耳嚢 巻之三 任俠人心取別段の事
「耳嚢 巻之三」に「任俠人心取別段の事」を収載した。
この話も、好き。
この爺さん役、やってみたい。
格好(かっこ)ええなあ!
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任俠人心取別段の事
椛町(かうぢまち)に何某といへる、處の親分と唱ふる者あり。年も五十餘にて小さき男成が、椛町十三町は勿論、芝邊迄の男立る若者共は、其健男(をとこだて)をしたひ尊(たつと)びける。然るに神田下町の者どもは、山の手組とて椛町の邊をばいやしみ別格の仲間也し。或時山王祭禮の時、祭禮の屋台藝者の乘りしを所望なしても、下町の組の分は取合ず、等閑(いたづら)也とて若き者共腹立て、當年は是非所望なして藝をせずば仕方ありといひけるを、彼老夫聞て、さありては口論喧嘩をなすより外の事なし。我等に任せよ仕方ありとて、祭禮の當日町の木戸口に出で下町の祭り渡り懸りし時、藝を所の衆所望也學び見せ給へと所望なしければ、例の通等閑の挨拶也ければ、我等今日は申出ぬれば是非所望也。左なくば此道通しがたしといひければ、下町の者共も、老人のいらざる事也、天下の往還御身壹人留め給ふとて通らぬ譯やあるなど申ければ、然るうへは仕方なし、此上を通りて我を車にかけて引殺し通るべしと、木戸の眞中に仰向に臥したり。色々引除(ひきのぞき)なんとしけれ共曾て承知せず。依之(これにより)下町組よりもおとなしき者出て、老仁の好み藝をなし候へとて、逸々(いちいち)に其藝を施し通りけると也。死を先にするものには仕方なからん、かゝる老健(おいだて)もある者と語り笑ひぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:老練の智者の才覚で連関。「木戸の眞中に仰向に臥した」る姿の鯨の如き鯨風ならぬ芸風にてもイメージ直連関!
・「心取」辞書には、機嫌をとる、ご機嫌取りのこととあるが、根岸の場合、所謂、深謀遠慮によって、人の心を素早く正確に読み取り、それに最も最適の行動をいち早くとれることに用いることが多い。ここはそこまで大仰に言わずとも、企略ぐらいな意味でよいと思われる。
・「椛町」「椛町十三町」東京都千代田区の地名。古くは糀村(こうじむら)と呼ばれたと言われる。『徳川家康の江戸城入場後に城の西側の半蔵門から西へ延びる甲州道中(甲州街道)沿いに町人町が形成されるようになり』、それが麹町となった。現在残る地域よりも遥かに広大で、『半蔵門から順に一丁目から十三丁目まであった。このうち十丁目までが四谷見附の東側(内側)にあり、十一~十三丁目は外濠をはさんだ西側にあ』り、現在の新宿区の方まで及ぶものであった(以上はウィキの「麹町」を参照し、岩波版の他の話柄の長谷川氏注を加味して作成した)。
・「芝」現在の東京都港区東部の地名。JR田町駅及び地下鉄三田駅を中心とした一帯。麹町からは南方に有に2~3㎞以上隔たっている。
・「山の手組」江戸時代の御府内にあって江戸城近辺の高台の、主に武家が居住した地域を「山の手」と呼び、低地に広がった商工業を中心とする典型的な町人が居住した町を「下町」と呼んだ。代表的な山の手は番町・麹町・平河町・市谷・牛込・四谷・赤坂・麻布・本郷・小石川などで、逆に下町の方は日本橋・京橋・芝・神田・下谷・浅草・深川・本所など。
・「山王祭禮」山王祭。東京都千代田区にある正式名称日枝神社大祭の通称。以下、ウィキの「山王祭」から引用する。『毎年6月15日に行われており、天下祭の一つ、神田祭、深川祭と並んで江戸三大祭の一つとされている』。『日枝神社は既に南北朝時代から存在したとも言われているが、太田道灌によって江戸城内に移築され、更に江戸幕府成立後に再び城外に移されたといわれている。とはいえ、同社が江戸城及び徳川将軍家の産土神と考えられるようになり、その祭礼にも保護が加えられるようになった』。『元和元年(1615年、寛永12年(1635年)とする異説もある)には、祭の山車や神輿が江戸城内に入る事が許され、将軍の上覧を許されるようになった。天和元年(1681年)以後には、神田明神の神田祭と交互に隔年で行われる事になった』。『江戸の町の守護神であった神田明神に対して日枝神社は江戸城そのものの守護を司ったために、幕府の保護が手厚く、祭礼の祭には将軍の名代が派遣されたり、祭祀に必要な調度品の費用や人員が幕府から出される(助成金の交付・大名旗本の動員)一方で、行列の集合から経路、解散までの順序が厳しく定められていた。それでも最盛期には神輿3基、山車60台という大行列となった。また、後に祇園会と混同されて、江戸を代表する夏祭りとして扱われるようになった』。『そんな、山王祭も天保の改革の倹約令の対象となって以後衰微し、文久2年(1862年)の祭を最後に将軍(家茂・慶喜)が上方に滞在し続けたまま江戸幕府は滅亡を迎えたために天下祭としての意義を失った。続いて明治22年(1889年)を最後に市街電車の架線によって山車の運行が不可能となった。更に太平洋戦争の空襲によって神社が焼失し、昭和27年(1952年)まで中断されるなど、苦難の道を歩む事になりながらも今日まで継続されている』。現在の『大祭は神田祭と交互で毎年西暦偶数年に行われる。内容は神田祭と類似する』とある。冒頭の『6月15日に行われており』という記載と一見矛盾しているように見えるが、これは神田祭のある年には神幸(しんこう:神霊が宿った神体や依り代などを神輿に移したものを地域の氏子内への行幸や元宮への渡御などを行うことを言う。)を出さない陰祭(かげまつり)が行われているからである。この件で参照した「日本大百科全書」(小学館)には更に現在は『3基の本社神輿が茅場町の御旅所へ神幸する形式だが、もとこれに供奉して江戸末期には60基を超えた山車・練物も、たび重なる震災・戦災でほぼ消失し、現在では多数の町神輿主体の祭礼に変化している』とあり、この記載で往時の盛況が分かる。根岸の時代には既に隔年開催になっていたから、本話柄の前の年かこの年かのどちらかは大祭ではなかった。
・「藝者」これは芸妓の意味ではなく、広く音曲歌舞に優れた芸人の意。山車(だし)に載る音曲をこととする男のことを指して言っているものと思われる。
・「木戸」江戸のそれぞれの町々には出入り口があり、そこに木戸が設けられて、治安のため、夜は木戸の傍の番小屋にいる木戸番(「番太郎」又は「番太」と呼ばれ、通常は2名、老人が多かった)によって夜の四ツ時(午後10時頃)には閉じられた。原則、通行禁止であったが、時間外で通過するための潜り戸が附属しており、医師や取り上げ婆などはそのまま、他の者も木戸番に一声かければ通行出来た。実際には木戸番自体の勤務がルーズで熱心でなく、セキュリティとしての機能は必ずしも高いものではなかった。なお、それぞれの町の中の各長屋にも、通常は私的な木戸が設置されていた。
・「逸々(いちいち)」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
男っぷり良き任俠はその企略も格別なる事
麹町に、町内(まちうち)の町人どもから『親分』と呼ばれておった、何某という者が御座った。
年はそう、五十余りにて、見た目はただの小男ながら、『親分』の呼び声は麹町全十三町は勿論のこと、遠く芝の辺りにまで名を轟かせ、それらの町々の男ぷりを気取る若造どもから大いに慕われ、絶大なる尊敬を集めて御座った。
さて片や、神田下町の町人どもは、この麹町辺の者どもを称すに、『山の手組』と言うて、殊の外に賤しみ、己れらを正真正銘の江戸っ子、『山の手組』の町人どもは山の手なれど江戸っ子の風上にも置けない弱尻りの別格よ、と見下して御座った。
ある年の山王祭りでのこと、山車(だし)が麹町まで回って来た際、その山車に乗って音曲を披露するところの芸人――これは当然、氏子であった下町の者らから出て御座ったが――に、麹町の見物の町人が芸を所望致いた。
ところが、山車の内の下町の者どもは皆、これを無視して取り合わず、そのまま行過ぎてしまった。
「あんまりじゃねえか!!」
麹町の若者ども、以ての外に腹を立てた。
その翌年、例祭が近づくにつれ、
「今年は是が非でも所望の上、音曲をやらせるぜ!」
「おう! それでもやらねえとなりゃよ、こっちとら、黙っちゃいねえさ!!」
と口々に憤懣をぶち上げる。
と、これを聞いた、かの老親分、
「――て前(めえ)ら、そんな勢いじゃ、口論喧嘩になるほか、あるめえ。――どうでえ、一つ、俺に任せろや。――俺に考(かんげ)えがある……。」
と言う。流石に親分の言葉なれば、若い衆も従(したご)うた。
さても祭礼の当日、老爺は麹町の木戸口に出でて、神田下町の山車が渡りかかるのを待って、やおら声をかけた。
「――所の衆、芸を所望致いておる。――一つ、ご披露頂きとう御座る。――」
と丁重に所望致いたが、例の通り、下町の奴(きゃつ)ら、
「厭なこった。」
と応対も如何にもぞんざい、けんもほろろ。
……と……
「……俺が――見たいと申して――おる。……さもなくば、この道――通せねえ、な。」
と妙に静かに言うたが、売り言葉に買い言葉で、下町の者どもも、
「爺(じじい)は、すっ込んでろい! 天下の大道、お前(めえ)さん一人がとうせんぼなさったからって、よ、通れねんなんてことが、あろうはず――えへへ! これ、ありんせんヨ!」
などとちゃかして応ずる。
……すると……
「……そうかい……そうまで言うかい――じゃ、仕方がねえ。――この上通って行ってくんな!――おう! この俺を車に轢(ひっか)け、轢き殺して通るがいい!――」
と言うや、老爺、往来の、その木戸の、まさにそのど真ん中に両手足をぴんと伸ばして仰向けになって寝転がって御座った。
これを見た下町の者ども、何人もが寄ってたかって、無理矢理起こそうとしたり、引き除けようとしたり、色々試みて御座ったれど、これがまあ、いっかな、動かぬ!――嚇したり賺(すか)したり致いて御座ったが、これ、承知せず、何としても動かぬ!――
山車もだんまり――爺もだんまり――これじゃあ、目出度い祭りも形(かた)なし……ということで、神田下町衆からも、かの老爺と年相応の者が山車の前に出でて、
「……かの親爺殿のお好みじゃ……芸を御披露申し上げい!」
と命じる。
かくして、麹町十三町を通り抜くるに、神田下町の山車から、いちいちの町々にて芸を披露しつつ、通り抜けて御座ったとのことである。
棺桶に片脚突っ込んだよな爺(じじい)――これは、失言!――命を捨つる剛毅の者をば、我ら、相手には、これ、出来申さざるものなれば、かくも老いてますます剛健の男伊達もある者じゃ、と世間にても談笑の語り草ともなって御座ったよ。

