耳嚢 巻之三 其分限に應じ其言葉も尤なる事
「耳嚢 巻之三」に「其分限に應じ其言葉も尤なる事」を収載した。
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其分限に應じ其言葉も尤なる事
有德院樣御代いづれか、國家の家法の菓子を御聞及にて【此御家の儀、細川ともいへ共、又阿波土佐兩家の内ともいふ。聞きけれ共忘れ侍りぬ。】御所望ありければ、則自身附居(つきゐ)制作有て獻じけるに、殊の外御稱美にて召上られしと聞、其諸侯殊の外悦び、老中迄御禮として罷出で、二心なきものと思召御膳に相成難有と申されけると也。國持ならでは難申言葉にてありき。
□やぶちゃん注
○前項連関:大身の食味連関。
・「有德院樣御代」「有德院」は八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。吉宗の将軍在位期間は享保元(1716)年~延享2(1745)年。
・「國家」とある『国』持ちの大名『家』の御『家』中の意。
・「細川」近世に於ける細川家は肥後細川家で豊前小倉藩、肥後熊本藩主家を指す。吉宗将軍在位中とすると、第4代藩主細川宣紀(のぶのり 延宝4(1676)年~享保17(1732)年)か、第5代細川宗孝(むねたか 正徳6(1716)年~延享4(1747)年)の何れかである。
・「阿波土佐兩家」「阿波」は徳島藩蜂須賀(はちすか)家。前注同様に調べてみると、第5代藩主蜂須賀綱矩(つなのり 寛文元(1661)年~享保15(1730)年)か、第6代蜂須賀宗員(むねかず 宝永6(1709)年~享保20(1735)年)の何れかである。「土佐」は土佐藩山内(やまうち:主家は「やまうち」、分家は「やまのうち」と読む。ルーツはかの有名な山之内一豊。)家。この場合は、第6代藩主山内豊隆(延宝元(1673)年~享保5(1720)年)、第7代山内豊常(正徳元(1711)年~享保10(1725)年)、第8代山内豊敷(とよのぶ 正徳2(1712)年~明和4(1768)年)の三人の内の何れかとなる。
・「國持」国持ち大名。江戸時代に主に大領国を持ち、御三家に次ぐ家格を有した大名を言う。国主と同義。以下、ウィキの「国主」より引用する。『江戸幕藩体制における国主(こくしゅ)は、近世江戸時代の大名の格式のひとつで、領地が一国以上である大名を言い、国持大名とも言う。また、大名家をその居地・居城から格付けする国主(国持大名) - 準国主 - 城主 - 城主格 - 無城(陣屋)のうちの一つ。ここでは国主・準国主について記述する。大国守護でありながら管領や御相伴衆にならない家柄をさす中世室町時代の国持衆が語源』。
『陸奥国・出羽国についてはその領域が広大であることから、一部しか支配していない仙台藩(伊達氏)・盛岡藩(南部氏)・秋田藩(佐竹氏)・米沢藩(上杉氏)を国主扱いにしている。また肥後国には熊本藩の他に人吉藩や天草諸島(唐津藩領、島原の乱以後は天領)があったが、熊本藩を国主扱いにしている。逆に、国の範囲が狭少であることから壱岐一国一円知行の松浦肥前守(平戸藩)、志摩一国一円知行の稲垣和泉守(鳥羽藩)はそれぞれ国主・国持とはされない。小浜藩(酒井氏)は若狭一国および越前敦賀郡を領するも本家である姫路藩酒井氏との釣り合いから国持とはされない(ただし酒井忠勝は徳川家光により一代限りの国持となったとされる)』。『また、大身であっても徳川御三家、松平肥後守(会津藩)、松平讃岐守(高松藩)、井伊掃部頭(彦根藩)も国主・国持という家格には加えない』。『また、一部に四品に昇任する家系を国主格ということもある』。以下、「国主・国持大名の基準」として3点が掲げられている。『1.家督時に四品(従四位下)侍従以上に叙任。部屋住の初官は従四位下以上で、五位叙任のない家。』『2.参勤交代で参府・出府時、将軍に拝謁以前に上使として老中が大名邸に伝達にくる栄誉をもつ家。』『3.石高での下限は確定できない。』但し、例外もある、とあり、更に本話絡みでは『国主・国持大名のうち、山内家を除く松平姓の家と室町幕府の重臣であった細川家・上杉家は世嗣の殿上元服・賜諱(偏諱の授与)がある』という付帯説明がある。
・「二心なきものと思召」ここに示された三家は皆、譜代ではなく、外様大名である。そこから、かく言ったものである。
■やぶちゃん現代語訳
その身分に応じてその謂いに用いられる言葉も尤もなる使われ方を致すという事
有徳院吉宗様の御代の――
……何時の頃のことで御座ったか……定かにては覚えて御座らねど……
とある国持ち大名の、その御家中にて、その製法が伝授されて御座った名物の菓子につき、その評判を、上様がお聞遊ばされ――
……さても……この大名家についても、拙者……細川家と言うたか……はたまた阿波蜂須賀家とも土佐山内(やかうち)家の御家中とも言うたか……実は、しかと聞いて御座ったれど……はっきり申して忘れ申した。……悪しからず……
是非食してみたきとの御所望にてあられたので、即座に、当主自ら菓子調製に付き添い、製造の上、早速に上様へ御献上申したところ、殊の外の御賞美の上に、大層御満足気にてお召し上がりになられた、とのことで御座った。
それを伝え聞いた、その大名諸侯も、殊の外に悦び、老中まで御賞美なされしことへの御礼として罷り出でて、
「――上様におかせられましては、我らに二心なきものと思し召しになられ、御膳に、かの不調法なる菓子をさえ登らせ給えること、これ誠(まっこと)有り難きこと。――」
と申し上げなさったとのことで御座る。
『二心なき』とは、流石は外様なれど国持の大名ならではの、申し難き御言葉にて御座られたことじゃ。