耳嚢 巻之三 本庄宿鳥居谷三右衞門が事
「耳嚢 巻之三」に「本庄宿鳥居谷三右衞門が事」を収載した。
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本庄宿鳥居谷三右衞門が事
本庄宿(ほんじやうしゆく)に仲屋三右衞門といへる商人ありしが、凶年の節宿内近村の困窮を救ひ、往還の助とて往來の道并(ならびに)橋を自分入用を以取計ひ、御代官蓑笠之助(みのかさのすけ)申出し故、予御勘定組頭を勤て道中方を兼帶なせし頃、安藤彈正少弼(せうひつ)道中奉行の節取扱有之、伺の上名字帶刀御免にて御褒美被下(くだされ)し者なり。右三右衞門は、元來通り油町仲屋といへる呉服店に丁稚より勤て重手代(おもてだい)に成りしに、右仲屋亭主幼年に成て、身上(しんしやう)大きに衰へたち行きがたき時節ありしに、彼三右衞門其主人に申けるは、當年は自身上京の上、引け物計(ばかり)を仕入持下り候樣致さるべしと申教へ、主人其通りなしけるに、下直(げじき)の引物を關東にて賣捌(うりさばき)しに利なきにしもあらざる上、三右衞門自身上京して彼問屋に申けるは、若輩の主人直々に仕入に登りしが、いかなれば引物計を賣渡し給ふやと六ケ敷(むつかしく)申けるに、問屋にても主人の好みに任せ候由答へければ、いやとよ主人は若輩幼年と申べき者也、右幼年の者縱令(たとひ)申候へばとて引物計り附屬し給ふ事、年久敷(ひさしく)馴染の問屋にはあらずと申ける故、其理に伏し年久敷取遣(とりやり)なせし問屋なれは、不殘損をなして別段に代物を下しける。これによりて大きに利德を得(え)仲屋を取直し、其身も相應のもとでを貰ゐて本庄宿へ引込、呉服其外諸品の商ひなして、今本庄宿其外近邊に鳥居三右衞門といひては知らざる者なし。右の者暖簾の印
如此(かくのごとく)付しも彼三右衞門工夫の由。如何成譯やと人の尋しに、中屋は家名也、かくの如く書(かき)ぬれば虱(しらみ)といへる文字也、虱はよく殖へて盡ざる物也といひしと其邊のもの語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:吝嗇から殖産で連関。「暖簾の印」『¬中ム』は底本の画像で示したため、原文が途中で分断された。御容赦願いたい。
・「本庄宿」中山道六十九次のうち江戸から十番目の宿駅。以下、ウィキの「本庄宿」より引用する。『武蔵国児玉郡の北部国境付近』『に位置し、武蔵国最後の宿場。現在の埼玉県本庄市に当たる。江戸より22里(約88km)の距離に位置し、中山道の宿場の中で一番人口と建物が多い宿場であった。それは、利根川の水運の集積地としての経済効果もあった。江戸室町にも店を出していた戸谷半兵衛(中屋半兵衛)家は全国的に富豪として知られていた』と、正に本話柄の人物が引かれている。これはとんでもない大富豪にして篤志家なのであった。
・「鳥居谷三右衞門」これはやや屋号が異なるが、前注の引用に現れる富豪『戸谷半兵衛(中屋半兵衛)』、初代戸谷半兵衛光盛(元禄16(1703)年~天明7(1787)年 通称戸谷三右衛門)のことである。以下、非常に優れた記載であるウィキの「戸谷半兵衛」から引用する(記号の一部を変更した)。『18世紀から19世紀の本庄宿の新田町(現在の本庄市宮本町と泉町の辺り)に店をかまえ、代々戸谷半兵衛を襲名していた豪商であり、宿役人。店の名の「中屋」にちなんで中屋半兵衛とも呼ばれた(こちらの名の方が認知度は高い)。中半の略称でも親しまれている。中山道で最大の宿場である本庄宿の豪商として全国的に名の知れた商人であった。本店は本庄宿の「中屋」であるが、江戸室町に支店である「島屋」を持ち、代々京都の方の商人とも付き合っていた為、その人脈はかなり広く、才能にも、度胸(行動)にも優れていた(京都にも支店はあった)。中屋は、太物、小間物、荒物などを商った。戸谷家は、経済面の救済だけでなく、文化面でも影響力が強い一族であり、関東一の豪商ともされる。大名への貸し金も多額であった。しかし、その返済は滞り、未回収金は数万両に及び、この為、安政5年(1858年)頃より、幕府への御用金納入に支障をきたし、名字帯刀を取り上げられ、さらに家財闕所等の処分を受けるが、明治期には回復した』。以下、歴代の当主。まず本話の主人公初代戸谷半兵衛光盛について(本話についての叙述がある)。『通称を戸谷三右衛門(1703年 - 1787年)と言い、元禄16年に五代目戸谷伝右衛門の次男として生まれる(光盛は諱)。彼については18世紀末~19世紀の随筆「耳袋」にも記されており、その豪傑ぶりと知名度の高さがうかがえる。但し、「耳袋」は噂をもとに記述されている為か、戸谷を鳥居と記述しているなど、明らかな誤表記が目立つ。「耳袋」の記述によれば、三右衛門は元々通り油町の仲屋と言う呉服店に丁稚(でっち)から勤め、重手代にまで登りつめた人物とされ、その後、成功して、呉服やその他諸品を商ったとされる。多くの活動が認められ、公での名字帯刀を許されていた。中屋の暖簾印である¬中ム(縦に並べて書く)は三右衛門が考えたもので、『中』は家名の中屋を意味し、こう書く事によって、『虱(シラミ)』と言う字になる。印の意味を訊ねられた三右衛門は、「シラミはよく増えて絶えないから」と答えたと言う。「商家高名録」の中で中屋の暖簾印を確認する事ができる(ムと言うより中の字の下に△)』。『明和8年(1771年)に久保橋、安永2年(1773年)には馬喰橋を自費で石橋に掛け替え、天明元年(1781年)には神流川に土橋を掛け、馬船を置き無賃渡しとした。天明3年(1783年)の飢饉時には麦百俵を、また、浅間山噴火による諸物価高騰の際には貧窮者救済金を拠出する等の奇特行為により、名字を子孫まで許される(帯刀については一代限り)。天明7年(1787年)に85歳にして没する』。『「耳袋」や「新編武蔵風土記稿」では、光盛(みつもり)ではなく、三右衛門の通称で記述されているが、隠居後も活躍し続けた事で、三右衛門の名の方が世間では有名となった為である。「耳袋」では中屋三右衛門の名で記載されている』。次に二代目戸谷半兵衛修徳。『延享3年(1746年)に三右衛門の三男として生まれたが、兄弟が若くして没していった事で、二代目を継ぐ事となる。継いでからわずか3年目(安永4年に30歳)にして没し、父である光盛が健在であった事からも業績はよく知られていない。妻の常は内田伊左衛門の娘で俳諧を嗜んだとされる』。次に三代目戸谷半兵衛光寿。『通称を戸谷双烏(1774年 - 1849年)と言い、幼名を半次郎。2歳の頃に父が没した為、祖父と義父(横山三右衛門)の後見により家業振興に没頭し、若いながらも中屋の隆盛期を築く(その祖父も13歳の頃に亡くなる)。義父の助力によって商才を研かれたとされる。10代半ばより俳諧の才能を発揮し、高桑蘭更(京都東山に芭蕉堂を営む)や常世田長翠に師事した。俳号を紅蓼庵双烏と称した。師の一人であった常世田長翠は、その縁からのちに双烏が建てた小簔庵(こみのあん)に招かれ、8年間にわたり、本庄宿に滞在する事となり、中央俳壇が本庄宿を根拠地にして活動した。その為、本庄宿では商人にして俳人と言った人物が増えた。彼も祖父と同様に公での名字帯刀を許された。また、信心深く、京都の智積院の境内に石畳を、江戸の真福寺には常夜灯を寄進している』。『彼の代で、江戸に出店2軒、家屋敷は江戸に22か所、京都に3か所を所有。「関八州持丸長者富貴鑑」「諸国大福帳」などに名を連ねる豪商となる。その財は、立花右近将監、松平出雲守、鍋島紀伊守などへの大名貸しだけでも15万数千両(現在の価値にして60億円以上)に及ぶ』。『寛政4年(1792年)に、陸奥、常陸、下総の村々へ小児養育費として50両、文化3年(1806年)には公儀へ融通金千両、文化13年(1816年)に足尾銅山が不況におちいった際には、森田豊香らと共に千両を上納し、困窮者の救済にあたり、足尾銅山吹所世話役に任命された。この他、文政4年(1821年)には岩鼻代官所支配村々の旱魃救援金百両を拠出、また、基金を献金して伝馬運営の資金に充て、神流川無賃渡しも継続。数々の慈善事業をし、名字帯刀を許された』(以下、三代目以降の更に詳しい事蹟が記されるが割愛する。但し、三代目は強い文人気質の持主であったことは特筆に値するので、リンク先及び以下の叙述を参照されたい)。『戸谷半兵衛家は代々豪商にして慈善家でもあり、三右衛門(初代半兵衛)は天明の大飢饉の時に土蔵の建設を行い、手間賃と米を給した。現在、その土蔵は本庄の千代田1丁目4番地に残され、この土蔵を「天明の飢饉蔵」と言う。また、双烏(三代目半兵衛)は旅人の安全の為、神流川の渡しに高さ3mもする豪華な常夜燈を寄進した。この常夜燈は、渓斎英泉作の『支蘓路(きそろ)ノ駅本庄宿神流川渡場』(中山道六十九次の浮世絵)にも描かれている(浮世絵を見る限り、石製の常夜灯である)』(ウィキの「本庄宿」にある同浮世絵の精密画像)。この三代目半兵衛光寿(双烏)は『まだ少年であった本因坊丈和(当時は己之助と呼ばれていたものと見られる)を丁稚として住まわせていたが、その碁の才能を見抜き、支店である島屋(江戸)の方へ赴任させ、才能を開花させるはからいもしている』。光寿『は、己之助が本因坊となった後も手紙での交流を続けており、「本因坊先生」と書いているものの、「本因坊様」とは書かず、そこからもかなり親密な仲であった事がうかがえる』。『光寿の姿は依田竹谷(谷文晁の門弟)によって描かれて』おり、また『光寿の俳壇の門下生は、関東地方だけで3~5千人とされ、文化的影響力はもちろん、経済支援を求める文化人も少なくなかった』とある。『支店島屋は現在の日本橋室町1丁目に開店していた。江戸の方では島屋半兵衛の名義で確認でき、中屋ではなく島屋と名乗っていたものと見られる。また室町2丁目の飛脚屋である京屋を利用して、島屋から中屋に向けて、江戸での出来事や情報を送らせていたものと考えられている』。初代伝来の情報戦略である。なお、「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから、この記事の記載は正に初代戸谷半兵衛光盛死の直後に相当する時期である。
・「御代官」幕府及び諸藩の直轄地の行政・治安を司った地方官。勘定奉行配下。但し、武士としての格式は低く、幕府代官の身分は旗本としては最下層に属した。
・「蓑笠之助」蓑正高(みのまさたか 貞享4(1687)年~明和8(1771)年)幕府代官。農政家。以下、「朝日日本歴史人物事典」の記載(記号の一部を変更した)。『松平光長の家臣小沢庄兵衛の長男。江戸生まれ。享保1(1716)年猿楽師で宝生座配下の蓑(巳野)兼正の養子となり、同3年に家督を相続。農政・治水に通じ、田中丘隅の娘を妻とする。同14年幕府に召し出され、大岡忠相の支配下に入り、相模国足柄上・下郡の内73カ村を支配、酒匂川の普請なども行う。元文4(1739)年代官となり扶持米160俵。支配地はのちさらに加増され、計7万石となった。延享2(1745)年勘定奉行の支配下に移るが、寛延2(1749)年手代の不正のため罷免され、小普請入り。宝暦6(1756)年隠居。剃髪して相山と号した』。著作に「農家貫行」がある、と記す。
・「予御勘定組頭を勤て道中方を兼帶なせし頃」根岸が御勘定組頭を勤めたのは明和5(1768)年から同吟味役に昇進する安永5(1776)年までの8年間。道中奉行(後注参照)配下に勘定組頭の兼職である道中方が置かれていた。
・「安藤彈正少弼」安藤郷右衛門惟要(ごうえもんこれとし 正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「彈正少弼」は弾正台(少弼は次官の意)のことで、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。既にお馴染み「耳嚢」の重要な情報源の一人。
・「道中奉行」ウィキの「道中奉行」より、改行を省略して引用する。『江戸幕府における職名のひとつ。五街道とその付属街道における宿場駅の取締りや公事訴訟、助郷の監督、道路・橋梁など道中関係全てを担当した。初見は『吏徴別録』の寛永4年(1632年)12月にある水野守信ら4名の任命の記事であるが、一般的には万治2年7月19日(1659年9月5日)に大目付高木守久が兼任で就任したのにはじまるとされる。大目付兼帯1名として始まったが、元禄11年(1698年)に勘定奉行松平重良が道中奉行加役となって以後、大目付と勘定奉行から1名ずつ兼帯する2人制となった。弘化2年(1845年)より大目付のみの兼帯。正徳2年(1712年)から享保9年(1724年)までは与力2騎、同心10人が配属され、配下に勘定組頭の兼職である道中方が置かれていた。その役料は享保8年(1723年)から年に3000石、文化2年(1805年)以後は年間金250両』。
・「通り油町」通油町(とおりあぶらちょう)という町名。現在の日本橋大伝馬町13~14番地付近。大伝馬町・旅籠町・馬喰町に囲まれた古い町で、江戸初期の慶長年間(1596~1615)には町が出来、元和年間(1615~1624)に牛込某が油店を開いたことから、町名となった。元禄年間(1688~1704)には、江戸文学の興隆に大きく貢献した浄瑠璃本等を売る本屋鱗形屋(うろこがたや)があったことで知られ、天明年間(1781~89)には紅絵(べにえ:浮世絵の様式の一つ。墨摺版画に丹の代わりに紅で筆彩したもの。)問屋の町として知られた。後の流行作家十返舎一九(明和2(1765)年~天保2(1831)年)は、この町の紅屋問屋蔦屋に寄食し、作家として名を売った後の半生もこの町で過している。因みに「呉服店」とあるが、通油町の西端と接する通旅籠町には寛保3(1743)年に大店大丸呉服店江戸店が開業している。
・「重手代」商家で事務管理を総括する古参の手代のこと。
・「引け物」「下直の引物」は流行遅れの古くなった在庫や傷物などの値引き品。今で言うB反。
■やぶちゃん現代語訳
本庄宿鳥居谷三右衛門の事
中山道本庄宿に仲屋三右衛門という商人が御座った。
凶作の年には、宿場内は元より近村の困窮を救い、旅客往還の助けとして往来の道並びに橋を私財を投じて整備管理致し、当地支配の代官蓑笠之助(みのかさのすけ)の申し出を受け――私はその頃、勘定組頭を勤めており、道中方も兼任していた頃のことで、直接関わった故によく存じておる――当時の道中奉行は安藤弾正少弼霜台殿が勤めておられたが、この奉仕の一件につき、お上へお伺いを立てた上、彼への名字帯刀がお許しになられ、御褒美も下賜されたという人物で御座る。
聞くところによれば、三右衛門は、元来は日本橋通油町の仲屋という呉服店に、丁稚より勤めて、重手代(おもてだい)にまで成ったのであるが、その仲屋の主人が急死致し、跡継ぎの子も未だ幼年なれば、店が大いに衰え、立ち行き難くなった折りがあった。それでも主人が青年になろうまでの暫くは、何とか持ちこたえて御座った。
ある日のこと、三右衛門が若主人に申すことに、
「今年は、ご主人さま御自身が上京なさり、京の問屋から――よろしゅう御座るか――引け物だけを、たんと仕入れてお持ち帰り下さいますよう、よろしくお願い申します。」
と嚙んで含むように命じた。
若主人は、言われた通り、引け物ばかりを安値でたっぷり仕入れて江戸へ戻った。
安値の引け物ばかり――されど名にし負う京呉服には変わりがなければ――これを関東一円にて売り捌く――当然のこととして、少なからぬ利益は出た。
ところがそれから程遠からぬ後日(ごにち)のこと、今度は三右衛門自身が上京、先の問屋を訪ねて申すことには、
「――若輩なれど、成せる精一杯の仕事をなさろうと――年若のご主人さま直々に仕入れに上京なさったというに――お手前は、如何なれば、かく、引け物ばかりを売り渡しなすったのか――」
と如何にも難しい表情にて遺憾の意を述べた。
勿論、問屋の方も、
「……そやかて……お宅のご主人はんのお好みや言うて、お任せしましたんやで……」
と答えた。ところが、
「ご冗談を! 主人は若輩、未だ幼年と申してもよき者にて御座る。――その呉服の、どころか、世間のいろはも知らぬ子供――その子供がたとえ、自ずから所望致いたからと言うて――かく夥しき売り物にもならぬ引け物ばかり――これ、売り渡いたこと――いやとよ! 我らが店の左前なるを早くも見限られ、体(てい)よく金まで搾り取り、商売にならぬ、不要品を渡りに舟と処分なされたこと――これ、年久しゅう取引を交わして参った馴染みの問屋で御座る、お手前どもの、為さり様とも――思えませぬ――」
と言って押し黙った。
その悲壮なる謂いに、問屋も返す言葉もなく年久しく取引致いてきた問屋にてもあれば――また、世間にいらぬ悪評の立つも恐るればこそ、損を承知で、先に支払ったものとほぼ同等の別途新品を三右衛門へそっくり無償で引き渡した。
お分かりで御座ろう、これによって仲屋は相応に大きな利益を得ることが出来、往時の仲屋の隆盛を取り戻いたので御座った。
後、三右衛門は相応の元手を貰って本庄宿へと引っ込み、呉服その他諸品の商いを成して、今では本庄宿とその近辺に於いては鳥居三右衛門と聞いて知らぬ者は、これ、御座ない。
因みに、かの仲屋の屋号を染め抜いた暖簾の印を
かくの如くつけたのも彼三右衛門の考案になるものの由。
「これは一体どういう意味か?」
とある人が尋ねたところ、三右衛門はこう答えたという。
「――この『中』は勿論、屋号の「仲」で御座るが、ほれ、こういう風に書いてみると――『虱』という字に見えて御座ろう?――虱はよう殖えて、決して絶えること、これ御座らねばのう。――」
本庄宿は三右衛門近隣に住む者の話で御座った。
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