耳嚢 卷之三 孝童自然に禍を免れし事 《ブログ先行公開》
「耳嚢」の卷之三の好きな話柄を今日訳注した。映像的で頗る好きだから――正式公開に先立って本文と訳だけ、閃光、基、先行公開しよう。注は――お読みになる方に分からぬ言葉はこれといってない――何をつけたか? それは、また、その時のお楽しみということで――。そろそろ「卷之三」もゴール・ラインが見えてきた。
*
孝童自然に禍を免れし事
相州の事なる由。雷を嫌ふ民有しが夏耕作に出て留守には妻と六七歳の男子なりしに、夕立頻りに降り來て雷聲夥しかりける故、彼小兒、兼て親の雷を恐れ給ふ事なれば、獨(ひとり)畑に出てさこそおそろしく思ひ給わん、辨當も持行べきとて支度して出けるを、母も留めけれど聞ずして出行ぬ。彼百姓は木陰に雨を凌(しのぎ)て居たりしに、悴の來りければ大きに驚、扨食事など請取、雨も晴て日は暮なんとせし故、とく歸り候樣申ければ、小兒ははやく仕廻給へとて先へ歸りけるが、一ツの狼出て彼小兒の跡に付て野邊を送りける故、親は大きに驚、果して狼の爲に害せられんと、身をもみ心も心ならざりしに、又候嫌ひの雷一撃響くや否や、我子の立行しと思ふ邊へ落懸りし故、農具をも捨てかしこに至りければ、我子は行方なく狼はみぢんに打殺されてありし。定(さだめ)て我子も死しけるぞと、急ぎ宿に歸り見けるに、彼小兒は安泰にてありしと也。
■やぶちゃん現代語訳
親孝行な児童が自然と禍いを免れた事
相模国での出来事なる由。
雷嫌いの農民が御座った。
ある夏の日、耕作に出でて、留守には妻と、六、七歳になる男の子がおったが、沛然として夕立降り来たって、雷鳴も夥しく轟き渡った。
すると、かの童(わらべ)、以前より父親(てておや)の雷を嫌うておるを知れば、
「お父(とっ)つあんは神鳴りを恐がりなさるご性分なれば、ひとり畑に出でて、さぞ怖(こお)うてたまらずにおらるるに違いない。おいらが夜食の弁当持て行きたれば、少しは心強くもあられん。」
と言い、雨中の支度を致いて出でんとする。
母はあまりの豪雨雷鳴の凄まじさに留めんとしたれど、子はその制止を振り切って家を出でて御座った。
父なる百姓は、丁度、畑脇の木陰に雨を凌いでおったのじゃが、倅が参ったのを見、大いに驚きもしたが、また、言わずとも分かる倅の孝心に、心打たれもして御座った。
遅い弁当を受け取って、漸く雨も晴れ、今にも日が暮れなずむ頃と相成って御座った故、
「……さあて、暗うなる前に、早(はよ)う、帰り。」
と坊の頭(かしら)を撫でて、家の方へと押し送る。
「……お父つあんも……お早うお帰り!」
とて、先に独り家路へとつく。
少ししてから、鍬を振るって御座った父親(てておや)が、子の帰って行く方を見てみた――。
……夕暮れ……小さな子の小さくなりゆく後姿……と――
――そのすぐ後ろの林の暗がりより――一匹の狼が現れ出で、我が子の跡追うて野辺を走ってゆくのが目に飛び込んできた。……
父親(てておや)、真っ青になって、
「……!……このままにては……!……狼に、喰わるるッ!……」
と身悶えし、心ここになきが如く、直ぐ、我が子のもとへと走らんと致いた、その時――!
――ピカッビカッッ!
突如! 閃光一閃! 辺りが真っ白になったかと思うと! 間髪居れず!
――バリバリバリバリ!!! ズゥゥゥゥン! ドォオォォン!!!――
――と、見たことも聴いたことも御座らぬような怖ろしき雷電と神鳴り! うち轟くや否や……
……勿論、父親(てておや)は神鳴り嫌いのことなれば、惨めにも、その場に団子虫の如く丸まって御座ったが……
――が!――
――その蹲る刹那の景色!――
――はっと気づくは!――
――その神鳴り!――
――今!――
――正に!――
――我が子が歩いておった思う方へ!
――落ちたじゃ!!!……
……父親(てておや)は泡食って鋤鍬を投げ捨て、子がもとへと駆けつけた……。
………………
……しかし……そこには最早……我が子の姿……これ、なく……ただ……神鳴りがために無二無三に焼け焦げ……完膚無きまでに八つ裂きされた……黒焦げばらばらの……狼の死骸が御座ったばかりであった…………。
………………
……父親(てておや)、
『……定めし……倅もともに……神鳴りに打たれ……打ち殺されて……微塵にされた……』
と絶望のあまり、狂うた如、狼の吠え叫ぶが如、泣き喚(おめ)いて家へと走り戻ったのじゃった……
……………
……と……
家の戸口で、
「……お父つあん! お早う! お帰り!」
と、倅が満面の笑顔にて、父を待って御座った、ということで御座ったよ。