耳囊 卷之三 信心に寄りて危難を免し由の事
「耳囊 卷之三」に「信心に寄りて危難を免し由の事」を収載した。
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信心に寄りて危難を免し由の事
予が許へ來る與住(よずみ)某がかたりけるは、餘りに信心にて佛神に寄歸(きき)せんは愚かに思るゝ事也。しかし一途に寄皈(きき)する所には奇特もあるもの也。與住の知れる者、常に法華を讀誦し或は書寫なしけるに、辰年の大火に淺草に住ひて燒ぬる故、淸水寺(せいすいじ)の觀音迄迯(にげ)しに、前後を火につゝまれすべき樣なく、新堀といへる川の端に立しが、煙强く遁れがたく苦しみけるが、壹人の僧來て、少しの内此内に入りてまぬがれべしとて、佛像をとりのけて厨子計(ばかり)あるを教へ、懷中より握飯など出しあたへける故、忝(かたじけな)しとて彼厨子の内へ入りて煙りを凌ぎ、右飯にて飢をも助りしが、火も燒通りし故右厨子の内を出て、知れる人の許へ立退し由語りける。一心に信仰なす所には奇特もあるもの也と語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。神道好き根岸にしては珍しい観世音霊験譚である(少なくとも、として話者である与住は語っているというべきか)。
・「與住」底本の卷之一「人の精力しるしある事」に初出する人物。そこの鈴木氏注に『与住玄卓。根岸家の親類筋で出入りの町医師。』とある。他にも「卷之五」の「奇藥ある事」や「卷之九」の「浮腫妙藥の事」等にも、多数回、登場する医師に知人の多い中でも、根岸一番のニュース・ソースの一人。
・「寄歸」「寄皈」何れも「歸依」に同じ。
・「法華」「法華経」の中でもよく知られるのが「観世音菩薩普門品第二十五」(「観音経」)で、そこでは衆生はあらゆる苦難に際して、観世音菩薩の広大無辺な慈悲心を信じ、その名前を唱えるならば、必ず観音がその世の衆生の声(音)を聞き観じて救済して下さると讃えている。
・「辰年の大火」江戸三大大火の一つである「明和の大火」のこと。明和9(1772)年壬辰(みずのえたつ)の2月29日午後1時頃、目黒行人坂大円寺(現在の目黒区下目黒一丁目付近)から出火(放火による)、『南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの、午後6時頃に本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた。30日の昼頃には鎮火したかに見えたが、3月1日の午前10時頃馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅』、『類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、東本願寺、湯島聖堂も被災』、死者数14700人、行方不明者数4060人(引用はウィキの「明和の大火」からであるが、最後の死者及び行方不明者数はウィキの「江戸の火事」の方の数値を採用した)。因みに明和9(1772)年は、この大火もあり、「迷惑年」の語呂が悪いことから、11月16日に安永元年に改元している。
・「清水寺」江北山宝聚院清水寺。東京都台東区松が谷二丁目(かっぱ橋道具街入り口四つ角の西南の角で東本願寺裏手の西北約200m上流の新堀川沿い)に現存。天台宗。本尊千手千眼観世音菩薩。清水寺オフィッシャル・サイトによれば創建は淳和天皇の天長6(829)年とする。同年、『天下に疫病が大流行すると、わがことのように悲しまれた天皇は、天台宗の総本山比叡山延暦寺の座主であられた慈覚大師』円仁『に疫病退散の祈願をご下命』、『慈覚大師は、京都東山の清水寺の観音さまにならって、みずから一刀三礼して千手観音一体を刻まれ、武蔵国江戸平河、今の千代田区平河の地に当寺を開いておまつりしたので、さしもの疫病の猛威もたちどころにおさまった』。その後の『慶長年中、慶円法印が比叡山正覚院の探題豪感僧正の協力を得て中興され、徳川家康の入府で江戸城の修築のため馬喰町に移り、さらに明暦3年(1657)の振袖火事の後、現在地に再興された』とある。江戸三十三箇所(元禄年間に配された江戸の観音霊場巡礼寺院群)の一つ。
・「新堀といへる川」新堀川。現在の台東区にある東本願寺の西脇を南北に流れていた川。新堀通りに沿って南下して鳥越川と合流しているが、現在は両河川共に暗渠となっている。
■やぶちゃん現代語訳
誠心の信心を寄せたによって危難を免れた稀有の一件に就いての事
私のもとへしばしば訪れる医師与住玄卓が語った話で御座る。
「……余りにも信心が昂じ、仏神に無闇に帰依せんとすることは、愚かなことと拙者は思うて御座る。……ところが、一途に帰依する折りには、時には不可思議なることも、これ御座る。……
拙者の知れる者に、常に法華経を読誦し、写経なんど致いて御座った者がおりまするが、かの壬辰(みずのえたつ)の明和の大火の際、浅草の住まいにて被災致し、清水寺(せいすいじ)の観音まで逃げのびたものの、行路の前後を炎に包まれてしまい、為すこともなく、呆然とかの地の新堀という川っ端(ぱた)に立ち尽くして御座った。
やがてじりじりと火も近づき、黒々とした煙が朦々と立ち込めて参って、
『……最早、遁れ難し、万事窮すか……』
と、煙りのため、激しく咳き込み、苦しんで御座った。
……と……
そこへ、一人の僧が現れて御座った。
「――少しの間、この内に入(い)って、火を免るるがよい――」
と、傍らにあった厨子を指さして導く。
……それは清水寺本尊千手観音菩薩のものでも御座ったか――本尊観世音尊像は火難からお救い申し上げるために既に取り除けた後と思しい――空の厨子ばかりになって御座ったものとか申しまする……
そうして、そればかりか、この僧、懐より握り飯などまで出だいて、恵んで下さったれば、男は、
「忝(かたじけな)い!」
と一声叫ぶが早いか、ただもう切羽詰ってからに、今は己れの身の上とばかり、無我夢中で厨子に飛び入り、扉を閉じて籠もって御座った。
その内にて――火煙りを凌ぎつつ、貰(もろ)うた握り飯にて飢えをも凌いで御座った。
さても――やがて辺りの火も下火となり、扉を開いて覗いて見れば、辺り一面、焼け野原になって、火も既に焼け通って御座ったれば、厨子の内を出で、知れる者のもとへと逃げのびること、これ、出来て御座ったと申す。
……さても、かくの如く、一心に信仰なす誠心、これあらば――凡夫なる我らなれども――摩訶不思議なることも、これあると存ずる……。」