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2010/09/10

耳嚢 巻之三 利を量りて損をなせし事

「耳嚢 巻之三」に「利を量りて損をなせし事」を収載した

 利を量りて損をなせし事

 予が大父の召仕れしもの、後御先手組の同心を勤め牛込榎町に有りしが、彼邊の同心などは植木など拵へ好める人には價ひを取て遣しける類多し。彼者或日庭前を見廻りしに、柾木(まさき)のいさ葉一本あり。珍しからざる柾木ながら、其此いさ葉の流行はじめなれば、早速石臺へ移し植て養ひ置しに、鬼子母神參詣の道ゆへ、十月の頃門前人多く通りし内、彼いさ葉の柾木を見て調度(ととのへたき)由にて價ひを談じけれ共、今少し高く賣んと取合ざりしに、流行(はやり)出しの事故や、代り/\日々立入て直段(ねだん)をつけけるに、初は百錢、夫より段々上りて金百疋程に付る者有。元來酒を好みけるゆへ、哀れ酒錢の助けと大に悦び、何分貳分にもあらずば賣るまじきと思ひしに、或日地震(なゐ)して雨戸打かへり、彼柾木を損じ鉢も打割し故、大に驚き植直しなどせるが、聊の事にも果福のなきは是非もなく、右柾木枯て失ぬと彼者來りて語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:盆栽絡みで、欲を出して玉を失う話でも直連関。これは当人からの直談であるから主人公の落胆振りが失礼ながら、面白く伝わってくる。現代語訳では最後にその雰囲気を出してみた。

・「大父」祖父。諸注は注せず。22歳で末期養子に行った形式上の養父根岸衛規の父であった根岸杢左衞門衞忠のことか、それとも旗本であった実父安生太左衛門定洪の養父(彼も安生家への養子)であった安生彦左衞門定之かは不明。

・「後御先手組」先手組(さきてぐみ)のこと。江戸幕府軍制の一つ。若年寄配下で、将軍家外出時や諸門の警備その他、江戸城下の治安維持全般を業務とした。ウィキの「先手組」によれば、『先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した』者を由来とし、『時代により組数に変動があり、一例として弓組約10組と筒組(鉄砲組)約20組の計30組で、各組には組頭1騎、与力が10騎、同心が30から50人程配置され』、『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられた』とある。

・「牛込榎町」現在の新宿区の北東部、神楽坂の西に位置し、榎町として名が残る。「新宿東ライオンズクラブ」の記事によると、『古くは牛込ヶ村のうち中里村の一部ではなかったかと言われる。正保3年(1646)済松寺領となったが約百年後の延享2年町方支配となり、そのころこの地に十抱えもある大榎があったので、明治2年付近の寺地開墾地を合せて牛込榎町と名づけられた。この榎の大樹はどの辺にあったか定かでないが神楽坂から戸塚に向う往古の鎌倉街道すじにあたり、旅人の目印になったことであろう』とある(一部の誤字を修正した)。

・「柾木」双子葉植物綱ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキEuonymus japonicus。生垣や庭木としてよく植えられる。

・「いさ葉」斑入りの葉。マサキには斑入りのものもある。江戸時代は妙なものが爆発的に飼育栽培の流行を作った。

・「石臺」長方形の浅い木箱の四隅に取っ手を附けたもので、盆景に使用したり、盆栽を植えたりする植木鉢の一種。

・「鬼子母神」東京都豊島区雑司ヶ谷にある威光山法明寺(ほうみょうじ)。飛地となった境内の鬼子母神堂で有名。ウィキの「法明寺」によれば、『1561年(永禄4年)に山村丹右衛門が現在の目白台のあたりで鬼子母神像を井戸から掘り出し、東陽坊に祀ったのが始まりとされる。1578年(天正6年)に現在の社殿を建立したという』とあり、鬼子母神公式サイトによると、本文に記された十月には、現在は16日から18日にかけて、御会式(おえしき)大祭という本寺の最も大事な行事が行われる。御会式とは『もともと日蓮聖人の忌日の法会で、法明寺では1013日に宗祖御会式を行ってい』る『が、これとは別に毎年1016日~18日に鬼子母神御会式を営み、江戸時代から伝わる年中行事としていまも地域全体の人々が待ちわびる大祭となってい』るとあり、『たくさんの人々が一緒になって供養のお練りをするその3日間は、静かな雑司ヶ谷の街一帯に、太鼓が響き渡り、参道は露店で大にぎわいとな』って、『18日は西武百貨店前を出発し、明治通りから目白通りを経て鬼子母神堂へ向い、最後に日蓮聖人を祀った法明寺の祖師堂(安国堂)へとお参り』するとある。『「威光山」の墨書も鮮やかな高張り堤灯を先頭に、500の桜花を25本の枝に結んだ枝垂れ桜様の万灯が何台も練り歩くその様は、幻想的な秋の風物詩として親しまれてい』るともあり、本作の描写されない背景にそうした風物を配してみると、味わいもまた増す。

・「調度(ととのへたき)」は底本のルビ。

・「百錢」一銭=一文を1020円に換算すると、10002000円。

・「百疋」は一貫文(謂いは1000文であるが実際には960文)で、凡そ現在の1万5千円から2万円程か。

・「貳分」4分で一両であるから、3~4万円。

■やぶちゃん現代語訳

 利を量り過ぎ却って損をすることとなった事

 私の祖父に召し使われて御座った者、後に御先手組の同心を勤め、牛込町に住んでおった。あの辺りに住む同心連中は、己が家の庭に植木なんどを養い、好事家に売り渡しては、小遣い稼ぎをする類いなんぞが多い。

 ある日、その男、己が庭先を見回って御座ると、柾木(まさき)のいさ葉になって御座る一本が眼に入った。枝振りもこれといって珍しくもない柾木ではあったが、丁度その頃、いさ葉が市中流行り始めの折りでもあったれば、早速、石台(せきだい)に移し替えて、手入れをして御座った。

 この男の家はこれまた、雑司ヶ谷の鬼子母神参詣の道筋に当たって御座ったがため、十月の御会式(おえしき)の頃には、門前の人通り繁く、そのうちにこの柾木を垣間見、買いたき由、値を言い掛けてくる者も現れた。が、

『――今少し待てば、益々上がりおろう――今少し、今少し高(たこ)う売りたい――』

と思うて、一向に取り合わずに過ぎた。

 これがまた流行り出した頃のことでもあり、いや、もう毎日毎日、入れ替わり立ち替わり客が来ては、値段を付ける――初めは百銭――それよりだんだんに上がって金百疋程に付ける者とて現れた。

 この男、これがまた、元来が酒好きで、

「――こりゃ! 願ってもない酒代の助けじゃ!――」

と大いに喜び、

『――こうなったら――何分、二分程にてもあらざれば、売らんぞ!――』

とほくそ笑んで御座った。――

――ところが――

 ある日、地震(ない)が起きた――

 その揺れでばりばりと雨戸が外れた――

 外れたかと思うたら、それがあの大事大事の柾木の枝に――打ちかかってぼきりと折れた――鉢もまた、ぱっくり割れた――

「……びっくらこいて……植え直しなど致しましたが……いや、もう……たかが柾木……されど柾木……聊かの木の……ちょいと雨戸が倒れただけの、こと……それにても……禍福は糾(あざな)える繩の如きものにて御座いますなぁ……是非も、ない……柾木は……枯れてしまいました……」

と、訪れたその男が私に語った。

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