耳嚢 巻之三 秋葉の魔火の事
「耳嚢 巻之三」に「秋葉の魔火の事」を収載した。
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秋葉の魔火の事
駿遠州へ至りし者の語りけるは、天狗の遊び火とて遠州の山上には夜に入候得ば時々火燃て遊行なす事あり。雨など降りける時は川へ下りて水上を通行なす。是を土地の者、天狗の川狩(かわがり)に出たるとて、殊の外愼みて戸抔を建ける事なる由。いか成もの成哉(や)。御用にて彼地へ至りし者、其外予が召使ひし遠州の産抔、語りしも同じ事也。
□やぶちゃん注
○前項連関:前話では隠れているが、秋葉山連関である。
・「秋葉」秋葉山。現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家の赤石山脈の南端に位置する標高866mの秋葉山。この山頂付近に三尺坊大天狗を祀った秋葉寺があった。これは現在、秋葉山本宮秋葉神社(あきはさんほんぐうあきはじんじゃ)となっている。以下、ウィキの「秋葉山本宮秋葉神社」より引用する。本神社は『日本全国に存在する秋葉神社(神社本庁傘下だけで約800社)、秋葉大権現および秋葉寺の殆どについて、その事実上の起源となった神社である』。『現在の祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)。江戸時代以前は、三尺坊大権現(さんしゃくぼうだいごんげん)を祀(まつ)る秋葉社(あきはしゃ)と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺(あきはでら、しゅうようじ)とが同じ境内にある神仏混淆(しんふつこんこう)で、人々はこれらを事実上ひとつの神として秋葉大権現(あきはだいごんげん)や秋葉山(あきはさん)などと呼んだ。古くは霊雲院(りょううんいん)や岐陛保神ノ社(きへのほのかみのやしろ)などの呼び名があったという』。『上社参道創建時期には諸説があり、701年(大宝元年)に行基が寺として開いたとも言われるが、社伝では最初に堂が建ったのが709年(和銅2年)とされている。「秋葉」の名の由来は、大同年間に時の嵯峨天皇から寺に賜った和歌の中に「秋葉の山に色つくて見え」とあったことから秋葉寺と呼ばれるようになった、と社伝に謳われる一方「行基が秋に開山したことによる」「焼畑に由来する」などの異説もある』。『その後平安時代初期、信濃国戸隠(現在の長野県長野市、旧戸隠村)の出身で、越後国栃尾(現在の新潟県長岡市)の蔵王権現(飯綱山信仰に由来する)などで修行した三尺坊(さんしゃくぼう)という修験者が秋葉山に至り、これを本山としたと伝えられる。しかし、
1.三尺坊が活躍した時期(実際には鎌倉時代とも室町時代とも言われる)にも、出身地や足跡にも多くの異説がある
2.修験道は修験者が熊野、白山、戸隠、飯綱など各地の修験道場を行き来しながら発展しており、本山という概念は必ずしも無かった
3.江戸時代には秋葉寺以外にも、上述の蔵王権現や駿河国清水(現在の静岡県静岡市清水区、旧清水市)の秋葉山本坊峰本院などが「本山」を主張し、本末を争ったこれらの寺が寺社奉行の裁きを受けたとの記録も残されている
戦国時代より以前に成立した、三尺坊や秋葉大権現に関する史料が殆ど発見されていない
よって現状では、祭神または本尊であった三尺坊大権現の由来も「定かではない」と言う他はなく、今後の更なる史料の発掘および研究が待たれている』。『戦国時代までは真言宗との関係が深かったが、徳川家康の隠密であった茂林光幡が戦乱で荒廃していた秋葉寺を曹洞宗の別当寺とし、以降徳川幕府による寺領の寄進など厚い庇護の下に、次第に発展を遂げてゆくこととなった』。『徳川綱吉の治世の頃から、三尺坊大権現は神道、仏教および修験道が混淆(こんこう)した「火防(ひぶせ)の神」として日本全国で爆発的な信仰を集めるようになり、広く秋葉大権現という名が定着した。特に度重なる大火に見舞われた江戸には数多くの秋葉講が結成され、大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになった。この頃山頂には本社と観音堂を中心に本坊・多宝塔など多くの建物が建ち並び、十七坊から三十六坊の修験や禰宜(ねぎ)家が配下にあったと伝えられる。参詣者による賑わいはお伊勢参りにも匹敵するものであったと言われ、各地から秋葉大権現に通じる道は秋葉路(あきはみち)や秋葉街道と呼ばれて、信仰の証や道標として多くの常夜灯が建てられた。また、全国各地に神仏混淆の分社として多くの秋葉大権現や秋葉社が設けられた』(以下、近代史の部分は割愛した)。
・「駿遠州」駿河国と遠江国。駿河は現在の静岡県の大井川左岸中部と北東部に相当し、遠江は凡そ現在の静岡県大井川の西部地区に当たる。
■やぶちゃん現代語訳
秋葉の魔火の事
駿州遠州へと参った者が語ったことには、「天狗の遊び火」といって、遠州の山上にては夜になって御座ると、折々妖しい火がふらふらと飛び交うことがある。雨が降った折りなんどは、その火が山を下り川を下って、水面の上を通って行く。これを土地の者は『天狗が川狩りに出た』と言うて、殊の外恐々として謹み、戸を立てて外に出でるを忌む由。一体、これは如何なるものなのであろうか。御用にてかの地へ参った者以外にも、私が召し使っておった遠州生まれの者などが語った話も全く同様で御座った。
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