが最後と讀誦います。やがて一睡の中に、老僧が盛久の身代わりになるとの夢の告げを被ります。明け方、盛久は金泥の経巻と数珠を持ち由比ヶ浜の刑場に引き出されます。太刀取が背後に回り刀を振りかざした途端、開いた経文の光が眼を射て、思わず落とした刀が二つに折れてしまいます』。『盛久はこの霊夢による奇跡のために頼朝から罪を許され、杯を賜り、所望された舞を晴れ晴れと舞い上げて退出して行きます。(「宝生の能」平11.2月号より)』とある。岩波版長谷川氏注によると、この伝説の原拠は長門本「平家物語」に基づくものという。近松門左衛門の浄瑠璃にも「主馬判官盛久」があり、この話、当時の人々にはよく知られた話であった。また、リンク先のストーリー解説の下には、写真入りで正にこの上野清水観音堂が掲げられ、ここ『の千手観音像は盛久の護持仏であったという』という記載がある。但し、ここで言う盛久の清水観音とは、本来は京都清水寺にあったものを指していると考えないと盛久の種々の伝承とは辻褄が合わない。底本の鈴木氏注には、この清水堂の、この絵馬について三村清三郎鳶魚翁の注を引き、『新撰東京名所図会に、守一筆にて、主馬判官盛久、由比が浜にて斬刑にあふ図は、寛政十二庚申七月とありと見ゆ、此の絵馬なるべし』とあると記す。
・「刀段々壞」勿論、先の注に附した霊験のシーンにも現れる台詞であるが、実はこの表現は実際の観音菩薩の霊験を讃える法華経の中にその通りに現れる言葉なのである。「法華経」普門品(ふもんぼん)にある「念彼観音力刀尋段段壊」(ねんぴかんのんりきとうじんだんだんえ)という偈(げ)である。これは、観音菩薩の深遠な御慈悲の力を祈念したならば、仏敵が切りかかけて来る刀でさえも紙を折るようにあっという間に幾つにも折れ落ちて、観音を信ずる者の身体万全であるという意味。
・「勝手方」幕府や大名の財務や民政を司った役を広く言う語。
・「御門主」上野東叡山寛永寺貫主。江戸の知識階級の間では東叡大王(とうえいだいおう:東叡山寛永寺におられる法親王殿下)と通称した。
・「罪のやうは御存にあらず」勿論、私はその武家の罪の具体的な内容に就いては全く以って御存知にては御座らねども、の意。「御」は自敬表現。訳では外した。
・「追拂ひ」追放・所払いのことであろう。この場合、諸候とあるから、現居住地であると思われる江戸だけではなく、その諸侯の領国への立ち入りも禁じられる内容であろうと思われる。但しこれが、幕府の追放刑の中でも最も重い「重追放」に準ずるものであったとすると、もっと自由移動が制限される。重追放は一般には関所破りや強訴(ごうそ)未・既遂者などに科された、死罪の次に重いもので、田畑や家屋は敷没収の上、庶民の場合は犯罪地+住国+江戸十里四方(日本橋から半径五里以内)の立ち入りや居住が禁じられた。武士の場合は犯罪地+住国に加えて関八州(武蔵国・相模国・上総国・下総国・安房国・上野国・下野国・常陸国。現在の関東地方にほぼ相当)・京都付近・東海道街道筋等も禁足地に加えられていた。にしても――人間至るところ青山あり――死にどころを選ぶことも出来、死ぬよりは――全く以ってマシである。
■やぶちゃん現代語訳
上野清水堂の観音の額絵馬の事
上野清水(きよみず)の観音堂に、主馬(しゅめ)判官(ほうがん)盛久の逸話を描いたと見えて、盛久と思しい、手を合わせた侍の後ろに立ったる斬首の太刀取りの刀が、美事、ばらばらになって折れておる絵馬が懸かって御座る。
これはもう、盛久八郎刀尋段段壊の絵馬であろう、とかつての私も含め、世間の人々は申して御座るが――これ――違う。
観音堂の堂守である僧が、以下のように語って御座った。――
……いや、かの絵馬を盛久八郎とご覧になるは、これ、ご尤もなることなれど、……実は盛久にてはあらず、……さても、あの絵馬には……さる謂われが御座るのじゃ。……
……さる大名の勝手方を勤めて御座ったさるお武家、その役儀につき、任された公金の横領なんどの罪にても御座ったものか……吟味の上、死罪と極まって御座った。……
……かの妻は……これ、深(ふこ)う嘆きましてな、……日々、この清水の観音へ詣で、堂の周りを毎日百遍ずつ廻っては一心不乱に祈って御座いました。……髪もすっかり崩れ、総髪振り乱して、面もすっかり垢に汚れ、窶(やつ)れ果てた姿となっても……これ、雨も雪も厭わず、……日々、泣き嘆き乍らも……観音に一心に祈りを捧げて御座った。……
……ある日のこと、ご門主さまが、この清水堂に詣でなされた折り、偶々かの女の様をご覧になられました。……
「あれは……一体、何を祈っておじゃるか……」
と、人を遣わせてお尋ね遊ばされました。……
……さても女はかくかくの謂い……それをお聴き遊ばされた御門主は……如何にも哀れに不憫なことと、お思いになられたので御座いましょう……お使いの僧侶をお立てになられ……かの武士の主(あるじ)たる大名諸侯のもとへ、仰せ遣わせになられました――
「――貴方勝手方何某のこと――如何なる罪かは存ぜぬものなれども――極悪の罪にてもないので御座れば、これ、命ばかりは、お救いあられんことを――」
との、御依頼にて御座ったとのこと。……
……さても、諸侯におかせられても、御門主のよんどころなき御依頼となれば、これ、致し方なく……かの男の命を救うてやり、罪一等減じて追放に処した、とのこと。……
……さても後日(ごにち)のこと、かの妻が参りましてな、
「――誠(まっこと)偏えに観音さまのご利益にて御座いました――」
と礼を述べて……この一件をこのように絵馬に仕立てて、かく奉納致いたので御座る……。