芥川龍之介 VITA SODMITICUS(やぶちゃん仮題) / 同やぶちゃん注
芥川龍之介「VITA SODMITICUS」(やぶちゃん仮題)を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に、それに添える形で芥川龍之介「VITA SODMITICUS」やぶちゃん注(別頁立て)を公開した。
先の芥川龍之介「VITA SEXUALIS」と同様、これもネット上初公開のはずである。
相応に過激である。自己責任でお読みあれ。
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芥川龍之介「VITA SODMITICUS」(やぶちゃん仮題)を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に、それに添える形で芥川龍之介「VITA SODMITICUS」やぶちゃん注(別頁立て)を公開した。
先の芥川龍之介「VITA SEXUALIS」と同様、これもネット上初公開のはずである。
相応に過激である。自己責任でお読みあれ。
芥川龍之介「VITA SEXUALIS」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開。これはネット上初公開のはずである。それに附す形で僕のオリジナル注である芥川龍之介「VITA SEXUALIS」やぶちゃん語注(別頁立て)も用意した。
これらはとうの昔、岩波書店「芥川龍之介未定稿集」(但し、不完全変形版)及び岩波版新全集で誰もが読めるようになっているものである。但し、そこではドイツ語やラテン語が飛び交い、例えば小学生以下の児童生徒が読んで容易に分かるような記載にはなっていないし(尚且つ、私は正字正仮名で翻刻した)、中学生以上の生徒にとっては、保健体育の性教育や「腐女子系」(僕はこの呼称こそ同性愛差別、否、女性差別であって極めて好まぬのであるが、的確に示すためには用いざるを得ないのである)の漫画で幾らもお目にかかる当たり前の、どうってことない性描写・同性愛描写である。
今回の公開によって、自動言語フィルター等によって僕のHPが遮断されることがあるとすれば――そのフィルターは愚鈍にして低脳な技師によって作製されたプログラムであり真実(まっこと)笑止千万なこと請け合いである――とだけ言っておこう。
「耳嚢 巻之三」に「一向宗信者の事」を収載した。
*
一向宗信者の事
一向宗は僧俗男女に限らず、甚だ其宗旨を信仰なす者也。予が知れる小普請方の改役を勤りける泉本(みづもと)庄助といへる老人有りしが、一向宗にはありしがさまで信仰の人にもあらざりし。彼老人咄けるは、或年末本願寺門跡江戸表へ下りし時、菩提寺よりも御門跡下向に候間、御目見(おめみえ)以上の御方は何の方にても別て尊敬もなし候事なれば、參詣有て可然由申ける故、麻上下を着し少々の音物を持て本願寺へ參りけるに、殊外の馳走にて、門跡對面ありて熨斗を手づから付與なしける故、申請て其席を立歸りしに、次の間より玄關廣間迄取詰居し町家の者共庄助に向ひ、頂戴の御熨斗少し給り候やうと申ける故、安き事也とて少しづゝ切りて兩三人に施しけるに、壹人の出家來りて、信心の者へ爰にて其熨斗分け與へ給ふ事有べからず、御宅へ參候樣答へ給へと教へし故、其通り答ければ、翌日に至り、人數二三十人も熨斗をわけ給はるべしとて來りし故、少しづゝ分け與へけるに、厚く忝(かたじけなき)由を申越て歸りしが、銘々樽肴或ひは冥加と號し、白銀反物やうの物を以謝禮をなしける故、聊德付し、かくあらば又餘計には附與(つけあたへ)しまじきものを、と笑ひかたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:神道(背景に切支丹)から浄土真宗へ、宗教絡みで連関。
・「一向宗」ここでは広義に浄土真宗の意で用いている。但し、本願寺教団自身は決してこの称を用いていない。寧ろ、外部の者が一向一揆の如く、浄土真宗信徒(しばしば特にその中でもファンダメンタルな傾向や一団)を差別化特異化して批判的含意を含んで用いたケースが多いと理解した方がよい。
・「小普請方の改役」小普請奉行(江戸城・徳川家菩提寺寛永寺及び増上寺等の建築修繕を掌る)配下で実務監察に当たった役職。
・「泉本(みづもと)庄助」ルビは底本のもの。泉本聖忠(みずもとなりただ 生没年未詳)。「新訂寛政重修諸家譜」を見ると「庄助」ではなく「正助」で載る。底本の鈴木氏注に、『元文四年御徒に召加えられ、のち小普請方の改役となり、拝謁をゆるさ』れた。『その子忠篤は清水家に配属されて、相当の出世をしている』とある。
・「本願寺門跡」泉本聖忠の事蹟から年号の分かる唯一の、元文4(1739)年以降の門跡(門主)を調べると、寛保3(1743)年~寛政元(1789)年まで在任した西本願寺17世法如(ほうにょ 寛永4(1707)年~寛政元(1789)年)か(本話の細部から聖忠の問跡拝謁は寛保3(1743)年以降としか読めない)。ウィキの「法如」の人物の項によれば、『播磨国亀山(現姫路市)の亀山本徳寺大谷昭尊(良如[やぶちゃん注:第13代宗主。]10男)の2男として生まれる。得度の後、河内顕証寺に入り、釋寂峰として、顕証寺第11代を継職するが、その直後に本願寺16世湛如が急逝したため、寛保3年37歳の時、同寺住職を辞して釋法如として第17世宗主を継ぐ。この際、慣例により内大臣九条植基の猶子とな』り、『83歳で命終するまで、47年の長期にわたり宗主の任にあたった。この間、明和の法論をはじめ、数多くの安心問題に対処し辣腕を振るったが、その背景にある宗門内の派閥争いを解消することは出来なかった。大きな業績としては、阿弥陀堂の再建や「真宗法要」などの書物開版などがある。男女30人の子をもうけて、有力寺院や貴族との姻戚関係を結ぶことに努めた』とある(書名の括弧を変更した)。因みに万一、泉本聖忠が長命で、この一件が法如遷化の寛政元(1789)年以降のものであったと仮定してしまうと、これは本巻の下限である天明6(1786)年をオーバーしてしまうので、考えにくい。
・「御目見以上」将軍直参の武士で将軍に謁見する資格のある者。旗本から上位の者若しくは旗本を指して言う。
・「麻上下」麻布で作った単(ひとえ)の裃 (かみしも)。当時の武士の出仕用通常礼装。
・「音物」「いんもつ」又は「いんぶつ」と読む。贈り物。進物。
・「本願寺」京都市下京区堀川通花屋町下ルにある龍谷山本願寺の通称。永く私は何故西と東があるのか、分からなかった。目から鱗のウィキの「本願寺の歴史」からその部分を引用しておく。そもそもは戦国時代の内部対立に始まる。『元亀元年(1570年)9月12日、天下統一を目指す信長が、一大勢力である浄土真宗門徒の本拠地であり、西国への要衝でもあった環濠城塞都市石山からの退去を命じたことを起因に、約10年にわたる「石山合戦」が始まる。合戦当初』、大坂本願寺(石山本願寺)門跡であった『顕如は長男・教如とともに信長と徹底抗戦』したが、『合戦末期になると、顕如を中心に徹底抗戦の構えで団結していた教団も、信長との講和を支持する勢力(穏健派)と、徹底抗戦を主張する勢力(強硬派)とに分裂していく。この教団の内部分裂が、東西分派の遠因とな』ったとする。この二派の対立がその後も本願寺内部で燻り続け、それに豊臣秀吉の思惑が絡んで、文禄2(1593)年には教如の弟である『准如が本願寺法主を継承し、第十二世となる事が決定する。教如は退隠させられ』てしまう(この辺り、ウィキの「本願寺の歴史」中の記載が今一つ不分明。同じウィキの「准如」には『西本願寺の主張によると、もともと顕如の長男である教如は天正8年の石山本願寺退去の折、織田氏への抗戦継続を断念した父に背いて石山本願寺に篭るなど父と不仲で、また、織田氏を継承した秀吉にも警戒されており、自然と准如が立てられるようになったという』という記載があり、また別な史料では生母如春尼が門主を弟にと秀吉に依願したともあり、これで取り敢えず私なりには分明となった)。ところが、『慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで豊臣家から実権を奪取した徳川家康は、同戦いで協力』『した教如を法主に再任させようと考える。しかし三河一向一揆で窮地に陥れられた経緯があり、重臣の本多正信(三河一向一揆では一揆側におり、本願寺の元信徒という過去があった)による「本願寺の対立はこのままにしておき、徳川家は教如を支援して勢力を二分した方がよいのでは」との提案を採用し、本願寺の分立を企図』、『慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸六条の四町四方の寺領が寄進され、教如は七条堀川の本願寺の一角にある堂舎を移すとともに、本願寺を分立させる。「本願寺の分立」により本願寺教団も、「准如を十二世法主とする本願寺教団」(現在の浄土真宗本願寺派)と、「教如を十二代法主とする本願寺教団」(現在の真宗大谷派)とに分裂したので慶長8年(1603年)、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え、本願寺(東本願寺)が分立する。七条堀川の本願寺の東にあるため、後に「東本願寺」と通称されるようになり、准如が継承した七条堀川の本願寺は、「西本願寺」と通称されるようにな』ったとある。因みに『現在、本願寺派(西本願寺)の末寺・門徒が、中国地方に特に多い(いわゆる「安芸門徒」など)のに対し、大谷派(東本願寺)では、北陸地方・東海地方に特に多い(いわゆる「加賀門徒」「尾張門徒」「三河門徒」など)。また、別院・教区の設置状況にも反映されている。このような傾向は、東西分派にいたる歴史的経緯による』ものであるとする。こうした経緯から、幕末でも東本願寺は佐幕派、西本願寺は倒幕派寄りであったとされる(但し、ある種の記載では双方江戸後期にはかなりの歩み寄りを見せており、天皇への親鸞の大師諡号(しごう)請願等では共同で働きかけている。但し、親鸞に「見真大師」(けんしんだいし)の諡(おくりな)が追贈されたのは明治9(1876)年であった)。慶応元(1865)年3月に新選組が壬生から西本願寺境内に屯所を移しているが、一つにはそうした倒幕派への牽制の意があったものとも言われる。慶応3(1867)年6月には近くの不動堂村へと移ったが、その移転費用は西本願寺支払った由、個人のHP「Aワード」の「新選組の足跡を訪ねて2」にあり、『お金を払ってでも出ていってほしかったのだろう』と感想を述べておられる。現在、西本願寺は浄土真宗本願寺派、東本願寺は真宗大谷派(少数乍ら大谷派から分離した東本願寺派がある)で別宗派であるが、ネット上の情報を見る限りは、東西両派を含む十派からなる真宗教団連合や交流事業も頻繁に行われており、関係は良好と思われる。
・「熨斗」熨斗鮑。アワビの殻や内臓や外套膜辺縁を除去し、軟体部を林檎の皮むくように小刀で薄く削いで、天日干にして琥珀色の生乾きにし、それを更に、竹筒を用いて押し伸ばしては水洗いし、重しをかけてより引き伸ばしては乾燥させるという工程を何度も繰り返して調製したもので、古くは食用でもあったが、早くから祭祀の神饌としても用いられ、中世の頃には縁起物として貴族や武家の婚礼や祝儀贈答品として使用されるようなった。熨斗鮑の細い一片を折りたたんだ方形色紙に包んだ現在の熨斗紙の原型が出来上がった。以下、民俗学的な意味の部分を平凡社「世界大百科事典」の「熨斗」から引用する(句読点を変更した)。『贈物にのしを添えるのは、その品物が精進でない、つまり不祝儀でない印として腥物(なまぐさもの)を添えたのが起りとされている。これと類似の風習に、魚の尾を乾かして貯えておき、これを贈物に添えて贈ったり、青物に鳥の羽などを添えるものなどがある。また博多湾沿岸地方には、ハコフグを干したものを貯えておいて、めでたいときの来客の席上だけでなく、平常、茶を出す際にもこれを添え、手でこれに少し触れてから茶を飲むことにしている所があった。旅立ちや船出に際して無事を祈ってするめや鰹節を食べたり、精進上げに必ず魚を食べるのも、同じ考え方から出た風習といえる。これら一連の慣習に共通してみられるのは、〈ナマグサケ〉と称せられる臭気の強い腥物はさまざまな邪悪なものを防ぐことができるという考え方である。このため、鳥、魚、鰹節を贈る場合にはのしをしないのが普通である。この風習の成立には、死に関するいっさいの儀式を扱った仏教が凶礼に精進(しようじん)を要求し、いっさいの腥物をさけたこともおおいに関与していよう。とくにのし鮑は腥物として保存しやすく、しかも持ち運びに便利なために広く用いられるようになったのである。しかし、のし鮑に限らず、魚の尾、ハコフグ、鯨の鬚など、食用に不適であっても、日常備えておける腥物であれば間にあったのである。鰹節が広く用いられるようになった背景にも、単に食用だけでなく、保存できる腥物でもあったことがあると思われる』(引用部の著作権表示:飯島吉晴 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)。
・「樽肴」贈答用の酒の入った樽と酒の肴。
・「冥加」広く神仏の御加護に対する、それを受けた者からの神仏への御礼の供物。
・「白銀」贈答用に特別に鋳造された三分銀(楕円形銀貨)を白紙に包んだもの。三分で一両の2/3であるから、現在の4万5,000円程度はあるか。鮑の熨斗の切れっ端で、これでは、とんでもないボロ儲けである。
■やぶちゃん現代語訳
浄土真宗の信者の事
浄土真宗は僧俗男女に限らず、その開祖親鸞聖人から延々と受け継がれてきたかの特異なる宗旨を――聊かそこまで信心致すかと呆れるほどにまで――深く信仰帰依なす者、これ、多御座る。
ここに私の知っている者で、小普請方改役を勤めて御座る泉本(みずもと)正助なる御老人がおるが、この御仁、浄土真宗の信者乍ら――実はそれ程、熱心なる信者にては御座らなんだ。その御老人の話。
……ある年のこと、京都西本願寺御門跡が江戸表へ下られたとのことで、拙者の菩提寺からも、
「――御門跡御下向につき、御門跡様におかせられましては、御目見以上の御方々に対されては、如何なる御方なりとも、これ、相応の敬意を以って御挨拶なされんとの御心にあらせられますれば――是非、御参詣、これ、御座ってしかるべきことにて御座る――」
という使いが御座った。
とりあえずは行かずばなるまいと、麻上下着用の上、少々の進物を持ちて御逗留なされて御座った築地の本願寺へ参ったところ、これ、殊の外の歓待にて、御門跡御自身、我らに対面なされ、贈答として御熨斗一枚を手ずから付与なされて御座った。
とりあえず平身低頭致いてそれを頂戴、席を立って帰らんと致いたところ、対面の方丈の次の間から玄関広間まで、びっしりと詰かけて御座った大勢の町屋の者どもの内から、何人かが拙者の手にした熨斗を目聡く見つけ、
「――御門跡より御頂戴なされた、そのお熨斗ッ!……」
「――そ、それ! 少しばかり、お分け戴けませぬかッ!……」
「――我らにもッ!……」
と、あたかも土壇場に命乞いでもせんかと思う声にて懇請致いて参った。
余りの勢いに、拙者も吃驚り致し、
「……あん? い、いや、それは安きことじゃ……」
と、僅かな熨斗で御座ったが、少しずつ切り分けて、都合三人ばかりの者に分け与えたところ、一人の寺僧が進み出でて参り、
「……信者衆へ、ここにて、貴殿に御門跡のお与えになられし、そのありがたき熨斗、これ、お分けなさること、これ――畏れながら――なさるべきことにはあらざることにて御座いまする。……せめて、後日、御自宅へと参り候て懇請せよ、と仰せ下さるるがよろしかろうと存ずる。……」
と耳打ち致さばこそ、拙者も、まあ、その謂いも尤もなことならんと合点致し、雲霞の如く後から後から申し出でて参った者どもへは、かく答えて御座ったところが……
……さても翌日になると、人数(にんず)にして有に二、三十人も御座ったか、
「――何卒!! 御熨斗を! お分け下さいますように!……」
とて、来訪、引きも切らず。
言うがままに、ちまちまと千切り分けては、少しずつ分け与えて御座ったが、
「忝(かたじけの)う御座るッ!」
と、悉くの者が、頭を地に擦り付けんばかりに深謝致いて帰って御座った。
また、それにては留まらず……後には、その者ども銘々より、樽・肴或いは『冥加』と称して白銀やら反物といったもの、これ、謝礼と称して、ごまんとつけ届けて参ったがため……言うも愚かながら……へへ、聊か、儲けて御座った。……
「……ふふふ♪……こんなことなら、かの初めより、多くは与えずにおけば……もっと良かったのうと……聊か、後悔致いて御座ったじゃ……」
と笑いながら、泉本翁は語られて御座った。
子供の僕は母に何度となく背負われたが、僕はこの53歳になる年まで母を背負ったことは一度もなかった。
僕が妻と結婚したその年、能登の百海(どうみ)に父と母と4人で釣りに行ったことがある。その時、岩場への浅瀬が膝ほどまであったが、母と妻は水着の用意もなく、父は母を、僕は妻を背負って渡ったのを覚えている。僕らの至福の一瞬だった――
今日、雨の中を整形外科へ母を連れて行った。帰り、家の前の階段を登りきったところで母が力尽きて地面に這い蹲った。立ち上がれないので這って家まで行くという――そばに父はいたが、父は母と同じ脊椎滑り症のために、もう母を背負えない。――雨の中――泥だらけになって母が地面を這っていた……
僕がたかだか数メートルであったが――家まで母を背負って連れて行った。――
今日――初めて僕は――僕の母を背負った――母は軽くて――そして――重かった……
「耳嚢 巻之三」に「長崎諏訪明神の事」を収載した。
*
長崎諏訪明神の事
右は長崎始の比(ころ)、耶蘇宗門制禁の事に付建立ありし由。慶長元和の比なりしや、長崎はとかくに耶蘇の宗門に寄皈(きき)なして、品々制禁有けれど用ひざりしかば、或修驗(しゆげん)とやら又は神職とか、存寄を申出、諏訪明神を勸請なして國俗を淸道に尊んと顧ひし故、其願に任せ御入用を以御建立ありけれど、何分耶蘇信仰の輩故、諏訪の社頭へ參る者なかりしに、時の奉行市中へ大き成穴を掘て炭薪を積、火を放ちて長崎中耶蘇信仰の者は不殘燒殺すべしとて吟味ありけるにぞ、始て死を恐れ改宗して諏訪明神の氏子と成し由。依之右諏訪明神は三度祭禮の時も、奉行今以出席なし祭禮濟の趣江戸表へも注進にて、誠に嚴重の事なる由、人のかたりける也。
□やぶちゃん注
○前項連関:迷信から宗教絡みの話であるが、さして連関を感じさせないというのが本音。
・「耶蘇宗門」切支丹(キリスト教)宗門に対する江戸幕府の正式な最初の禁教令は、慶長17(1612)年3月21日年に布告された慶長の禁教令で、江戸・京都・駿府を始めとした直轄地への教会破壊命令及び布教禁止を命じたもので、直轄地以外の各地諸大名もその禁令に準じて家臣団の信者の洗い出しと処罰等を行った。その後は、参照したウィキの「禁教令」によれば、翌慶長18(1613)年2月19日、『幕府は直轄地へ出していた禁教令を全国に広げた。また合わせて家康は以心崇伝に命じて「伴天連追放之文(バテレン追放の文→バテレン追放令)」を起草させ、秀忠の名で23日に公布させた(これは崇伝が一晩で書き上げたと言われる)。以後、これが幕府のキリスト教に対する基本法とな』ったとし、『この禁教令によって長崎と京都にあった教会は破壊され』、翌慶長19(1614)年9月『には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放された。その中には著名な日本人の信徒であった高山右近もいた』とある。但し、『幕府は禁教令の発布によってキリスト教の公的な禁止策こそ取ったが、信徒の処刑といった徹底的は対策は行わなかったし、依然、キリスト教の活動は続いていた。例えば中浦ジュリアンやクリストファン・フェレイラのように潜伏して追放を逃れた者もいたし(この時点で約50名いたといわれる)、密かに日本へ潜入する宣教師達も後を絶たなかった。京都には「デウス町」と呼ばれるキリシタン達が済む区画も残ったままであった。幕府が徹底的な対策を取れなかったのは宣教師は南蛮貿易(特にポルトガル)に深く関与していたためである』(最後の引用は脱字を補った)。例えば『京都所司代であった板倉勝重はキリシタンには好意的で、そのため京都には半ば黙認される形でキリシタンが多くいた(先述の「デウス町」の住人)。しかし、秀忠は元和2年に「二港制限令」、続けて元和5年に改めて禁教令を出し、勝重はこれ以上黙認できずキリシタンを牢屋へ入れた。勝重は秀忠のお目こぼしを得ようとしたが、逆に秀忠はキリシタンの処刑(火炙り)を直々に命じた。そして10月6日、市中引き回しの上で京都六条河原で52名が処刑される(京都の大殉教)。この52名には4人の子供が含まれ、さらに妊婦も1人いた。これは明白な見せしめであったが、当のキリシタンは殉教として喜んだため、幕府は苛立ちを高めた』。以下、一部後述の長谷川権六の事蹟とダブるが、本話柄までの禁教令概観のために引用しておく。『そのような情勢の元和6年(1620年)、日本への潜入を企てていた宣教師2名が偶然見つかる(平山常陳事件)。この一件によって幕府はキリシタンへの不信感を高め大弾圧へと踏み切る。キリスト教徒の大量捕縛を行うようになり、元和8年(1622年)、かねてより捕らえていた宣教師ら修道会士と信徒、及び彼らを匿っていた者たち計55名を長崎西坂において処刑する(元和の大殉教)。これは日本二十六聖人以来の宣教師に対する大量処刑であった。続けて1623年に江戸で55名、1624年に東北で108名、平戸で38名の公開処刑(大殉教)を行っている』とある。これが後の鎖国令と島原の乱へと続くが、その辺りは引用元をご覧になられたい。
・「長崎諏訪明神」長崎市上西町にある諏訪神社のこと。公式サイト「鎮西大社 諏訪神社」の「神社由緒」に『長崎は、戦国時代にイエズス会の教会領となり、かつて長崎市内にまつられていた諏訪・森崎・住吉の三社は、焼かれたり壊されて無くなっていたのを、寛永2年(1625)に初代宮司青木賢清によって、西山郷円山(現在の松森神社の地)に再興、長崎の産土神としたのが始まり』であるとし、『さらに、慶安元年(1648)には徳川幕府より朱印地を得て、現在地に鎮西無比の荘厳な社殿が造営され』たが、『安政4年(1857)不慮の火災に遭い、社殿のほとんどを焼失し』たものの、明治天皇の父である『孝明天皇の思召しにより、明治2年(1869)に約十年の歳月をかけて以前に勝る社殿が再建され』た。『当神社の大祭(長崎くんち 10月7・8・9日)は、絢爛豪華で異国情緒のある祭として日本三大祭の一つに数えられ、国の重要無形民俗文化財に指定されてい』るとある。御自身が訪れた全国の神社についての克明な記録をなさっている個人のHP「玄松子の記憶」の「諏訪神社(長崎)」のページには『金比羅山(366m)の麓に鎮座している大社で、元和9年(1623)、佐賀の修験者青木賢清が、諏訪大明神・住吉大明神・森崎大権現の3神を祀』った旨の前史の記載があり、更に創建当時は『キリスト教の影響が強く、神社・寺院などは破壊される状況だった。青木賢清もキリスト信者から悪魔と呼ばれていたという』『が、寛永年間頃からキリスト教徒も減少しはじめていたよう』であると記されている。
・「慶長元和」西暦1596年から1624年。前注で示した通り、諏訪明神勧請は元和9(1623)年のこと。
・「寄皈」帰依に同じ。
・「或修驗とやら又は神職とか」前注で示した通り、佐賀の修験者青木賢清。
・「諏訪明神」建御名方神(たけみなかたのかみ)を指す。ウィキの「建御名方神」によれば(一部の記号を変更した)、『出自について記紀神話での記述はないが、大国主と沼河比売(奴奈川姫)の間の子であるという伝承が各地に残る。妻は八坂刀売神とされている』。『建御名方神は神(みわ)氏の祖先とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ他田氏や保科氏など諏訪神党の氏神でもある』とあり、この記載からは諏訪という別名が有力氏子の氏姓や地名由来の神名であることが分かる。以下、「諏訪大社の伝承に見る建御名方神」の項に、長野県諏訪大社の『「諏訪大明神絵詞」などに残された伝承では、建御名方神は諏訪地方の外から来訪した神であり、土着の洩矢神を降して諏訪の祭神になったとされている。このとき洩矢神は鉄輪を、建御名方神は藤蔓を持って闘ったとされ、これは製鉄技術の対決をあらわしているのではないか、という説がある』とある(「洩矢神」は「もりやしん」と読む)。「各地の祭神としての建御名方神」の項。『諏訪大社(長野県諏訪市)ほか全国の諏訪神社に祀られている。「梁塵秘抄」に『関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮』とあるように軍神として知られ、また農耕神、狩猟神として信仰されている。風の神ともされ、元寇の際には諏訪の神が神風を起こしたとする伝承もある。名前の「ミナカタ」は「水潟」の意であり元は水神であったと考えられる』とある。もしや、南方熊楠先生の姓のルーツって?……
・「時の奉行」元和9(1623)年当時の長崎奉行は長谷川権六(藤正)(?~寛永7(1630)年)。在任期間は実に慶長19(1614)年から寛永3(1626)年までの約12年間に及んだ。ウィキの「長谷川権六」によれば、『宗門人別帳の作成でキリシタンの捜索を行ない、光永寺・晧台寺・大音寺などの建設がなされ、末次平蔵[やぶちゃん注:生没年(天文15(1546)年?~寛永7(1630)年)。元切支丹であったが棄教し、積極的な弾圧者に変身した人物。貿易商人から長崎代官となった。]とともに諏訪神社を再興する。また、日本に残留した神父をかくまったり、信徒が会合を開いたり、破却された天主堂の跡に行って祈ったり、聖画を所有したりすることを禁じた。元和6年(1620年)にはミゼリコルディア(慈悲の兄弟会)の天主堂や、長崎の教会所属の7つの病院を破却。キリシタンの墓地を暴き、信徒の遺骨を市外に投棄させた』。『江戸で将軍徳川秀忠からキリシタンへの弾圧を督励された権六は、元和8年(1622年)7月にキリシタンの平山常陳と彼の船で密入国を図った聖アウグスチノ修道会のペドロ・デ・スニガ(Pedro de Zuñiga)とドミニコ会のルイス・フロイス(Luis Flores)の2人の神父、それに船員達を長崎の西坂の地で火刑と斬罪に処した(「平山常陳事件」)。同年8月、神父9人・修道士13人、指導的信徒33人の計55人を処刑した(「元和の大殉教」)。この大殉教で処刑されたカルロ・スピノラ神父たちが収容されていた鈴田の公儀牢は、権六の命令により大村氏によって元和5年(1619年)8月に新築されたものである』。『寛永2年(1625年)には、ポルトガル船船長に乗船者名簿の提出を命じ、未登録者の乗下船とマカオからの宣教師宛物品の積み下ろしを禁じ、来航ポルトガル人の宿泊先も非キリシタンの家に制限した。翌寛永3年(1626年)、来航商船に対し全積み荷の検査とその目録作成を命じ、教会関係の物品がないか調べた。マカオ市当局は、日本貿易維持のため長谷川の勧告に従わざるを得ず、各修道会に在日宣教師への書翰や物品の送付を禁じ、宣教師渡航の自粛を求めた』とあり、本話柄の脅しが、ただの脅しでなかったことが分かる。根岸はソフトに「吟味ありけるにぞ」とぼかしているが、この男、任務遂行に忠実なだけでなく、真正のサディストででもあったものか、誠(まっこと)完膚なきまでの恐ろしき粛清者の相貌が伝わってくるではないか。従って敢えて姓名を現代語訳でも出し、決して忘れてはならぬホロコーストの首謀者の記録とすることとした。
・「始て死を恐れ」とあるが、前掲注の引用の京都の例にもある通り、一部信者は逆にそれを殉教の秘蹟として受けとめていたことも――逆効果を齎してもいたという事実と、その信仰心の強さをも――忘れてはなるまい。
・「諏訪明神は三度祭禮の時」私はこれは年間三度の例祭という意味ではなく、三日に亙って行われた例大祭のことをかく言っているのではないかと判断して現代語訳した。現在、先に掲げた「鎮西大社 諏訪神社」公式サイトの「年間行事」を縦覧してみると、例祭はいろいろあるものの、その多くは現代の通常の神社で節気ごとに行われるものと殆んど同じである。それに対し、現在10月7日から9日までの三日間で行われる長崎くんちの名で知られる本神社の例大祭は、そもそもが三回の祭礼から構成されている(本話柄の頃のこの祭礼が全く同じ構成であったという確証はないが、神輿による神霊の渡御から湯立神事等を含む祈請報恩、そして還御という神道に特有のオーソドックスな構成は決して新しいものとは思われない)。具体的には、7日に諏訪・住吉・森崎三社神輿の大波止御旅所(仮宮)への渡御とその渡御御着祭が成された後、翌8日に諏訪神社の『年間最重儀の祭典』と記される例大祭が行われる。因みに、現在の「例大祭」では『皇室の弥栄と国家の繁栄、氏子の平安を祈念』し、後に「特別崇敬者清祓」として湯立神事を斎行、その後に敬神婦人会員(女性の氏子のことか?)によって『神前に御花と御茶をお供えし、神恩に感謝する』「献花献茶奉納行事」が挙行されている。三日目の9日には「お上り」と称する本社へ神輿の出発、本社御着遷御祭で幕を閉じるという三祭礼による構成である。
■やぶちゃん現代語訳
長崎諏訪明神の事
この明神は、現在のような長崎の町が生まれた初期の頃のこと、耶蘇宗門御制禁のお達しに伴って建立されたものである由。
慶長・元和の頃とか申す――その頃の長崎は、とかく耶蘇の宗門に帰依する者夥しく御座って、幕府や奉行所より様々な御制禁の処置が施されたものの、これ、一向に効果が上がらずじまいで御座った。
その折り、とある――修験者であったか、神職であったか――が、奉行所へかく申し出て参った。
「――諏訪明神を勧請申し上げて、邪教のために忌まわしいまでに穢れたこの国俗を、清浄なる神道の正しき道へと導かんと存ずる――」
とのこと故、その願いに任せ、公費を割いてまで建立致いたもので御座った。
ところが何分、根強き邪神耶蘇信心の輩ども故、なかなかに諏訪明神社頭へ参詣する者、これ、御座らなんだ。
――ところが――
ある日のこと、時の長崎奉行で御座った長谷川藤正権六殿、市中の広場に巨大なる穴を掘らせ、そこへ多量の炭や薪を積み上げて、火を放ち、
「――長崎中(じゅう)耶蘇信仰せる者は――これ――残らず焼き殺さずば措かず!――」
と高札を掲げ、声高に布告なし、事実、厳しく吟味の上、厳罰に処したという。――
さればこそ、これによって邪教の輩も、初めて死を恐れ、改宗して諏訪明神社の氏子となったとのこと。――
この時より、この諏訪明神社三日に亙って執り行われる例大祭の折りにも、今に至るまで、必ず長崎御奉行が臨席の上、祭礼滞りなく済みたらば、そのこと、江戸表へも必ず報告致すなど、例大祭とは言え、たかが一社(やしろ)の祭に過ぎぬにも拘わらず、誠に厳格にして厳重なる仕儀これある由、私の知れる者の語ったことにて御座る。
以下は10年前の修学旅行の文集に寄稿した僕の文章である(2006年2月26日のブログからの再録ではある)。僕はその時、初めての沖繩だった。しかし――僕は今もこの新鮮な気持ちを失っていない。――今回、台風の沖繩は残念だった――しかし、だからこそもう一度、沖繩を訪ねたくなった諸君も多いはずだ。沖繩とはそんな不可思議な誘惑を持った島なのだ。ニライカナイはそんなに簡単にたどり着けぬ! また、訪ねよう! この美しき処女の島へ!
――とりあえず――みんな、無事に帰って来い――それが何よりの僕への土産だ……
【追伸】牧志の公設市場ではアバサー(ハリセンボン)汁とシャコガイとスギの刺身――これで決まりだ! オニダルマオコゼはあなたが出世して、沖繩にまた訪れる時まで、おあずけだとしよう――僕がいたら、僕の分、一切ぐらい上げたんだけど……
*
サンゴ礁のウルトラの虹(二〇〇〇年一月三〇日稿)
〈早朝の羽田で〉
ああ、僕も沖縄は初めてさ! どこに行きたいか? うん、ある人の墓参りができたらいいなあ。誰かって? 君も、日本初の本格的テレビ特撮ドラマのウルトラシリーズ、ウルトラマンやウルトラセブンの名前ぐらいは知っているだろう。じゃあ、まずは、その彼の書いた「ウルトラセブン」の第42話「ノンマルトの使者」のストーリーを話そうか。
***
海底開発センターの船上基地の試運転。その近くの海辺で休暇を楽しむウルトラ警備隊のダンとアンヌ隊員。彼女のそばに一人の少年が立ち、すぐにあの開発をやめないと大変なことになると告げる。そして言葉通り、基地は爆発炎上。真一と名乗る少年はその後も現れ、執拗に「海底はノンマルトのものなんだ」と語る。
その時、内心一人疑問を感じるウルトラセブンことダン。『ノンマルト! 僕の故郷のM78星雲では、地球人のことをノンマルトと呼んでいる。』このノンマルトこそが本当の地球人ではないのだろうか?
アンヌが再会した真一少年は言う。ノンマルトは人類より以前にいた先住民族=本当の地球人だった。実は今の地球人は、このノンマルトを海底に追いやった侵略者だったのだと。
さらに、奇怪な海難事故が続き、地球防衛軍とウルトラ警備隊は、ノンマルトを地球人の安全を脅かす敵として、殲滅を決意する。対決する真一少年とダン。真一少年は叫ぶ。「ノンマルトは悪くない! 人間がいけないんだ! ノンマルトは、人間より強くないんだ! 攻撃をやめて!」と。今まで宇宙の侵略者の魔の手から弱き地球人を守ってきたウルトラセブンにとって、これは大いなる自己矛盾である。しかし、ダンはその自己撞着を振り切るように言い放つ。「真一君! 僕は闘わなければならないんだ!」。かくてセブンに変身し、怪獣ガイロスを倒す。
一方、潜水艦ハイドランジャーのキリヤマ隊長はノンマルトの海底都市を発見。その内心の声、『我々人間より先に地球人がいたなんて……そんなバカな…やっぱり攻撃だ。』。一瞬の躊躇も空しく、ノンマルトの都市は完全に粉砕され、笑みさえ浮かべて隊長は快哉する。「我々の勝利だ! 海底も我々のものだ!」。再び開発の邪魔をする者はいないだろう、と。
海岸のダンとアンヌ。「人間こそ侵略者なんだ!」と叫び、走り去る真一少年。岩陰へ回ると、そこには少年の墓標が。海を見るダン。「真一君は、霊となって、ノンマルトの使者として、地上に現れていたのだ」。ノンマルトは本当に地球の原住民だったのか? だとしたら、僕(セブン)は人間という侵略者の協力をしていることになる……ダンの心は苦い。[1968年7月21日TBS放映]
***
私達が訪れた沖縄。その地の人々は、アイヌ民族と共に、本来の日本人=先住民族(縄文人)の系統を残している人々なんだ。
沖縄の主要な産物は海からもたらされた。漁師でなくても、人々は文字通り海人(ウミンチュ)だった。そこでは海と死者の関係も深い。バスからも見えた、古典的な墳墓を思い出してごらん。人々は死ぬとそのまま安置され、自然に腐るのを待つ。しばらくすると海の水で綺麗に洗い(洗骨)、祖先の霊の仲間入りを許される。女性の子宮の形をした墳墓の入り口は海に面している。母体に回帰して再生した魂(マブイ)は、海の彼方にある楽土ニライカナイへと旅立って行くんだ(但し、現在は火葬が主で、完全な形態は一部の離島のみにしか残されていない)。海岸で、南洋の木の実や不思議な漂着物を見たよね。時には漂流してきた異人もやってきた。人々にとってそれはニライカナイからの贈り物・使者だったんだ。私はこうした沖縄の古い信仰は、私達が失ってはいけない最も美しい部分だと思っているんだ。
首里城の資料はちゃんと見たかい? 特に琉球王国が長い間、薩摩藩の不当非道な侵略支配を受けて来たことを。
そして、息が詰まる思いだったよね、あの資料館の圧倒的な「生」の証言集。鮮烈にイメージされるその修羅場としての海岸……祖霊達の神聖な亀甲墓は破壊され、人々が彼方に楽園を想像した美しい海岸線は、艦砲射撃によって原形を留めぬほどに粉砕された。永い米軍占領の時代。国際正義を振りかざすアメリカはベトナムにとって侵略者であったし、その爆撃機は沖縄から飛び立った。
1972年5月、沖縄は本土に復帰した。しかし、それは新たな「侵略」の始まりだったのではないか? 本土の資本は、観光資本としての沖縄に飛びつく。 その結果は、何だったか? 開発の名の下に本島の美しいサンゴ礁はほとんど失われてしまったのだ。そして、社会は? 経済は? 進学率全国最低、失業率全国最高、これを長く背負ってきたのはどこの県か知っていますか?
あの海洋学習で説明してくれた若い沖縄出身の誠実な青年に、僕は質問した。「本土に復帰してからサンゴ礁の破壊は進んだのですよね? 」。あの彼の優しい目がその時、さっと変わった。「世界的にサンゴ礁の白化現象は起こっています。必ずしも、人為的な汚染によるものではありません。」ときっぱりと語ったのだ。確かに生態学的にはその通りなんだ。サンゴが共生藻(ゾーザンテラといい、光合成によって、サンゴに栄養を補給している)を失い、死滅していく現象はこのところ世界的に見られる。実は、汚染とはレベルの違う遺伝子レベルでの時間的現象とも考えられているのだ。でも、待ってくれ。あの時、僕達は、赤土学習で米軍基地や造成事業で海が汚染されるというのを、ひどい雨の中、学んだばかりではなかったのか? グラスボートで見たのだって、あれは、イノー(サンゴ礁の内側)の殲滅されたのサンゴの死骸だったじゃないか。
でも、僕は彼の気持ちが分かるように思える。彼にとって、復帰が最悪の状況を引き起こしたんだというような単純な論理は、沖縄の人々の本土復帰という血の出るような悲願を、少しも理解しない考え方だったからなのではないかと感じたから。
***
ウルトラシリーズは確かにジャリ(子供)番組さ。しかし、こうした意味深な順序で説明したとき、一見、他愛もない「ノンマルトの使者」の映像の向こう側にもう一つの沖縄が見えて来ないか?
これを書いたのは、「ウルトラQ」「マン」「セブン」の基本設定を創案し、全体を統括したメインライターとして活躍した金城哲夫という沖縄の人なのだ。
20代半ばの彼の母親は1945年3月、沖縄戦で片足を失った。その数日前に哲夫は小学校に入学するはずだった。それから三日後、嘉手納方面に米軍が上陸、条件の悪い糸数壕(僕達が見たあの壕だ!)への移動は死を意味すると考えた祖父の判断が幸いした。降伏。彼は生きた。
戦後、本土の玉川学園高等部へ入学。たまたまシナリオを書いていた同校の国語教諭の薫陶を受け、脚本家デビュー、僕にとって忘れられないウルトラシリーズを生み出すことになるのだ。
僕が小学校2年生の時に見た「ウルトラQ」の感動は言葉に言い表せない。特に彼の脚本になる、「宇宙からの贈り物」[第3話 1966年1月16日放映]の最後のナレーション(大学生!だった石坂浩二のアルバイトなんだな、これが)は印象的だ。火星人が送ったらしきナメクジ状生物(形通り塩に弱い)で、一匹目は海に落ちて死ぬが、二匹目が偶然、巨大化。その巨大な目のアップと共に。「無限にある海水がこのドラマを締めくくってくれるに違いない。だが、地球上での政治的実権を握るための宇宙開発の競争が行われる限り、第2の宇宙からの、贈り物が届くに違いない。それは多分海水を飲んで、ますます巨大になり、強靭になる恐るべき怪物に違いない。」。いいだろ? バラ色未来論的高度経済成長期の真っ只中だよ! もっともっといいのもあるんだぜ! そうそう、最近リバイバルの、ファンタジーの走りのブースカだって、その初期設定は彼なんだ(但し、ウルトラシリーズの特撮に金がかかり過ぎ、その赤字を埋めるための経済的な苦肉の策なんだけどね)。
しかし、彼はセブンを最後に、復帰直前の沖縄に帰る。自分の故郷の現実に向き合うために。その後、1975年の海洋博のメインのセレモニー・プロデュースを引 き受ける。自作の沖縄芝居も書いた。基地問題にも彼なりの切り口で向き合った。だが、海洋博の会場周辺は閉幕直前からゴーストタウンのように人は来なかった。芝居はウチナーグチに心が籠もっていないと今一つ不評。米軍基地を減らすために自衛隊の基地移行もそれなりにいいのではと発言した彼には抗議が殺到した。しかし彼はずっと信じていた。自分がヤマトとウチナーの懸け橋になれる、ならねばならないのだと。すべての仕事は、そのためだったのに。
1976年2月26日早暁、酔って、閉まった自分の書斎に窓から入ろうとして頭を打ち、亡くなった。まだ37歳だった。それを笑うかい? 気になるって? だったら、いつでも僕と話そうよ! 話したいことは、百年分ぐらいあるんだ!
***
〈羽田へ向かう飛行機で〉
やあ! いや、墓参りは出来なかった。でもね、今朝、あのホテルの前の浜辺を歩いたんだ。相変わらず波は高かったんだが、ちょうどあのリーフの外の中央から虹が出ていたんだ。七色がくっきりと見えるんだ、美しかった! 天気の悪い四日間だったけれど、僕には、金城哲夫が、『まだまだだめだな、もうちょっと分かったら、また来いよ、おまえが考えてるより沖縄はもっと美しいんだ』と、語りかけてくれたような気がした。うん? 悪かったね。夜は巡回が厳しくて。しかし、見つかる君たちが、馬鹿だよ、間違えて教員の部屋をノックしたり、僕のノックをお友達のノックと間違えて、にっこり笑って気持ち良く開けるようじゃね。
でもね、そんな僕にさえ忘れられない、いい旅だったんだ……。
『……初期の怪獣特撮ものでは、無用の殺戮描写はひとつもなかった。金城哲夫の山田洋次への憧れは“無力な人間たちが肩を寄せ合って、親密な人間を守ろう”とする作劇にはっきりとあらわれていた。勝つというパターンの中で、ウルトラマンは怪獣たちをやさしく宇宙空間に戻していたのである。それが金城哲夫の無邪気なやさしさでもあった。
ウルトラマン。本籍地。沖縄。
やはり、私は、こう記入したい。』(実相寺昭雄「ウルトラマンを作った男」より)
今日は金城哲夫の亡くなった日だ。以下は、5年前の修学旅行の文集に寄稿した僕の文章である。以前にアップしたものだが、再度、今日アップしたい。あの不死身のはずのウルトラマンは沖繩出身で、本土の架け橋になる夢を懐きながら、それを成しえない焦りと苦悩の中、アル中になり、滑って頭を打って惨めに死んだのだということを、あなたは知っていますか……。
「耳嚢 巻之三」に「吉瑞の事に付奇談の事」を収載した。
*
吉瑞の事に付奇談の事
松本豆州吟味役より奉行にならんとせし前の年に、鎭守の稻荷へ松錺(まつかざり)せしが、七種(ななくさ)過て松錺を崩し、土俗の習ひ任せ其枝をとりて松杭の跡にさし置しに、雨露のした入りに塵つもりけるや、右松自然と根を生ぜしとて殊の外悦びし事あり。予が御加増給りて御役替被仰付候前年、蒔藁の内より雨の後稻葉生出しを、兒女子悦びて是を植置しに、穗に出て米と成りぬ。かゝる事も自然と時節に合ひていわゐ祝ふ事とはなりぬ。然れどもかゝる事に深く信じ迷ひなば、あしき兆の有りし時は嘆き愁べし。婦女子にもよく諭し、善兆ありとて強て悦ぶ事なからん事を教へし。しかあれ共よき事ありしと人の祝し悦ばんをかき破るは、不祥の一つと知べし。心へ有べき也。
□やぶちゃん注
○前項連関:誉めておけば上手く行く、吉兆と思えるならそれはそれでよいというプラシーボ効果で連関。根岸の謂いは深遠で正鵠を射ている。素晴らしい。
・「松本豆州」松本秀持(ひでもち 享保15(1730)年~寛政9(1797)年)最下級の身分から勘定奉行(在任:安永8(1779)年~天明6(1786)年)や田安家家老へと異例の昇進をした、天明期、田沼意次の腹心として経済改革を推進した役人の一人。蝦夷地開発に意欲を燃やしたりしたが、寛政の改革によって失脚、勘定奉行在任中の不正をでっち上げられ、天明6(1786)年には500石から150石に減封の上、逼塞を命ぜられた。「卷之一」の「河童の事」や「卷之二」の「戲藝侮るべからざる事」にも登場した「耳嚢」の一次資料的語部の一人。
・「松本豆州吟味役より奉行にならんとせし前の年」松本秀持は勘定吟味役から勘定奉行に安永8(1779)年に抜擢されているから、これは安永7(1778)年の正月のこと。
・「土俗の習ひ」門松は年初に新しいパワーを持った神霊を迎え入れるための寄り代であると考えてよいであろう。アニミズムでは、しばしば木片や枝が神霊の宿る対象として登場する。底本の鈴木氏注では、この「其枝をとりて松杭の跡にさし置」くという儀式について、『門松を取去ったあとへ、松のしんの部分を立てておく習俗。望の正月に再び門松を立てる風習の処もまだ残っているが、こうした二度目の松立てを形ばかり演ずる意味かと考えられる。遠州では松植え節句などといって、正月二十日に氏神の境内や山に小松を植える風習があり、』この松本秀持の話と考え合わせると興味深い、と記されておられる。引用文中の「望の正月」とは小正月、旧暦の1月15日のことである。この「松植え節句」なるもの、現在でも行われているのであろうか。ネット上では、この文字列では残念ながらヒットしない。識者の御教授を乞うものである。
・「予が御加増給りて御役替被仰付候前年」根岸の場合、二回の加増(逝去した文化12(1815)年12月の半年程前の500石加増〔結果して逝去時は1000石〕も含むと3回)がある。天明4(1784)年3月に勘定人見役から役替えとなって佐渡奉行に拝された際の50俵加増と、天明7(1787)年7月に勘定奉行に抜擢されて500石となった折りである。本「卷之二」の年記載記事の下限が天明6(1786)年までで、そう考えると、本巻執筆をあくまで佐渡奉行時代とするならば、佐渡奉行就任前年の天明3(1783)年正月の出来事となる。しかし、先行する本巻所収の佐渡在勤時代のエピソードが完全な過去形で記されている点、本巻が前二巻の補完的性格を持っている点などから見て、勘定奉行就任後の多忙期の合間を見ての執筆とも考え得るので断定は出来ない。加増額や役職の格、また「兒女子悦びて」という描写の向うに見えて来るもの(佐渡奉行拝命は児女が悦んだとは思えず、逆に佐渡に児女も一緒に赴任していたとすれば、佐渡から江戸に戻れるという勘定奉行就任は躍り上がらんばかりの悦びであったはずである)からは、断然、後者のエピソードである方が理に叶っていると考えるのが至当である。だとすれば、この話柄は天明6(1786)年の正月ということになる。勿論、私の感覚論であるから現代語訳では同定を避けた。
・「蒔藁」巻藁。
・「不祥」には、不吉であること、の意の他に、運の悪いこと、不運の意がある。両様のニュアンスを私は感じる部分である。そうした杓子定規な現実論しか語れぬ者は、いつしか孤立してゆくしかないからである。
・「心へ」はママ。
■やぶちゃん現代語訳
吉なる瑞兆事についての奇談の事
松本伊豆守秀持殿が勘定吟味役から勘定奉行になられた、その前の年の正月のことである。
伊豆守殿の御屋敷内に祀って御座った鎮守の稲荷、ここに例年通り、松飾りをなされた。
七草を過ぎ、その松飾りを外し、土俗の習慣に従(したご)うて、その松の枝を刈り取り、松飾りの巻藁を取り除いた跡の中央へ、それを挿しておいた。
暫く致いて、その挿したところに塵が積り、雨露が滴たってでも致いたものか、僅かに土のようになって御座ったところへ、かの木っ端の如き松の枝、自然、根を生じて御座った。
これ吉瑞なりと、お屋敷上げて祝ったこと、これ御座ったという。
――この伊豆守殿のお話に似通うたことを、実は私も体験致いたことが御座る――
私が御加増を給わって御役替え仰せつけらるる前の年の正月のことで御座った。
松飾り土台の巻藁の中より、雨後、稲穂が生い出でて御座ったのを家内の子女がいたく歓び、これを地に植えおいたところ、秋には穂を出して米が実って御座った。
――さて――こうしたことは、後に起こった吉事と偶々附合致いたが故に、それを吉瑞と致いて祝い悦ぶこととはなった。――
――然れども――かかることを必要以上に気にし、信じ込み、盲信と言うに相応しい事態に陥るようでは――逆によくない兆しに見えようこと、これ、御座った折りには――また必要以上に気に掛けることとなり、果ては嘆き愁えることと相成るに違い御座らぬ。
――かかればこそ――婦女子にもよく諭して、何やらん前兆めいたこと、これ御座ったからというて、殊更に悦ぶには――同様に懼るるには――決して当らぬこと、教うるに若くはない。
――とは申せど――縁起のよきことがあったと人が祝い、悦んで御座るを――ただの偶然、気のせいと――殊更、鯱鉾(しゃっちょこ)ばった理を説いて、折角の場を白けさすというのも――これはまた、悦べる当人らにとっては、至って「不吉」なることにて御座る――また翻って考うれば、そのように多くの者どもが喜んでおるところに、敢えて冷ややかな水を注した者にとっても――これ、ゆくゆく「不運」なることと相成ること――これ、知るべし。
――この玄妙なる趣きを心得ておくことが、これ、肝要なので御座る。
台風が来るようだ――もし、折角の体験学習が少し残念に終わったのなら――一つ、僕の怪談でお茶を濁そう。既に公開済み( 「沖繩の怪異」 )のものだが、俄か沖繩方言も入れてある。僕が君等に教えているのは古典――もし、余力がある生徒はこれを僕が擬古文にしたものがある( 「淵藪志異」の最後十五と十六 )。挑戦してみてはいかが? 台風がそれてゆくことを祈りつつ――
*
あなたは聞きたがっていたね、僕の怪談を。では僕の聴いた沖繩の怖い話を、まずして上げよう。
*
僕は大学生の時、渋谷の代官山に下宿していた(セレブ? 関東段震災で倒れなかった! という化石のような三畳間をリッチとは言わないよ)。一階には、大家の従兄弟が住んでいたが、その二十代のお嫁さんは沖繩のひとだった。水色のジーンズ(僕だってそんな派手なのを履いていたことがあったさ)を買って、裾上げを頼んだら、すぐやってあげるさー、と言われて、縫ってくれるのを見ながら、沖繩の話に花が咲いた。
……彼女が小学校の二年生の時、風邪で学校を休んだ。治って、学校に行くと、同級生の女の子が、
「やしが(でも)うんじゅ(あなた)は、一昨日、何であんなとぅくる(所)に居ったん?」
「あんなとぅくるて?」
「森が傍ぬ、ガジュマルぬ上から、わん(私)ぬこと、見下ろして笑ってたさ。ずる休みいけないんだーって言うとぅーし(けれど)、けらけら笑ってるだけだったさ」
その日彼女は、勿論、まだ熱を出して家で臥せっており、家から出ることなど思いもよらぬことだった。それを言うと、友達はひどく気味悪がったそうだ。家に戻った彼女は、恐る恐るおばぁにその話をした。おばぁは、さっと顔色変えるなり、すぐに彼女を連れて、近所の年老いたユタの所へ連れて行った。
◇やぶちゃん補注
ユタ:沖繩本島を中心に南西諸島の民間の巫女(ふじょ/みこ)。カミダーリ(神がかり)に入って、予言や忠告をする。森の中の女性だけが入ることの出来るウタキ(御嶽)やグスク(城)などの神域・聖地を巡って修行をする。色々な占いや祈願を行うが、特に霊魂の統御に霊力を発揮し、身体から離脱したイキマブイ(生霊)を、もとの身体に戻すマブイグミによって病気を治したり、シニマブイ(死霊)のマブイワカシ(口寄せ)の巫法を施すなど、霊界と通信できる存在ともされる。
ユタは短刀を彼女の目の前に振りかざして、切りかかるような仕草を何度もした。彼女は殺されるのかと思ったそうだ(その他にも、ちょっと話せない恥ずかしいことをされたと彼女は言った)。
そうしておもむろにオバアに言ったそうである。
「イキマブイはじ(だろう)、マブイグミさびら(しましょう)。」
彼女は、友達が言ったガジュマルの木の下に連れて行かれ、ユタは地面に土盛を作って、何やら木の枝を刺して拝むと、件のガジュマルの木の幹を何度もなでて、最期に彼女の胸にその手を置いて、強くとんと押した。これでいいさー、とユタは言うと、それまでの恐ろしくきつい顔を緩め、初めてにっこり笑ったそうである……
(1960年代の話 1976年初夏、筆者19歳の折に採話)
これはユタが今も信じられている証を示す、すこぶる興味深い話である。なお、ガジュマルの木は、沖繩の悪戯っぽい妖怪キジムナーの棲み家とも言われるから、木の上の彼女はキジムナーの変化だったのかも知れないなとも僕は夢想する……では、第二話だ――
*
教員になった頃、僕は毎日のように大船で飲んだくれていた。その今はなき「PACO」(エスペラント語で「平和」という意味)という飲み屋で、三十がらみの仲宗根某という飲み仲間から聞いた話。
……小学生の時、首里郊外の借家に住んでいた。母は病死し、三人兄弟(私は末っ子)、道路工事の土方で遅い父親は、いつも玄関脇の四畳半で寝起きしていた。ところが、毎夜、一時を過ぎた頃になると、その部屋から、隣の私等の雑魚寝している六畳の居間に、「うー、うー」という父親のいかにも苦しそうな呻き声が聞こえてくるのだった。それは、小学生の低学年だった私でさえ、目を醒ますほどのおどろおどろしい響きだった。
思い余ってある時、私は父親に聞いた。
「おとぅ、毎晩でーじ(たいへん)苦しそう」
すると、おとぅは、みんなに次のように語った。
疲れてばったり眠る、けれど、そのうちに、赤ん坊の泣き声が遠くから聞こえてくる、うっすら眼を開けると、お前達の部屋との間の障子に空いた穴が見える、今度はそこから、小さな女が出てくる、
「ぐまさん、ぐまさんうふちゅぬいなぐさ、とーがうとぅるさん(小さな、小さな大人の女なんだ、それが恐ろしい)」……
……ある日、学校から帰った私は、近くのユタのおばぁが、家の前で、お払いに使う木の小枝を地面に刺して、あろうことか私の家の方を拝んでいるのに、出くわしてしまった。ユタのおばぁは、私に気づくとそそくさと去って行ったが、私は、その夜、そのことをおとぅに告げた。おとぅは翌日、ユタの元を訪ねて、懇ろに前日の昼の拝みの訳を尋ねた……
……沖繩戦で焼かれる前、そこは産婆の住まう家があった。その産婆はいらぬ子を子の欲しい家へ按配してくれるので、流行っていた。しかし、滅多にその子の消息を聞くものはないのが不思議でもあった。戦後、行方知れずになった産婆の家のその焼け跡を見ると、その家の中には、隠し井戸がこしらえてあったさ……
……家に帰ったおとぅは、自分の寝ている四畳半の板敷きを上げてみた。そこには、黴蒸した廃井戸が奈落へと口を開けていた。そのユタを呼んでお祭りをしてもらったことは言うまでもない。それ以降、そのおとぅがうなされることは、なくなった……
(1950年代の話 1980年年末、筆者23歳の折、採話)
この話は、漸層的に真実が明らかにされてゆく上質の怪奇談として、僕には忘れ難い。そうして実は、赤ん坊の声こそが、恐怖の眼目なのだ。なお、以上二話の沖繩方言の表現部分は、沖繩言語研究センターデータベースを参考にして僕が想像したものである。
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……さて、ガマが恐いと言った人。実はありそうなガマの怪談は、全く言っていいほど、ない。何故だか、分かるかな? 沖繩戦の悲惨は、今も忘れてはならないものとして「現実」なのだ。怪談にする余裕も、不真面目さも、あの闇には、ない。
*
……しかし、沖繩の怪異とは何か。
……有毒なソテツの実さえ食わねばならない台風の飢餓、薩摩藩は赤ん坊にまで人頭税をかけた、皇民化政策の中で、学校では方言を使った者に罰札を与え廊下に立たせた、あの詩人高村光太郎でさえ、沖繩こそ日本の橋頭堡とおぞましくも沖繩戦賛美の詩をものした、占領下の沖繩で小さな子をひき殺した米兵は、本国のフィアンセに土産をたんまりもって悠々と帰国した、本土復帰、しかし今現在も沖繩が失業率全国一であることを本土のどれだけの人間が知っているだろう、辺野古では米軍のヘリポート建設のために、ジュゴンのやってくる珊瑚の海が壊されそうになっていることを君は知っているか、あの不死身のはずのウルトラマンは沖繩出身で、本土の架け橋になる夢を懐きながら、それを成しえない焦りと苦悩の中、アル中になり、滑って頭を打って惨めに死んだのだということを……知っているか……
それらこそが、本当に恐ろしい怪異として、僕等の眼前に立ち現れてくるではないか……
「耳嚢 巻之三」に「其職の上手心取格別成事」を収載した。
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其職の上手心取格別成事
小笠原平兵衞、小笠原縫殿助(ぬひのすけ)は騎射歩射の禮家也。今の平兵衞租父は老功の人にてありしが、有德院樣御代、惇信院(じゆんしんゐん)樣御婚姻の御用被仰付、懸りの御老中方と度々申合有しに、御輿迎ひの御用承り給ふ老中、家來の禮者に段々學び給ひて、其式法を辨へ給ひけれど、猶小笠原に對談ありて其式を相談有けるに、平兵衞申けるは、如何御心得被遊候哉、思召の御式を承りたしと申けるにぞ、かく/\致さんと心得候由被申ければ、至極其通にて聊(いささかも)當家の通禮式に相違なし、至極其通り可然と申けると也。傍に聞し人、老中心得の通禮式相違なしやと平兵衞へ尋ければ、答へていへるは、さればとよ當流と違ひし事も有なれど、都(すべ)て禮は其規式に望みて間違なく、事やすらかに濟んこそ禮の可貴(たふとぶべき)所なり、老中の此度御用被仰付、志しを勞し其家士に學び給ひしを、夫は違へり、是はか樣有たしといはゞ、其期(ご)に望んで迷ひを生じ、自然滯る事もありなん、かの學び覺へ給ひしを其通也と譽め稱しぬれば、其學に覺へ給ひし事なれば、心も伸びて取計ひ越度(おちど)なきものとかたりし由。誠に其職の上手名人ともいふべきと沙汰ありしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:第八代将軍吉宗御世で連関。ここのところ、登場人物の騎射が多出している点での繋がりもあるように思われる。老中が登場人物である以上、相応な配慮を致すが必定と、そのような藪野家礼法として仕儀を現代語訳に仕込ませて御座ればこそ――。
・「小笠原平兵衞、小笠原縫殿助は騎射歩射の禮家也」弓道に関わるYamato氏の堅実なるHP「そらにみつWebSite」に、ズバリ! 「小笠原平兵衛家と小笠原縫殿助家」という頁が存在する。本話柄の注として、これ以上正鵠を射たものはないので、少々気が引けるが全文引用させて頂く。御免蒙る、Yamato殿!
《引用開始》
江戸時代には旗本で弓馬礼法の師範家として、小笠原平兵衛家と小笠原縫殿助家が存在します。現在の小笠原流宗家は平兵衛家になります。小笠原流は流祖長清から長経→長忠と続き、室町末期の長時・貞慶父子と受け継がれます。他方で長忠の弟に清経が居り、伊豆国の赤沢山城守となり代々赤沢姓を名乗ります。
赤沢家が経直の代に、惣領家長時・貞慶父子は信玄に信州を追われて越後の上杉謙信の元に落ち延びます。その後に伊勢に移り同族である阿波・三好長慶に招かれ上京し、将軍義輝公の弓馬指南役となり河内国高安に領を賜ります。しかし、将軍義輝公は長慶亡き後の三好政権中枢の松永弾正と三好三人衆により殺されてしまいます。これにより長時・貞慶父子は再度越後の謙信を頼ることになりました。1578(天正6)年に謙信が病死した後は越後を去り、会津の蘆名氏の元に身を寄せます(天正11年、長時は会津で没します)。1579(天正7)年貞慶は家督を継ぎ信長に仕えて武田勝頼と戦います。天正10年に武田氏が滅亡すると、信長より信州の一部を与えられ旧領に復します。本能寺の変で信長亡き後は家康の家臣となり、松本城を与えられて大名として復帰しました。
このように、小笠原惣領家は戦国の争乱のまぎれに弓馬の伝統が絶えたとも伝えられています。現在の小笠原宗家の小笠原氏来歴書には、「小笠原長時及貞慶の時に至り家伝弓馬的伝礼法一切を小笠原経直に譲る。経直弓馬礼法に精進せるを以つて徳川家康召して武家の礼法を司どらしむ。」とあるそうです。弓馬礼法伝来系譜には1575(天正3)年の出来事であったと記されており、京を離れて再度越後に落ち延びていた時期に当たります。
赤沢経直は長時・貞慶父子から糾方的伝・系図・記録を受け継ぎ、赤沢の姓を小笠原の本姓に復して、小笠原流弓馬礼法の一切を掌りました。その後、1604(慶長9)年に徳川家康に拝謁し、小笠原の弓馬礼法を以て将軍家に旗本500石で仕え、大名旗本の糾方師範となりました。小笠原平兵衛家中興の祖と言われています(経直より三代後の常春が平兵衛と名乗り、代々平兵衛を名乗っていた事より)。
ここからは縫殿助家の話をしていきたいと思います。流祖長清から長経→長忠と続く惣領家の当主が宗長の時に鎌倉幕府が滅び、宗長の子である建武武者所・貞宗の頃には南北朝時代の乱世が訪れ、貞宗は後醍醐天皇に仕えました。宗長の弟である長興は伊豆赤沢家の養子となり、長興の子常興も惣領家と同じく南朝に仕えます。後醍醐天皇は貞宗・常興を師範とし、貞宗に対しては昇殿を許すまでに至ります。また、貞宗・常興は「神伝糾方修身論64巻」という起居動静之法を定めた書物を記し、これが小笠原流の根本となる秘書となりました。この後貞宗・常興は足利氏に招かれて室町幕府に仕えることになり、貞宗の曾孫に当たる足利義満師範「長秀」は、将軍家より諸礼品節を糺すべき命を蒙り、今川氏頼・伊勢憲忠の両氏と議して「三儀一統」を現しました。「当家弓法集」といい12門より構成されています。また、「弓馬百問答」を編して家宝とし、小笠原流の基礎を固めました。この頃より、幕府即ち武家の礼を2部門に分け、伊勢氏は内向き(殿中)の諸礼を仕い、小笠原家は外向き(屋外)一切の武礼をあづかる様になりました。
縫殿助家の話が全然出てきませんが、建武武者所・貞宗の弟に貞長が居り、別に一家を立てることになりました。この家が後世まで続き江戸時代の幕臣である小笠原縫殿助家になります。八代将軍吉宗公が騎射歩射の業を再興復古させようとして古書を集めた時には、縫殿助家から古書を多く得たと言われています。平兵衛家・縫殿助家は相助け合いながら弓馬礼法を司り、吉宗公が再興復古した新流(徳川流!?)も両家に預けられて、古流・新流の両方とも存続させて幕末を向かえます。現在の小笠原宗家である平兵衛家は存続していますが、縫殿助家は弓を離れてしまったのか、調べることが出来ませんでした。幕臣であった日置当流・吉田宗家と同じパターンですね。
《引用終了》
以下、最後に「参考文献」として「弓道及弓道史」浦上栄・斉藤直芳著、「弓道講座小笠原流歩射入門」小笠原清明・斉藤直芳著、「日本武道全集」第三巻の三冊の書名が掲げられてある。
・「今の平兵衞」小笠原常倚(つねより 寛延3(1750)年~安永4(1775)年)。底本の鈴木氏注によれば、『安永四年遺蹟(五百石)を継いだが同年二十六で没した』とある。「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるが、その下限まで引っ張ると、この「今の平兵衞」という謂いは11年も経過していて、不自然である。これはまさに常倚が生きていた当時の根岸の記録を元にしているものと考えてよい。因みに、安永4(1775)年頃、根岸は御勘定組頭で30代後半、翌年に39歳で御勘定吟味役に抜擢される、まさに油ののり切った時期にあった。
・「今の平兵衞租父」小笠原常喜(つねよし 貞享2(1685)年~明和6(1769)年)。底本の鈴木氏注に、『書院番、御徒頭、御先鉄砲頭、御持筒頭、新番頭を歴任。宝暦九年西丸御留守居、従五位下出羽守。明和元年御旗奉行、四年致仕』とある。
・「小笠原縫殿助」小笠原持易(もちやす 元文5(1740)年~安永5(1776)年)。底本の鈴木氏注に、『七百八十石を領し、明和元年御徒頭』とある。なお、氏は『本書執筆当時の縫殿助は』という条件文を示しておられが――これは決して揚げ足を取るのではない――ただ「耳嚢」の執筆の着手を佐渡奉行在任中の天明5(1785)年頃とされ、「卷之二」の執筆の下限を天明6(1786)年までと置かれたのは鈴木氏である――しかし、ここで見たように、この二人の登場人物は既に1770年代中頃には死去している。前注で示した如く、この話を根岸が記録として残したのは11年以上前の、1775年代以前に遡るものでなくてはならない。『本書執筆当時』というのは少し違和感が私にはあるのである。天明6年より遡れない「耳嚢」(記事ではない)の執筆時期には、明らかに両家は代替わりをしてしまっているからである。くどいようだが『本件記事を記録した当時』とされるのが厳密であろうと思われる。
・「騎射歩射」「騎射」は「騎射三物」。五項前の「雷公は馬に乘り給ふといふ咄の事」の「騎射」の注を参照。「歩射」は「かちゆみ」とも読み(「ほしゃ」は正式な読みではないという)、騎乗せずに地面に立って行う弓射を言う。以下、ウィキの「弓術」の該当項より一部引用する。『南北朝時代以降、戦陣において歩射が一般化すると』、『戦国時代初期には歩射弓術を基礎とする日置流が発生し、矢を遠くへ飛ばす繰矢・尋矢(くりや、遠矢とも)、速射をする指矢(さしや、数矢とも)など様々な技法が発展した』が、実践を重んじる武射系――実は、礼節を重んじる「文射」という大切な側面が弓にはあり、さすれば、この話柄に於いて老中が公家の姫君を迎える礼法について小笠原に訊ねるというのも、眼から鱗なのである――『では、膝を着いて弓を引き、的(敵)を射る射術が基本であり、その他にも様々な体勢の技術が伝わる』。因みに、このウィキの記載から、騎射と歩射の二大射法以外にもう一つの射撃法があることを知った、「堂射」である。同じページから該当項を引用して参考に供しておく。『堂射とは江戸初期に京都三十三間堂、江戸三十三間堂、東大寺などで盛んに行われた通し矢競技の射術。弓射の分類は伝統的に騎射と歩射の二分類であるが、江戸時代に堂射が隆盛し独自の発展を遂げたので、射法の系統としては堂射を加えた3分類とされることが多い。堂射は高さ・幅に制限のある長い軒下(三十三間堂は高さ約5.5m、幅約2.5m、距離約120m)を射通す競技で、低い弾道で長距離矢を飛ばし、さらに決められた時間内で射通した矢数を競うため、独自の技術的発展を遂げた。江戸時代中期以降堂射ブームは沈静化したものの、堂射用に改良された道具(ゆがけ等)や技術が後の弓術に寄与した面は大きい。日置流尾州竹林派、紀州竹林派の射手が驚異的な記録を残した事で有名』。
・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡り名。
・「惇信院樣御婚姻」「惇信院」は九代将軍徳川家重(正徳元(1712)年~宝暦11(1761)年)の諡り名。その「御婚姻」というのは正室増子女王(ますこじょおう 正徳元(1711)年~享保18(1733)年)との婚儀を指すものと思われる。増子女王は伏見宮邦永親王の第4皇女で、父吉宗の正室理子女王の姪。享保16(1731)年に家重と婚姻、江戸城西の丸へ入って御廉中様(将軍世子の正室)と称された。享保17(1732)年に家重と船で隅田川遊覧をした記録がある。享保18(1733)年に懐妊したが、9月11日に早産(生まれた子も間もなく死去)、増子も産後の肥立ちが悪く、同年10月3日に23歳の若さで死去した。彼女は家重将軍就任前に没していることから、御台所とは呼称されない(以上はウィキの「増子女王」を参照した)。側室に聡明な第十代将軍徳川家治を生んだ於幸の方(公家梅渓通条の娘)や於遊の方(三浦義周の娘・松平親春養女)などがいるが、本話柄の緊張感は、やはり正室増子女王とのものであろう。
・「懸りの御老中方」仮にこれが正室増子女王との享保16(1731)年の婚儀を指すものであったとすれば、当時の老中は以下の三人である。
酒井忠音(ただおと 元禄4(1691)年~享保20(1735)年)若狭小浜藩第5代藩主。当時42歳。老中の前職は奏者番兼寺社奉行・大坂城代を歴任。後に侍従。因みに彼は在任中の死去。
松平信祝(のぶとき 天和(1683)年~延享元(1744)年)下総古河藩第2代藩主・三河吉田藩主・遠江浜松藩初代藩主。当時49歳。因みに彼も在任中の死去。老中の前職は大坂城代のみ。
松平輝貞(てるさだ 寛文5(1665)年~延享4(1747)年)側用人・老中格。上野国高崎藩初代藩主。当時67歳。
ビビッているのはこの中の誰かということになるが、最年長で綱吉時代からの側用人、海千山千、老中「格」でもあればこそ松平輝貞ではあるまい。年齢的には酒井忠音が最も若いが、キャリアの弱さから見ると、自信のなさそうに見えるのは松平信祝か? 識者の御教授を乞う。
・「其規式に望みて間違なく」底本では「望み」の右に『(臨)』の注記を附す。
・「其期に望んで迷ひを生じ」底本では「望み」の右に『(臨)』の注記を附す。
・「越度(おちど)」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
その道の名人の心構えは格別という事
小笠原平兵衛殿と小笠原縫殿助(ぬいのすけ)殿の御家系は、弓道に於ける正統なる騎射歩射の礼家で御座る。
さて、今の小笠原平兵衛殿御祖父常喜(つねよし)殿は誠(まこと)老功なる御仁で御座った。
有徳院吉宗様の御代のこと、小笠原平兵衛常喜殿、当時、世子であられた惇信院家重様の御婚姻の儀の御用を仰せつけられ、係りとなられた御老中方と度々打ち合わせを致いておられたのじゃが、増子女王様御輿(おんこし)迎えの御用を承っておられた御老中が――初めてのこととて、自家の家来のうちの礼法を職掌とせる者に命じて、細かな作法の教授をお受けになられ、だんだんと相応に学ばれて、その式法につきては粗方の弁えをなさっては御座ったれど――土壇場になって、なお常喜殿に直談面談の上、その式法御確認の儀、申し込まれてこられた。
平兵衛殿がまず、かの御老中に、優しく静かなる声にて、
「さても、かくかくの場合、これ、如何なされんとする? 正しきとお思いになられて御座る御仕儀を承りとう御座る。」
と、お訊ね申し上げた。かの老中は、やや自信無げなご様子乍らも、
「あー……その折りには……そうさ……しかじかの如く致すがよき、と心得て御座る……」
と申されたところ、平兵衛殿、ぽんと軽く膝を打つと、
「――至極その通りにて聊かも当家の礼式に相違御座らぬ。その通りに、なさいますがよろしゅう御座る。」
と申し上げたとのことである。
さて――その老中がほっとして退座なされた後、先程より傍らにて、この様子を黙って聴いて御座った、平兵衛殿の知れる、また、小笠原家礼式に明るいある者が、どことは言わず、疑義を含んで、
「……真実(まこと)、先程の、かの御老中が仰せになった通りの礼式にて……よろしゅう御座いまするか?……」
と訊ねた。
平兵衛殿が応えて言うことには、
「……さればとよ。――確かにそなたが秘かに首を傾(かたぶ)けた如く――当流とは違うたところも、これ、御座った。……なれど――総ての礼、これ、その儀式に臨んで間違いのう、事安らかに済み終えてこそ――そこにこそ、礼の貴ぶべきところは、ある。――かの御老中、このたびの御用を仰せつけられては、気を遣い、心を悩ませて、その上に、己(おの)が赤子(せきし)たる家士如き者より、我慢致いて礼式をお学びになられた。――にも拘わらず、拙者が『それは違(ちご)う』『これはかくあるが正しい』なんどと、ちまちま申さば……肝心の御婚礼の御儀式の、その期に及んで、ふと、迷いが生じ、それがまた、自ずと、とんでもない滞りや失態を生み出すものともなる。……なればこそ――かねてより学び覚えられて、自ずと身についてこられたことであったならば――『至極その通り』と申さば――かの御老中の心ものびのびと致いて、その取り計らいに、何の落ち度も、これ、なくなるというもの。」
とのことで御座った。
後、
「……誠(まっこと)その職の、上手、名人たる者の言葉じゃ!……」
と、世間にて秘かに褒めそやされた、ということで御座る。
2年生の教え子諸君、沖縄の空が晴れることのみ僕は祈っているよ――修学旅行の成功は企画3割お天気7割なんだ――
*
弾を浴びた島 山之口獏
島の土を踏んだとたんに
ガンジューイとあいさつをしたところ
はいおかげさまで元気ですとか言って
島の人は日本語で来たのだ
郷愁はいささか戸惑いしてしまって
ウチナーグチマディン ムル
イクサニ サッタルバスイと言うと
島の人は苦笑したのだが
沖縄語は上手ですねと来たのだ
・「ガンジューイ」=「お元気か」
・「ウチナーグチマディン ムル」=「沖縄方言までもすべて」
・「イクサニ サッタルバスイ」=「戦争でやられたのか」
(山之口獏「鮪に鰯」[昭和三九(一九六四)年刊]より)
「耳嚢 巻之三」に「明君儉素忘れ給はざる事」を収載した。
*
明君儉素忘れ給はざる事
有德院樣御代、御大切の物とて箱に入て御床に有りしものあり。古き土燒の火鉢にてありし由。紀州にて未(いまだ)主税頭(ちからのかみ)樣と申せし頃、途中にて御覺被遊、安藤霜臺の親郷右衞門に求候樣被仰付、則郷右衞門家僕の調へし品のよし、霜臺教示の物語りにてありし。昔を忘れ給はざる難有明德と、子弟の爲に爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:「蛇淫を祀った長持ち」グロテスク・ホラーから、「暴れん坊将軍吉宗少年の日の思い出の小箱――ならぬ大箱の火鉢」心温まるファンタジーで明るく連関。
・「倹素」無駄な出費をせず質素なこと。ここではどんな物でも大切に使うという意。
・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。
・「主税頭」吉宗は幼名を源六、通称新之介(新之助)と呼ばれ、元禄9(1696)年12月18日13歳で従四位下に叙されて右近衛権少将兼主税頭に任官している(ここで正式の名を松平頼久とし、後、頼方と改めている)。元禄10(1697)年4月11日に越前国丹生郡葛野藩3万石藩主を襲封(のちに1万石加増)されている。一見すると彼が主税頭と呼ばれて紀州にいたのはこの14歳までのように思われるが、実際には葛野藩には家臣団が送られて統治し、吉宗は和歌山城下にとどまっていたとされている。その後、宝永2(1705)年10月6日に紀州徳川家5代藩主就任、同年12月1日には従三位左近衛権中将に昇叙転任して将軍綱吉の偏諱を賜り、「吉宗」と改名した。この時、24歳。享保元(1716)年8月13日征夷大将軍及び源氏長者宣下を経て、正二位内大臣兼右近衛大将、第八代将軍の座に就いた(以上は主にウィキの「徳川吉宗」に拠った)。従って13歳から24歳までを範囲とするが、本話柄の印象では、やはり13、14歳の少年であって欲しい。
・「安藤霜臺」安藤郷右衛門惟要(ごうえもんこれとし 正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「彈正少弼」は弾正台(少弼は次官の意)のことで、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。既にお馴染み「耳嚢」の重要な情報源の一人。
・「郷右衞門」安藤惟泰(元禄7(1694)年~享保6(1721)年)。同じ郷右衛門を名乗った安藤惟要の実父。底本の鈴木氏注に、『紀州家で吉宗に仕え、享保元年幕臣となり、御小性。三百石』とある。二十八歳の若さで亡くなっている。
■やぶちゃん現代語訳
明君は倹素ということを決してお忘れにならぬという事
有徳院吉宗様の御代のこと、上様御自身が大切の物とされて、箱に納め、常に床の間の御座敷にお置きになられていた物が御座った。それは古い素焼きの火鉢で御座った由。紀州にて未だ主税頭様と申されて御座った十三、四の砌、とあるお成りの道中、市中の道具屋の店先に置かれていたのを御覧遊ばされ、御少年乍ら、その火鉢の素朴なる風情が痛く気に入られて、安藤霜台惟要殿の父君であられた郷右衛門惟泰殿に求めて参るよう仰せつけられ、郷右衛門殿家僕が買(こ)うて御座った品の由、霜台殿御自身より承った話で御座る。
昔日をお忘れにならぬ有難き明徳の、教訓にもならんかと、御武家子弟のために、ここに記しおくものである。
「耳嚢 巻之三」に「蛇を祭りし長持の事」を収載した。
*
蛇を祭りし長持の事
天野城州日光奉行勤の折から咄しけるは、同人日光在勤の内、同所今市とやらにて長持の拂ひもの有れど、誰も調んといふ物なし。其謂れを尋るに、元來御所領の内在郷にての事にて有しや、富貴なる家に役長持を所持しけるが、右今市の者身上宜しからず、何卒富貴ならん事を祈りて右長持を買受しに、夫より日増に富貴と成て今は有福の家なる由。然るに此長持を拂はんといふ譯難分(わけわかりがたし)とて、其趣意をも糺しけるに、右長持の内に三尺計(ばかり)の蛇を飼置事也。或は四時の草を入れ、二時の食事を與へ、わけて難儀なるは二月に一度三月に一度宛、其あるじなる者右長持の内に入て、布を以蛇の惣身をよく拭ひふきて掃除して遣はす事の由。此事をいとゐてはならざるゆへに、人にも讓り度といふ由也。富貴を求る心よりは右業をもなすべけれど、彼御所領の者と成らんの人に讓りしも、或年其妻懷姙して出産しけるに蛇を産出しけるより、恐れて人に讓りしと巷説に申けるが、實事や、其證はしらずとかたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。叙述が短く、微妙な描写がスポイルされていて話がぎくしゃくしているので、相当に恣意的な敷衍訳を行った。何やらん、蛇で頰を撫ぜられたよな、虫唾が走る「耳嚢」では珍しい生理的嫌悪感を惹起させる話柄ではある。更に、言えば如何にも不吉な印象も拭えぬのだ……これを語っている天野山城守康幸自身の眼が蛇のような爛々とした輝きを以って迫って来る……語るその脣のぬらりとした感じ、時々赤い舌がそこから覗くようなが気がする……それを避けて眼を落とすと、その天野のがさついた手指に鱗がぼんやりと浮いて見えるようだ……そうして……そうしてそれはもしかすると、その彼の、十年後に訪れる転落の凶兆ででもあったのではなかったろうか?……
・「天野城州」諸注、天野山城守康幸(生没年未詳)とする。底本の鈴木氏注に、『宝暦元年御徒頭、布衣を許さる。西城御目付、同新番頭を経て安永四年日光奉行、同年従五位下山城守。寛政三年家政不始末により、采地千石廩米三百俵のところ、二百石と廩米三百俵とを没収、小普請におとされた』とある。「布衣」は「ほい」と読み、近世、無紋の狩衣を指したが、同時に六位以下及び御目見以上の者が着用したことから、その身分の者を言う。「采地」采配を振るう地の意で、領地。知行所。采邑(さいゆう)などとも言う。「廩米」は「りんまい」と読み、知行取りの年貢米以外に幕府から俸禄として給付されたものを言う。彼が転落する寛政三年は西暦1791年で日光奉行辞任との間には約7年程ある(因みに、その間の天明6(1786)年前後にこの「耳嚢」の記事は書かれている)。しかし、日光奉行の格は次注で見るように2000石500俵で、小普請入りの寛政三年時の1000石300俵では、凡そ半分に減収してしまっている。何があったのか。ともかくも本話は彼の最後の栄光の時代の話柄であったものと窺える。
・「日光奉行」元禄13(1700)年にそれまでの同職に従事していた日光目付に代えて創設された遠国(おんごく)奉行の一つ。老中支配で定員2名。役高2000石に役料500俵。東照宮・大猷院廟(徳川家光廟)の経営及び日光山年中行事等を掌った。配下に同心36人を擁した。寛政3(1791)年以降は日光目代の職権を兼務して日光領を直接支配した(以上は主に平凡社「マイペディア」の記載を参考にした)。天野康幸が日光奉行であったのは安永4(1775)年3月20日から天明4(1784)年2月12日までの9年間で、根岸が安永6(1777)年より安永8(1779)年までの3年間「日光御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用として日光山に在勤」(「卷之二」「神道不思議の事」より)していた時期と一致する。根岸の本話柄が天野から直に聴いた話であることがここから分かる。
・「今市」栃木県北西部。旧今市市更に古くは上都賀郡。江戸時代には日光街道や会津西街道が分岐する宿場町今市宿として繁栄した。現在は新たに統合され巨大化した新しい日光市に編入されている。
・「御所領」日光山の神領。記載の核心は60年ほど後のことであるが、歴史を踏まえられて書かれており、この神領の広大さが(そして実はまたその貧窮も)容易に知れるので、BE AN INDIVIDUAL氏のブログ「GAIAの日記」中の「いまいち市史」「二宮尊徳日光神領復興の構想」にある「日光神領」より引用したい(一部表記を変更した)。二宮尊徳が『弘化元年(1844)4月5日、幕府から3度目の大役を命ぜられたのは、日光神領の荒地開発の調査であった。日光神領は、日光山の開基勝道上人が1,200年前、二荒山の山頂を極め、天平神護2年(766)に四本龍寺を創建して以来、山岳仏教の隆盛に伴って繁栄してきたが、天正18年(1590)秀吉の小田原攻めに組みしなかったため、所領の大部分を没収され、わずかに門前と足尾村を安堵されたにすぎなかった』。『元和3年(1617)徳川家康の遺骸が駿河国久能山から改葬されて後、秀忠が寺領(光明院)を拡大し、東照大権現社領5,000石を寄進したのをはじめとして、家光が全体で7,000石の「判物」を出し、更に家綱が東照大権現領として1万石、大猷院領(家光)に3,600石余、計13,600石余の「判物」を出している。元禄14年(1701)の綱吉の「判物」では合計25,000石余の日光領となっている』。『その内訳は神領54ヶ村、御霊屋(みたまや)領9ヶ村、御問跡領26ヶ村とされているが、高29,065石余、反別4,064町歩余、家数4,133軒、人数21,186人、馬2,669匹で、これが日光仕法開始にあたっての、嘉永6年(1853)3月日光奉行所の調査記録である。旧今市市に含まれる41ヶ村をはじめ、日光市13ヶ村、栗山村9ヶ村、藤原町4ヶ村、鹿沼市8ヶ村、足尾町14ヶ村の地域である。過半は山村であり、地味はやせ、高冷の気候のため収穫は乏しく、不作凶作が多く、そのたびに潰れ百姓が続出、耕地も荒れて、1,074町歩の荒地をかかえ、生活は細々として恵まれない土地柄であった』とある。「判物」は「はんもつ」と読み、将軍や大名が発した文書の内、発給者花押が付されたものを言う。
・「役長持」「やくながもち」と読むか。「役」には軍役の意があるので、ただの長持ちではなく、戦時軍事用の武具等を保管運搬するための大型のものを言うか。
・「いとゐ」はママ。
■やぶちゃん現代語訳
生きた蛇を祀った長持ちの事
天野山城守康幸殿が日光奉行を勤めて御座った折りに、私に直接語られた話で御座る。
――――――
……今市とやらの宿場町道具屋にて、中古の長持ちの売り物が御座った。
拙者、一目で気に入り、相応に贅沢な作りなればこそ買い手も既について御座ろうがとも思うたが、訊けば、誰(たれ)も買おうという者がおらぬという。
不審なれば、そのいわれを訊ねてみた。……
……その長持ち、元来が日光山御神領の内の、かなりの田舎の村にあるという、さる裕福なる者の家が所持致いて御座った武具用の長持ちで御座った由。
……さて、ここに、この今市の宿の、身上傾きて如何ともし難き者が御座ったが、何を思うたか、何卒富貴にならんことを祈願致いて、この長持を買い受けたと――
――いやとよ、何故、この長持ちなのか、生活に困窮致いておるに、何故長持ちを買(こ)うたかは分からねど――もしや何やらん、この長持ちに就いての、これからお話するところの摩訶不思議な噂が、これ、既に知られて御座って、なけなしの金にて、清水の舞台から飛び降りる気持ちで買(こ)うた、ということででも御座ったか――
……ところが……それからというもの、この左前で御座った男、日増しに商売繁盛致いて、今では今市にても有数の富家となって御座る、ということであった。
「……然るに何故、その福を呼んだ長持ちを売らんとする? 訳が分かりかねるが?……」
と、再応、その主意を糺したところが――
……この長持の内には……
――三尺ばかりの蛇が飼いおかれておる――
というのじゃ。……
……或いは四季には必ずそれぞれの草々を敷き入れ……日には必ず二度の食事を与えて世話致させねば、これならず……なかにても難儀なは……季節により二つ月或いは三つ月に一度づつ必ず……家の主人、これ、この長持ちの中にすっぽりと入り……用意した上布にて……かの長き蛇の……そのおぞましき総身を……きゅうるきゅうるきゅっきゅっ……きゅうるきゅうるきゅっきゅっ……と……よう拭いた上……長持ちの中も……隅から隅まで蛇と一緒に……舐めるように這い蹲って……掃除してつかわすこと……これ、必定の由。……
「……まんず、厭うてはならざる故――それがまた、日々忌まわしく厭わしくなった故――人に譲らん、とて手間どもの店にこうして置いて御座るのですが……まんず、この話、知らざる者、この辺りにては、知らぬ者とて御座らねばのぅ……」
とのこと。――
……何でも――その後(のち)耳に入ったことにて、拙者の謂いにては、これ、御座らぬぞ――富貴を求める執心にては、それ位のことは、我慢出来そうなもので御座るが……いやとよ、最初にお話致いた、ほれ、例の最初の長持ちの持主で御座った御神領の裕福なる者……彼がそれを今市の者に売り渡した本当の理由は……実は……その富家の妻、これ、懐妊致いて出産したところが……生まれ出でたは……何と、蛇で御座ったと……あまりのことに恐れ、丁度、求むる者がおったればこそ、厄払いにかの者に譲ったのじゃ……とは、もっぱらの噂で御座る。
……いやとよ……根岸殿、これ、事実かどうかは……存ぜぬがの……
――――――
とは、山城守殿の何とも言えぬ気味悪き真に迫った語りでは、御座った。
「耳嚢 巻之三」に「年ふけても其業成就せずといふ事なき事」を収載した。
*
年ふけても其業成就せずといふ事なき事
予がしれる田代某は三百石にて、壯年より弓馬を出精して騎射帶佩を修業して、兩御番大御番の御番入りを願しに、かの家は寶永の頃桐の間御廊下の類にて、元來猿樂より出し家なれば御番入もなくて、いろ/\なしけるに御番入は成がたしといへる事、あらはに知れけるにぞ大に歎き、然らば御右筆の御役出をなさんと思ひけるに、誠に無筆同意の惡筆なれば、此願ひも叶ひがたしと長歎なしけるが、あくまで氣丈なる人にて有りし故、年三十餘四十に近かりしが、一願一誓を生じて頻に手習をなしけるが、三年目に願の通御右筆に出で、夫より今は番頭(ばんがしら)といふものに轉役なしけるなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:努力の人、祐筆職となる、で直連関(但し、こちらは大名の祐筆ではなく、幕府祐筆である)。本話柄には当時の芸能者への職業差別が如実に反映されている。現代語訳でもそれが分かるように訳しておいた。こうした差別に対して批判的な視点を以ってお読み頂けるよう、お願いしたい。
・「田代某」田代賀英(よしひで 正徳5(1715)年~寛政8(1796)年)。底本の鈴木氏注に、『九左衛門、主馬。延享二年、養父賀信の遺跡を継ぐ。のち騎射をつとめて物を賜わる。宝暦九年表右筆、安永四年富士見御宝蔵番頭、寛政元致仕、八年没、八十二。田代氏は賀信の父賀次のとき、葛野一郎兵衛の弟子となり、猿楽の技を以て相馬図書頭に仕え、のち徳川氏の臣となったものと家伝にある。』と記し、岩波版長谷川氏注には更に、田代家は元は我孫子姓であって、前記相馬図書頭の扶助を受けて御家人になったという経緯を記されている。彼が表祐筆(祐筆には将軍側近として重要機密文書を扱った奥祐筆と一般行政文書担当の表祐筆とがあった。詳しくは前項注参照のこと)となった宝暦九年は西暦1759年であるから、数え45歳である(富士見御宝蔵番頭となった安永四年は西暦1775年で61歳)。「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから、執筆時にはばりばりの富士見御宝蔵番頭現役の70歳前後である。
「新訂寛政重修諸家譜」に「紹古」という号を記すが、古えを引き継ぐ、とは如何にも元右筆っぽい号ではある。
・「騎射帶佩」「騎射」は「騎射三物」。二項前の「雷公は馬に乘り給ふといふ咄の事」の「騎射」の注を参照。「帶佩」は元来は「佩帯」と同義で、太刀を身に帯びることを言ったが、ここでは騎射と合わせて、剣術の身の構えや型や作法を言う。後には広く武術から芸能の型や作法の意にも拡大した。「体配」「体拝」とも書く。
・「兩御番」底本の鈴木氏注に、『初めは大番と書院番をいったが、後には書院番と小性組番の称となった。』「大番」は、将軍を直接警護する、現在のシークレット・サーヴィス相当職であった五番方(御番方・御番衆とも言う。小姓組・書院番・新番・大番・小十人組を指す)の一つで、中でも最も歴史が古い。「書院番」は将軍直属の親衛隊で、ウィキの「書院番」によると、『当初四組によって構成され、後に六組まで増員される。また親衛隊という性格から、西丸が使用されているとき(大御所もしくは将軍継嗣がいるとき)は、西丸にも本丸と別に四組が置かれる。一組は番士50名、与力10騎、同心20名の構成からなる。番頭は、その組の指揮官である』。『大番と同じく将軍の旗本部隊に属し、他の足軽組等を付属した上で、備内の騎馬隊として運用されるが、敵勢への攻撃を主任務とする大番と異なり、書院番は将軍の身を守る防御任務を主とする』とある。「小性組番」は小姓組番とも書き、単に小姓(小性)組とも呼ばれた。ウィキの「小姓組」によれば、『一般的イメージの小姓とは異なり、純然たる戦闘部隊で』、『慶長11年(1606年)11月に設立され、水野忠元・日下部正冬・成瀬正武・大久保教隆・井上正就・板倉重宗の六人を番頭とし』て創始されたもので、『戦時の任務は旗本部隊に於いて将軍の直掩備・騎馬隊の任に就き、平時は城内の将軍警護に就く。書院番とともに親衛隊的性格を持つため、番士になる資格が家格や親の役職などで制限されていた。そのため番士の格が他の番方より高いとみられ、その後も高い役職に就くことが多かった。若年寄支配で、番頭の役高4000石。6番あり、番頭の他に与頭1人と番士50人。西の丸に他に4番あった』とある。この両番(書院番と小姓組)の有能な番士には、特に出世の途が開かれていた旨、ウィキの「書院番」の記載中にある。因みに残りの「新番」は『将軍の江戸城外出時に隊列に加わり、警護に当たったほか、武器の検分役などの役目』を持った部隊で、『新番の責任者である新番頭は、役高2000石であるが、5000石級の旗本から選任されることもあった。新番衆の役高は250石(俵)であり、書院番衆・小姓番衆より50石(俵)少ないが、軍役上、馬を常時用意する義務がないのが特徴である。ただし、馬上資格は認められている。大番と同じく出世は限られていた』とあり(引用はウィキの「新番」より)、「小十人組」は将軍及びその嫡子を護衛する歩兵を中心とした親衛隊で、前衛・先遣・城中警備の3つの部隊に分かれ、その頂点に小十人頭(小十人番頭)がいた(以上はウィキの「小十人」を参照した)。底本の卷之一にある鈴木氏の注によれば、小十人組は若年寄支配で『二十人を一組とし、組数は増減があるが、多い時は二十組あった』とある。
・「大御番」前注の「大番」に同じ。
・「番入」番衆に加えられること。以上の注から判然とするように、一般に行政職を役方、警察保安相当職を番方という。
・「寶永」西暦1704年から1711年であるが、次注で示す通り、これは宝永元(1704)年から宝永6(1709)年に絞られる。
・「桐の間」底本の鈴木氏注に『桐の間番といい、能楽に巧みな者をかかえ、城中の桐の間を詰所とした。綱吉の時から始ま』ったが、岩波版の長谷川氏の注によれば、宝永6(1709)年に廃止されたとある。この桐の間番はまた、美少年を集めた綱吉の城内での半ば公然たる若衆道の場でもあったらしい。宝永6年とは第6代将軍家宣の就任の年である。綱吉の養子であった彼は、養父ながら綱吉と家宣の関係は良好ではなかったとされ、就任するや、庶民を苦しめた生類憐れみの令や酒税を廃止、柳沢吉保を免職、新井白石らを登用しての文治政治を推進したが、そうした清浄化の方途の一つがこれだったのであろう。また、根岸が、当時、富士見御宝蔵番頭現役の相応に知られていたはずの田代賀英を、わざわざ「田代某」と濁している点、田代家の家系を述べる際にも、何となく歯切れの悪さがあるのは、そうした出自を慮ってのことででもあったのであろう。相応の出世をした根岸であったが、彼自身、全く以って古えの由ある血脈ではなかった。現代語訳では敷衍訳をして、そうした差別感覚や根岸の同情し乍らも、如何とも言い難い内心を出してみたつもりではある。
・「御廊下」底本の鈴木氏注に『廊下番。能役者の中から選抜し苗字を改めて勤番させたもの。綱吉のとき貞享元年に始まる。』とある。
・「猿樂」この場合は能楽の意で用いている。狭義・原義としての猿楽は平安期の芸能で、一種の滑稽な物真似や話芸を主とし、唐から伝来した散楽(さんがく)に日本古来の滑稽な趣向が加味されたものであった。主に宮中に於ける相撲節会(すまいのせちえ)や内侍所(ないしどころ)の御神楽(みかぐら)の夜に余興として即興的に演じられていたものが、平安後期から鎌倉期にかけて、寺社の支配下に猿楽法師と称する職業芸能者が出現し、各種祭礼などの折りに、それを街頭で興行するようになった。それに更に多種多様な他の芸能が影響を与え、次第に高度な演劇として成長、戦国から近世初期にかけて様式美を持った能や狂言が成立した。そうした関係上、江戸から明治初期にかけて能・狂言を指す古称として猿楽という語が使われていた。
・「右筆」祐筆に同じ。前項注参照。
・「御役出」読み不明。「ごやくしゆつ」か、それとも「おやくにいづる」と訓読みするか(やや苦しい)。ともかくも、御役に出る、役職に就く、役付きの仕事に昇進することであろう。
・「番頭」前注の田代賀英の事蹟に現れる「富士見御宝蔵番頭」を意識的にぼかして言った。北畠研究会のHP「日本の歴史学講座」の「江戸幕府役職辞典」に、『留守居支配の職で、徳川氏歴代の宝物を収納している富士見宝蔵を守備する任務である。定員は4人で、御役高400俵高である。宝蔵は中雀門を入って北に進み、富士見櫓と数寄屋多門の続きの二重櫓の中間の北側に張り出た一角にある。ここは4棟5区割に分かれている。番所は、本丸中雀門の北側の北隅の一角の宝蔵の塀に相対したところにあり、ここに番衆が詰め、その隣に番頭の宿泊所があってここで番頭は当宿直する』とある。因みに、その支配下にあった「富士見宝蔵番組頭」及び「富士見宝蔵番衆」については、『10数人おり、交替で当宿直する。番衆は100俵高の御目見の譜代席以下で、御役御免になると家禄だけでは100俵もらえない。世話役は御役扶持として3人扶持支給された。組頭は、番衆が病気などで欠勤すれば、古参の者を行かせて病気見舞いさせるし、事故による欠勤・遅刻があれば、相番の者たちに知らせなければならない。番衆の出勤時刻は、朝番が午前8時・夕番が午前10時・不寝番が午後4時となっている。不寝番の者は登城すると御帳といわれる出勤簿に判を押し、交替で不寝番をした。そして翌朝の朝番出勤の者と勤務引継ぎをおこなった』とある。
■やぶちゃん現代語訳
年老いていても誠心あらば物事成就せざるということなき事
私の知人である田代某殿は石高三百石取りにて、壮年に至ってから初めて弓馬の稽古に励まれ、騎射三物(みつもの)帯佩技法を修行致いて、何とか両御番や大御番入りを願って御座ったが――如何せん、田代殿の御家系、これ、宝永の頃、桐の間番やらん、御廊下番やらんといった『特別な』類いの出自にて御座って――元来が、その、武家にては御座なく、所謂、かの猿楽の流れを汲む血脈(けちみゃく)から出でた御家系にて御座ったがため――結局、御番入りもなく――田代殿御自身、自ら色々と手を尽くしてはみられたものの――ある時、知れる人より、
「……御番入りの件で御座るがのぅ……あれは、遺憾乍ら……貴殿の御家系にては……成り難きことにて、御座れば……」
と、あからさまに言われ、いよいよ我が身の血の程を、知ることと相成って御座った。
田代殿、暫くは殊の外の落胆の体(てい)にて御座ったが、ある時、
「……なれば一つ、御祐筆の御役を得んことに精進致そう!」
と思い立って御座った。
……なれど――思い立ったはよう御座ったが――実は、田代殿――生来、読めるような字の書けぬ――と言うては失礼乍ら、これ――文盲かと紛うばかりの悪筆で御座ったがため、
「……と思うたものの……やはりこの願いとても……いや、なおのこと、叶い難きことにて、あるかのぅ……」
と深く長い溜息をついて諦めかけて御座った……
……が……
そこでめげずに、清水の舞台から飛び降り、
「……いや! やはり! ここが土壇場! 正念場ぞ!」
――――――
……また、田代殿は、あくまで気丈なお人柄でも御座ったが故――なれど、そうさ、もうその頃には、齢(よわい)三十余り、四十にも近こう御座ったのじゃが――一願一誓の御覚悟を立て――
一心不乱!――
――手習いに手習い! ただ手習い! あくまで手習い! 一に手習い二に手習い三四五六七八九……九十九と百に手習い!――
……と、三年が経ち申した。――
――――――
その三年目のことで御座った。
かの、蚯蚓がのたくって干乾びて蟻がたかった如き悪筆の田代殿が――何と! 美事、願いの通り、御祐筆役儀として出仕なされた!
――――――
さても、それより堅実に勤仕なされ――今ではさる番方の頭という重役に御栄転なされたとの由にて御座るよ。
大成君と瑛子さん、結婚おめでとう!
私のメッセージは僕の盟友にして名優の俊夫先生が代役を演じて読んでくれ、美事に大芝居で当てて呉れた由、あっしーより、メールで知りました。因みに、あの内容は総て「本音」だからね!
改めて、このブログで二人の船出を祝福し、以下の詩を贈ります♡――
航海を祈る 村上昭夫
それだけ言えば分ってくる
船について知っているひとつの言葉
安全なる航海を祈る
その言葉で分ってくる
その船が何処から来たのか分らなくても
何処へ行くのか分ってくる
寄辺のない不安な大洋の中に
誰もが去り果てた暗いくらがりの中に
船と船とが交しあうひとつの言葉
安全なる航海を祈る
それを呪文のように唱えていると
するとあなたが分ってくる
あなたが何処から来たのか分らなくても
何処へ行くのか分ってくる
あなたを醜く憎んでいた人は分らなくても
あなたを朝焼けのくれないの極みのように愛している
ひとりの人が分ってくる
あるいは荒れた茨の茂みの中の
一羽のつぐみが分ってくる
削られたこげ茶色の山肌の
巨熊のかなしみが分ってくる
白い一抹の航跡を残して
船と船とが消えてゆく時
遠くひとすじに知らせ合う
たったひとつの言葉
安全なる航海を祈る
*
お幸せに♡♡♡
「芥川龍之介輕井澤日録二種」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。これは「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」に対する補注がてら、参考資料としてネット上に供したものである。
この追加を経て、本日、後者の注釈部分について、大々的な追加補正を行った。【最終的な作業は10月24日の13:55に終了した】
従って「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」については、興味をお持ちの方、お手数乍ら、注釈部分は再度、お読み戴けると、幸甚である。250000アクセス記念に拘った結果、注に甘い部分(これは叙述の穏和さという意の掛詞でもある)があったのだが、その部分をテッテ的に剔抉して、その切開部分にとびっきりのスパイスを押し込んで、相応に読むあなたがびっくりするような仕掛けがしてある――
「耳嚢 巻之三」に「精心にて出世をなせし事」を収載した。
*
精心にて出世をなせし事
久留米侯の家中祐筆に何某とて手跡の達人有しが、右の者咄しける由。同家中に徒士を勤ける者、男ぶりも小さく醜き生れ故、供歩士(ともかち)などには召遣はれず、使のみに歩行(あり)て欝々と暮しけるが、かくして世を渡らんも無念也とて、或日女房に向ひて、某かく/\の事にては世に出ん時なし、是よりして晝夜手跡稽古して、何卒一度世に出んと思ふ也、夫に付妻子有りて我勤めも出來がたし、三年の間里へ歸りていか樣にもいたし、三年の後一ツにあつまる事を思ひ、凌ぎ呉候樣申けるに、女房も其量(りやう)有けるや、尤の由にて立別れ里へ歸りけるに、彼(かの)徒士(かち)夫より毎夜明け七時(ななつどき)迄手習をなし、夜々一時(いつとき)宛臥て、晝も役用の外は手習のみにかゝりて、彼右筆の手跡を習ひけるに、三年過て師匠たる者の手跡よりは遙に増り、則右筆に出て段々出世しける。精心氣丈成者は如斯(かくのごとし)となん。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。解釈に異論もあろうが、臨場感を出すために、ほとんどの現代語訳を話者自身の体験による一人称として訳した。
・「久留米侯」久留米藩有馬氏。筑後国御井(みい)郡(現在の御井郡は大刀洗町一町を除きその広大な郡域の殆んど久留米市に吸収されてしまっている)周辺を領した。以下、ウィキの「久留米藩」の江戸時代パートを引用しておく(記号の一部を変更・削除した)。『江戸開幕当初は筑後一国(筑後藩)32万5000石を領する田中吉政の所領の一部であり、久留米城には城代が置かれた。元和6年(1620年)、二代藩主田中忠政が病没すると、無嗣子により田中氏は改易となった』。『同年、筑後藩は分割され、柳河城に入った立花宗茂が筑後南部の10万9000石を領有、久留米城に入った有馬豊氏が筑後中部・北部の21万石を領有した』。『また、宗茂の甥・立花種次が1万石にて三池藩を立藩した』。『久留米の地には丹波国福知山藩より有馬豊氏が13万石加増の21万石にて入封。ここに久留米藩の成立をみた。こうして筑後地方の中心は柳河からその支城であった久留米に移った。有馬豊氏は入封後、久留米城の改修を手がけ、城下町を整備した。なお、有馬氏末裔の有馬頼底は「大した働きもしていないのに13万石加増になったのは不可思議である」旨の発言をしている』。『寛文4年(1664年)から延宝4年(1676年)にかけて筑後川の治水・水利事業が営まれ、筑後平野の灌漑が整えられた。米の増産を目的としたこれらの事業は逆に藩財政を圧迫する結果となった。第4代藩主頼元は延宝3年(1675年)より藩士の知行借り上げを行った。早くも天和3年(1681年)には藩札の発行を行っている。また、頼元はすすんで冗費の節約を行い、経費節約の範となった。以後、6代則維に至るまで財政再建のための藩政改革を続け、これが功を奏し何とか好転した』。『第7代藩主頼徸は54年間にも及び藩主の座にあった。彼は数学者大名として有名で、関流和算の大家であり数学書「拾璣算法(しゅうきさんぽう)」全5巻を著述した。しかし藩政においては享保17年(1732年)、享保の大飢饉が起こり、ウンカによる大被害のため飢饉となり多数の餓死者を出した。更に御殿造営、幕府の命による東海道の諸河川改修手伝いによる出費を賄うため増税を行った。これに対し、領民は6万人規模にも及ぶ一揆を起こすなど、彼の治世は平坦なものではなかった』。『第8代藩主頼貴は天明3年(1783年)に学問所(藩校)を開き、文教の興隆をはかった。天明7年(1787年)には学問所は「修道館」と名付けられたが、寛政6年(1794年)に焼失した。寛政8年(1796年)、藩校を再建し新たに「明善堂」と名付けられた。以後、今日の福岡県立明善高等学校に至っている。幕末の勤王家・真木和泉は当藩校の出身である』とあり、「卷之二」の下限は天明6(1786)年まであるから、この話柄の時間は、この第8代藩主頼貴の文教化政策活性期と一致している可能性があり、そうするとこの主人公の達筆は相当なもので、只者ではなかったと読める。
・「祐筆」以前にも出ている語であるが、ここでウィキの「右筆」を引用して概観しておきたい。『中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた』。『初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくは無かった。そこで武士の中には僧侶や家臣の中で、文字を知っている人間に書状や文書を代筆させることが行われた。やがて武士の地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆が誕生し、右筆に文書を作成・執筆を行わせ、武家はそれに署名・花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書が一般的であった公家とは大きく違うところである。武家が発給した文書の場合、文書作成そのものが右筆によるものでも署名・花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書(ゆうひつがき)と呼ぶ(もっとも、足利尊氏のように署名・花押まで右筆に任せてしまう特殊な例外もあった)』。『なお、事務が煩雑化すると、右筆が正式な手続を経て決定された事項について自らの職権の一環として文書を作成・署名を行い、これに主君発給文書と同一の効力を持たせる例も登場する。こうした例は院宣や綸旨などに早くから見られ、後に武家の奉書や御教書などにも採用された』。『源頼朝が鎌倉幕府の原点である鎌倉政権を打ち立てた時に、京都から下級官人が招かれて事務的な業務を行ったが、初期において右筆を務めていたのが大江広元である。後に、広元が公文所・政所において行政に専念するようになると、平盛時(政所知家事)・藤原広綱・藤原邦通らが右筆を務めた』。鎌倉幕府及び室町幕府では『その後、将軍や執権のみならず、引付などの幕府の各機関にも右筆が置かれ、太田氏や三善氏などの官人の末裔がその任に当たるようになった。基本的に室町幕府もこの制度を引き継いだが、次第に右筆の中から奉行人に任じられて発言力を増大させて、奉行衆(右筆方)と呼ばれる集団を構成するようになった』。『なお、室町幕府では、行政実務を担当する計方右筆・公文書作成を担当する外右筆(とのゆうひつ)・作事造営を担当する作事右筆などと言った区別があった』。『戦国時代に入ると、戦時に必要な文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書を作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定の過程から関与する場合もあった。豊臣政権の五奉行であった石田三成・長束正家・増田長盛は元々豊臣秀吉の右筆衆出身であった。他に右筆衆として著名なものに織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆などがいる』。『なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉は江戸幕府でも採用されている』。以下、江戸時代の記載。『戦国大名としての徳川氏にも右筆は存在したと考えられるが、徳川家康の三河時代の右筆は家康の勢力拡大と天下掌握の過程で奉行・代官などの行政職や譜代大名などに採用されたために、江戸幕府成立時に採用されていた右筆は多くは旧室町幕府奉行衆の子弟(曾我尚祐)や関ヶ原の戦いで東軍を支持した豊臣政権の右筆衆(大橋重保)、関東地方平定時に家康に仕えた旧後北条氏の右筆(久保正俊)などであったと考えられている』。『徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆(祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩主から将軍に就任した徳川綱吉は、館林藩から自分の右筆を江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書の作成・管理を行う既存の表右筆と将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆は対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆は将軍以外の他者と私的な関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人と奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆の承認を得ないと、文書が老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中・若年寄などから上げられた政策上の問題を将軍の指示によって調査・報告を行った。このために、大藩の大名、江戸城を陰で仕切る大奥の首脳でも奥右筆との対立を招くことは自己の地位を危うくする危険性を孕んでいた。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆は待遇は奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般の行政文書の作成や諸大名の分限帳や旗本・御家人などの名簿を管理した』。以上の江戸期の記載は主に幕府方のものであるが、これから類推しても、大名家の祐筆の達人と呼称されるからには、ただの書記レベルと侮ってはならないという気がしてくる。
・「徒士」徒侍(かちざむらい)。御徒衆(おかちしゅう)とも。主君の外出時に徒歩で身辺警護を務めた下級武士。その彼が一度として供侍には用いられなかったというのは、よほどのことで、彼自身、極めて屈辱的なことであったものと思われる。失礼乍ら、ちんちくりんで、とてつもない醜男であったということか。
・「量」思量。思料。思いはかること。慮ること。周囲の状況などをよくよく考え、判断すること。
・「明け七時」正確には「暁七つ」のこと。江戸時代に盛んに用いられた不定時法では、一日を昼と夜で二分、昼を夜明け約30分前に始まる「明け六つ」から「朝五つ」「朝九つ」「昼九つ」「昼八つ」「夕七つ」まで、夜を日没の約30後に始まる「暮れ六つ」「夜五つ」「夜四つ」「暁九つ」「暁八つ」「暁七つ」まで各6等分した六刻計十二刻が用いられた(数字は定時法の子の刻(午後11時~午前1時)に「九」を配し、以下、2時間毎に「八」「七」「六」「五」「四」と下がったところで、再び「九」(昼九つ)から「四」へと下がると覚えておくと分かり易い。またこの夜パートを5等分したものが「更」という時間単位で「初更」「二更」「三更」「四更」「五更」と呼んだ)。但し、これらは季節の一日の日照時間の変動によって現在の時間で言うと最大2時間半から3時間近いズレが生じてくる。昼の長い夏の季節には昼間の一時が長くなり、夜間の一時は短くなる。昼の短い冬場はその逆となる。例えば、この「明け七時」(暁七つ)を例にとると、夏至の際には午前3時少し前位であるが、春分・秋分点で3時半前後、冬至の頃には御前4時過ぎまでずれ込む。不便に思われるが、寺院の鐘がこれを打って呉れ、また、当時の庶民のスロー・ライフにとっては、丼の勘定のそれで十分であった。現在のような秒刻みのコマネズミ生活は存在しなかったのである。
・「一時」ここでの言いは定時法の一時を援用しているもと思われ、二時間に相当する。しかし彼の精進は厳しいものであったと思われるから、あくまで不定時法で厳密に言ったとするならば、夜の「一時」に当たる「一つ」が短くなる夏場ならば、実に一時間強しか寝なかったということになる。武士の場合、城勤めの場合は明け六つ(午前六時)には登城というデータがある。彼は上屋敷勤務の徒士であるから、多少は屋敷内の長屋でぎりぎりまで寝ていられたのかも知れない。
■やぶちゃん現代語訳
心底覚悟し努力致いて出世を遂げた事
久留米候御家中祐筆に何某という手跡の達人がおる。以下は、彼自身が語った話であるとのこと。
……私は同御家中にあって御徒士(おかち)を勤めて御座ったが、体も小兵であった上に、顔も、かく、生まれつき醜かったがため、御主君の供徒士などとしては全く召し遣われること、これ御座らず、専ら下働きの、地味な御使いの御用ばかりに歩かされ、……かくなる容貌なれど、拙者も男、内心鬱々たる思いのうちに暮らして御座った。……
……そんな、ある時、
「……このままにて世を渡り……ただただ、使い歩きとして老いさらばえるは……如何にも無念!」
と一念発起致いて、女房に向かい、
「……我らかくなる有様にては最早出世なんど、夢のまた夢……されば! これより昼夜手跡稽古致いて、その技芸にて何とか一度、花を咲かせて見せんとぞ思う。――ついては妻子、これ、あっては、その覚悟の稽古も思うようには出来難し! 相済まぬ! 三年の間、子を連れ里へ戻り、如何にも身勝手なること乍ら、一つ何とか、し暮らして呉れぬか?! 三年の後には、我らこの業(わざ)を以って必ずや身を立て、再び皆して一緒に暮らそうぞ! それを信じて、一つ、辛抱して呉れぬかッ?!」
と告げて御座った。
拙者の女房――拙者の如き面相の者の妻になる程のものなれば、凡そ器量もご想像にお任せ致すが――器量は知らず、度量は広き女にて御座ったれば、
「……分かりました。――御子(おこ)のことは御心配に及ばず、どうか御精進に精出だされ、目出度く御出世の上はきっと我ら迎え下さいますること、ひたすらお待ち申し上げておりまする。」
と委細承知の上、その日のうちに子を連れて里方へと引き上げて御座った。
……それからというもの――拙者、日々の勤務終業の後は、毎夜明け方七つ時まで手習いを続け、夜は一時の間のみ横になるだけで御座った。昼間も――相も変わらぬ使いっ走(ぱし)りの仕事はしっかりとこなして御座った――なれど、誤用なき暇な折りには、休んだり、朋輩と談笑したりすることものう――ひたすら手跡の稽古、稽古、稽古――当時の御家中にあった名うての御祐筆の方の手跡を借り受けては、それを御手本として、手習い修行に励んで御座った。
……さても三年過ぎて、拙者が手跡――己れで申すも何では御座るが――師匠で御座った御当家御家中御祐筆筆頭のそれを、遙かに凌駕する達筆名筆と相成って御座った。――程なく、久留米侯御耳朶にも達し、御当家祐筆として取り立てられて後、かく出世致すこと、これ、出来申した。……」
心底覚悟致いて努力する者は、これ、必ずや、かくの如くなるという、よき鑑(かがみ)にて御座る。
芥川龍之介「文部省の假名遣改定案について(初出形)」を、「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開し、「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」を大幅に増補した。前者は、後者の注に示したもので、僕の芥川龍之介テクストのポリシーについての、芥川龍之介自身の力強いエールでもあるから、急遽、テクスト化した。
「耳嚢 巻之三」に「雷公は馬に乘り給ふといふ咄の事」を収載した。
以前にフライング公開した僕の好きな一篇。
*
雷公は馬に乘り給ふといふ咄の事
巣鴨に大久保某といへる人有りしが、享保の頃、騎射の稽古より同門の許へ咄に立寄、暮前に暇を乞しが、未迎ひも揃はず、殊に雨も催しぬれば主人も留めけるが、雷氣もあれば母の嫌ひ、かれこれ早く歸りたしとて馬に打乘、騎射笠(きしやがさ)に合羽など着て歸りけるが、筋違(すじかひ)の邊よりは日もくれて、夕雨しきりに强く雷聲も移しければ、一さんに乘切て歸りけるに、駒込の邊町家も何れも戶を立居けるに、一聲嚴敷(きびしき)雷のしけるに乘馬驚きて、とある町家の戶を蹴破りて、床(ゆか)の上へ前足を上(あげ)て馬の立とゞまりけるにぞ、尙又引出して乘切り我家に歸りぬ。中間共は銘々つゞかず、夜更て歸りける由。然るに求たる事にはあらねど町家の戶を破り損ぜし事も氣の毒なれば、行て樣子見來(みきた)るべしと家來に示し遣しけるに、彼家來歸りて大に笑ひ申けるは、昨夜の雷駒込片町(かたまち)の邊へ落(おち)しといへる沙汰あり。則(すなはち)何軒目の何商賣せし者の方へ落し由申ける故、何時頃いか樣成事と尋ねけるに、五ツ時前にも有べし、則雷の落し處は戶も蹴破りてある也、世に雷は連鼓(れんこ)を負ひ鬼の姿と申習はし、繪にも書、木像にも刻(きざみ)ぬれど、大き成僞也、まのあたり昨夜の雷公を見しに、馬に乘りて陣笠やうの物を冠り給ふ也、落給ひて暫く過て馬を引返し、雲中に沓音(くつおと)せしが、上天に隨ひ段々遠く聞(きこえ)しと語りし由申ければ、さあらば雷の業(わざ)と思ふべき間、却て人していわんは無興(ぶきやう)なりとて濟しけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:バリバリバリバリ!!! ズゥゥゥゥン! ドォオォォン!!!――神鳴り直撃雷神来臨直連関! 映像的二連射、人々の生き生きとした表情、心根の暖かさが、伝わって来る。本作も私の頗る付きに好きな一篇である。しかし……前の「孝童自然に禍を免れし事」といい、この暖かい世間話といい――この、完膚なきまでに神経に落雷を受けてしまった今の世の人の心には、もう、なかなか生まれてこないような気もして、逆に淋しくなってくるのである。
・「雷公」雷神の尊称。ウィキの「雷神」より一部引用する。『日本の民間信仰や神道における雷の神である。「雷様(かみなりさま)」「雷電様(らいでんさま)」「鳴神(なるかみ)」「雷公(らいこう)」とも呼ばれる』。『菅原道真は死して天神(雷の神)になったと伝えられる。民間伝承では惧れと親しみをこめて雷神を「雷さま」と呼ぶことが多い。雷さまは落ちては人のヘソをとると言い伝えられている。日本の子どもは夏に腹を出していると「かみなりさまがへそを取りにくるよ」と周りの大人から脅かされる』ことが多かったが(今やそんな言い方をする若い親はあるまい。何か寂しい気がする)、これには脚注で『寒冷前線による雷雨の場合、前線通過後、気温が急激に下がることが多い。このとき子どもが腹を出していると、下痢を起こしやすくなることから、それを戒めるため、こうした伝承が生じたといわれている。』という目から鱗の理科雄ばりの薀蓄が示されている! 脱帽だ! 『雷さまから逃れるための方法は、蚊帳に逃げ込む、桑原(くわばら:菅原道真の亡霊が雷さまとなり、都に被害をもたらしたが、道真の領地の桑原には雷が落ちなかったと言う伝承から由来)と唱える、などが伝えられる』。『対になる存在としては風神が挙げられる』。『日本では俵屋宗達の風神雷神図(屏風)を代表例に、雷さまは鬼の様態で、牛の角を持ち虎の革のふんどしを締め、太鼓(雷鼓)を打ち鳴らす姿が馴染み深い。この姿は鬼門(艮=丑寅:うしとら)の連想から由来する。雷が落ちる時「雷獣」という怪獣が落ちてくるともいう。大津絵のなかでは雷さまは雲の上から落としてしまった太鼓を鉤で釣り上げようとするなどユーモラスに描かれている』とある。
・「大久保某」嘉永年間の江戸切絵図の巣鴨近辺には武家の大久保姓は見当たらない模様。但し、以下の叙述から相応の武士とお見受けする。雷公ともなればこそ、立身出世致いて田舎(巣鴨は嘉永年間でも田畑が多い田舎である)から大身の御屋敷へと落雷、基、栄転転居でも致いたものか。
・「騎射」馬上から弓を射るの技術の謂いであるが、武家にあっては「騎射三物」(きしゃみつもの)を指す。即ち、騎乗して弓を扱う技法としての犬追物・笠懸・流鏑馬の総称である。以下、ウィキの「騎射三物」から一部引用する(記号を一部変更・読点の追加をした)。『元々は武者が騎乗から敵を射抜くための稽古法で、それぞれ平安時代〜鎌倉時代に成立する。武士の中でも騎乗が許されるのは一部の武士のみということもあり、馬上の弓術「騎射」は武芸の中でも最高位のものとされ、中世の武士達は武芸練達のために様々な稽古をした。「騎射」稽古で上記3つは代表的な稽古法であり、総称してこう呼ばれる。近代までにそれぞれ独立した競技、儀礼的神事として作法や規則が整備された。』「犬追物」とは『40間(約73m)四方の馬場に、1組12騎として3組、計36騎の騎手、検分者(審判)を2騎、喚次役(呼び出し)を2騎用意し、犬150匹を離し、その犬を追いかけ、何匹射たかを競う。矢は神頭矢と呼ばれる刃の付いていない矢を使用する。手間や費用がかか』った。勿論、現在は『動物保護の観点から』『行われていない』。「笠懸」とは『的の配置に左右、高低、大小と変化を付けた的を、馬を疾走させつつ、射抜く。流鏑馬より難易度が高く、より実戦的』なものである。武田流・小笠原流といった流派が現存しており、京都上賀茂神社笠懸神事や神奈川県三浦の道寸祭りなどで実見することが出来る。「流鏑馬」は『距離2町(約218m)の直線馬場に、騎手の進行方向左手に3つの的を用意する。騎手は馬を全力疾走させながら3つの的を連続して射抜く。現在でも日本各地の流鏑馬神事として行われている』。
・「未迎ひも揃はず」後に「中間共は銘々つゞかず、夜更て歸りける」という叙述が現れるので、この人物は相応な地位の武士であったものか、稽古の後、その帰りの供回りが(同伴者以外に、自宅から迎えの者が呼ばれているのである(但し、その必要性が近世風俗に暗い私には今一つ分からない。識者の御教授を乞う)。話柄から見ると、この同門の朋友の屋敷に寄った時点で、恐らく迎えの者が呼ばれたものと思われ、すると、迎えの者が呼ばれたのは雨が降りそうな気配があったための、現在の供回りに携えさせている手持ちの合羽だけではなく、よりちゃんとした雨具及び馬の雨具、更に雨天時の荷物持ちとしての補充要員であろうか(騎射の稽古場と大久保某の屋敷とが近距離であるならば、行きと帰り専用の供回りがその都度呼ばれ、行ったり来たりるしても不自然ではないが、この話の後半の地理関係を読むに、かなり離れている)。
・「騎射笠」騎射や騎馬で遠乗りする際に武士が用いた竹製の網代(あじろ)編み(細く薄い竹板を交互にに潜らせた編み方)の笠。
・「筋違」江戸二十五門の一つであった筋違御門のこと(現在の千代田区神田須田町1丁目)。神田川に架かる昌平橋の下流約50mにあった筋違橋の左岸部分を構成していた門で、底本の鈴木氏注に『内神田と外神田の通路にあり、非常の場合のほかは昼夜閉鎖することはなかった』とある。江戸切絵図を見ると、現在の万世橋のように見えるが、続く鈴木氏の注に『門は明治五年に取りこわし、橋も現存しない』とある。そのやや下流に現在の万世橋が掛かっているというのが正しい。
・「中間共は銘々つゞかず、夜更て歸りける」勿論、御承知のことと思うが、供回りは皆、徒歩立ちで、騎乗した主人の後を走って追い駆けるのである。この場合、初めから続けるはずがないのである。
・「駒込片町」現在の文京区本駒込1丁目。明石太郎 "珈琲"氏のブログ「珈琲ブレイク」の「駒込片町 白山通・本郷通(9)」に、昭和41(1966)年 までは駒込片町の呼称が生きていたことが記され、更に『江戸時代初期この地は、三代将軍家光の乳母春日局の菩提寺である湯島麟祥院が、寺領として所有していた農地であった。元文2年(1737)この地にも町屋が開かれ、現在の本郷通り、当時の岩槻街道をはさんで吉祥寺の西側の片町側であったため駒込片町と呼ばれるようになった』。『明治5年までには、目赤不動のあった駒込浅嘉町の一部と、養昌寺や南谷寺の敷地を包含するようになった』。『この地名の変遷を見ても、江戸時代以前はのどかな農村であったのが、江戸幕府の発展、お江戸の町の発展とともに、徐々に都市化されていく様子がうかがえる』と当時の風景を伝えてくれている。
・「五ツ時前」不定時法であるから、これを夏の出来事と考えれば、凡そ午後7時半から午後8時以前と考えられる。
・「連鼓」「れんつづみ」と読んでいるか(「れんこ」でも問題はない)。所謂、俵屋宗達の「雷神風神図」(以下はウィキの「雷神」のパブリック・ドメイン画像)などでお馴染みの繋がった太鼓のこと。
■やぶちゃん現代語訳
雷公は馬にお乗りになっておらるるという話の事
享保の頃のこと、巣鴨に大久保某という御武家が御座った。
武蔵野近郷での騎射稽古からの帰り、一緒に汗を流した同門の者の屋敷へ立ち寄って雑談致し、日暮れ前に暇(いとま)を乞うた。
未だ迎えの者も揃うておらなんだ上に、生憎、雨も降り始めて御座ったれば、屋の主人も引き止めんとしたのじゃが、
「……雷気(らいき)も御座れば――我が母上、殊の外の雷嫌いにて。かかればこそ、早(はよ)う帰らねば――」
と馬にうち乗って、騎射笠に、今連れて御座る供に命じて出させた合羽などを着て、帰って御座った。
筋違御門(すじかいごもん)の辺りまで辿り着いた頃には、とっぷり日も暮れてしまい――沛然たる夕立――夥しき雷鳴――なればこそ、一息の休む余裕もなく、一散に馬を奔らせる――
駒込の辺りの町家――これ、いずれも硬く雨戸を立て御座った――
――と!――
――突如!
――バリバリバリバリ!!! ズゥゥゥゥン! ドォオォォン!!!――
――一際(ひときわ)、凄まじい雷鳴が轟く!
――大久保の乗馬、それに驚き!
――バリバリ!!! ズドォン!!!――
と! 大久保を乗せたまま、とある町家の戸を蹴破り、家内へと闖入致いた。
馬は――上がり框(かまち)から床(ゆか)の上へと――ばっか! ばっか!――と前足を乗せたところで――大久保、綱をぐいと締め、辛くも立ち止まる。――
それから馬上、手綱にて導き、家内より馬を引き出だすと――そのまま、再び一散に己(おの)が屋敷へと立ち帰って御座った。――
因みに、息咳切って従って御座った中間どもは、とっくの昔、筋違御門に大久保が至らぬ前に、伴走し切れずなって、夜も更けてから屋敷に帰ったとのことで御座った。
――――――
……さても翌日のこと、敢えてしたことにてもあらねど、町家の表戸を破り損じたことは、これ、当の主人にとって如何にも気の毒なことなれば、大久保、詫びと見舞を念頭に、
「……ともかくも、ちょっと行って様子を見て参るがよい。……」
と家来に申しつけ、駒込へと走らせた。
ところが、この家来、屋敷に立ち帰って参るや否や、大笑い致しつつ、申し上げることに、
「……はっはっは! いやとよ! これは御無礼を……されど、これを笑わずには……主様とても……おられぬと存ずる……
――『昨夜の雷(かみなり)駒込片町の辺りへ落ちた』――
と専らの評判にて、即ち、
――『駒込片町○件目○○商い致しおる者の家へ落ちた』――
というので御座る。
そこで、その家を訪ねてみました。
そうして、その屋の主人に――それは何時頃のことで、落雷の様子は如何なるものであったか――と訊ねてみましたところが、
『……昨夜は五つ時前のことで御座ったろう――即ち!――雷の落ちた所は戸が木っ端微塵に蹴り破られて御座っての!……』
『……さてもさても! 世に「雷神は連鼓(れんつづみ)を背負い鬼の姿を致いておる」なんどと申し習わし、絵にも描き、木像にも刻まれて御座ろうが?――なんのなんの!――これ! 大いなる偽りで御座るぞ!……』
『……我らこと! 目の当たりに、昨夜来臨なされた雷公さま、これ! 拝見致いたじゃ!……』
『……それはの!――馬にお乗りになられの!――陣笠の如き冠(かんむ)りをお被りになられて御座ったじゃ!……』
『……お落ちになられてから――まあ! ほんのちょっとのうちに!――かの雷馬を美事!乗りこなし――引き返しなさったんじゃ!……』
『……雲中貴き御蹄(ひずめ)の音をお響かせになられたかと思うと――昇天なさるるに従ごうて――その音(ね)も段々と――虚空高(たこ)う厳かに遠くなって有難くなって御座ったのじゃ…………』
という次第にて、御座いました。……」
これを聴いた大久保も、破顔一笑、
「――ふむ! さあらば――畏れ多き雷神の業(わざ)と思うておるのであればこそ――却って人をして我らがこと告ぐるは、これ、興醒めというものじゃ、の!――」
と、そのままに済まして御座った、とのことで御座る。
「耳嚢 巻之三」に「孝童自然に禍を免れし事」を収載した。
以前にフライング公開した僕の好きな一篇。
*
孝童自然に禍を免れし事
相州の事なる由。雷を嫌ふ民有しが夏耕作に出て留守には妻と六七歳の男子なりしに、夕立頻りに降り來て雷聲夥しかりける故、彼小兒、兼て親の雷を恐れ給ふ事なれば、獨(ひとり)畑に出てさこそおそろしく思ひ給わん、辨當も持行べきとて支度して出けるを、母も留めけれど聞ずして出行ぬ。彼百姓は木陰に雨を凌(しのぎ)て居たりしに、悴の來りければ大きに驚、扨食事など請取、雨も晴て日は暮なんとせし故、とく歸り候樣申ければ、小兒ははやく仕廻給へとて先へ歸りけるが、一ツの狼出て彼小兒の跡に付て野邊を送りける故、親は大きに驚、果して狼の爲に害せられんと、身をもみ心も心ならざりしに、又候嫌ひの雷一撃響くや否や、我子の立行しと思ふ邊へ落懸りし故、農具をも捨てかしこに至りければ、我子は行方なく狼はみぢんに打殺されてありし。定(さだめ)て我子も死しけるぞと、急ぎ宿に歸り見けるに、彼小兒は安泰にてありしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。「耳嚢」には雷に纏わる逸話が多い。少なくとも根岸は雷嫌いではなかったと思われる。サンダー・フォビアであれば、こんなに書けない。この話、小話乍ら、映像にしてみたい欲求に駆られる、「耳嚢」中、極めて好きな一篇である。
・「思ひ給わん」はママ。
・「狼」特に注を要する語がない代わりに、一つ、この食肉(ネコ)目イヌ科イヌ属タイリクオオカミCanis hodophilax 亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilaxについて記しておくこととする。以下、ウィキの「ニホンオオカミ」よりの一部引用する(学名のフォントを変更した)。『日本の本州、四国、九州に生息していたオオカミの1亜種。あるいはCanis属のhodophilax種』。絶滅種とされ、確実な最後の生息情報とされるものは、『1905年(明治38年)1月23日に、奈良県東吉野村鷲家口で捕獲された若いオス(後に標本となり現存する)』個体である。『2003年に「1910年(明治43年)8月に福井城址にあった農業試験場(松平試農場。松平康荘参照)にて撲殺されたイヌ科動物がニホンオオカミであった」との論文が発表され』ている『が、この福井の個体は標本が現存していない(福井空襲により焼失。写真のみ現存。)ため、最後の例と認定するには学術的には不確実である』。『環境省のレッドリストでは、「過去50年間生存の確認がなされない場合、その種は絶滅した」とされるため、ニホンオオカミは絶滅種となっている』。分類学上、『ニホンオオカミは、同じく絶滅種である北海道に生育していたエゾオオカミとは、別亜種であるとして区別され』、更に『エゾオオカミは大陸のハイイロオオカミの別亜種とされているが、ニホンオオカミをハイイロオオカミの亜種とするか別種にするかは意見が分かれており、別亜種説が多数派であるものの定説にはなっていない』。エゾオオカミには学名 Canis lupus hattai Kishida, 1931 が与えられている。以下、ハイイロオオカミの別亜種とする説。『ニホンオオカミが大陸のハイイロオオカミと分岐したのは日本列島が大陸と別れた約17万年前とされているが、一般に種が分岐するには数百万年という期間を要し、また生態学的、地理的特徴においても種として分岐するほどの差異が見られないことから、同種の別亜種であるとする』。以下、別種説について。『ニホンオオカミを記載し、飼育し、解剖学的にも分析したシーボルトによると、ニホンオオカミはハイイロオオカミと別種であるという見解である』。『また、ニホンオオカミの頭骨を研究していた今泉吉典も頭骨に6ヵ所の相違点があり、独立種と分類すべきとしている。このように大陸産のハイイロオオカミの亜種ではなく、Canis hodophilax として独立種であるとすることもある』。その絶滅の原因は、『江戸時代の1732年(享保17年)ごろに、ニホンオオカミの間で狂犬病が流行したことが文献に記されているが、これは絶滅の150年以上前のことであり、要因の1つではあるにしても、直接の主原因とは考えにくい。近年の研究では、害獣として処分の対象とされた事の他に、明治以降に輸入された西洋犬からのジステンパーなどの伝染病が主原因とされている』。『なお、1892年の6月まで上野動物園でニホンオオカミを飼育していたという記録があるが写真は残されていない。当時は、その後10年ほどで絶滅するとは考えられていなかった』。以下、「特徴」の項より。『体長95―114cm、尾長約30cm、肩高約55cm、体重推定15Kgが定説となっている(剥製より)。』『他の地域のオオカミよりも小さく中型日本犬ほどだが、中型日本犬より脚は長く脚力も強かったと言われている。尾は背側に湾曲し、先が丸まっている。吻は短く、日本犬のような段はない。耳が短いのも特徴の一つ。周囲の環境に溶け込みやすいよう、夏と冬で毛色が変化した』。『生態は絶滅前の正確な資料がなく、ほとんど分かっていない』が、『薄明薄暮性で、北海道に生息していたエゾオオカミと違って大規模な群れを作らず、2、3―10頭程度の群れで行動した。主にニホンジカを獲物としていたが、人里に出現し飼い犬や馬を襲うこともあった。遠吠えをする習性があり、近距離でなら障子などが震えるほどの声だったといわれる。山峰に広がるススキの原などにある岩穴を巣とし、そこで3頭ほどの子を産んだ』。『自らのテリトリーに入った人間の後ろをついて来る(監視する)習性があったとされ、いわゆる「送りオオカミ」の由来となり、また hodophilax (道を守る者)という亜種名の元となった。しかし、人間からすれば手を出さない限りニホンオオカミは殆ど襲ってこない相手であり、むしろイノシシなどが避けてくれる為、送りオオカミ=安全という図式であった』。『一説にはヤマイヌの他にオオカメ(オオカミの訛り)』『と呼ばれる痩身で長毛のタイプもいたようである。シーボルトは両方飼育していたが、オオカメとヤマイヌの頭骨はほぼ同様であり、彼はオオカメはヤマイヌと家犬の雑種と判断した。オオカメが亜種であった可能性も否定出来ないが今となっては不明である』(これには以下の脚注がある『シーボルトの標本を疑問視する声も少なからずあり、これは骨格の似ているアジア地域の野生犬ドールのものとも考えられており、また後述するように庶民にも馴染み深い人懐っこい性格であったにもかかわらずこれほど骨格も剥製も残されていないというのはおかしいという観点もある。』)。以下、民俗学的な「犬神」の記載。『各地の神社に祭られている犬神や大口の真神(おおくちのまかみ、または、おおぐちのまがみ)についてもニホンオオカミであるとされる。これは、農業社会であった日本においては、食害を引き起こす野生動物を食べるオオカミが神聖視されたことに由来する』。現存する標本としては『頭骨、毛皮は数体』分、全身『剥製は世界に4体しかない。うち国内は3体、オランダに1体が確認されている』のみである。国内に現存する剥製や骨格標本としては国立科学博物館蔵(1870年頃捕獲になる福島県産♂の全身骨格標本)・東京大学農学部蔵(岩手県産♀の冬毛剥製)・和歌山県立自然博物館蔵(1904年和歌山にて捕獲された奈良県境大台山系産剥製。和歌山大学からの寄贈品で、本剥製は吻から額にかけてのラインに段があり、日本犬のような顔になっているが、これは標本作成時の錯誤との意見もあるとある)・埼玉県秩父市秩父宮記念三峯山博物館蔵(2例の毛皮で二品共に2002年に発見されたもの)・熊本市立熊本博物館蔵(全身骨格標本で熊本県八代郡京丈山洞穴の1976年から1977年にかけての調査中に発見された遺骸。放射性炭素法による骨年代測定の結果、室町から江戸初期に生存していた個体であることが判明している)。この他、1969年に熊本県泉村矢山岳の石灰岩縦穴からもニホンオオカミの頭骨が発見されている、とある(「現存標本画像」4体はリンク先で見られる)。国外のものとしては、江戸末期の文政9(1826)年にシーボルトが大阪天王寺で購入した成獣剥製で、彼が『日本から持ち帰った多くの動植物標本の内』、『ヤマイヌという名称で基準標本となっている』オランダのライデン博物館蔵のもの、大英博物館蔵の毛皮及び頭骨(明治38(1905)年に奈良県東吉野村鷲家口で購入された若い♂のもの)、ベルリン自然史博物館蔵の毛皮などがある。但し、民俗学的資料としての「日本狼の頭骨」としては『本州、四国、九州の神社、旧家などに、ニホンオオカミのものとして伝えられた頭骨が保管されている。特に神奈川県の丹沢ではその頭骨が魔よけとして使われていた為、多く見つかっている』とある。『2004年4月には、筋肉や皮、脳の一部が残っているイヌ科の動物の頭骨が山梨県笛吹市御坂町で発見され、国立科学博物館の鑑定によりニホンオオカミのものと断定された(御坂オオカミ)。DNA鑑定は可能な状態という。中部地方や関東地方の山間地には狼信仰があり、民間信仰と関係したオオカミ頭骨が残されている。御坂オオカミは江戸後期から明治に捕獲された個体であると推定されており、用途は魔除けや子どもの夜泣きを鎮める用途が考えられ民俗学的にも注目されている。現在は山梨県立博物館に所蔵されている』。『栃原岩陰遺跡の遺物を収蔵展示している北相木村考古博物館にはニホンオオカミの骨の破片が展示されているが、その他多くの縄文・弥生遺跡からニホンオオカミの骨片が発掘されている』。以下、「ヤマイヌとオオカミ」の項。『「ニホンオオカミ」という呼び名は、明治になって現れたものである』。『日本では古来から、ヤマイヌ(豺、山犬)、オオカミ(狼)と呼ばれるイヌ科の野生動物がいるとされていて、説話や絵画などに登場している。これらは、同じものとされることもあったが、江戸時代ごろから、別であると明記された文献も現れた。ヤマイヌは小さくオオカミは大きい、オオカミは信仰の対象となったがヤマイヌはならなかった、などの違いがあった』(ここに脚注があり、『長野県松本市の旧開智学校に展示されている明治期の教科書(副読本)に、「肉食獣類狼 おほかみ (1)種類1狼 2 豺 ヤマイヌ (2)部分 頭 長シ ○口 長ク且大ニシテ耳下ニ至ル 耳ハ小ナリ ○体 犬ニ似テ大ナリ ○脚 蹼(みずかき)アリテ能ク水ヲ渉ル ○毛 灰色ニシテ白色雑ル ○歯 甚ダ鋭利ナリ (3)常習 性猛悍兇暴ニシテ餓ユルトキハ人ニ迫ル 深山ニ棲息シ他獣ヲ害シ(以下略)」とある。』と記す。引用脚注の字空けを一部変更した)。『このことについては、下記の通りいくつかの説がある』。
《引用開始》
ヤマイヌとオオカミは同種(同亜種)である。
ヤマイヌとオオカミは別種(別亜種)である。
ニホンオオカミはヤマイヌであり、オオカミは未記載である。
ニホンオオカミはオオカミであり、未記載である。Canis lupus hodophilaxはヤマイヌなので、ニホンオオカミではない。
ニホンオオカミはオオカミであり、Canis lupus hodophilaxは本当はオオカミだが、誤ってヤマイヌと記録された。真のヤマイヌは未記載である。
ニホンオオカミはヤマイヌであり、オオカミはニホンオオカミとイエイヌの雑種である。
ニホンオオカミはヤマイヌであり、オオカミは想像上の動物である。
ニホンオオカミを記載したシーボルトは前述の通りオオカミとヤマイヌの両方飼育していた。
《引用開始》
が、『現在は、ヤマイヌとオオカミは同種とする説が有力である』と総括されてある。『なお、中国での漢字本来の意味では、豺はドール(アカオオカミ)、狼はタイリクオオカミで、混同されることはなかった』。『ヤマイヌが絶滅してしまうと、本来の意味が忘れ去られ』、現在、「ヤマイヌ」という語は『主に野犬を指す呼称として使用される様にな』り、また『英語のwild dogの訳語として使われる。wild dogは、イエイヌ以外のイヌ亜科全般を指す(オオカミ類は除外することもある)。「ヤマネコ(wild cat)」でイエネコ以外の小型ネコ科全般を指すのと類似の語法である』。以下、「生存の可能性」の項。『紀伊半島山間部では、1970年代に、ニホンオオカミを目撃したという証言が度々話題となり、ニホンオオカミが生存しているのではないかとの噂が絶えない。現在でも、紀伊半島山間部ではニホンオオカミの目撃証言を募るポスターをしばしば目にする。秩父山系でも、ニホンオオカミ生存の噂は絶えない。また、祖母山系に生存しているのではないかという話もある』(ここに複数の脚注が附されているが、中でも次の注は興味深い。『同時期に描かれた漫画「ドラえもん」ではドラえもん曰く22世紀にも個体群が存在しているとのことで、懸賞金目当てに現代のニホンオオカミを捕まえようとのび太がオオカミに変身し、最後まで残ったニホンオオカミの群れと戯れるという話があるが、あくまでフィクションの話である。余談だが、この話でのニホンオオカミはある程度学説に基づいた生態で描かれており、展開上人間を敵視してこそいるものの、洞窟で群れを成す姿などはかなり正確に描かれている。』。いい注だなあ!)。最後に「ニホンオオカミ絶滅の弊害とオオカミ導入計画」という項。『ニホンオオカミが絶滅したことにより、天敵がいなくなったイノシシ・ニホンジカ・ニホンザル等の野生動物が異常繁殖することとなり』(脚注『ただし、オオカミの絶滅は増加の原因の一因に過ぎない。地球温暖化による冬期の死亡率の低下、農村の過疎化など、様々な要因が指摘されている。』。)、『人間や農作物に留まらず森林や生態系にまで大きな被害を与えるようになった。アメリカでは絶滅したオオカミを復活させたことにより、崩れた生態系を修復した実例がある。それと同様にシベリアオオカミを日本に再導入し対応するという計画が立案されたこともあった。しかしながら、ニホンオオカミよりも大型で体力の強いシベリアオオカミが野生化することの弊害が指摘されて中止になった経緯がある。現在も、祖先がニホンオオカミと同じという説がある中国の大興安嶺のオオカミを日本に連れてきて森林地帯に放すという計画を主張する人々がいる』。『ただし、オオカミの行動範囲は広いことが知られており、特に開発が進んだ現代の日本においては人と接触する可能性も否定できない』(ここに本文注として『北米ハイイロオオカミの群れの縄張りの広さは20-400平方キロメーター程度あり、1日約20km移動するという』とある)。『さらには、かつてニホンオオカミがあった生態的地位に入る事が出来なければ、沖縄でハブ駆除のために放たれたジャワマングースのように外来種としての被害を与える可能性もあるという議論もある。しかしながら、ジャワマングースは同じ生態的地位を占める動物が存在しなかったのに対して、アジア系のハイイロオオカミはニホンオオカミとほぼ同じ生態的地位を占める動物であることが異なる。もっともニホンオオカミは島国の日本の気候・土地に適応した動物であり、またそれらのオオカミとは亜種レベルで異なる別の動物であり、その結果は未知数と言えよう』。各論から発展課題まで、美事なウィキ記載である。
■やぶちゃん現代語訳
親孝行な児童が自然と禍いを免れた事
相模国での出来事なる由。
雷嫌いの農民が御座った。
ある夏の日、耕作に出でて、留守には妻と、六、七歳になる男の子がおったが、沛然として夕立降り来たって、雷鳴も夥しく轟き渡った。
すると、かの童(わらべ)、以前より父親(てておや)の雷を嫌うておるを知れば、
「お父(とっ)つあんは神鳴りを恐がりなさるご性分なれば、ひとり畑に出でて、さぞ怖(こお)うてたまらずにおらるるに違いない。おいらが夜食の弁当持て行きたれば、少しは心強くもあられん。」
と言い、雨中の支度を致いて出でんとする。
母はあまりの豪雨雷鳴の凄まじさに留めんとしたれど、子はその制止を振り切って家を出でて御座った。
父なる百姓は、丁度、畑脇の木陰に雨を凌いでおったのじゃが、倅が参ったのを見、大いに驚きもしたが、また、言わずとも分かる倅の孝心に、心打たれもして御座った。
遅い弁当を受け取って、漸く雨も晴れ、今にも日が暮れなずむ頃と相成って御座った故、
「……さあて、暗うなる前に、早(はよ)う、帰り。」
と坊の頭(かしら)を撫でて、家の方へと押し送る。
「……お父つあんも……お早うお帰り!」
とて、先に独り家路へとつく。
少ししてから、鍬を振るって御座った父親(てておや)が、子の帰って行く方を見てみた――。
……夕暮れ……小さな子の小さくなりゆく後姿……と――
――そのすぐ後ろの林の暗がりより――一匹の狼が現れ出で、我が子の跡追うて野辺を走ってゆくのが目に飛び込んできた。……
父親(てておや)、真っ青になって、
「……!……このままにては……!……狼に、喰わるるッ!……」
と身悶えし、心ここになきが如く、直ぐ、我が子のもとへと走らんと致いた、その時――!
――ピカッビカッッ!
突如! 閃光一閃! 辺りが真っ白になったかと思うと! 間髪居れず!
――バリバリバリバリ!!! ズゥゥゥゥン! ドォオォォン!!!――
――と、見たことも聴いたことも御座らぬような怖ろしき雷電と神鳴り! うち轟くや否や……
……勿論、父親(てておや)は神鳴り嫌いのことなれば、惨めにも、その場に団子虫の如く丸まって御座ったが……
――が!――
――その蹲る刹那の景色!――
――はっと気づくは!――
――その神鳴り!――
――今!――
――正に!――
――我が子が歩いておった思う方へ!
――落ちたじゃ!!!……
……父親(てておや)は泡食って鋤鍬を投げ捨て、子がもとへと駆けつけた……。
………………
……しかし……そこには最早……我が子の姿……これ、なく……ただ……神鳴りがために無二無三に焼け焦げ……完膚無きまでに八つ裂きされた……黒焦げばらばらの……狼の死骸が御座ったばかりであった…………。
………………
……父親(てておや)、
『……定めし……倅もともに……卷之三に打たれ……打ち殺されて……微塵にされた……』
と絶望のあまり、狂うた如、狼の吠え叫ぶが如、泣き喚(おめ)いて家へと走り戻ったのじゃった……
……………
……と……
家の戸口で、
「……お父つあん! お早う! お帰り!」
と、倅が満面の笑顔にて、父を待って御座った、ということで御座ったよ。
「耳囊 卷之三」に「楓茸喰ふべからざる事」を収載したが、注で示した通り、これは既出の類話どころではなく、同話であり、内容に於いて完全なダブりと言わざるを得ない。
……お奉行さま、あんたもなかなか……悪じゃのう……
*
楓茸喰ふべからざる事
予白山に居たりし時、近隣に大前孫兵衞も居住なしぬ。彼下男或日頻りに笑ひて止ざる故、狐狸のなす事なるべしといひしが、面白くて笑ふ躰(てい)にあらず、何か甚苦しみて笑ふ事也き。されば近所成小川隆好といへる御藥園の醫師を賴て見せけるに、是は全(まつたく)中毒ならん、何をか食しやと尋しに、傍輩成者、楓の根のくさびらを取て調味せしよしいひけるにぞ、さればこそ楓から出る茸は俗に笑ひ茸といへる物也とて、不淨などなせる所の色赤くなりし土を、湯に交へ呑せけるに、ことごとく吐却してけるが跡は一兩日しで快氣せし由。後來のため爰に記ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:狐憑きから、ワライタケの中毒症状を「狐狸のなす事なるべし」と判断する部分で連関。私と一緒にずっと「耳嚢」を読んでこられた方はお分かりの通り、これは「卷之二」は「解毒の法可承置事」の類話――どころじゃあない――こりゃ、もう完全に同話じゃねえか! 根岸さんよ! これは私としてはレッドカード、1000-1=999話のペナルティだ! なめちゃあ、いけねえ、お奉行さまよ! 但し、繰り返しを厭わず、現代語訳もこの本文に即して、淡々と粛々と行った(注は流石に流用した。それにしても諸注、分かりきっているのに話柄のダブりを指摘していない。こんな風に指弾するのはお洒落じゃないとでも言うのかい!)。
・「白山」現在の文京区の中央域にある地名。江戸時代までは武蔵国豊島郡小石川村及び駒込村のそれぞれの一部であった。ウィキの「白山」によれば、地名の由来は、『徳川綱吉の信仰を受けた』『白山神社から。縁起によれば、948年(天暦2年)に加賀一ノ宮の白山神社を分祀しこの地に祭った』とある。また、同解説には、『なお、小石川植物園は、隣接の小石川ではなく白山三丁目にある。これは、もともと白山地区の大部分が小石川の一部だったことによるもの』とあり、これは直後に出てくる小石川御薬園のことで、本記載に関わる地理的解説として注目される。
・「楓茸」「かえでだけ」と固有名詞のように読ませているか。
・「大前孫兵衞」大前孫兵衞。底本の「卷之二」は「解毒の法可承置事」の鈴木氏注では、大前房明(ふさあきら)に同定し、寛保元(1741)年『養父重職の遺跡を相続、時に九歳。』宝暦8(1758)年に右筆、明和元(1764)年に奥御右筆に転じ、同3(1766)年組頭、『布衣を着することをゆるさるる』。同7(1770)年には西丸裏門番頭、と記す。但し、同箇所の岩波版長谷川氏注では先代の表御右筆であった房次(ふさつぐ)か、とされている。大前房明の没年が分からないので如何とも言い難いが、以下の小川隆好の事蹟からは大前房次の可能性が極めて高いように思われる。
・「小川隆好」諸本は注を施さないが、この人物の父は小川笙船(おがわしょうせん)と言い、小石川養生所の創立者として時代劇などで知られる有名な人物である。小川笙船(寛文12(1672)年~宝暦10(1760)年)は市井の医師であったが、ルーツは戦国時代の武将小川祐忠。以下、ウィキの「小川笙船」によれば(一部の改行を省略した)、『享保7年(1722年)1月21日、目安箱に江戸の貧困者や身寄りのない者のための施薬院を設置することを求める意見書を投書した。それを見た徳川吉宗は、南町奉行・大岡忠相に養生所設立の検討を命じた。翌月、忠相から評定所への呼び出しを受け、構想を聞かれたため、
身寄りのない病人を保護するため、江戸市中に施薬院を設置すること
幕府医師が交代で養生所での治療にあたること
看護人は、身寄りのない老人を収容して務めさせること
維持費は、欲の強い江戸町名主を廃止し、その費用から出すこと
と答えたが、町名主廃止の案に対して忠相は反対した。しかし、施薬院の案は早期から実行し、吉宗の了解を得た。同年12月21日、小石川御薬園内に養生所が設立され、笙船は肝煎に就任した。しかし、養生所が幕府の薬園であった土地にできたこともあり、庶民たちは薬草などの実験台にされると思い、あまり養生所へ来る者はいなかった。その状況を打開するため、忠相は全ての江戸町名主を養生所へ呼び出し、施設や業務の見学を行わせた。そのため、患者は増えていったが、その内入所希望者を全て収容できない状況に陥ってしまった。享保11年(1726年)、子の隆好に肝煎職を譲って隠居し、金沢へ移り住んだ。以後、養生所肝煎職は笙船の子孫が世襲した。その後、病に罹って江戸へ戻った。宝暦10年(1760年)6月14日、病死。享年89』、とある(下線部やぶちゃん)。これによって、本話柄は、享保11(1726)年以降、天明6(1786)年以前であることが分かる。この幅から考えると、大前孫兵衞は大前房次であると考える方が自然である。
・「御藥園」小石川御薬園、現在の通称・小石川植物園の前身。現在、正式には東京大学大学院理学系研究科附属植物園と言う。以下、ウィキの「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」によれば、『幕府は、人口が増加しつつあった江戸で暮らす人々の薬になる植物を育てる目的で、1638年(寛永15年)に麻布と大塚に南北の薬園を設置したが、やがて大塚の薬園は廃止され、1684年(貞享元年)、麻布の薬園を5代将軍徳川綱吉の小石川にあった別邸に移設したものがこの御薬園である』。『その後、8代徳川吉宗の時代になり敷地全部が薬草園として使われるようになる。1722年(享保7年)、将軍への直訴制度として設置された目安箱に町医師小川笙船の投書で、江戸の貧病人のための「施薬院」設置が請願されると、下層民対策にも取り組んでいた吉宗は江戸町奉行の大岡忠相に命じて検討させ、当御薬園内に診療所を設けた。これが小石川養生所で』、山本周五郎の連作短編小説「赤ひげ診療譚」や同作の映画化である黒澤明監督作品「赤ひげ」で知られる。『なお、御薬園は、忠相が庇護した青木昆陽が飢饉対策作物として甘藷(サツマイモ)の試験栽培をおこなった所としても有名である』。小石川養生所についても、ウィキの「小石川養生所」から引用しておく。『江戸中期には農村からの人口流入により江戸の都市人口は増加し、没落した困窮者は都市下層民を形成していた。享保の改革では江戸の防火整備や風俗取締と並んで下層民対策も主眼となっていた。享保7年(1722年)正月21日には麹町(東京都新宿区)小石川伝通院(または三郎兵衛店)の町医師である小川笙船が将軍への訴願を目的に設置された目安箱に貧民対策を投書する。笙船は翌月に評定所へ呼び出され、吉宗は忠相に養生所設立の検討を命じた』(小川笙船については後注参照)。『設立計画書によれば、建築費は金210両と銀12匁、経常費は金289両と銀12匁1分8厘。人員は与力2名、同心10名、中間8名が配された。与力は入出病人の改めや総賄入用費の吟味を行い、同心のうち年寄同心は賄所総取締や諸物受払の吟味を行い、平同心は部屋の見回りや薬膳の立ち会い、錠前預かりなどを行った。中間は朝夕の病人食や看病、洗濯や門番などの雑用を担当し、女性患者は女性の中間が担当した』とある。養生所は小川の投書を受けて早くも同享保7(1722)年12月21日に小石川薬園内に開設され、『建物は柿葺の長屋で薬膳所が2カ所に設置された。収容人数は40名で、医師ははじめ本道(内科)のみで小川ら7名が担当した。はじめは町奉行所の配下で、寄合医師・小普請医師などの幕府医師の家柄の者が治療にあたっていたが、天保14年(1843年)からは、町医者に切り替えられた。これらの町医者のなかには、養生所勤務の年功により幕府医師に取り立てられるものもあった』とする。『当初は薬草の効能を試験することが密かな目的であるとする風評が立ち、利用が滞った。そのため、翌、享保8年2月には入院の基準を緩和し、身寄りのない貧人だけでなく看病人があっても貧民であれば収容されることとし、10月には行倒人や寺社奉行支配地の貧民も収容した。また、同年7月には町名主に養生所の見学を行い風評の払拭に務めたため入院患者は増加し、以後は定数や医師の増員を随時行っている』とある。
・「全(まつたく)」は底本のルビ。
・「笑ひ茸」菌界子嚢菌門同担子菌綱ハラタケ目ヒトヨタケ科ヒカゲタケ属ワライタケ Panaeolus papilionaceus 。ウィキの「ワライタケ」によれば、『傘径2~4cm、柄の長さ5~10cm 。春~秋、牧草地、芝生、牛馬の糞などに発生。しばしば亀甲状にひび割れる。長らくヒカゲタケ( Panaeolus sphinctrinus )と区別されてきたが、最近では同種と考えられている』もので、『中枢神経に作用する神経毒シロシビンを持つキノコとして有名だが、発生量が少なく、決して食欲をそそらない地味な姿ゆえ誤食の例は極めてまれ。食してしまうと中枢が犯されて正常な思考が出来なくなり、意味もなく大笑いをしたり、いきなり衣服を脱いで裸踊りをしたりと逸脱した行為をするようになってしまう。毒性はさほど強くないので誤食しても体内で毒が分解されるにつれ症状は消失する』とあり、『摂取後30分から一時間ほどで色彩豊かな強い幻覚症状が現れるが、マジックマッシュルームとして知られる一連のキノコよりは毒成分は少ないため重篤な状態に陥ることはない』と記載する。シロシビンはサイロシビン(Psilocybin 4-ホスホリルオキシ-N,N-ジメチルトリプタミン)とも言い、『シビレタケ属やヒカゲタケ属といったハラタケ目のキノコに含まれるインドールアルカロイドの一種。強い催幻覚性作用を有』し、これを『多く含む幻覚性キノコは、かなり古くからバリ島やメキシコなどではシャーマニズムに利用されてきた。1957年にアメリカの幻覚性キノコ研究者、ロバート・ゴードン・ワッソン (R. Gordon Wasson)と、フランスのキノコ分類学者、ロジェ・エイム(Roger Heim)によるメキシコ実地調査の記録がアメリカのLIFE誌で発表されてからその存在が広く知られるようになり、LSDを合成したことでも著名なスイスの化学者、アルバート・ホフマン(Albert Hofmann)が、動物実験で変化が見られないので自分で摂取し幻覚作用を発見、成分の化学構造を特定しシロシビンとシロシンと名づけた』ものである。『シロシビン、シロシンを含むのはハラタケ目のキノコで、同じ種でも採取場所や時期によっても含有量は異なってくるが、特に多量にシロシビンを含む属として、前述のシビレタケ属、ヒカゲタケ属と、日本では小笠原諸島などに分布する熱帯性のアオゾメヒカゲタケ属が挙げられる。僅かでも含むものも数えれば、その数は180種以上にも及ぶ。その中には、シロシビン以外の毒が共存するキノコも少なからず存在』し、摂取後、速やかに加水分解されてシロシンに変性、腎臓・肝臓・脳・血液に広く行き渡る。ヒトの標準的中毒量は5~10㎎程度で、15㎎以上『摂取すると、LSD並の強烈な幻覚性が発現する。成長したヒカゲシビレタケ、オオシビレタケで2、3本、アイゾメシバフタケだと5、6本で中毒する。分離したシロシビンを直接静脈注射すると、数分で効果が現れ』、『症状は、摂取してから30分ほどで悪寒や吐気を伴う腹部不快感があり、1時間も過ぎると瞳孔が拡大して視覚異常が現れ始め、末梢細動脈は収縮して血圧が上がる。言わば、交感神経系が興奮した時と似た状態である。2時間ほど後には幻覚、幻聴、手足の痺れ、脱力感などが顕著に現れて時間・空間の認識さえ困難となる。その後は徐々に症状が落ち着き始め、4~8時間でほとんど正常に戻る。痙攣や昏睡などの重症例は極めて稀で、死亡するようなことはまずないが、幼児や老人が大量に摂取すると重篤な症状に陥ることもある』とし、シビレタケ属の一種であるシロシビン含有量の多いオオシビレダケPsilocybeの仲間を子供が誤食した死亡例があるとする。『ベニテングタケやテングタケに代表されるイボテン酸の中毒症状は、最終的に意識が消失していく傾向にあるのに対し、シロシビン中毒では過覚醒が発現することが多』く、『長期間常用しても蓄積効果はなく、肉体的な依存性もないが、大麻程度の精神依存があるとされる。また、摂取した後も3ヵ月以内くらいは、深酒や睡眠不足などの疲労によって幻覚や妄想が再燃するフラッシュバックが起こる可能性が指摘されている』とある(以上、後半はウィキの「シロシビン」から引用)。また、「カラー版 きのこ図鑑」(本郷次雄監修・幼菌の会編・家の光協会)110p「ワライタケ」には以下の記載がある(抜粋)とのこと(ブログ「大日本山岳部」の「ワライタケ入門」より孫引き)このエピソードは、ブログの筆者もおっしゃっている如く、必読である。正規の図鑑としては白眉ならぬ金眉である(学名のフォントを変更した)。
《当該ブログからの引用開始》
ワライタケ
Panaeolus papilionaceus
ヒトヨタケ科ヒカゲタケ属
春~夏、牛馬の糞や推肥上に群生~単生。小型。(略)肉は淡褐色。柄は褐色で、白色の微粉に覆われ中空。幻覚性の中毒をおこす。
エピソード:
大正6年、石川県樋川村のA夫さん(35歳)は、近所のBさん(40歳)が採ってきたきのこをBさんが「中毒したら大変」と注意するのも聞かず、「その場所なら今年の3月に同じようなきのこを採ったことがあるから大丈夫」と言い張って、無理やり分けてもらった。
その晩、A夫さんは妻のC子さん(31歳)、母のD枝さん(70歳)、兄のE助さん(41歳)と一緒にきのこの汁物にして、食べた。しばらくしてC子さんがおかしくなり、さすがのA夫さんもあわて、医者に助けを求めた。そしてA夫さんが助けに戻ってくると、C子さんは丸裸になって踊り、飛び跳ね、三味線をもって引くまねをしたり、笑い出したりの大騒ぎ。そのうちA夫さんとE助さんも同じように狂いだし、D枝さんはきのこ3個しか食べなかったため症状が軽く意識を失わなかったものの、自分の料理でみんなに迷惑をかけたと謝り、一晩中同じ言葉をくりかえした。翌日全員快復したという。
本種は、この中毒事件がきっかけとなってワライタケの名がついた。
《当該ブログからの引用終了》
最後に注しておくと、小川は「楓から出る茸は俗に笑ひ茸といへる物也」と述べているが、上記引用にも『牧草地、芝生、牛馬の糞』『牛馬の糞や推肥上』とあり、そのようなムクロジ目カエデ科カエデ属 Acer への特異的植生性質はない。
■やぶちゃん現代語訳
楓に生えた茸は決して食ってはならないという事
私が白山に住んで御座った頃、近隣に大前孫兵衛殿もお住まいになられており、私も懇意にして御座った。
ある日のこと、孫兵衛殿御屋敷の下男が、突如頻りに笑い出し、これが、ただもう、笑い笑(わろ)うて、笑い止まざるものにて、
「……これは最早、狐狸の成す業(わざ)に違いない!」
とて、よく観察してみると、確かに、その笑い、面白うて笑うに、これあらず――引き攣った笑顔の襞の奥にて――甚だ苦しんでおるのが、何やらん分かると言うた感じの、如何にも不気味に奇体なる笑い方で御座った。
されば、やはり近所に住もうて御座った小川隆好(りゅうこう)という小石川御薬園支配方を命ぜられて御座った医師に頼んで診せてみたところが、一見して、
「――これは全く以って食中毒の症状と見受け申す。――直近、何を食べたか存じておるものはおらぬか?――」
と訊ねたところ、同僚の下男体(てい)の者が、
「……そういえば、先ほど……御屋敷の御庭の、楓の根元に茸が生えておったとか言うて……採って料理致いて御座いましたが……」
と、申し上げたところが、隆好医師、膝を打って、
「さればこそ! 楓に生え出でし茸、これ俗にワライダケと申すもので御座る。」
と言うや、屋敷の大小便致すところの厠近辺、その汚物の染み渡って土色赤変致いた所の土くれを採り、湯にこき混ぜて、ぐいと呑ます――
と、たちどころに激しく嘔吐致いたが、後は一日二日で快気致いたとのことで御座った。
茸中毒その他の後学のため、ここに記しおくものである。
「耳嚢 巻之三」に「未熟の射藝に狐の落し事」を収載した。
*
未熟の射藝に狐の落し事
予が親しき弓術の師たる人の語りけるは、或る出入の輕き者の悴を召連來りて、此者に狐付て甚難儀の由、蟇目(ひきめ)とかいへる事なして給り候へと歎きける故其樣を見しに、實(げに)も狐の付たると見へて、戲言(ざれごと)などいふてかしましく罵りける故、蟇目は潔齋の日數もありて急には成がたし、然し工夫こそあり、置て歸るやう申付て、則彼狐付を卷藁の臺へ縛り付て、子供其外弟子共へ申付て、さし矢を數百本いさせけるに、暫くは叫び罵りしが、後は靜に成て臥しけるに、果して狐は落にけり。子供弟子抔蟇目の法しるべきにあらず、未矢所も不極未熟故、風(ふ)としては卷藁をもはづれ候事度々ある事なれば、狐も其危きを知り、且さし矢の事なれば誠に少しのゆとりもなく、弦音矢音烈しければ、落んもむべ也と語りぬ。おかしき事にてありし。
□やぶちゃん注
○前項連関:不可思議の夢兆から、不可思議の狐憑き、それを落す摩訶不思議な呪法で連関するが、ここではその「蟇目」の呪術なんどは、全く使わず、美事に『狐憑き』を『落す』である。この子倅、一時的な一種の精神錯乱か神経症であったものか、若しくは親を困らすための佯狂(ようきょう)ででもあったものか、その辺のことをすっかり見抜いて、この弓術の先生、かの施術を行っているように、私には思われる。根岸もその辺りを「おかしき事」と言っているのではなかろうか。
・「蟇目」日本大百科全書(小学館)の入江康平氏の「蟇目」より引用する(「4・5寸」を「4、5寸」に変えた)。『引目・曳目・響矢などとも』長さ4、5寸(大きいものでは1尺を越えるものもある)の卵形をした桐(きり)または朴(ほお)の木塊を中空にし、その前面に数箇の孔(あな)をうがったもので、これを矢先につけ、射るものを傷つけないために用いた。故実によると、「大きさによって違いがあり、大きいものをヒキメといい小さいものをカブラという」とあるように、もともと同類のものであったようである。その種類には犬射(いぬい)蟇目、笠懸(かさがけ)蟇目などがある。またその名の由来については前面の孔が蟇(ひきがえる)の目に似ているという説や、これが飛翔(ひしょう)するとき異様な音響を発し、それが蟇の鳴き声に似ているとされることから魔縁化生のものを退散させる効果があると信じられ、古代より宿直(とのい)蟇目・産所蟇目・屋越(やごし)蟇目・誕生蟇目などの式法が整備されてきた。今日でもこの蟇目の儀は弓道の最高のものとして行われている』とある。ここでは矢そのものではなく、蟇目の矢を用いたそうした呪術としての「蟇目」の呪法を、かく呼んでいる。
・「實(げに)も」は底本のルビ。
・「卷藁」巻藁は弓術に於ける型の稽古用に作られた的のこと。藁を長手方向に矢が突き抜けず、且つ矢を傷めない程度の強さで束ねて相応の高さの台に乗せたものを言う。以下、参照したウィキの「巻藁(弓道)」から一部引用する。『見た目は米俵に似ているが、中身に何か入っている訳でなく、藁を必要な量束ねて藁縄で巻き締めてあるのみである。巻き締めは相当な力で締めてあり、一度バラせば人間の力で元に戻すのは難しい。巻藁の直径は30cm〜50cm、奥行きが80cm程度あり、巻藁の中心が肩先程の高さに来るよう、また重量があるため専用の巻藁台に据え置く。安全の為には巻藁はある程度大きい方が良く、巻藁の後ろには矢がそれた時のために畳を立てるのが好ましい。型稽古の為に射手の正面に大鏡を置く事もある。巻藁で行射中は射手より巻藁寄りへは出ない、近付かない等注意が必要である』。
・「さし矢」弓矢を番えては放ち、番えては放ち、文字通り、矢継ぎ早に次々と続けて矢を射ることを言う。
・「風(ふ)と」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
未熟の射芸に逆に狐が恐れて落ちた事
私が親しくして御座る弓術の師であるお方が語って下さった話にて御座る。
ある時、師の屋敷へ出入りしておった軽(かろ)き身分の男が、己(おの)がの子倅を召し連れて参ると、
「……こ奴に……狐が憑きまして……甚だ難儀致いて御座いまする……噂に聞いて御座いますところの……かの蟇目とやらん呪(まじな)いを施してやっては……戴けませんでしょうか……」
と切に歎き縋って御座れば、まずはその子の様子を窺って見たところが――成程、如何にも『狐が憑いておる』と見えて、訳の分からぬことを喚(おめ)き叫んで、何やらん、下卑たことを、喧(かまびす)しく口に致いて、五月蠅きこと、これ、話にならず。
それを見てとったかの師、
「――蟇目の法にては、それを執り行(おこの)うための精進潔斎のための日数(ひかず)、これ、必ず必要にて御座ればこそ――今直ぐに施術致す訳には、これ、参らぬ。……然し、拙者、一つ、工夫これあればこそ――まあ……倅をここに預けて、帰るがよい。……」
さて、師は親御が帰ったのを見計らうと、後に残った倅の襟首を荒々しく摑むや、矢の稽古のための巻藁の的を据えた台まで引きずって行き、そこへ雁字搦めに縛り付けると、己(おのれ)の子供や未だ未熟なる弟子ども総てに申しつけ、
「――稽古――始めぃ!」
とさし矢を――実に数百本も――かの的へ――射させる――
「……ぎゃん゛! こん゛! ごん゛!……人殺シィ! 人デ無シィ! 糞爺ィ!……ぎょほ! ぐをっほ!……あ゛~!!…………」
なんどと『狐が憑いた』子倅――暫くは恐れ叫び――狐の如き高き声にて罵しって御座ったが……やがて静かになったと思うたら……ころんと気を失(うしの)うておった。――
――そうして――果して狐はきれいさっぱり――落ちて御座った、とのこと。――
勿論、かの子供や弟子ども、蟇目の法など知る由もない。
それどころか、未だ己(おの)が放った矢が何処(いずこ)へ飛び、何処へ刺さるか、これもまた、まるで分からぬ未熟者ども故……いや! ふとした弾みには……巻藁をも大きに外るること……これ、度々あることなればこそ……『狐の奴』めも……その危うきを知り、且つ、さし矢にてあれば……落ち着いて考え、言わんこと択ぶゆとりも無(の)う……弦音(つるおと)矢音の激しきに、堪らず落ちたもむべなるかな!……いやいや! 誠に可笑しい話で、御座ろう?!
「耳嚢 巻之三」に「夢兆なしとも難申事」を収載した。
*
夢兆なしとも難申事
本所石原に設樂(しだら)某といへる人、召仕の女懷姙して三ツ子を生し事あり。則(すなはち)名を文藏孝藏忠藏と付て、今ははやいづれも廿才になりぬべし。右設樂の縁者たる石黑某かたりけるは、物には自然と感ずる前兆も有ものかや、右設樂初め小十人組にて御城泊番に有りしが、夢に三子を設けたる故名をば何と付べきや、文孝忠信といへど信は殘り三字へ渡りたる義也、文藏孝藏忠藏と附べしと思ひて夢覺めけり。おかしき夢を見しと思ひしが、果して三子を設けて其通り名を付しと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:聴覚的予兆から夢の予兆で直連関。
・「本所石原」現在の墨田区南西部、蔵前橋東南岸を東へ下る蔵前橋通りの左右に現存。御竹蔵(現・国技館)の東北に位置し、東へ縦に長い町である(但し、東方向の現「石原(三)」「石原(四)」は切絵図では「石原新町」とある)。嘉永年間の絵図であるが、そこには「設楽」姓は発見出来なかったが、以下の注で分かる通り、この設楽家は並みの格ではない。絵図にないのは出世して引っ越したと考えるべきであろうか。
・「設楽某」岩波版長谷川氏注では設楽正凝(しだらまさなり 享保9(1724)年~天明4(1784)年)とし、『大番を経て田安郡奉行』となったとあり、更に『三子に該当するのは豊蔵惟綏(これよし)・幸蔵久厚(ひさあつ)・忠蔵政厚。三つ子ではない。』と懇切な注がある(本文は明らかな三つ子として記載されている)。大番は将軍を直接警護する、現在のシークレット・サーヴィス相当職で、五番(御番)方の一つ(後注「小十人組」を参照。その中でも最も歴史が古い)。田安郡(こおり)奉行とは江戸幕府第八代将軍吉宗次男宗武を家祖とする御三卿の一つ田安徳川家の領地の郡代を言う。しかし正直に言うと、この正凝なる人物が独身であったのか、妻がありながら召使いに手を出したのか、長谷川氏がかく注を引くことが出来るということは、正妻がなかったか、正妻はあったが子がなかったか――そんなことの方が気にかかる私であった。また、そんなところを勝手に類推敷衍して、現代語訳に突っ込もうと思った。こうした条件をつけた方が、夢告の不思議さ――都市伝説的なリアルなインパクトを付与出来ると考えたからである――と、底本の鈴木氏注を見た――またしても、『新たな』動き! 新事実! まず、そこには、設楽正凝の子として男子三人ではなく四人を挙げ、何とそこには「信」さえ居るのである!――『七蔵正信・豊蔵惟綏・幸蔵久厚・忠蔵政厚の四子がある。文蔵ではない。なお三つ子を生んだのではなく、豊蔵と忠蔵は二年違い。嗣子七蔵も母某氏とあり、正妻には子がなかったのであろう。』――いつも乍ら、鈴木先生に感謝! 先生の推測に、私の敷衍を組み合わせて――設楽某のアーバン・レジェンド、出来上がり、出来上がり!
・「小十人組」将軍家警護組織であった五番方の一つ。以下、ウィキの「小十人」から引用する。『江戸幕府における警備・軍事部門(番方)の役職のひとつである。語源は扈従人であるとされる。将軍及びその嫡子を護衛する歩兵を中心とした親衛隊であり、行軍・行列の前衛部隊、目的地の先遣警備隊、城中警備係の3つの役目がある』。『小十人の役職名は、江戸幕府と諸藩(特に大きな藩)に見ることができ、将軍(あるいは藩主)及び嫡子の護衛・警備を役目とする。歩兵が主力であるが、戦時・行軍においては主君に最も近い位置にいる歩兵であるため、歩兵でも比較的格式が高い』。『江戸幕府においては五番方(新番・小十人・小姓番・書院番・大番)のひとつとされる。平時にあっては江戸城檜之間に詰め、警備の一翼を担ったが、泰平の世にあっては将軍が日光東照宮、増上寺、寛永寺などに参拝のため、江戸城を外出するときが腕の見せ所であり、繁忙期であった。将軍外出時には将軍行列の前衛の歩兵を勤めたり、将軍の目的地に先遣隊として乗り込んでその一帯を警備した。江戸時代初期や幕末には小十人が将軍とともに京・大坂に赴き、二条城等の警護にも当たっている』。『小十人のトップは、小十人頭(あるいは小十人番頭)であり、主に1,000石以上の大身旗本から選ばれた(足高の制による役高は1,000石)。中間管理職として小十人組頭(役高300俵)があり、将軍外出予定地の実地調査のためにしばしば出張した。小十人頭(番頭)・組頭は馬上資格を持つ。時代によって異なるが、江戸幕府には概ね小十人頭は20名、小十人組頭は40名、小十人番衆は400名がいた』。『小十人の番士は、旗本の身分を持つが、馬上資格がないという特徴がある。小十人番衆は家禄100俵(石)級から任命されることが多く、小十人の役職に就任すると、原則として10人扶持の役料が付けられた。知行になおすと計120余石となる。江戸城に登城する際は、徒歩で雪駄履き・袴着用で、槍持ちと小者の計2名を従えた』。『江戸時代初期には、譜代席の御家人(御家人の上層部)の中で優秀な者・運の良い者(あるいはその惣領)は小十人となり、旗本に班を進める者もいた。泰平の世となると、番方は家柄優先の人事が行われていたので、将軍通行の沿道警備役の御家人から小十人に直接抜擢された例はほとんどなく、勘定・広敷をはじめとする役方(行政職・事務職)の役職に就任していた御家人(あるいはその惣領)が論功として小十人になることがあった』とある。
・「御城泊番に有りし」ここでわざわざ設楽の役職を仔細に述べ、夢を見たのが城内での宿直の晩であったと述べているのは、もしかすると根岸、江戸城徳川将軍家の持つ神威のパワーを暗に示さんとしたものででも、あったものと私は推測している。
■やぶちゃん現代語訳
夢兆など存在しないなどとも言い難き事
本所石原に住まう設楽某というお方があったが――御正妻はあられたが、御子がなかった――その召使いの女が懐妊して三つ子が生れた――かく申せば言わずもがな、設楽某殿の御子で御座った――。
則ち――この女を側室と致いて――名を文蔵・孝蔵・忠蔵と付け――そうさ、今ははや、二十歳(はたち)前後にはなり申そう。
この設楽の親戚の者で御座った私の知人石黒某が語った話で御座る。――
「……物事というもの、自(おの)ずと不思議に感応致すところの、前兆というもの、これ、あるので御座ろうか。……かの設楽、子もなくて――未だかの女も召し使う前にて御座った由――大番になる前は、初めは小十人組に勤めて御座って、御城の宿直(とのい)番に当たった夜の夢の中にてのこと、と申す……
『……かくも――三つ子を設けたる、故は……さても――名何と付くるが、よかろう?……世には――「文・孝・忠・信」とは言うも、これは四つ……なれど――『信』は他の三字総てにあるべきものにて、相通ずればこそ……これぞ、文蔵・孝蔵・忠蔵と名付くるが、よかろう……』
と、思うた……
――と夢の中にて思うたところで、設楽……目が覚めたと申す。勿論、妻には子も一向に出来ず……況や、子を孕ませた女のある訳にてもなし……
『……妙な夢を……見たもんじゃ……』
と思って御座ったところ……暫く致いて、新たに雇うた召使いの女の色香に迷い……孕ませ……かくも誠に三つ子が……かの日の夢の通りの、三つ子が生まれ……かの夢告の通り、文蔵・孝蔵・忠蔵と名を付けたということにて御座る。……」
「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」に、大幅な注記追加を施した。
少しばかり、溜飲が下がった。
僕は、二人の恋を成就させたいのだ。
――何故なら僕は二人が好きだから――そうして――もはや二人の恋は恩讐をせせら笑って――軽々と越えているから――恩讐を越えた愛――こんなに羨ましいものは、一体、この世の何処にある?
嫌いな彼の言葉を敢えて遣おう――
――「ところに繋累なきよそひとは、却りて力を借し易きこともあらん。」――
「耳嚢 巻之三」に「盲人吉兆を感通する事」を収載した。
*
盲人吉兆を感通する事
有德院樣未(いまだ)紀州中納言にて被爲入(いらせられ)、御庭の御物見に御座(ござ)ありしに、彼御物見下を平日御療治等さし上(あげ)し座頭某通りけるが、暫く耳をかたむけ御物見に立歸り、やがて御殿へ出けるに、何ぞ恐悦なる事はなきや、扨々御目出度事也と申上けるに、いか成事にてかく申やと尋けるに、今日御物見下を通りけるが、頻に御屋敷内にて餠など舂(つ)き候音なして、いかにも悦(よろこば)しき物音なり、何か恐悦の事あらん、其時は御祝ひを御ねだり申さんなど申けるにぞ、上にも御笑ひありしが、無程御本丸へ被爲入、將軍に被爲成(ならせられ)ける。右盲人は其後板鼻(いたばな)檢校とかいひて、御供なしけるとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:物見櫓エピソード連関と、紀州南龍院徳川頼宣から孫である第八代将軍吉宗で連関。
・「有德院」は八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。
・「紀州中納言」正確には権中納言。吉宗は宝永2(1705)年10月6日に紀州徳川家5代藩主に就任、同年12月1日には従三位左近衛権中将に昇叙転任、同時に将軍綱吉の偏諱を賜って「頼方」から「吉宗」と改名、宝永3(1706)年参議、翌宝永4(1707)年12月18日に権中納言に転任している。権中納言であったのは、ここから正徳6(1716)年4月30日の将軍後見役就任までの9年間である。話柄からは正徳6(1716)年春か、前年の秋頃のことと思われる(年末年初では餅搗きの音は奇異ではない。これはそうした時期でないことを意味している。但し、は正徳6(1716)年春には最早人事は明白であったとも考えられるから、やはり前年秋ぐらいの方が都市伝説としてはグッドである)。
・「物見」前項同注参照。但し、ここでは城下の物見台ではなく、庭を見下ろすための高楼のようなものかも知れない。
・「無程御本丸へ被爲入、將軍に被爲成ける」吉宗は享保元(1716)年8月13日に征夷大将軍源氏長者宣下を受け、正二位内大臣兼右近衛大将に昇叙転任して、第八代将軍となった。事蹟の参考にしたウィキの「徳川吉宗」によれば、この将軍就任の際、吉宗は『紀州藩を廃藩とせず存続させた。過去の例では、第5代将軍・徳川綱吉の館林藩、第6代将軍・徳川家宣の甲府徳川家は、当主が将軍の継嗣として江戸城に呼ばれると廃藩にされ、甲府徳川家の藩士は幕臣となっている。しかし吉宗は、御三家は東照神君家康から拝領した聖地であるとして、従兄の徳川宗直に家督を譲ることで存続させた。その上で、紀州藩士のうちから加納久通・有馬氏倫ら大禄でない者を二十数名選び、側役として従えただけで江戸城に入城した。こうした措置が、側近政治に怯える譜代大名や旗本から、好感を持って迎えられた』とある。
・「板鼻檢校」板花喜津一(いたばなきついち 慶安5・承応元(1652)年~享保6(1721)年)。岩波版長谷川氏注に『宝永六年家宣に目見、奥医に準ぜられ享保元年二百俵支給』(宝永6(1709)年)とある。この「奥医」というのは、吉宗の準奥医扱いということであろうか(でなくては辻褄が合わない。大名の侍医も奥医と呼ぶ)。しかし、本文では最下級の「座頭」とある。「目見」「奥医に準」ずるのに、これは明らかにおかしい。これではやはり、本話が眉唾の都市伝説であると言われても文句は言えまい。それとも板花喜津一ではないのか? その辺の齟齬について長谷川氏は何も述べておられないので、底本の鈴木氏注を見る(今まで奇異に思われていた方もあるかも知れぬので一言申し添えておくと、私の、この「耳嚢」の注は原則、まずオリジナルな注を目指すために諸注を見ずに原案を作り、次に最も最新の注である岩波版を参考にして捕捉を加え、最後にやはり参考のために底本の鈴木氏注を確認するという順序をとっている。しかし乍ら、古い注ながら底本の鈴木氏の注は注釈の真髄を捉(つら)まえているものと感服することが多い)と、私が思った通り、『吉宗の紀州時代というのは誤であろう。話を面白くするための付け加えであるかも知れない』とされている。「檢校」は盲官の最高位。
■やぶちゃん現代語訳
盲人は聴覚にて超自然の吉兆を感じとる事
有徳院吉宗様が未だ権中納言にて紀州和歌山藩藩主であらせられた折りのことで御座る。
ある日のこと、吉宗様、御庭の御物見台へ御登第なされ、そこに座っておられた。
丁度、その時、日頃吉宗様御療治のため、御城に来診致いて御座った座頭の某が、その御物見台の下の辺りを通りかかって御座った。
物見窓から覗いてご覧になられると、座頭は、立ち止って何やらん、こちらの方に耳傾けておる様子にて、御物見台の下まで、わざわざ戻って参り、また暫く聞き耳を立てる様子の後、御殿へと上がって御座った。
その日、御療治のため、座頭が吉宗様に拝謁致いたところ、座頭、
「……何ぞ近々、恐悦至極なる御慶事にても、これ、御座いまするかのう? さてもさても! 御目出度きことにて御座る!……」
と申し上ぐるので、吉宗様は妙に思われ、
「何故、斯様なことを申す?」
と質された。
すると座頭、
「……今日、ここに参りまする折り、御物見の下を通りましたところが、しきりに御屋敷内より――ぺったん、ぺったん、ペったん、ぺったん――と、餅なんどを搗く音、これ、聞こえましたれば……これ、如何にも悦ばしき物音なればこそ……近々、恐悦なる御事、必ずやありましょうぞ! その折りには、拙者、一つ、御祝儀なんどを、御ねだり申し上げましょうかのう……」
と申し上げるのをお聞きになられると、吉宗様は飽きれて大笑いになされたとのことで御座る。――
――なれど、程のう、江戸城御本丸へ入らせられ、将軍様にならせられまして御座る。――
――かの座頭は、その後(のち)、板鼻(いたばな)検校とか申す名と高位を得、吉宗様にお供致いた、とのことで御座る。――
ブログ250000アクセス記念として―― もう250882アクセスで遅きに失したけれど―― 「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」を、やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。一部の注に不満があるが、取り敢えず、これで見切り発進だ。それでもある種の挑戦的な思いは遂げ得たのだ。どうか、御笑覧の程。
芥川龍之介「江南游記」の「二十八 南京(中)」に出る「高跳動(カオチヤオトン)」の正体を解明した。
旧来、未詳とされていたもの(筑摩全集類聚版脚注の『竹馬にのって踊りをするのか。』という推測は正しい)であるから、特にここにも掲げておく。
*
・「高跳動(カオチヤオトン)」“gāotiàodòng”であるが辞書にもなく、検索にも掛からず、筑摩全集類聚版脚注が『竹馬にのって踊りをするのか。』とするのみで、新全集の神田由美子氏注では注さえない。今回、中国通の知人の二人の協力を得て、遂に解明出来た。これは正しくは「高蹻戲」“gāojiăoxì”(ガオチャオシ)若しくは「高脚戲」“gāojiăoì”(ガオチャオシ)である。大正15(1926)年に書かれた青木正児著劉延年図「北京風俗図譜」の解説本平凡社東洋文庫「北京風俗図譜2」(1964年刊 内田道夫解説)の「伎芸第八」に、「道化芝居、竹馬芝居(秧歌戯〔高脚戯〕」として以下の記載がある。青木氏の著作権は存続しており、画師である劉延年の著作権も存続している可能性があるが、現在まで『不詳』とされてきたこの項目を、多くの方に認識して頂くという公益性を重んじて敢えて以下に全文と3枚の画像を示す(万一、著作権侵害を申し立てられた場合は、画像を削除し、引用を部分引用にする意志はあるが、本件に関して言えば、その全体の引用が本件注釈としては不可欠と判断され、それがかの芥川龍之介の「江南游記」の注としてならば、私は青木氏も許容して頂ける引用範囲内にあると考えている。なお、3枚の内の1枚は同書に参考として掲げられている「鴻雪因縁図記」の画像であるが、これは麟慶(1791~1846)の書で既に著作権は切れている)。内、最初のカラー版は友人の所有になる「北京風俗図譜」彩色図版の同一画像である。彩色の美しさが少しでも分かって頂けると嬉しい。なお、ルビの拗音は私が勝手に判断したものである。
《引用開始》
秧歌(ヤンコ)はがんらい田植や収穫の時に歌われる民謡であったが、化装をともなった秩歌戯(ヤンコシー)(道化芝居)に発展して、お正月の農民の遊びとなった。高蹻戯(カオチャオシー)(高足駄)もやはりお正月の演技として各地に行なわれる。十二人または十人を一組とし、化装して足に高蹻(カオチャオ)(高脚(カオチャオ))―竹馬をつけて巧妙に演技する。その構成は(図向かって右より前へ)漁翁(りょうし)、武扇(扇をもった男子)、文扇(扇をもった女子)、小二格(シャオアルコ)(花籠をさげた子供)、大頭和尚、俊鼓(太鼓を打つ美男)、丑鑼(銅鑼を打つ醜女)、俊鑼(銅鑼を打つ美女)、丑鼓(太鼓を打つ醜男)、海女、膏薬売り、樵夫の十二人で、十人のときは海女と膏薬売りがぬける。北京の北郊妙峯山の縁日のときは、高蹻戯(カオチャオシー)が賑やかに上演されるが、これを秧歌(ヤンコホイ)と称している。
湖北省にも同じくこの風が行なわれ、小丑(シャオチョウ)という道化役が手に一尺ほどの竹筒をもち、これを振ると筒の中の一文銭が高い響きをたてる。竹筒を連番(リェンシャン)といい、この道化役を打連香(ダーリェンシャン)という。あるいは銅の簡を用い、中に金環をいれて振る。古く雑劇に列せられた「打連廂(ダーリェンシャン)」の遺響であるという。児童が女性に扮して、指さきで筒をまわして音を出し、顔にのせて眉間より鼻の先に落として見せる。また眉間のところで筒をまわしながら、左手に拍板を鳴らし、右手に扇を舞わせて歌を歌ったりする。
高脚戯の装束が何を意味するのか、よく分らないが、十二人はいずれも妖怪変化で、大頭和尚は蛤蟆(がま)、小二格は蝎虎子(やもり)の精というように、端午節に演ずる『混元金(フンユアンホ)』の芝居をまねたのだともいう。
演技は仰向けにひっくりかえって見せたり、腰掛を飛びこえたり、一本脚で跳びまわったり、二人が相手の一部を持ちあったり、肩を組んだりして駈けまわる。高蹻(カオチャオ)(竹馬)は木の棒で作り、下端には鉄のたが、または釘をはめ、棒の中程のところに足がかりの板をつけ、その上に出た棒の部分を足に縛りつける。その由来はたいへん遠く、『列子』説符篇に「宋に蘭子というものあり、技をもって宋元君に干(もと)む。……雙枝の長さその身に倍するものをもって、その脛(すね)に属し、並びに趨(はし)り、並びに馳す」という。くだって宋の都杭州のことを述べた『武林旧事』巻二にも舞隊の中に踏※の名が見える。(『支部民俗誌』二巻二篇)[やぶちゃん字注:「※」=「距」-「巨」+「堯」。以下の「※」も同じ。]
[やぶちゃん注:ここに有意な行空きがある。]
清時代の麟慶の『鴻雪因縁図記』(三集上)には山東臨清県の運河ぞいの縁日の賑わいを述べ、
[やぶちゃん注:ここに有意な行空きがあり、以下の同書からの引用は底本では全体が二字下げである。ここではブラウザ上の不具合を考え、字下げを行っていない。]
四月十八日は碧霞元君(泰山の神)の聖誕と伝え、遠近数百里の郷民争って来たり社火(まつり)の会をなす。百貨つぶさに衆まり百戯つぶさに陳(つら)ぬ。しかして独り脚高※もっとも奇絶となす。蹬壜(かるわざ)、走索(つなわたり)、舞獅(ししまい)、耍熊(くなつかい)精妙ならざるはなし。
[やぶちゃん注:ここに有意な行空きがある。]
と記している。いずれも農村娯楽の古い歴史につちかわれてきた演技である。
《引用終了》
上に掲げたのが、清の麟慶『鴻雪因縁図記』の該当図絵である。ここで芥川に話しかけている五味君は日本人であるから、中国語の発音の類似と、恐らくはその動きから、このような和製中国語を造ったものか、若しくは南京の方言で「高蹻戲」を実際にこう言ったのかも知れない。
「耳嚢 巻之三」に「賴母敷き家來の事」を収載した。
*
賴母敷き家來の事
紀州南陵院樣、或日若山におゐて御物見に入らせられ往來を御覧ありしに、御出の樣子もしらず御家中の者も大勢往來なせしに、或御家來侍草履取挾箱鑓(やり)にて通りしを、御側に居し者、あれは彼沙汰ありし男なりと笑ひけるを御聞被遊、いかなる沙汰ありしと御意の時、御側の者共無據申けるは、彼者儀身上不勝手の由、しかはあれど取計(とりはからひ)かたも可有之儀、甚だ不束(ふつつか)の儀に有之と申上けるに、いか成(なる)謂(いはれ)と御尋有ければ、右の者召連候侍は彼者次男に御座候。草履取鑓持箱持何れも三男四男、或ひは懸り居候甥などにて候と申ければ、南陵院樣御意ありけるは、それは賴母敷家來也、予は大勢召連ぬれど、彼家來におとりたる、草履鑓持の處は心元なし。不如意は是非もなしと被仰けるが、無程かの者を御取立ありて相應に子供も片付をなしけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:もし前項が想像した通りの吉宗の逸話であれば、その祖父の話として連関する。
・「賴母敷き」「たのもしき」と読む。
・「紀州南陵院」正しくは南龍院。徳川家康十男で紀伊国和歌山藩初代藩主となった徳川頼宣(慶長7(1602)年~寛文11(1671)年)の尊称。戒名も南龍院殿従二位前亜相顗永天晃大居士である。ウィキの「徳川頼宣」より一部引用する。『常陸国水戸藩、駿河国駿府藩、紀伊国和歌山藩の藩主を歴任して紀州徳川家の祖となる。母は側室の養珠院(万)である。八代将軍徳川吉宗の祖父にあたる。幼名は長福丸、元服に伴い頼将、元和年中に頼信、さらに頼宣と改名する。初任官が常陸介であったため、子孫も代々常陸介に任官した』。『1602年(慶長7年)、伏見城にて生まれる。1603年(慶長8年)、2歳にして常陸水戸藩20万石を与えられる。1606年(慶長11年)、家康に従い京都に上り元服。同年、駿河駿府藩50万石に転封され、駿府城に入って家康の許で育てられた。1617年2月27日(元和3年正月22日)に加藤清正の第五女・八十姫(瑤林院)を正室とする』。『1614年(慶長19年)、大坂冬の陣で初陣を飾り、天王寺付近に布陣した。翌年大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで後詰として活躍した』。『1619年(元和5年)、紀伊国紀州藩55万5千石に転封、紀州徳川家の家祖となる。入国の前に、家臣を派遣して、以前の領主・浅野家に対する領民の不満などを調査させている。入国後は、和歌山城の改築、城下町の整備など、紀州藩の繁栄の基礎を築いた。また、地元の国人を懐柔する地士制度を実施した。また、浪人問題を解消すべく、多くの対策を打ち出した』。『1651年(慶安4年)の慶安の変において、由井正雪が頼宣の印章文書を偽造していたため幕府(松平信綱・中根正盛)に謀反の疑いをかけられ、10年間紀州へ帰国できなかった』。『なおその時期、明の遺臣・鄭成功(国姓爺)から日本に援軍要請があったが、頼宣はこれに応じることに積極的であったともいう。その後、疑いは晴れて無事帰国したが、和歌山城の増築を中止しなければならなかったとも言われる(和歌山県和歌山市にはこの伝承に因む「堀止」という地名がある)』。『1667年(寛文7年)嫡男・光貞に跡を譲り隠居』。暴れん坊将軍吉宗の祖父に相応しく、『覇気に富む人柄であったと伝えられている』とある。現代語訳では正しく南龍院と改めた。
・「物見」城や貴人の屋敷などで、外部の様子を眺めるために高所に設けられた場所。物見窓。一般には外からは見え難い構造になっている。
・「若山」和歌山。
・「身上不勝手」家計不如意、経済的に困窮しいること。
・「おゐて」はママ。
・「おとりたる、草履鑓持の」底本では右に『(尊本「劣らざる草履取鎗持の」)』と注する。これで採る。
■やぶちゃん現代語訳
頼もしき家来の事
ある折り、大御所様御子にして吉宗公御祖父であらせられた紀州南龍院徳川頼宣様が、和歌山城の御物見にお入りになられ、往来をご覧になられておられた。
御物見台へ御出でになられておられることを知らぬ御家中の者らが、御城下御物見下を大勢往来致いておった。
その時、ある家士の一人が、物見のすぐ下を、供侍一人、草履取一人、挟箱一人、槍持一人を従え、通って行くの見た御近習の者が、別の一人に――上様のお傍なれば、上様に聴こえぬようにと――遠慮がちに笑い乍ら、耳打ち致いた。
「……あれ、見よ。……ほれ、『あの評判の』、例の男ぞ。……」
耳聡き南龍院様がこれをお聞き遊ばされ、
「――『あの評判』――とは、如何なる評判じゃ?――」
との御意。聴き咎められた御傍衆は恐縮し乍ら、拠所なく、以下のように申し上げた。
「……かの者儀……如何に身上不如意とは申せ……他にも取り計らい方、これ、御座ろうと思われまするに……甚だ見苦しき仕儀、致いて御座れば……」
と申し上げたところ、南龍院様は、
「――かの者を見るに――これと言うて、何の見劣れるところも、これ、ないが――何の謂われを以って『見苦しい』とは、申すか?――」
とのお訊ねなれば、
「……お恐れ乍ら、実は……かの者の、あの召し連れて御座いますところの供侍……これ、次男にて御座いまする。……また、その後ろの草履取、槍持、箱持は何れも三男、四男、或いは、かの家士に頼って居候致いて御座る甥子(おいご)……といった次第にて御座いますればこそ……」
と、如何にもかの家士を賤しき者と馬鹿にした風に申し上げる。
ところが、南龍院様、にっこりと微笑まれ、御意あらせられたことには、
「――それは頼もしき家来じゃ! 予は大勢、家来を召し連ねておれど――かの家来に劣らぬ草履取、槍持がおるか――と思うと、心許ない。――身上不如意――それとこれとは、何の関係も、これ、ない。――」
と仰せられた由。
程なく、南龍院様は、かの家士を殊の外御取り立てになられ、その子供らをも、相応の職に落ち着かせたとのことで御座った。
「耳嚢 巻之三」に「橘氏狂歌の事」を収載した。
*
橘氏狂歌の事
橘宗仙院は狂歌の才ある由聞し。一とせ隅田川御成の御伴にて、射留の矢を御小人(おこびと)の尋ありけるを見て、
いにしへは子を尋ける隅田川今は小人がお矢を尋(たづぬ)る
當意即妙の才なりと人のかたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。
・「橘宗仙院」岩波版長谷川氏注に橘『元孝・元徳(もとのり)・元周(もとちか)の三代あり。奥医から御匙となる。本書に多出する吉宗の時の事とすれば延享四年(一七四七)八十四歳で没の元孝。』とある。このシーン、将軍家隅田川御成の際に鳥を射た話柄であるから、狩猟好きであった吉宗という長谷川氏の橘元孝(もとたか 寛文4(1664)年~延享4(1747)年)の線には私も同感である。この次の話柄の主人公が吉宗祖父徳川頼宣で、次の次が吉宗であればこそ、そう感じるとも言える。底本鈴木氏注でも同人に同定し、『印庵・隆庵と号した・宝永六年家を継ぎ七百石。享保十九年御匙となり同年法眼より法印にすすむ。寛保元年、老年の故を以て城内輿に乗ることをゆるされた。延享三年致仕、四年没、八十四。』とある。「御匙」とは「御匙(おさじ)医師」で御殿医のこと。複数いた将軍家奥医師(侍医)の筆頭職。
・「御小人」小者。武家の職名。ここにあるように、将軍家の放った矢を拾いに行ったり、鉄砲を担いで付き従ったりする、極めて雑駁な仕事に従事した最下級の奉公人。
・「いにしへは子を尋ける隅田川今は小人がお矢を尋る」観世元雅作の謡曲「隅田川」に引っ掛けた狂歌。まず、謡曲「隅田川」についてウィキの「隅田川(能)」より一部引用しておく(記号・漢字の一部を変更した)。
一般に能の『狂女物は再会からハッピーエンドとなる。ところがこの曲は春の物狂いの形をとりながら、一粒種である梅若丸を人買いにさらわれ、京都から武蔵国の隅田川まで流浪し、愛児の死を知った母親の悲嘆を描』いて、荒涼たる中に悲劇として幕を閉じる。登場人物は狂女(梅若丸の母:シテ)・梅若丸の霊(子方)・隅田川渡守(ワキ)・京都の旅の男(ワキヅレ)で、舞台正面後方(能では「大小前」だいしょうまえ)という)に塚の作り物(子方はこの中で待機する)がある。『渡し守が、これで最終便だ今日は大念仏があるから人が沢山集まるといいながら登場。ワキヅレの道行きがあり、渡し守と「都から来たやけに面白い狂女を見たからそれを待とう」と話しあう』。『次いで一声があり、狂女が子を失った事を嘆きながら現れ、カケリを舞う。道行きの後、渡し守と問答するが哀れにも「面白う狂うて見せよ、狂うて見せずばこの船には乗せまいぞとよ」と虐められる』(「カケリ」とは能の働き事(演出法)の一つ。修羅物に於ける戦闘の苦患(くげん)、狂女物に於ける狂乱の様態などの興奮状態の演技、及び大鼓・小鼓に笛をあしらったその場面の囃子(はやし)をも言う)。『狂女は業平の「名にし負はば……」の歌を思い出し、歌の中の恋人をわが子で置き換え、都鳥(実は鷗)を指して嘆く事しきりである。渡し守も心打たれ「かかる優しき狂女こそ候はね、急いで乗られ候へ。この渡りは大事の渡りにて候、かまひて静かに召され候へ」と親身になって舟に乗せる』。『対岸の柳の根元で人が集まっているが何だと狂女が問うと、渡し守はあれは大念仏であると説明し、哀れな子供の話を聞かせる。京都から人買いにさらわれてきた子供がおり、病気になってこの地に捨てられ死んだ。死の間際に名前を聞いたら、「京都は北白河の吉田某の一人息子である。父母と歩いていたら、父が先に行ってしまい、母親一人になったところを攫われた。自分はもう駄目だから、京都の人も歩くだろうこの道の脇に塚を作って埋めて欲しい。そこに柳を植えてくれ」という。里人は余りにも哀れな物語に、塚を作り、柳を植え、一年目の今日、一周忌の念仏を唱えることにした』。『それこそわが子の塚であると狂女は気付く。渡し守は狂女を塚に案内し弔わせる。狂女はこの土を掘ってもわが子を見せてくれと嘆くが、渡し守にそれは甲斐のないことであると諭される。やがて念仏が始まり、狂女の鉦の音と地謡の南無阿弥陀仏が寂しく響く。そこに聞こえたのは愛児が「南無阿弥陀仏」を唱える声である。尚も念仏を唱えると、子方が一瞬姿を見せる。だが東雲来る時母親の前にあったのは塚に茂る草に過ぎなかった』。
折角、しみじみしたところで恐縮であるが、これを宗仙院はパロって、
○やぶちゃんの現代語訳
――その昔、狂うた親が、去(い)んじ子を、尋ね参った隅田川――今は子ならぬお小人が、親ならぬ御矢(おや)、尋ね渡らん――
と掛けたのである。
■やぶちゃん現代語訳
奥医橘宗仙院殿の狂歌の事
昔、奥医であられた橘宗仙院殿は狂歌の才にも長けたお人であった由、聞き及んで御座る。
ある時、隅田川御成りの折り、そのお供を致いたが、鳥を射とめたはずの上様の御弓矢が、亡失致いて、従ごうて御座った御小人が、あちらへ一散、こちらへ一散、さんざん駆け回って尋ね求めて御座るのを見、
いにしへは子を尋ねける隅田川今は小人がお矢を尋ぬる
と歌ったとのこと。
「……当意即妙の才にて御座ろう……。」
と、ある人が語って呉れた話で御座る。
あらゆる生は確かに死に至る病に過ぎないということが確かに分かった――それで――よい――僕は何も言うことは――ない――そう思えば、僕らにはもう何も苦痛はない――
*
エリスは――確かに僕らに人の心の暖かさとは、そうして――そのトラウマの深さとは、如何なる深さであるかを……確かに教えてくれるであろう……
そうして……それは如何に他者に理解不能であるかという真理とともに――教えてくれているのだ……
言っておこう……教えているのは――豊太郎でも、況や、森鷗外でも――「舞姫」という作品でも――『文学』という総体でも――ない、のだ――教えてくれたのは――このエリスである――
……遂に逢はざる人の面影……その名は……エリス――――
「耳嚢 巻之三」に「老耄奇談の事」を収載した。
本話柄はその内容と注釈にかなり強烈な性的内容を含む。自己責任でお読み戴きたい。
*
老耄奇談の事
藤澤某といへる老士ありしが、おかしき人にてありし。或時つくづく思ひけるは、我等若き時よりあらゆる事なして、凡(およそ)天地の内の事なさゞるといふ事なけれど、童の比(ころ)より人と念友の交りなして若衆に成(なり)し事なけれ、いかなる物なるやと思ひけれど素より醜の上衰老なしぬれば、いか成(なる)那智高野の學侶也とも其譯賴みてなすべきといふ者もあるまじと、風與(ふと)思ひ付てはりかたといへるものを求て、春の日縁頰(えんづら)に端居して我身(おのづ)と其業なしけるに、衰老の足弱りして腰をつきけるに、肛門中へ根もと迄突込わつといふて氣絶なしけるを、彼聲に驚き子供娘など駈集りて見しに、氣絶なして尻をまくりて其樣あやしければ、醫師よ藥と騷ぎけるが、風與赤き紐の尻をまくりし脇に見へし故、彼是と糺しぬれば右の始末ゆへ驚て引出し、藥などあたへて漸(やうやう)に氣の附しが、かゝる譯と語られもせず、聞(きか)ん事も如何と、いづれも驚(おどろき)しうちにも笑ひを含みけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:時節を得、ツボを得ての出世から、尻のツボに張形で私の勝手な連関。ただ先の話柄の登場人物達――大名と家士そして神山某の三者(神山の養子も含めてもよい)――には、何やらん、念友の匂いが仄かに漂っているような気がするから、その連関との謂いなら、賛同して下さる方もおられよう。
・「念友」広義には男同士が男色関係を結ぶことを言うが、厳密には狭義の「念者」を指し、兄分(立ち役・攻め役)を言う。
・「若衆」広義には「若衆道」と同義で男色全般を指すが、厳密には狭義の「若衆」は「念友」「念者」の反対語で弟分(受け役)を言う。やっと「衆道」の説明を書ける。満を持してウィキの「衆道」から引用する(記号の一部を変更した)。『衆道(しゅどう)とは、「若衆道」(わかしゅどう)の略であり、日本においての、男性による同性愛・少年愛の名称・形態。別名「若道」(じゃくどう/にゃくどう)、「若色」(じゃくしょく)』。『平安時代に公家や僧侶の間で流行したものが、中世以降武士の間にも広まり、その「主従関係」の価値観と融合したとされる』。『衆道の日本における最初の記録は、日本書紀の神功皇后の項にある。「摂政元年に昼が闇のようになり、これが何日間も続いた。皇后がこの怪異の理由を尋ねたところ、ある老人が語ることには、神官の小竹祝の病死を悲しんだ天野祝が後を追い、両人を合葬した「阿豆那比(アヅナヒ)之罪」のなせる業であるという。そのため墓を開き、両者を別々の棺に納めて埋葬すると、直ちに日が照り出した」との記述がある。ある説によれば、この「阿豆那比」こそが日本最古の男色の記述であるとする。また「続日本紀」には、天武天皇の孫である道祖王が、聖武天皇の喪中に侍児と男色を行ったとして廃太子とされた記述が見える』(この前者については私の電子テクスト南方熊楠「奇異の神罰 南方熊楠 附やぶちゃん注」の注釈で、「日本書紀」原文・書き下し文・現代語訳を施したしたものを既に公開している。是非、御覧あれ)。『日本への制度としての男色の渡来は、仏教の伝来とを同じ時期であるとされる。仏教の戒律には、僧侶が女と性交する事(女色)を忌避する「女犯」というものがあった。そのため、女色に代わって男色が寺社で行われるようになった(男色の対象とされた少年達は、元々は稚児として寺に入った者達である)。近代までの俗説的な資料によれば、衆道の元祖は弘法大師空海といわれている』。『平安時代にはその流行が公家にも及び、その片鱗は、たとえば複数の男性と関係した事を明言している藤原頼長の日記「台記」にうかがえる。また源義経と、弁慶や佐藤継信・佐藤忠信兄弟との主従関係にも、制度的な片鱗を見出す説もある』。『北畠親房が「神皇正統記」の中で、男色の流行に言及しており、その頃にも流行していた証拠とされている(室町時代においては、足利義満と世阿弥の男色関係が芸能の発展において多大な影響があったとされている)』。『戦国時代には、戦国大名が小姓を男色の対象とした例が数多く見られる。織田信長と前田利家・森成利(蘭丸)ら』(注が附され、『信長と森乱丸(蘭丸)の関係については異説ならびに異論もある』などとある)、『武田信玄と高坂昌信、伊達政宗と片倉重長・只野作十郎』(注が附され、『信玄と昌信、政宗と作十郎(勝吉)については一次史料である書状が現存している。ただし、高坂のものは該当する史料に改変の痕跡があり、近年では信玄との関係を疑問視されている』とある)、『上杉景勝と清野長範』(注が附され、『景勝と長範について記す史書は江戸時代になって成立したもので二次史料ではあるが、当時の長範の知行等の待遇や逸話などから考えると、景勝と長範が実際に男色関係にあった可能性もあると推論されている』とある)、『などが有名な例としてあげられる』(注が附され、『戦国時代の主従間の男色関係の中には、主君の主導によらないとされる関係もある。浮気を謝罪する内容である信玄から昌信へ宛てたとする手紙は、その一例である』とある)。『武士道と男色は矛盾するものとは考えられておらず、「葉隠」にも男色を行う際の心得について説く一章がある』。『江戸時代においては陰間遊びが町人の間で流行し、日本橋の葭町は陰間茶屋のメッカとして繁栄した。衆道は当時の町人文化にも好んで題材とされ、「東海道中膝栗毛」には喜多八はそもそも弥次郎兵衛の馴染の陰間であったことが述べられており、「好色一代男」には主人公が一生のうちに交わった人数を「たはふれし女三千七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人」と書かれている。このように、日本においては近代まで男色は変態的な行為、少なくとも女色と比較して倫理的に問題がある行為とは見なされず、男色を行なう者は別に隠すこともなかった』。『しかし江戸時代後半期になると、風紀を乱すものとして扱われるようになり、米沢藩の上杉治憲が安永4年(1775年)に男色を衆道と称し、風俗を乱すものとして厳重な取り締まりを命じていたり、江戸幕府でも寛政の改革・天保の改革などで徹底的な風俗粛清が行われると衰退し始めた』。『幕末には一部の地域や大名クラスを除いては、あまり行われなくなっていき、更に明治維新以降にはキリスト教的な価値観が流入したことによって急速に異端視されるような状況となるに至った』(最後の記載には「要出典」要請が示されている)。『明治6年(1873年)6月13日に制定された「改定律例」第266条において「鶏姦罪」の規定が設けられ、「凡(およそ)、鶏姦スル者ハ各懲役九十日。華士族ハ破廉恥甚ヲ以テ論ス 其鶏姦セラルルノ幼童一五歳以下ノ者ハ坐(罪)セス モシ強姦スル者ハ懲役十年 未ダ成ラサル者ハ一等を減ス」とされ、男性同士の性行為が法的に禁止されるに至った。この規定は明治13年制定の旧刑法からは削除されたが、日本で同性愛行為が刑事罰の対象とされた唯一の時期である』とある。以下、「用語」集。
《引用開始》
陰子(かげこ)―まだ舞台を踏んでいない修行中の少年俳優。密かに男色を売った。
陰間(かげま)―売春をする若衆。
飛子(とびこ)―流しの陰間。
念此(ねんごろ)―男色の契りを結ぶ。
念者(ねんじゃ)―若衆をかわいがる男役(立ち側ないし攻め側)。兄分とも。
若衆(わかしゅ/わかしゅう)―受け手(受け側)の少年、若者。
竜陽君―陰間の異称。由来は魏の哀公の寵臣の名。
《引用終了》
・「風與(ふと)」「縁頰(えんづら)」は底本のルビ。
・「那智高野の學侶」諺に「高野六十那智八十」とあり、女人禁制の高野山や那智山にては男色が盛んであるが、稚児の補充が滞りがちになるため、六十や七十の老人になっても小姓役(女役)を勤める者があるという意。かつて経や仏典の用紙として用いられた高野紙は六十枚を以って、また同じく那智紙は八十枚を以って一帖(じょう)と成したことに引っ掛けたもの。
・「はりかた」張形。擬似陰茎。以下、ウィキの「張形」より一部引用する。『張形(はりかた、はりがた)とは人体の性器を擬したもののこと。現代の性具としてはディルド(ー)(Dildo)またはコケシと呼ばれ、勃起した陰茎と同じか少し大きめの大きさの形をしたいわゆる大人のおもちゃである。電動モータを内蔵し振動するものを「バイブレーター」(略して「バイブ」)、または「電動こけし」と呼ぶ』。『日本では特に男性外性器の形のものをさすことが多い。陽物崇拝では、子孫繁栄を願ったお守りとしても用いられた。現在の日本でも、木製の巨大なモノが神社に祭られている場合もあり、神奈川県のかなまら祭(金山神社・別名「歌麿フェスティバル」・英語名「Iron Penis Festival」)は日本国外にも奇祭としてよく知られ、毎年4月第一日曜日には日本のみならず欧米からも、梅毒やエイズの難を避ける祈願で観光客を集めている』。『この他にも地域信仰で体の悪い所(手足や耳・鼻といった部分)を模した木製の奉納物を神社に収める風習も見られ、古代のアニミズムにその源流を見出す事ができる。これらの人体の模造品は、その機能を霊的なものとしてシンボル化したり、または霊的な災い(祟り)による病気を代わりに引き受けてくれるものとして扱われた』。以下、「性具として」の張形について。「鼈甲製の張形」は『性的な道具として実用に供する張形は、現代では「こけし」または「ディルド」と呼ぶことが多い』。以下、「歴史的用途」という項。『男性が自身の衰えた性機能(勃起力)の代用や性的技巧として女性に用いる。勃起機能は男性アイデンティティの根底にあるため、類似する物品は世界各地・様々な時代に存在した』。『女性が性的な欲求不満を慰める道具として用い』られたと推測され、『歴史的起源が不明なほど古くから存在していたと見られる。本記事の写真のような物は、江戸時代よりしばしば記録に上っており、大奥では女性自身が求めて使用していたと言われる』。『性交の予備段階または性的通過儀礼の道具として用い』、『性交経験のない女性(処女)には処女膜があるため、地域によっては処女が初めて性交する際に処女膜が裂けて出血することを避けるために、予め張形を性器に挿入し出血させ、実際の性交時には出血しないようにしていたとされる。同様の発想は中世の欧州一部地域で見られ、童貞と処女がまぐわうことを禁忌と考える文化から使用されたとも考えられている。また初夜権のような風習との関連性も考えられる』。『これら性的用具の歴史は古く、その起源ははっきりしないが、紀元前より権力者の衰えた勃起能力の代用品として、張形と呼ばれる男性生殖器を模した器具が存在していたとみられる。石器時代には既に、そのような用途に用いられた石器が登場していたと見る説もあるが、処女が初めて性交する際の出血で陰茎が穢れるという考えからそのような器具を使用したとする説もある』。『記録に残る日本最古の張形は、飛鳥時代に遣唐使が持ち帰った青銅製の物が大和朝廷への献上品に含まれていたと云う記述があり、奈良時代に入ると動物の角などで作られた張り形が記録に登場している』。『江戸時代に入ると木や陶器製の張り形が販売され一般にも使われ始めた。大奥など男性禁制の場において奥女中が性的満足を得るために使用する例も見られた。江戸時代には陰間もしくは衆道という男色の性文化が存在し、キリスト教的文化圏と違って肛門性愛に対するタブーが存在しなかったため、女性用だけでなく男性が自分の肛門に用いることもあった。明治に入ると近代化を理由に取り締まり対象となり、多くの性具が没収され処分された。売春そのものは禁止されていなかったために、性風俗店での使用を前提とした性具は幾度も取り締まられながらも生き残っていった。しかし終戦を迎えた1948年(昭和23年)の薬事法改正から厚生大臣の認可が必要となった。そのためそれまで認可されていない性具は販売が不可能となった。そこで業者は張形に顔を彫り込んで「こけし」もしくは「人形」として販売を行なうこととなった。そのため日本の性具は人、もしくは動物の顔が造形されるようになった。そのため形状の似ている「こけし」という名称が使用された。また電動式のものは「マッサージ器」もしくは「可動人形」「玩具」として販売されている。インターネットの発達にともない規制の少ない海外製品も個人で購入できるようになったために、現在では顔のあるものは減ってきており、「ジョークグッズ」の一種として扱われることが多い』。以下は脱線するが、現代の張形である「ディルド」の記載。『ディルドを使う女性男性の陰茎と同様の形状をしており、自慰行為や性行為においてこれを用いる。使用法は主に、女性自身が自慰のために自分の膣へ挿入したり、性行為において男性が女性の膣に入れるなどして使用する。その他、男性自身の倒錯した自慰行為にも利用される。アダルトグッズショップや性具の通信販売では必ず見られる製品である』。『本体の材質はシリコーンなどの軟質合成樹脂素材のものや、金属製・ガラス製など様々なものが見られる。形状も陰茎に個人差があるように、様々な大きさ・長さ・色のものが見られ、人体の部分そっくりに着色されたものから、半透明なものや透明なもの、幾何学的な形状をしているもの、イボなどの突起を持つもの、実際にはない巨大なもの、人間以外の動物の性器を実物大で模したもの、人の拳を模したものなどバラエティに富んでいる』。『ディルドに小型バイブレータと電池を組み込み振動させる製品もある。これを女性器に密着もしくは挿入して使用する。多くのメーカが、多種多様な商品を製造しており、現在ではIC制御で、動きや振動を調節する事ができる製品もある』。『通常、女性が陰茎の代わりとして使用。中には太ももや腕に装着できるタイプもある。変わったものとしては風邪のマスクのように耳からかけて顎先に装着して使うものもある』。『ただこれらは薬事法上で性具が避妊具などと同種の扱いで、所定の水準を満たす必要があるため、外見が明らかに性具であっても、製品によっては特に使用方法を明記せず「ジョークグッズ」として販売される場合がある。実際に一般に見られるディルドの大半は性具以外の扱いとなっている』。『アダルトビデオなどの映像媒体では、男優によってこうした性具が多用される傾向にあるが、性具を用いて性的に興奮するという女性ばかりではないので注意が必要である。特に女性は体内に異物を入れるという行為には敏感であり、強い振動は女性に快感より痛みを感じさせる場合がある。また強い振動で繰り返し使用していると周辺の微細神経を傷付け性感を鈍らせることがあるので、適度な振動に調節して使用することが望ましく、感染症や擦過傷対策には使用の際にコンドームを用いるなど衛生面にも留意することが望ましい』と注意書きがある。この老人は他人には迷惑を懸けぬ、実直なる張形の使用では御座った。
■やぶちゃん現代語訳
耄碌した老人の奇談の事
藤澤某という私の知れる老いた武士が御座ったが、この人物、誠(まっこと)面白い人であった。
ある時、藤澤翁、つくづく思うことが御座った。
『……我ら、若き時より今に至るまで……あらゆることを為して、凡そ天地自然のうちのことで、為したことのないということ、これ、ない……なれど、唯一つ……童の頃より、男友達と念友の交わりを為し、若衆の経験を為したこと、これ、ない……これと言うてそれを恨みとするわけにてはなけれど……果たして……「それ」が如何なる感じのものにてあるか……想像して見たが……分からぬ……もとより……我ら、醜男(ぶおとこ)の上、老衰耄碌しておる故……例え、那智や高野の学僧で御座ろうとも……我らのこの願い、頼みて、相手にして呉れよう筈も、これ、あろうはずもない……』
「……いやとよ! そうじゃ!」
と、藤澤翁、ふと思いついた。……
藤澤翁、その日のうちにこっそりと出かけると、怪しげなる店より「張形」なるものを買い求め……参った。
その日の昼、藤澤翁は独り、暖かい春陽の射す屋敷の縁側へと張形を懐にし、出でて座って御座った。
辺りを見渡して、人気なきを見てとる……
……と……
――藤澤翁……
――徐ろに張形を取り出して中腰となり……
――己が尻(けつ)の穴に張形の先をぐっと押し当て……
――そうして……
――ゆっくら……腰を……下ろそうと致いた……
……ところが……
――老衰の足萎えにて御座ったれば……
……!……
膝が!
ガクン!
と!
キタ!
床に!
ドスン!
と腰が!
落チタ!
張形は!
ズブリ!
づづぅい!
根本の方まで! とことん! ぶっすり!
――と! 突っ込んだから、たまらない!
「……わ゛ァ! ギャあ゛ん! びェえ゛ぇぇ~! ぢゃア゛! ア゛ワ゛ワ゛ワ゛ぁ゛!!!!」
と、えも言われぬ奇体なる雄叫びを挙げ……藤澤翁はその場に気絶致いた……
………………
……恐ろしと言えど愚かな妖しの阿鼻大叫喚に吃驚らこいた倅やら娘やら、家中の下々の者どもまでも、皆々残らず駆け集(つど)って参り……見れば、
「父上!」
「……御大(おんたい)!」
「……ご主人!」
「……御隠居さま!」
――老人、尻を捲くったまま、奇天烈なる姿にて、文字通り、泡吹いて倒れて御座ったればこそ、
「は、早(はよ)う! 医者じゃ! 医者じゃ!」
「薬を! 薬を!」
と御家中、上へ下への大騒ぎと相成って御座った。
――と……
……そばに御座った娘……ふと見ると……父の薄芋(うすいも)の浮いた痩せこけた汚い尻の辺りから……何やらん……赤い紐の……これ、垂れて御座るのが……目に入る……
「……これ、何かしら?……」
と、紐を手繰る……手繰ってみると……何やらん、先にはがっしり致いた図太き一物……それがまた、充血して真っ赤になった尻の穴を……むっちりと塞いで御座ったればこそ……娘は真っ赤になる……
――と……
……老人が震え乍ら、薄目を開ける……少しばかりは意識をとり戻いたのか……倅が、
「……父上!……こ、これは……一体!?……如何なされたのじゃ!?……」
と訳も分からず、複雑な表情のまま、大声で訊ねたところ、
「……ぬ、ぬいて、く、くりょうぞぉ……け、けつべそのぉ……あなんなかぁ……ず、ずぶりとぅ……は、はいってぇ……もうた、ぢ、ぢゃ!……は、はよう!……ぬ、ぬ、ぬいて、くれぇ!……」
と、夢うつつ、虫の息にて呟いて御座ったれば――是非に及ばず――驚きつつも、尻の穴より塞げる一物、引き抜いて見れば……これまた、怒張隆々たる張形にてこれあり……倅も娘も、家中の者どもの手前、すっかり赤面致し乍らも……老人に気付けの薬なんど与えるうちには……老人も漸っと正気を取り戻いて御座った。……
………………
……流石に、藤澤翁、自分が何を致いて御座ったか、仔細を語ることも出来申さず……いやいや、如何にもお下の話なればこそ、敢えて訊く者も御座らなんだが……家内御家中いずれの者にても……驚懼(きょうく)の中(うち)にも……忍び笑いを堪(こら)え切れずに御座った、とのことで御座ったよ。
2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、250000人目のアクセスは――昨夜
2010/10/12 23:32:15
に Google で検索ワード「宮沢賢治 近親」で来訪され、
「Blog鬼火~日々の迷走: 宮澤トシについての忌々しき誤謬」
をお読みになった、初来訪者である、あなたでした。
(リモートホスト 東京 OS Windows Vista ブラウザ InternetExplorer 8.0)
ありがとう。何のおもてなしも出来ませんでしたが、またの御来訪をお待ちしています。
*
先に申し上げた通り、250000アクセス記念の芥川龍之介片山廣子関連書簡群の公開は、後日となります。
「耳嚢 巻之三」に「稽古堪能人心を感動せし事」を収載した。
*
稽古堪能人心を感動せし事
神山某は樂家(がくけ)の子にてひちりきの堪能也しが、其身放蕩にて中年の比(ころ)至て窮迫也しが、或日吉原町に至りて、かたらひし女の部屋にてひちりきを吹(ふき)すさみけるを、座敷を隔て富客の聞て、右ひちりきを吹し客に苦しからずば知る人にならんと好(このみ)し故、やがて通じけるにぞ、其座敷へ至りて好に任せ其能を施しければ、甚感心有りて、酒などともに汲かわし、我身は溜池(ためいけ)内藤家の家士何某也、尋來り給ふべしとてあくる朝立別れぬ。其後右の事も心にもかけずくらしけるが、彌々窮迫に及し故、風與(ふと)思ひ出で内藤家を尋ね、かの富家の名前を尋ければ、右長屋にて何方より來り給ふといひし故、しかじかの譯にて來れり、何某と申者の由申ければ、あるじ對面なしけるが、いつぞや吉原にて逢し人にてなき故大に驚きければ、彼者それには譯こそあれとて暫く待(また)せ、やがて案内なして一間なる金殿へ伴ひ、間もなく出し人は彼靑樓にてひちりきを好し人也。能くこそ尋給へる、度々來て其堪能を施し給へとて、其業(わざ)を好み聞て數々の賜もの有し上、仕官の望あらば小身なれど屋敷に仕へよとの事也しが、遊樂のみにふけりし我身、物の用に不立とて辭しけるに、時々呼れて扶持(ふち)など給(たまひ)て、養子を呼出て今神山某とて勤仕(ごんし)せる也。富家と見し人は溜池に棟高き諸侯也。今さし合(あふ)事あればいづれも名はもらしぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:時節をツボ得て強情頑なな心を落すことも可能なことならば、時節を得てツボを得て大名諸侯の心を摑んで放蕩の賤しき楽人でも思わぬ出世を致すという連関。
・「神山某」諸注注せず、未詳。「神山 篳篥」でそれらしき家系や歴史的人物や現代の演奏家はヒットしない。
・「樂家」広義に雅楽の技芸を伝える家系のこと。ウィキの「雅楽」によれば、平安時代には左右の近衛府官人や殿上人が雅楽の演奏を担っていたが、平安末期には地下人の楽家が実力を持ち始め、鎌倉後期以降は殿上人の楽家にかわって雅楽演奏の中核をなすようになったとある。『この影響で龍笛にかわって地下人の楽器とされていた篳篥が楽曲の主旋律を担当するようになった』。『室町時代になると応仁の乱が起こり京都が戦場となったため多くの資料が焼失し楽人は地方へ四散してしまい多くの演目や演奏技法が失われた。この後しばらくは残った楽所や各楽人に細々と伝承される状態が続いたが、正親町天皇と後陽成天皇が京都に楽人を集めるなどして楽人の補強をはかり徐々に再興へと向かってゆく』。『江戸時代に入ると江戸幕府が南都楽所、天王寺楽所、京都方の楽所を中心に禁裏様楽人衆を創設し、雅楽の復興が行われた。江戸時代の雅楽はこの三方楽所を中心に展開していくこととなり、雅楽を愛好する大名も増え古曲の復曲が盛んに行われるようになった』とあり、本話柄の参考になる。なお、『明治時代に入ると、三方楽所や諸所の楽人が東京へ招集され雅楽局(後の宮内省雅楽部)を編成することとな』り、『この際に各楽所で伝承されてきた違った節回しや舞の振り付けを統一するなどした。 また、明治選定譜が作成され明治政府は選定曲以外の曲の演奏を禁止したため千曲以上あった楽曲の大半が途絶えたとされている。しかし、江戸時代後期には既に八十曲あまりしか演奏がなされていなかったとの研究もありこの頃まで実際にどの程度伝承されていたかはよくわかっていない』。『現在宮内省雅楽部は宮内庁式部職楽部となり百曲ほどを継承しているが、使用している楽譜が楽部創設以来の明治選定譜に基づいているにも関わらず昭和初期から現代にかけて大半の管弦曲の演奏速度が遅くなったらしく、曲によっては明治時代の三倍近くの長さになっておりこれに合わせて奏法も変化している。これは廃絶された管弦曲を現代の奏法で復元した際に演奏時間が極端に長くなったことにも現れている』。『このような変化』『などから現代の雅楽には混乱が見られ、全体としての整合性が失われているのではないかと見ている研究者もいるが、その成立の過程や時代ごとの変遷を考慮すれば時代ごとの雅楽様式があると見るべきで、確かに失われた技法などは多いが現代の奏法は現代の奏法として確立しているとの見方もある』とある。また、現代の雅楽音楽家として知られる東儀秀樹氏について、ウィキの「東儀秀樹」の家系の記載に『母親が東儀家出身。東儀家の先祖は渡来人であり、聖徳太子の腹心であった秦河勝(はたのかわかつ)とされるが、正確なことは不明。下級の官人なので、正確な系譜は伝わっていない』。『楽家は下級の官人であったため、天皇への拝謁はおろか、堂上に上がることさえ許されない家柄であった』。『インターネットの一部の情報として、早稲田大学校歌の作曲者である東儀鉄笛の子孫とする記載がみられるが、東儀秀樹は徳川幕府に仕えた楽人の末裔であって、京の朝廷に仕えた楽士の家系(安部姓東儀・あべのとうぎ)である鉄笛とは直接の先祖-子孫の関係にはあたらない(藤原氏と同じく、東儀家も数多くの家系・分家がある)』とあり、本話柄の参考になる記載である。
・「ひちりき」篳篥。以下、ウィキの「篳篥」から引用する。『篳篥(ひちりき)は、雅楽や、雅楽の流れを汲む近代に作られた神楽などで使う管楽器の1つ。吹き物。「大篳篥」と「小篳篥」の2種があり、一般には篳篥といえば「小篳篥」を指す』。「構造」の項。『篳篥は漆を塗った竹の管で作られ、表側に7つ、裏側に2つの孔(あな)を持つ縦笛である。発音体にはダブルリードのような形状をした葦舌(した)を用いる』。『乾燥した蘆(あし)の管の一方に熱を加えてつぶし(ひしぎ)、責(せめ)と呼ばれる籐を四つに割り、間に切り口を入れて折り合わせて括った輪をはめ込む。もう一方には管とリードの隙間を埋める為に図紙(ずがみ)と呼ばれる和紙が何重にも厚く巻きつけて作られている。図紙には細かな音律を調整する役割もある。そして図紙のほうを篳篥本体の上部から差し込んで演奏する。西洋楽器のオーボエに近い構造である。リードの責を嵌めた部分より上を「舌」、責から下の部分を「首」と呼ぶ』。「概要」の項、『音域は、西洋音階のソ(G4)から1オクターブと1音上のラ(A5)が基本だが、息の吹き込み方の強弱や葦舌のくわえ方の深さによって滑らかなピッチ変化が可能である。この奏法を塩梅(えんばい)と呼ぶ』。『雅楽では、笙(しょう)、龍笛(りゅうてき)と篳篥をまとめて三管と呼び、笙は天から差し込む光、龍笛は天と地の間を泳ぐ龍の声、篳篥は地に在る人の声をそれぞれ表すという。篳篥は笙や龍笛より音域が狭いが音量が大きい。篳篥は主旋律(より正しくは「主旋律のようなもの」)を担当する』。『篳篥にはその吹奏によって人が死を免れたり、また盗賊を改心させたなどの逸話がある。しかしその一方で、胡器であるともされ、高貴な人が学ぶことは多くはなかった。名器とされる篳篥も多くなく、海賊丸、波返、筆丸、皮古丸、岩浪、滝落、濃紫などの名が伝わるのみである。その名人とされる者に、和邇部茂光、大石峯良、源博雅、藤原遠理(とおまさ)などがいる』。以下、「歴史」の項。『亀茲が起源の地とされている。植物の茎を潰し、先端を扁平にして作った芦舌の部分を、管に差し込んで吹く楽器が作られており、紀元前1世紀頃から中国へ流入した。3世紀から5世紀にかけて広く普及し、日本には6世紀前後に、高麗の楽師によって伝来された。大篳篥は平安時代にはふんだんに使用されていた。「扶桑略記」「続教訓抄」「源氏物語」などの史料、文学作品にも、大篳篥への言及がある。しかし、平安時代以降は用いられなくなった。再び大篳篥が日の目を浴びるのは明治時代であった。1878年、山井景順が大篳篥を作成し、それを新曲に用いて好評を博した』(「亀茲」は「くし」と読む。古代中国に存在したオアシス都市国家で、現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区アクス地区庫車(クチャ)県付近、タリム盆地北側の天山南路の途中にあった。玄奘三蔵の「大唐西域記」には「屈支國」と記される)。以下、「篳篥の製作」の項。『篳篥は楽器であり、響のよい音色と音程が求められる。篳篥の音程には寺院の鐘の音が使われる。京都の妙心寺、知恩院の梵鐘の音とそれぞれ決められている』。『楽器の音階を決める穴配りと穴あけには高度の製作技術が必要とされる。穴あけには電動錐は使われない。穴と穴に距離がある楽器ならば素材が割れないので電動錐を使えるが、篳篥は穴の間隔が近く、使う素材は枯れて古く乾燥し、農家の囲炉裏の天井で300年~350年、日々の生活の中で燻(いぶ)されたスス竹であるため非常に堅く割れやすい。紐巻上げ式で、神社の儀式で神火をおこすときに使われることでも知られる日本古来から使われてきた火熾し[やぶちゃん注:「ひおこし」と読む。]の「巻き錐」を使い、割れないように穴をあける。素材の竹は自然に育ったものなので内径、肉厚がすべて微妙に異なるため、外形の穴の位置を正確に真似ただけでは音階は決まらない。楽器として製作するため、穴配りに工夫と匠の技が求められる。感じて心に響く音を生み出すように、全ての穴配りと穴あけをしてゆく』。『素材をみて、ここと思い決めた位置に穴をあけ、吹きながら穴の形状を調整して製作してゆく。一つの穴に割れが入れば失敗であり、楽器として使えない。入手困難な素材の中から楽器に良い条件をみたすわずかな一部分を選んで作っている貴重な竹であるので、失敗は許されない緊張と迷いが生じる。吹奏し、穴を空け、調整し、吹奏する。穴をあけるときには精神集中し、ここであると思い切る勇気が必要とされる』。『漆を中に塗って音階を調整する。製作技術習得者には、音律の習得は技術習得の最初の6ヶ月間に集中して習得してしまうことが求められる。木漆と水を合せて内径をヘラで塗る。乾かして吹いて確認し、音階を調整する。集中した慎重な塗りの技術を要求される。篳篥に使われている素材は乾ききった古くもろい竹であるため、塗りに失敗すると漆の水分の乾き際に穴から下まで一直線に割れが入る。篳篥の内側の漆はこの時期のみ塗ることができ、この時期以外は塗ると割れてしまう』。『篳篥は楽器であり、割れのないことはもちろん、正しい音階、響のよい音色となるように製作される。10管作って5本が楽器として完成されれば上々の技とされる。演奏者は、演奏前に製作者が精魂こめて作った篳篥を見つめていると精神が統一されると述べる。篳篥の形は古来から大きさが決まっているので先人の作品が技術向上の参考になる。管楽器の笙は1尺7寸、13世紀の鎌倉初期までは大きな笙だったがその後は小さくなった。しかし笛と篳篥は昔から長さが決まっているのでそれ以前の昔に作られた名器が参考になる。製作者は自らの作品を作ってばかりでは技術はそこまでで止まってしまう。しかし古代から伝えられた名器を観察し工夫努力を重ねることで製作者の技術は上乗せされてさらに伸びてゆく』。『舌の材料に用いられる葦は琵琶湖、淀川から採取されることが多い。なかんずく淀川右岸の鵜殿で採取される葦は堅さ、締り共に最良とされていた。しかし環境の悪化の影響で材料に使える良質な葦の確保が難しくなっている』。『採取した葦は4,5年ほどの年月をかけ、一切の湿気を排除した場所で乾燥させる。その後、拉鋏という専門の道具を用い、火鉢の上にかざして押し潰して平滑にし、先端に和紙を貼り付ける。舌を磨く際にはムクノキの葉が用いられる』(最後の引用部は誤字を正した。「拉鋏」の読みは不明。音ならば「ラツキョウ」「ラキョウ」、訓ならば「ひしぎばさみ」「くじきばさみ」「ひきばさみ」等が考えられる。識者の御教授を乞う)。
・「吹すさみける」「すさむ」は「すさぶ」と同義で、動詞の連用形について「~し興ずる」の意となる。
・「かわし」はママ。
・「溜池」現在の東京都港区赤坂にあった旧地名。ウィキの「赤坂(東京都港区)」にある記載によれば、『溜池は江戸城外濠の一部を構成していた。元々水の湧く所であり、堤を作り水を溜めるようにしたためこの名がある。その形から別名ひょうたん池とも呼ばれた。神田上水、玉川上水が整備されるまではこの溜池の水を上水として利用していた。堤に印の榎を植えたため、現在赤坂ツインタワーから駐日アメリカ合衆国大使館に上る坂道は榎坂と呼ばれる』。『宝永年間より断続的に埋め立てられ、明治時代には住宅街となり溜池町となった』。『1967年の住居表示実施に伴う町名変更により赤坂一丁目と赤坂二丁目が誕生し、溜池町は消滅。今日、溜池交差点や東京地下鉄溜池山王駅、都営バス(都01)溜池停留所などに名を残』すのみである。
・「内藤家」嘉永年間の江戸切絵図をみると、溜池地区には、「棟高き諸侯」に相当する最も広大な屋敷を持つのは日向延岡藩7万石の内藤延岡家の内藤紀伊守上屋敷及び越後村上藩5万石の内藤村上家である。「卷之二」の下限天明6(1786)年に近い以前を調べると、内藤延岡家では明和8(1771) 年に第2代藩主内藤政陽(まさあき 元文4(1739)年~天明元年(1781)年)が35歳で致仕し隠居、養子の政脩(まさのぶ 宝暦22(1752)年~文化2(1805)年)が20歳で相続、天明1(1781)年に政陽が45歳で死去、天明6年には第3代当主内藤右京亮政脩は36歳であった。私はこのどちらかの人物が(「時々呼れて扶持など給て、養子を呼出て今神山某とて勤仕せる也」という有意な時間経過や年齢から見て、隠居していた養父政陽の可能性が高いように感じられる)本話柄の内藤家当主ではなかったかと推測している(因みに、調べるうちにこの内藤家、私の好きな鎌倉は光明寺裏手の荒れ果てた広大な内藤家墓所の、正にあの内藤家であることを知って感慨深かったことを述べておきたい)。越後村上藩の場合は第5代藩主が内藤紀伊守信凭(のぶより 寛延元(1748)年~安永10・天明元(1781)年)、第6代藩主内藤信敦(のぶあつ 安永6(1777)年~文政8(1825)年)は天明元年に僅か5歳で家督を相続しているから、天明6年でも10歳、こちらならば内藤信凭(天明6年当時は38歳で生存)の可能性しかない。信凭としても本話柄の印象からすると私は若過ぎる気がするし、7万石内藤延岡家の方が都市伝説としてはよりインパクトがあるとも思う。但し、底本の鈴木氏注には、ほかに内藤家は七家もあると記されているから、同定は早計か。
・「風與(ふと)」は底本のルビ。
・「長屋」町人の長屋ではない。大名の江戸屋敷内にあった江戸勤番の家士が居住した長屋のこと。
・「靑樓」妓楼・遊女屋の美称。
・「扶持」扶持米のこと。主君から家臣に給与として与えた俸禄。一人一日玄米5合を標準として、当該一年分を米又は金で給付した。神山の場合、正規の家士になることは生涯固辞したものと思われるから、「事実上の扶持米」と現代語訳しておいた。
■やぶちゃん現代語訳
稽古に精進した才人が人の心を感動させた事
神山某は楽家(がっけ)出身の子にして、篳篥に精進致いて堪能で御座ったれど、生来の放蕩者であったがため、中年の頃には、至って困窮致いて御座った。
ある日のこと、久し振りに小金を得て吉原町に遊び、馴染みの女の部屋で篳篥を思うままに吹き興じて御座ったところ、別な座敷に御座った如何にも裕福そうな客人が、その音(ね)を聴き及んで、
「――かの篳篥を吹ける御客人と――もし御本人苦しからざるとの趣きにて御座らば――知遇を得たいものじゃ――」
と、神山の篳篥を賞美致いた旨伝言御座ったれば、それを受けて、かの客人の座敷を訪ね、挨拶の上、再びそこにて思うがまま、篳篥吹笛に興じて御座ったところ、かの客人、その音色に甚だ感心致し、酒なんどを直に酌み交わして、
「――我らは溜池内藤家の家士○○と申す者にて御座る――近隣に参られた折りには是非ともお訪ねあられよ――」
と述べ、翌朝には立ち別れた。
その後(のち)、神山はそんな出逢いなんど、特に思い出すことものう過して御座ったが、いよいよ暮し向きが貧の極みへと至った、そんな折り、ふと、かの御仁のことを思い出だいて、赤坂は溜池町に御座った内藤家上屋敷を訪ね、屋敷内の御家中家史の長屋へと赴き、その下役の者に、かの客人の名を告げ、面会を求めて御座った。
下役の者より、
「何処(いずこ)より参られたか?」
と問われたので、
「……かつて、とある席にて○○殿に篳篥の吹笛を請われ、率爾乍ら御披露申し上げたこと、これ御座いましたが、かの折り、近在へ参らんには訪ぬるようにとお声掛けを頂戴致しましたれば罷り越しまして御座いました。……神山と申す者にて御座いまする……」
と来意を申した。
すると、やがて姿を現したその○○という屋の主人、これ、吉原で出逢(お)うた御仁とは、似ても似つかぬ別人で御座った故、神山――その実、貧窮の果ての無心という気の引ける訪問にてもあればこそ――吃驚仰天、腰も立たぬほどに、ぶるぶる震えて御座るばかり。
ところが、その○○なる者、一向に不審なる趣きもこれなく、逆に、
「……御不審の趣き……いや、それには少し訳が御座る。……暫し、お待ちあれ。……」
と、暫くの間、神山をそこに待たせておいた。
やがてかの者に伴われ、案内(あない)されたは――その上屋敷母屋にある――一間(ひとま)の広き華麗なる御殿で御座った。
やがて間もなく現れたお方は――正しく、あの日、青樓にて神山が篳篥に興じなさったお人で御座った。
「――よくぞ訪ねて下された――向後も度々来て、その至芸、御披露あられよ――」
とて、そのお方より、再応、篳篥御所望あり、数曲吹き上げ、その褒美の由、数々の賜わり物、これあり、その上、
「――仕官の望みがあらば――小身にてはあれど――その望み叶えん――我が屋敷に仕えるがよい――」
との仰せで御座った。
しかし、流石に神山も恥を知って御座ったれば、
「……遊興のみに耽って参りました我が身なれば……何のものの役にも、立ち申さざればこそ……」
と固辞致いたとのことで御座った。
なれど、その後(のち)も度々かの溜池の上屋敷に呼ばれては、篳篥を奏で、事実上の扶持米なんども賜わって御座った。 神山は、捨て置き同然にして御座った己れの養子を呼び出だいて、かの内藤家へ仕えさせて御座ったという。
今も神山某という名にて勤仕(ごんし)しておるとのこと。 ――裕福なる御仁と見えし人は――これ、溜池のやんごとなき大名諸侯その人で御座ったのじゃった。――差し障りあればこそ、敢えてその御方の名は記さずにおこう――。
昨日、僕は東京のデパートの(ペントハウスでないところが味噌)屋上で、ありとあらゆる芸能人が寝そべって好き勝手なパーティを開いているのに招待された夢を見た。
招待してくれたのは、先日自宅で転落して亡くなった谷啓だった。僕は、
「大橋巨泉が、あなたのことを、『天が二物を与えた人』と言っていますが、あの男のことは大嫌いなんですが、でもトロンボーンとお笑いということなら、確かに正しいことを言っています。」
と不遜にも言ったのだが――そうしたら、
「面白いことを言う奴だ! ガチョーン!!」
と言われてそこへ連れていかれたのだ。
そこには往年の宝塚の死んでしまった女優さん(!)や、何故か、「仮面の忍者 赤影」に出ていた女優さんや、配役の人たちが皆、忍者の格好でいるのであった。おまけに忍者屋敷もセットされているのだ! 僕はそこで「青影」の役もやらせてもらったのだ!
気がつけば、あの「仮面の忍者 赤影」に出ていた悪役の俳優さんたちが、みんなで、僕をスタンディング・オベイションで迎えてくれているのであった。
会場には時々、知らない普通の人が入ってくるのだけれど、そうすると、警備員の人が――その人々は皆、太泰の大部屋の俳優さんたちなのだ――時代劇風にかっこよく怖ろしく脅すと、いそいそと帰ってゆくのだ。
僕は、夜空の見える、屋上で横たわったまま――そう、皆、死んだように横たわっている――何時終わるとも知れぬ、そのパーティーを楽しみながら、横たわって、ショウと言うより、夜空を見ているのだ――隣りに横たわった谷さんが――「面白いか?」と言った――うん、と応えると――彼は如何にも嬉しそうなあの笑顔を浮かべて――「そうか」――と言った――そうして、いつになく、僕は嬉しくなった――そうして今朝、僕は目が醒めた――
[やぶちゃん注:僕は谷啓に幼稚園の時に逢ったことがある(撮影所が目と鼻の先にあったのだ)。大泉学園の家の前で、酔っ払った彼ら(クレージーキャッツ一行)と擦れ違った。植木等が予想に反して素面で真面目だった。後から谷さんがふらふらやって来た。――ガチョーン!――はしてくれなかったが、僕が――「谷啓だ!」――と指さしたら――「そうだぞ! 文句、あっか!」――と言ったのを、確かに覚えている。……だから、きっと誘ってくれたんだな!……ありがとう! 谷さん!]
250000アクセスは明日来そうだが、芥川龍之介片山廣子関連書簡テクストは、とっても注に時間がかかることが判明したから、時間差で決まり。下手をすると今月の末までかかりそうだ。私的な書簡の注は物凄く大変なのだということが――少なくとも僕にとってはないがしろに出来ぬということが――分かったのだ。――要するに、僕なりにいい加減にはしたくない、テクストなんだ――だから、ごめんね――
僕は何ものでもないのらしい
僕は蝙蝠なのに
僕は何ものでもないと 皆が言いつのるのだ
僕は蝙蝠なのに
僕は僕であって
僕は誰も傷つけていないのに……
――いや お前は 自分が生きるために羽虫を食っているではないか――
そうか
それなら
僕が それで 蝙蝠であって蝙蝠でない と言われるのなら
僕は 明日 死のう
僕は 何も 食わず 死のう
僕は それで やっと
僕に
蝙蝠に
なれるのだ
「耳嚢 巻之三」に「時節ありて物事的中なす事」を収載した。
*
時節ありて物事的中なす事
牧野大隅守御勘定奉行の折から、甲州都留郡忍草(しぼくさ)村と同郡山中村と富士の裾野入會野(いりあひの)の論有しを、予留役の節吟味なしけるに、其以前の裁許墨筋の通無相違故、猶又境を立、裁斷ありし。然るに山中村の者右裁許にては趣意相違なしける由、數度(すど)箱訴(はこそ)なしけれど燒捨に成けるに、松平右京大夫殿老中の折から駕訴(かごそ)などして、可糺とて大隅守へ下りける故、尚又予が懸りにて右箱訴人を呼出吟味なしけるに、山中村甚右衞門といへる百姓至て我意強く、外に壹人差添て難立(たちがたき)事を押返し/\申張りて、壹年餘も時々呼出し利害申含(ふくめ)ぬれど申募りけるに、餘りにわからぬ事を我意をはりぬる故、子細こそあらめと風聞を聞候者を彼村最寄へ遣し相糺(あひただし)ければ、彼者立歸りて申けるは、裁許の通にて何も相違の事なしと近郷近村にても申ぬとて、委細吟味の趣に引合風聞承り候趣書付にて差出しぬ。其折からかの者雜談なしけるは、甲州都留郡は至て我執深く、右出入何卒こぢ直して山中の勝利になすべしとて、江戸表へ出候者其の雜用等、月々村中小前(こまへ)より一錢二錢づゝ取集め、何年懸り候共願ひ可申由申合ぬる由。扨又右惣代に出し者共は、何れも右村にて命をも不惜我意の者共を差出置ぬるが、右惣代の内甚右衞門は別(べつし)て強氣の者成が、彼が妻は甚右衞門に増(まさ)りてすさまじき女子也。裁許濟て甚右衞門歸村の節、公事(くじ)に負て歸りし趣を聞て、如何いたし歸り給ふや、負て歸りて村方の者に面(をも)テを合さるべきや、早々江戸表へ立歸り給へとて我宿へ不入、押出しけるといへる事を咄しぬ。其後吟味の折から、風與(ふと)右女房に追出されて江戸表へ出しといへる事を甚右衞門へ申ければ、右風聞的中せしや、又は左はなけれど女房に追出されしといひしを恥て怒りしや、以の外面色をかへ、江戸表はしらず、甲州に夫を追ひだす女もなく、追出され候男あるべき樣なしと、面色ちがへ申しける故、予申聞けるは、右は風聞にて聞し事なれば僞り成べし、さこそ甲州とてもかゝる非禮の有べきやうなし、しかし夫(それ)に付汝等が此度の願ひもよく/\考べし。下につくべき女房に追出されしといふ事を聞て憤る心ならば、一旦下にて濟ざる儀を公裁(こうさい)を受けて、右裁許下(しも)の心に叶はずとて、難立願ひに我意を申張ぬればとて、公儀にて御取上あるべきや、夫婦上下の禮は知りながら、私を以、公儀を凌(しの)ぐの心わかりがたしと申聞けるに、數年我意を張りし彼甚右衞門、暫く無言にて有りしが、吟味の趣得心せし由にて、口書(くちがき)に印形(いんぎやう)なし、裁許にさわらざる外々の願などせしゆへ、其さわらざる事は夫々片を付て落着なしける也。何程我意強き者にても、其病根に的中なしぬれば早速落着なしぬ。予も暫くの間不相當の藥のみ施し居けると思ひつゞけぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:枯れ芒ならぬ生臭坊主を斬って浪人した恥ずかしい武士、一見、手におえない頑固者が実は外弁慶で妻には全く頭が上がらぬ情けなさで連関して読める。本話柄は珍しく根岸自身の実話譚、それも評定所留役であった当時の公務上知り得た秘密の暴露(間諜を用いて探索させている点でもセキュリティ保全上は高いレベルの秘密であり、実名も出しているので、現在なら国家公務員法の守秘義務違反に立派に抵触する内容である)をしている点でも特異。「耳嚢」にあっては、根岸自身の実体験、それも公務上の実録譚は、意外なことにそれ程多くはない。しかし、現在の刑事や検察官の『落し』の技法としても、間者を用いている点等、極めて参考になるべき事例と言えよう。
・「牧野大隅守」牧野大隅守成賢(しげかた 正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)。勘定奉行・江戸南町奉行・大目付を歴任した。以下、ウィキの「牧野成賢」より一部引用する。『西ノ丸小姓組から使番、目付、小普請奉行と進み、宝暦11年(1761年)勘定奉行に就任、6年半勤務し、明和5年(1768年)南町奉行へ転進する。南町奉行の職掌には5年近くあり、天明4年(1784年)3月、大目付に昇格した。しかし翌月田沼意知が佐野政言に殿中で殺害される刃傷沙汰が勃発し、この時成賢は指呼の間にいながら何ら適切な行動をとらなかったことを咎められ、処罰を受けた。寛政3年(1791年)に致仕し、翌年没した』(佐野政言は「まさこと」と読む。因みにこの事件の動機は、意知(おきとも)とその父意次が先祖粉飾のために佐野家の系図を借りたまま返さなかったことや、上野国佐野家領内にあった佐野大明神を意知の家来が横領した上、田沼大明神と変えたこと、田沼家へ相応の賄賂を成したにも拘わらず昇進出来なかったことなどの恨みが積ったものであった。事件は政言の乱心として処理され、切腹命ぜられ佐野家は改易となった。但し、世評の悪かった意知を斬ったことから世間では『世直し大明神』と称えられたという。以上はウィキの「佐野政言」を参照した)。『牧野の業績として知られているのが無宿養育所の設立である。安永9年(1780年)に深川茂森町に設立された養育所は、生活が困窮、逼迫した放浪者達を収容し、更生、斡旋の手助けをする救民施設としての役割を持っていた。享保の頃より住居も確保できない無宿の者達が増加の一途を辿っており、彼らを救済し、社会に復帰させ、生活を立て直す為の援助をすることが、養育所設置の目的、趣旨であった。定着することなく途中で逃亡する無宿者が多かったため、約6年ほどで閉鎖となってしまったが、牧野の計画は後の長谷川宣以による人足寄場設立の先駆けとなった』とある。根岸は後に同じく勘定奉行から南町奉行となっているので一応確認しておくと、牧野成賢の勘定奉行の就任期間は1761年から1768年、根岸鎭衞は19年後の1787年から1798年、牧野が南町奉行であったのは1768年から1784年、根岸はその14年後、牧野の五代後の1798年から1815年であった。
・「御勘定奉行」勘定奉行のこと。勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司ったが、寺社奉行・町奉行と共に三奉行の一つとされ、三つで評定所を構成していた。一般には関八州内江戸府外、全国の天領の内、町奉行・寺社奉行管轄以外の行政・司法を担当したとされる。厳密には享保6(1721)年以降、財政・民政を主な職掌とする勝手方勘定奉行と専ら訴訟関係を扱う公事方勘定奉行とに分かれている。
・「甲州都留郡忍草村」現在の山梨県南都留郡忍野(おしの)村の一部。忍野村は廃藩置県によって内野村と忍草村が合併して明治8(1875)年に誕生した。ここ一帯は富士山東北の麓に位置する標高約940mの高原盆地であり、山中湖を源とする桂川及びその支流の新名庄川が流れ、今は忍野八海に代表される湧水地として観光で知られるが、当時、土地は痩せており、粟や稗などの雑穀栽培が主流であった(忍野村HPその他の複数のソースを参考しにした)。
・「同郡山中村」現在の山梨県南都留郡山中湖村の一部。山中湖の西岸の梨ヶ原を含む一帯を言ったものと思われる。忍草村の南に接しており、忍草村からは南南東に延びる忍草道で繋がっていたことが比較的古い地図で確認出来る。古くは山中村・長池村・平野村に分かれていた。
・「入會野」入会地であった原野のこと。入会地とは村落や町などの共同体が村落全体として所有管理した土地で、このような秣(まぐさ)・屋根葺用の茅(かや)などの採取した原野・草刈場(河原・河川敷)である入会野と、薪・炭・材木・枯葉や腐葉土などを採取した入会山の2つがあった。複数の村落が隣接する場合、他の村落の入会地と区別するために「内山」「内野」「内原」という地名で呼ばれる場合があったが、現在の忍野村の西部には「内野」という地名があり、近代、この内野村が忍草村と合併して忍野村が出来ている経緯を考えると(それぞれ一字を組み合わせて村名としている近親性から見ても)、この忍草村の入会野であったのがここ内野(古い地図ではすぐ南に山中村や長池村が接していたように見える)ではなかったかと私は思う。ただ本文では「富士の裾野入會野」と言っており、そうするとはっきりとした富士の裾野と言うなら、逆に山中村に接して西に広がる梨ヶ原一帯(この南は忍草道と接している)を指しているようにも読める。郷土史研究家の御教授を乞う。
・「留役」現在の最高裁判所予審判事相当。根岸が1762年から1768年までであったから、以上の牧野成賢の事蹟と重ねると、この事件は根岸の留役就任期間総てが含まれ、宝暦12(1762)年から明和5(1768)年の間の出来事となる。
・「裁許墨筋」私は先の入会野認定や訴訟時に地図上に墨で引かれた境界のことと読んだが、岩波版長谷川氏注に鈴木氏注を引用して『境界を示すために土中に木炭を埋める』とある。このような平坦地ではそう為されたと思われるが、山間岩盤域ではそれはなかなか難しいし、実際にこの「墨筋」なる語が専ら裁可や訴訟の際に書類に地図上の境界線の名として頻繁に用いられているのを見ても、私は通常の地図上の墨筋と採る。
・「箱訴」享保6(1721)年に八代将軍吉宗が庶民からの直訴を合法的に受け入れるために設けた制度。江戸城竜ノ口評定所門前に置かれた目安箱に訴状を投げ入れるだけで庶民から訴追が出来た。
・「松平右京大夫」松平輝高(享保10(1725)年~天明元(1781)年)。上野国高崎藩主。寺社奉行・大坂城代・京都所司代・老中を歴任した。高崎藩大河内松平家4代。以下、ウィキの「松平輝高」より一部引用する。『所司代在任中、竹内式部を逮捕した(宝暦事件)。同年老中にのぼり、安永8年(1779年)、松平武元死去に伴い老中首座となり勝手掛も兼ねる。天明元年(1781年)、輝高が総指揮をとり、上州の特産物である絹織物や生糸に課税を試み、7月、これを発表したところ、西上州を中心とする農民が反対一揆・打ちこわしを起こし、居城高崎城を攻撃するという前代未聞の事態に発展した。幕府は課税を撤回したが、輝高はこの後、気鬱の病になり、将軍家治に辞意を明言するも慰留され、結局老中在任のまま死去した。これ以降、老中首座が勝手掛を兼務するという慣例が崩れることになる』とあるが、この慣例が崩れた直後の話柄が「卷之一」の「松平康福公狂歌の事」である。但し、松平康福(やすよし)は松井松平家6代であって、輝高の直接の血縁者ではない。なお、解説文中の『宝暦事件』について、やはりウィキの「宝暦事件」より一部引用しておく、『江戸時代中期尊王論者が弾圧された最初の事件。首謀者と目された人物の名前から竹内式部一件(たけうちしきぶいっけん)とも』言う。『桜町天皇から桃園天皇の時代(元文・寛保年間)、江戸幕府から朝廷運営の一切を任されていた摂関家は衰退の危機にあった。一条家以外の各家で若年の当主が相次ぎ、満足な運営が出来ない状況に陥ったからである。これに対して政務に関与できない他家、特に若い公家達の間で不満が高まりつつあった』。『その頃、徳大寺家の家臣で山崎闇斎の学説を奉じる竹内式部が、大義名分の立場から桃園天皇の近習である徳大寺公城をはじめ久我敏通・正親町三条公積・烏丸光胤・坊城俊逸・今出川公言・中院通雅・西洞院時名・高野隆古らに神書・儒書を講じた。幕府の専制と摂関家による朝廷支配に憤慨していたこれらの公家たちは侍講から天皇へ式部の学説を進講させた。やがて1756年(宝暦6年)には式部による桃園天皇への直接進講が実現する』。『これに対して朝幕関係の悪化を憂慮した時の関白一条道香は近衛内前・鷹司輔平・九条尚実と図って天皇近習7名(徳大寺・正親町三条・烏丸・坊城・中院・西洞院・高野)の追放を断行、ついで一条は公卿の武芸稽古を理由に1758年(宝暦8年)式部を京都所司代に告訴し、徳大寺など関係した公卿を罷免・永蟄居・謹慎に処した。一方、式部は京都所司代の審理を受け翌1759年(宝暦9年)重追放に処せられた』。『この事件で幼少の頃からの側近を失った桃園天皇は一条ら摂関家の振舞いに反発を抱き、天皇と摂関家の対立が激化する。この混乱が収拾されるのは桃園天皇が22歳の若さで急死する1762年(宝暦12年)以後の事である』とし、最後に『徳大寺公城らは、徳川幕府崩壊後の明治24年(1891年)に名誉回復を受け、各々の生前の最終官位から一つ上格の官位の追贈を受けた』とある。132年後の名誉回復とは凄い。翌明治25(1892)年には芥川龍之介が生れてるんだから。
・「駕訴」江戸時代における越訴(おっそ)の一つ。農民や町人が自らの要求を書状に認(したた)め、将軍や幕閣・藩主といった高位の人物の行列を待ち受けて、これに直接、訴状を差し出す行為を言う。下総国印旛郡公津村(現・千葉県成田市台方)の名主佐倉惣五郎が領主の苛斂誅求を老中久世大和守広之及び将軍家綱に駕籠訴した例が最も知られる(但し、実際に直訴が行われたという事実史料はない)。越訴は公的に認められた所定の訴訟手続を経ないで訴え出る行為であるから非合法であるから、一般に直訴した本人は死刑を含む厳罰に処せられたが、結果として訴えの内容に相応の高い正当性が認められた場合には再吟味が行われ、そこから更に重大な事件事実が発覚したケースも「耳嚢」に示されている(「卷之二」の「猥に人命を斷し業報の事」を参照されたい)。
・「風聞を聞候者」間諜、スパイのこと。行商人などに扮装して情報収集に従事した者のこと。
・「こぢ直して」「こぢ」は正しくは「こじ」で「こず」(ザ行上二段活用)。現在の「抉(こじ)る」(これは「こず」が上一段化した「こじる」が更に五段化したもので、近世末ごろから既に五段化した用例が見られるという)で、隙間などに物をさし込んで捻る、の意から、捻くれた言い方をしたり、抗議したりすることを言うようになった。「こじ直す」で無理を言って形を自分の思ったように直す、で、この場合、無理強いをして訴訟を有利な方へ持って行くことを言っている。
・「小前」小前百姓・平百姓とも。元来は田畑と家屋は持つが、特に家格や特殊な権利を持たない一般の多くの百姓のことを指したが、江戸時代の農民の一定の階層を示す語。本来は村役人に対して一般本百姓を言ったが、江戸時代中期以降は地主など富裕層の豪農に対する、水呑や零細困窮農民を含む中下級農民の総称として用いられた。
・「口書」訴訟に就いての供述を筆記したものを言うが、特に百姓・町人の場合に言った(罪人の白状書に爪印を押させたものもこう言った)。
・「印形」印章であるが、この場合、署名であろう。
・「さわらざる」はママ。
■やぶちゃん現代語訳
自然かくなるべき時節が到来して初めて物事の核心を摑むことが出来るという理りの事
牧野大隅守成賢(しげかた)殿が御勘定奉行を勤めておられた時のことで御座る。
甲斐国都留郡忍草(しぼくさ)村と同郡山中村との間で富士裾野入会野境界を巡り、訴訟沙汰となって御座った。
当時、評定所留役を勤めて御座った拙者、その訴えを取り上げて吟味致いたところ、以前に両村に関わって裁許致いて御座った地境墨筋の通りにて問題なきこと、判然と致いたによって、再応、確認のために新たな地図を起こし、境界墨筋を誤たず正確に写して、裁下致いた。
然るに山中村の者ども、この裁許には重大なる錯誤ありとし、到底承服出来かぬる由にて、度々箱訴致いて御座ったれど――根岸が裁許に間違いなきこと明々白々たりとて――その度ごとに、訴状は焼き捨てと相成って御座った。
ところが、村人ども、命も顧みず、当時の御老中であらせられた松平右京大夫輝高殿の行列に、あろうことか、駕訴に及んで御座った。――勿論、強訴(ごうそ)の者どもは定法(じょうほう)により打首獄門と相なったれど――御老中松平右京大夫殿御本人より直々に、勘定奉行牧野大隅守殿へ再応糺すべき旨、下知されて御座った。
このため、不服乍ら再応、拙者の担当と相成り、先の本件総代で御座った複数の箱訴人を呼び出だいて、吟味致いた。
ところが、その中に山中村の甚右衛門という百姓が、これ、至って強情にて、他一名と一緒になって、如何にも喧しゅう、
「――このままにては!――いっかな、納得出来申されませぬ!――」
の一点張り。
一年余りの間、数度に亙って評定所へ呼び出だいて、理を説き、宥めたりすかしたり致いては、この訴えを続けんことの甚だしき利害なんどまでも、申し含めては御座ったのだが、これがまた糠に釘、馬に念仏で、
「――何とかして下されぇぇい!――お飯(まんま)食えねぇぇぇえ!――死ぬしかねぇぇぇぇえ!――」
と五月蠅くがなり立てるばかり。
呼び出す都度、納得せぬ乍ら、その場その場で最後にはいい加減にあしろうて、幾分、がなり疲れたのを見計らって、体(てい)よく追い返すことが続いて御座った。
状況膠着、拙者もほとほと困って御座った。
あまりに依怙地なればこそ、この訴えの背後には、何ぞ、隠れた子細や遺恨でもあるに違いないと疑(うたご)うた拙者は、取り敢えず、間者(かんじゃ)を遣わして、かの山中村周辺を密かに探索させてみたので御座る。
暫くして訊き込んで参った間諜、江戸表に立ち返り、かの者より、
『……件の入会野一件に就きては――評定所裁許の通りにて何らの問題もこれ御座らぬ――とは忍草村併びに山中村近郷近村に於ける大方の一致せる意見にて御座候……』
旨、正に先の拙者の吟味に何らの誤りなきこと、現地にての大方の見方で御座った由との報告書が認(したた)められ、提出されて御座った。
なれど、これにては、折角の間諜も、これ、何の役にも立たなんだこととなってしまえばこそ、その報告を受けた際、この諜者にいろいろ話を聞いて見ることに致いた。すると、
「……昔より、かの甲州都留郡の者は、押しなべてこれ、我意を通さんとする性質(たち)至って、強う御座いまして、この度も、
『――この訴訟、何が何でも――無二無三に押し通しででも――我らが方へ利あるように全面勝利を勝ち取るべし!』
とのことにて、聴き込んだ話によりますれば、訴訟に関わって江戸表へ出でまする者ども、その旅費その他雑費なんどについても、村中の総ての百姓より、個別に月々定額で一銭二銭と集金致いて、相応に溜め込んだ金を、その者どもに渡し、その折りにも、
『――たとえ何年掛かろうが、勝つまでは訴え続けて呉りょう!』
と、皆々にて申し合わせおる、とのことにて御座いました。……さても、その訴訟総代となっております者どもについてで御座いますが……これまた何れも、かの村にては飛び切り我を押し通さんとするに、命知らずの依怙地なる者どもばかりを、選りすぐったるとのことにて御座いましたが……が……その中にても、甚右衛門というは、これ、別して頑強頑固にして岩盤の如き強情者にてこれある、とのこと……なれど……さてもさても、その甚右衛門が妻たるや、これ、また、甚右衛門にも増して、強固頑迷なる凄まじき剛情なる女子(おなご)のよし……かの根岸様の先の御裁許下って後、甚右衛門が山中村へ戻りましたところ、風の便りに訴訟に負けてのこのこ帰って参ったとのこと、早々伝え聞いて御座った妻が、先に沿道にて夫を待ち構え、
『――何故にお帰りなすった?! 負けて帰って、村の衆に合わせる、どの面(つら)やある?! とっとと、江戸表へたち帰りなされぇぇい!!』
と言い放って、家へ立ち入ることさえ許さず、即座に村内(むらうち)から夫を追い出した、という専らの噂で御座いました……。」
との、誠に興味深い話を聴いて御座った。――
さて、その後日(ごにち)のこと、かの甚右衛門取り調べの折り、何心なく、
「……時に、甚右衛門……汝、女房に追い出されて、……この度、この江戸表へ立ち帰ったと聞いたが……そりゃ、真実(まこと)か?……」
と申したところが――この噂、真実(まこと)の話にて正に心の臓にばすんと的中致いたが故か――はたまた、かの噂は誤りなれど、女房に追い出されたと言われたを、辱しめられたと感じて憤ったためか――急に以ての外の憤怒の相の、恐ろしき鬼面へとうち変じ、
「――江戸表にては、知らざれど!――甲州にては、夫を追い出すべき不実不届きなる、妻ならざる妻なんどは一人として、これ、おらず!――また、追い出さるるべき軟弱愚鈍なる男ならぬ男も、これ、御座らぬ、わ!!」
と、烈火の如き朱面と相成って吐き捨つるように申した。
拙者、そこで、穏やかな謂いにて、
「……いやいや、これは少しばかり、噂に聞いたまでのこと……勿論、根拠なき偽りであろうの……いっかな、甲州とは申せ、まさか、そのような妻の、妻にあらざるおぞましき夫への非礼……これ、あろうはずも、ない。……なれど……それにつけても……汝らの、この度の願いも……これ、よくよく考えたがよかろう……下につくべき女房に追い出されたと言う、根も葉もない、たわいもなき愚かなる噂を聞き……憤る程の汝の心にて、よう、考えてみるがよい……。
一旦、下々の百姓どもの間にて決着つかざるが儀――それに、一度(ひとたび)お上の公けの裁きを受けた――にも拘わらず、その裁許、我らが下々の者の思いに叶わぬとて、成り立ち難き難癖だらけの願い――汝ら百姓どもが、理に合わぬそのような強情を如何に張ったとしても――それ、御公儀が御取り上ぐること――これ、どうして御座ろうや? 御座ない!――。
夫婦(めおと)上下の当然の礼は弁え乍ら、私(わたくし)を以って御公儀に背かんとする、その心、分かり難し!」
と述べた。
数年来、我意を張り通して参った甚右衛門――これを聞きて、暫くの間、黙って御座った。――
やがて、
「……御吟味の趣き……得心致いた。……」
とぽつりと告ぐると、今までのことが嘘のように、素直に口書に署名を致いて後、今度(このたび)の訴訟には直接関わらざる、山中村のその外の諸事願いにつき、淡々と請い願って参ったが故、一々即座に吟味の上、その中でも特に問題のない部分については、適切に即決処理致いて、それにて一件落着と相成って御座った。
どれ程、我意強き者にても、その病根――その者の心の弱み――そこを、ずばん、と的中成しぬれば――これ、アッと言う間に――『落ちる』――のである。
この一件、拙者も甚だ長きに亙り……甚右衛門という『病者』に、見当違いの薬を、これ、施し続けて御座ったものよ……と思うこと、頻りで御座った……。
昨日、僕の愛する少女と結ばれた僕の愛する少年と飲んだ。彼等がさし當り不幸ではない――僕自身が矢張り「不幸ではない」という點に於いて此れは皮相な謂ひではない――ことに取り敢へず安堵した。記憶をなくす程飲んだのは久し振りだ――さうして今朝起きて見たら、脛に少し傷がついてゐた。何處かですつ轉んだらしい。僕はその血を見乍ら――梶井基次郎の「路上」の「歸つて鞄を開けて見たら、何處から入つたのか、入りそうにも思へない泥の固りが一つ入つてゐて、本を汚してゐた。」という結末を思ひ出して――『これは僕のスティグマだな』と思つた……
*
では暫く、ごきげんよう――
犬の散歩は思わぬ知識を得られる。今日、出会った犬の飼い主は、僕の家の裏手に出来た武田製薬会社の生物医薬の研究所の情報を教えてくれた。この研究所、大規模な遺伝子組み換え実験を含む生物細菌実験を含む『P3レベルの東洋一の』研究所である。その人の教えてくれたのはまず従業員「2000」人である。あの外観を見給え。とっても2000人レベルの規模じゃない。ということは、恐らく、地下に広大な実験室を持っているんだ。「18」とは何か? そこの研究員に支給される住居手当18万円だ。凄い金額だ。そういえば、僕の家の裏手の住宅地の空き地だったところに、急激な住居建設が進んでいる。『P3レベルの東洋一の』研究所が『如何に安全であるか』をアピールするためには、近くに従業員が住んでいるのが一番具合がいいに決まってる。……しかし、本当に重要なポストにいる、その危険度を最もよく知っている一握りの研究員はこんな近くに住むだろうか? 僕なら18万もらえば、家族のためになるべく遠くに住もうとするだろうな。なんてったて『P3レベルの東洋一の』研究所なんだからな……僕はせいぜいアリスに鼻を効かせてもらうぐらいの防御しか出来ないんだから……
三日間、名古屋の義母を見舞いで不在にするため、「耳嚢 巻之三」に「言語可愼事」「戲れ事にも了簡あるべき事」二篇を収載した。
*
言語可愼事
いつの頃にやありし、諸侯の奧方京都堂上(たうしやう)の息女にて、右奧方に附添來りし京侍、其儘右諸侯に勤仕(ごんし)して後は表方へ出勤しけるが、或日雨の日若侍寄合て雜談の折から、武士は關東北國の生れならでは用に不立、昔語りにも京家の侍は戰場を迯(にげ)去り勇氣甲斐なき抔雜談せしを、彼京侍聞て、京家の武士也(なる)とて魂次第なるべし、何ぞ京家の者臆病なるべきやと申けるに、言ひかゝりにや彼是ひとつふたつ取合しが、京家の侍の魂を見よなどゝて、果は刃傷(にんじやう)に及び双方共無益の事に命を果しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:敢えて禁忌に触れて禍いを招き、言葉を慎まざるによって命を落とすで連関。
・「堂上」堂上家。昇殿を許された四位以上の、公卿に列することの出来る家柄を言う。
・「表方」藩で政務を掌る所。また、その藩政関連の仕事。
・「武士は關東北國の生れならでは用に不立……」以下の叙述からはこの大名諸侯は東国以北の出身で領地も同地方にあり、御家中の家士も殆んどがそうであったと考えてよかろう。
■やぶちゃん現代語訳
言葉は重々慎むべき事
いつ頃のことで御座ったか、大名諸侯の奥方――京都堂上家の御息女にて――その奥方となられた方の道中付添いとして来府した京侍、そのままこの諸侯に勤仕(ごんし)致いて後は、表方へ出勤致いて御座った。
とある雨の日のこと、退屈しのぎに御家中の若侍どもが寄り集うて雑談など致いておったところ、そのうちの東国出の武士の一人が、
「――ところで、武士たるもの、関東北国の生まれでのうては役に立たざるものにて、昔語りにも『京の出の侍なんぞは戦場から逃げ去りて、勇気も甲斐性も何もかもない』と言うではないか……」
と言うたのを聞き咎め、
「京師(けいし)の武士であろうと、その者の心根、次第! 何故、京師の者を以って臆病となすか!」
と一喝した。先の男も半ばは冗談のつもりで言いかけたに過ぎぬので御座ったろうが、京出の侍が如何にも向きになったによって、売り言葉に買い言葉、二言三言の言い合いの末、京侍、抜刀の上、
「京師の侍の魂を見よ!」
とて刃傷に及び、双方とも――誠(まっこと)つまらぬことにて――命を落といた、ということで御座る。
*
戲れ事にも了簡あるべき事
予がしれる人に岡本源兵衞といへる人のありしが、彼のゆかりの者清水御殿の小十人となん勤けるに、或夜泊りの折から、坊主衆の戲れに白※(しろぎぬ)など着し、妖怪のまなびして右の者を威しけるに、臆したる男にや有けん、帶劍拔はなし彼坊主をあやめけるを、右聲に驚きて欠(かけ)集りけるに坊主も薄手にて死もやらざりしが、吟味の上双方共に御暇を給りて浪人なしぬ。坊主は勿論、さこそ切りしおのこも跡にては恥敷(はづかしく)ありけんと人々申ぬ。
[やぶちゃん字注:「※」=「糸」+=「旨」。]
□やぶちゃん注
○前項連関:言葉を慎まざるによって命を落とし、おふざけで危うく命を落としかけ、武士も面目を失ったで直連関。
・「岡本源兵衞」岡本正輔(まさすけ 享保18(1733)年~?)。岩波版長谷川氏注に『宝暦元年(一七五一)十九歳で相続、百五十俵。明和六年(一七六九)小十人。』とあり、底本の鈴木氏注では更に、天明4(1784)年の『火災に役向で預けられている鎧を焼失して暫く出仕を止められたことが寛政譜に出ているが、浪人うんぬんはない。家譜以後のことか。或いは誤聞か』とされる。しかしこれは鈴木氏の『誤読』で、主人公は岡本源兵衛の親戚の者である。
・「清水御殿」底本鈴木氏注に『清水屋敷。清水御門内。徳川重好』『の屋敷で、宝暦九年に作られたもの。』とある。徳川重好(延享2(1745)年~寛政7(1795)年)は第十代将軍家治の弟で、徳川御三卿の一つ清水徳川家初代当主。通称、清水重好。以下、ウィキの「徳川重好」から一部引用する(記号の一部を変更した)。『延享2年(1745年)2月15日、9代将軍家重の次男として生まれる。幼名は萬二郎。松平姓を称した』。『天明8年(1788年5月、御庭番高橋恒成は清水徳川家に関して、「御取締り宜しからず候由」と報告書を記している。具体的には、家臣の長尾幸兵衛が清水家の財政を私物化していると指摘している。また、「よしの冊子」では、長尾は3万両を田沼意次に献金し、重好を将軍職に就けようと目論んだと示唆している。寛政7年(1795年)7月8日、死去。享年51(満50歳没)』。『重好には嗣子がなかったため、清水徳川家は空席となる。その際、領地・家屋敷は一時的に幕府に収公されている。収公は将軍吉宗の意向に背くものであったため、同年7月、一橋徳川家当主の治済は老中松平信明らに強く抗議している。治済は7男亀之助(後の松平義居)による相続を考えていたようである。その後の清水家は、第11代将軍家斉の5男敦之助が継承している』。
・「小十人」は将軍及びその嫡子を護衛する歩兵を中心とした親衛隊。前衛・先遣・城中警備の3つの部隊に分かれ、その頂点にいるのが小十人頭(小十人番頭)であった(以上はウィキの「小十人」を参照した)。底本の卷之一にある鈴木氏の注によれば、若年寄支配で『二十人を一組とし、組数は増減があるが、多い時は二十組あった』とある。
・「坊主衆」これは江戸城や大名などに仕え、僧形で茶の湯など雑役をつとめた者のこと。その職掌により茶坊主・太鼓坊主などと呼称された。
・「白※」[「※」=「糸」+=「旨」。]この字は「絹」の国字。
・「欠集りける」底本では「欠」の右に『(駈)』とある。
■やぶちゃん現代語訳
ふざけるのも大概にせいという事
私の知人に岡本源兵衛という方が御座った。
その彼の親戚筋の者に、清水御殿で確か小十人とやらを勤めておる者が御座った由。
ある夜、宿直の折から、御殿の坊主衆がふざけて白い薄絹を被って、妖怪変化の真似なんどをして、この男を脅かそうと致いたところが――実際、この御仁、臆病な男ででもあったものか――見た途端、帯刀抜き放って坊主を袈裟懸けに斬ってしまった。
斬られた坊主の悲鳴に驚いた家内の者どもが泡を食って駆け集うた。――幸いなことに坊主の傷は浅手にて、死にもせなんだが――吟味の上、双方共に御暇を賜るという仕儀と相成り、源兵衛所縁の男子は、これ、浪人の憂き目に遭(お)うた。
「……坊主は勿論……えいや! とう! と一刀両断致さんとしたその男も、これ、赤っ恥、かいたもんだ……」
と、人々、噂致いたとのことである。
「耳嚢 巻之三」に「人の禁ずる事なすべからざる事」を収載した。
*
人の禁ずる事なすべからざる事
大坂町奉行屋敷書院の庭に大き成石あり。右石に立寄ふれけがしぬれば必祟り有とて、昔より繩を張りて人の立寄事を戒めぬ。岡部對馬守町奉行の節、かゝる怪石とりのけ可然とて取除にかゝりしが、彼是する事ありて程過しに、對馬守はからず御役を退きし由。右對馬守は其身持よろしからず、石の祟りなくとも神明(しんめい)の罰も蒙るべき人なれど、都(すべ)て古來より人の禁じたる事破り捨んは、理に似て却て不理なるべし。心有べき事也と人のいひし。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。祟る石であるが、本記述を見ても、根岸は基本的にある種の臨機応変の健全なるプラグマティストの一面を持っていたことが分かる。
・「大坂町奉行屋敷」「大坂町奉行」は遠国奉行の一つ。江戸町奉行と同様、東西の奉行所があり、東西一ヶ月ごとの月番制であった。以下、ウィキの「大坂町奉行」より一部引用する。『老中支配下で大坂三郷及び摂津・河内国の支配を目的としていた』。例外の時期もあるが、『定員は東西それぞれ1名ずつ』で、『奉行には役高1500石及び役料600石(現米支給)が与えられ、従五位下に叙任されるのが慣例であった。配下は東西いずれも与力30騎、同心50人。奉行所は元々は東西ともに大坂城北西の出入口である京橋口の門外に設置されていたが、享保9年(1724年)の大火で両奉行所ともに焼失した教訓から、東町奉行所は京橋口に再建され、西町奉行所は本町橋東詰の内本町橋詰町に移転された』。『また、時代が下るにつれて糸割符仲間や蔵屋敷などの監督など、大坂経済関連の業務や幕府領となった兵庫・西宮の民政、摂津・河内・和泉・播磨における幕府領における年貢徴収及び公事取扱(享保7年(1722年)以後)など、その職務権限は拡大されることとなった』。ここで問題となっている「岡部對馬守」元良は西町奉行であったが、この屋敷は役宅の意であり、必ずしも本町橋東詰の内本町橋詰町近辺とは言い得ないが、一種の官舎であってみれば、とんでもなく遠い所にあるとも思えない。識者の御教授を乞うものである。
・「岡部對馬守」岡部元良(宝永6(1709)年~宝暦12(1762)年)。底本の鈴木氏注では宝暦7(1757)年から没する宝暦12(1762)年まで職にあった由記載があるので誤伝と考えられる。鈴木氏は更に『同姓の勝政(隠岐守。ただし父興貞が対馬守)と混同したのであろう』とされ、『勝政は元禄六年御留守居となり、同十年には千五百石加増、すべて四千五百石を領したが、十四年にいたり部下の私曲に関して罰せられ、小普請入り、逼塞を命ぜられ、宝永四年致仕、正徳三年七十四歳で没した。』と記されている。しかし、岡部勝政は大坂町奉行であったことはなく、正徳3(1713)年没では宝暦12(1762)年没の岡部元良と勘違いするには、50年近い差があり、やや不自然である。岩波版の長谷川氏注では、その辺りをお感じになられたのか、鈴木氏注を踏襲せず、岡部元良の『子元珍は閉門、それを継ぐ某は酒狂、追放。』と記され、元良の悪しき血筋との混同とする。この二人の事蹟は高柳光壽の「新訂寛政重修諸家譜」にあり、子の元珍(もとよし 延享3(1746)年~明和7(1770)年)の閉門は彼の咎ではなく、父元良の死後の背任行為によるものであることが分かる。即ち父が死んで『宝暦十二年十月十六日父の遺跡を繼、この日父元良職にあるとき、隊下の與力同心をして市人の金子をかりし事露顯し、糺明あるべき處、すでに死するにより、元珍これに座して閉門せしめられ、のちゆるさる』とあるからである。元珍は許された甲斐もなく、25歳で夭折している。また、それを継いだ岡部某は幼名徳五郎と言い、実は元良の次男で、兄の養子となって嗣子となった人物で、「新訂寛政重修諸家譜」には『安永九年八月二十三日さきに從者わづか二人をつれ、松平荒之助貞應とゝもに龜戸天神境内にいたり、住所もしれざる僧と出會し、酒宴を催し、沈醉のあまりまた其邊りの酒店にいり、酒肴を求むといへども酒狂の體なれば酒つきたりとて出さゞりしを恕り、高聲にのゝしり、途中にても法外のありさまなれば狂人なりとて、多くの人跡より附來るをいきどをり、荒之助とゝもに刀を拔て追拂はむとせしにその中より礫をうたれ、或は大勢に附纏はれ、せんかたなく刀をおさめ、逃れ去むとせしを所の者出あひ、割竹をもつて眉間に傷つけられ、誠にその人をも見失ひ、病に疲れたる往來の者を相手なりと心得たがひて切殺し、狼藉に及びしゆへ止事を得ず、討果せしむね支配岡部外記知曉が許に告。よりて糺明あるのところ、彼是僞をかまへ申陳せしこと、おほやけを恐れざる志始末かたがたその罪輕からざるにより、遠流にも處せらるべしといへども、獄屋火災ににかゝるとき、これを放たるゝ處、立ちかへりしかば一等を宥められ、追放に處せらる。』というとんでもなく詳しい「酒狂」ぶりが記されている。この内容を見てしまうと、私はここは長谷川氏注を採りたくなってしまう。現代語訳では「岡部対馬守殿」のみの、そのままとしておいた。
■やぶちゃん現代語訳
人の禁ずる事はこれなすべきではないという事
大阪町奉行屋敷書院の庭に、大きな石が御座った。
この石に近寄ったり、触れて穢したならば、必ずや祟りがある、と言い伝えられて御座って、古えより、周囲に注連繩(しめなわ)を張り渡いて、人が不用意に近寄らぬようにして御座った。
岡部対馬守殿が町奉行を勤めておられた際、日頃から、
「かかる怪石なんど、取り除いて然るべきこと。」
とて仰せになっておられたのだが、かれこれ所用雑務に追われておられたために、つい、そのままにして御座った。
すると、そのうちに対馬守、突然の御役辞任と相成って御座った由。――まあ、この対馬守殿は、その身持ち、甚だよろしくなく、この石の祟りがなかったとしても、いずれは神明(しんめい)の罰を蒙らではおかぬとんでもないお人では御座ったが――何事に於いても、古来より人の禁じたることをまるっきり無視し、安易に破棄してしまうなんどということ、これ、一見合理的合目的的に見え乍ら、その実、却って天然自然の絶対の理(ことわり)に反するものであると言ってよい。このこと、心得るべきと、とある人が語って御座った話で御座る。
現在、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、ブログ・アクセス数
249065
250000アクセス記念テクストにとりかかってはいるのであるが、周辺介護のため、物理的にも精神的にも全く余裕がないので、遅々として進捗しない。
ばらしてしまうと、芥川龍之介の片山廣子関連書簡の集成を考えている(と言ってもそんなに沢山はない)。アクセス突破に間に合わないかも知れない。その時は時間差で公開する。悪しからず。
耳嚢 巻之三」に「風土氣性等一概に難極事」を収載した。
*
風土氣性等一概に難極事
一年新見(しんみ)加賀守長崎奉行の節、長崎市中三分一燒失の事有りしに、長崎始ての大火故、役所よりも手當有之しが、長崎の土俗は陰德といふ事を專ら信仰なしけるが、濱表へ米三百俵ほど積みて、少分ながら貧民御救ひ被下候(さふらひ)しやう建札いたし置、或ひは火元の名を借りて銀箱等を役所へ差出し置候事ありし由。長崎に同年在勤せし者語りし也。崎陽は交易專らにて、專ら利に走る土地と思ひしに、此咄を聞てはあながち賤しむべき所とも思はれざるゆへ爰にしるし置ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:金品論から、長崎の大火災に於ける被災者への篤志家の無私の金品拠出で直連関。
・「一年」ある年の意であるが、後注で判明するように、これは明和3(1766)年である。
・「新見加賀守」新見正栄(しんみまさなが 享保3(1718)年~安永5(1776)年)。底本の鈴木氏の注によれば、宝暦11(1761)年に小普請奉行、同年従五位下加賀守となったとある。明和2(1765)年から安永3(1774年)まで長崎奉行、同年御作事奉行へ転任(鈴木氏この転任の年を誤っている)、翌安永4(1775)年には勘定奉行となったが、その翌年に59歳で没している。この話、根岸は本文で新見本人から聴いたのではないとするが、新見が勘定奉行となり没する一年の間で根岸はこの新見本人とも親しく話す機会があった可能性がある。私はこの話、さりげなく新見正栄の名を「耳嚢」に示して一種のオードとしたかったのではなかったろうか? 何故なら、この頃、根岸は38歳、御勘定組頭で、正に新見が没する安永5(1776)年には勘定吟味役に抜擢されているからである。恐らく新見は根岸の才能を高く買っていた人物の一人であったに違いないからである。
・「長崎奉行」長崎を管理した遠国奉行の一つ。非常に長くなるが、本話を味わう上で必要と判断し、ウィキの「長崎奉行」より多くの部分を以下に引用させて頂く。『戦国時代大村氏の所領であった長崎は、天正8年(1580年)以来イエズス会に寄進されていたが、九州を平定した豊臣秀吉は天正16年(1588年)4月2日に長崎を直轄地とし、ついで鍋島直茂(肥前佐賀城主)を代官とした。文禄元年(1592年)には奉行として寺沢広高(肥前唐津城主)が任命された。これが長崎奉行の前身である』。『秀吉死後、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は豊臣氏の蔵入地を収公し、長崎行政は江戸幕府に移管された。初期は竹中重義など徳川秀忠側近の大名が任ぜられたが、やがて小禄の旗本が、のちには1000~2000石程度の上級旗本が任ぜられるようになった。長崎奉行職は幕末まで常置された』。『当初定員は1名で、南蛮船が入港し現地事務が繁忙期となる前(6月頃)に来崎し、南蛮船が帰帆後(10月頃)に江戸へ帰府するという慣習であった。しかし、島原の乱後は有事の際に九州の諸大名の指揮を執るため、寛永15年(1638年)以降は必ず1人は常駐する事になった。寛永10年(1633年)2月に2人制となり、貞享3年(1686年)には3人制、ついで元禄12年(1699年)には4人制、正徳3年(1713年)には3人制と定員が変遷し、享保期(1716年~1736年)以降は概ね2人制で定着する。天保14年(1843年)には1人制となったが、弘化2年(1845年)からは2人制に戻った。定員2名の内、1年交代で江戸と長崎に詰め、毎年8月から9月頃、交替した。また、延享3年(1746年)以降の一時期は勘定奉行が兼任した』。『奉行は老中支配、江戸城内の詰席は芙蓉の間で、元禄3年(1690年)には諸大夫格(従五位下)とされた。その就任に際しては江戸城に登城し、将軍に拝謁の上、これに任ずる旨の命を受ける』。『当初は、芙蓉の間詰めの他の構成員は全員諸大夫だったが、長崎奉行のみが布衣の身分で、しかも芙蓉の間末席であった。牛込重忝が長崎奉行を務めていた時期、当時の老中久世広之に対し長崎奉行が他の構成員と同様に諸大夫になれるようにという請願がなされたが、大老酒井忠清に拒否された。その理由は、「従来長崎奉行職は外国商人を支配する役職であって、外国人を重要視しないためにも、あえて低い地位の人を長崎奉行に任じてきた。しかし、もしここで長崎奉行の位階を上昇させれば、当然位階の高い人をその職に充てなければならなくなる。そして、これまで外国人を地位の低い役人が支配していることにより、それだけ外国において幕府の威光も高くなるとの考えから遠国奉行の中でも長崎奉行の地位を低くし、しかも芙蓉の間末席にしてきた。そのため、長崎奉行の地位を上げるような願いは聞き届けられない」というものであった』。『しかし、川口宗恒が元禄3年(1690年)に従五位下摂津守に叙爵された後、長崎奉行は同等の格に叙されるようになり、元禄12年(1699年)には京都町奉行よりも上席とされ、遠国奉行の中では首座となった』。『奉行の役所は本博多町(現、万才町)にあったが、寛文3年(1663年)の大火で焼失したため、江戸町(現、長崎市江戸町・長崎県庁所在地)に西役所(総坪数1679坪)と東役所が建てられた。寛文11年(1671年)に東役所が立山(現、長崎市立山1丁目・長崎歴史文化博物館在地)に移され、立山役所(総坪数3278坪)と改称された。この両所を総称して長崎奉行所と呼んだ』。『奉行の配下には、支配組頭、支配下役、支配調役、支配定役下役、与力、同心、清国通詞、オランダ通詞がいたが、これら以外にも、地役人、町方役人、長崎町年寄なども長崎行政に関与しており、総計1000名にのぼる行政組織が成立した。奉行やその部下、奉行所付の与力・同心は、一部の例外を除いて単身赴任であった』。『近隣大名が長崎に来た際は、長崎奉行に拝謁して挨拶を行なったが、大村氏のみは親戚格の扱いで、他の大名とは違い挨拶もそこそこに中座敷へ通し、酒肴を振舞うという慣例だった』。『奉行は天領長崎の最高責任者として、長崎の行政・司法に加え、長崎会所を監督し、清国、オランダとの通商、収益の幕府への上納、勝手方勘定奉行との連絡、諸国との外交接遇、唐人屋敷や出島を所管し、九州大名を始めとする諸国の動静探索、日本からの輸出品となる銅・俵物の所管、西国キリシタンの禁圧、長崎港警備を統括した。長崎港で事件が起これば佐賀藩・唐津藩をはじめとする近隣大名と連携し、指揮する権限も有していた』。『17世紀頃までは、キリシタン対策や西国大名の監視が主な任務であったが、正徳新令が発布された頃は貿易により利潤を得ることが長崎奉行の重要な職務となってきた』。『江戸時代も下ると、レザノフ来航、フェートン号事件、シーボルト事件、プチャーチン来航など、長崎近海は騒がしくなり、奉行の手腕がますます重要視されるようになる』。『長崎に詰めている奉行を長崎在勤奉行、江戸にいる方を江戸在府奉行と呼んだ。在府奉行は江戸の役宅で、江戸幕府当局と長崎在勤奉行の間に立ち、両者の連絡その他にあたった。在勤奉行の手にあまる重要問題や、先例のない事項は、江戸幕府老中に伺い決裁を求めたが、これは在勤奉行から在府奉行を通して行なわれ、その回答や指示も在府奉行を通して行なわれた。オランダ商館長の将軍拝謁の際に先導を務めたのも在府奉行であった』。以下は司法権の記載となる。『長崎の町の刑事裁判も奉行に任されていた。他の遠国奉行同様、追放刑までは独断で裁許出来るが、遠島刑以上の刑については、多くはその判決について長崎奉行から江戸表へ伺いをたて、その下知があって後に処罰される事になっていた。長崎から江戸までの往復には少なくとも3ヶ月以上を要し、その間に自害をしたり、病死したりする者もいた。その場合は、死体を塩漬けにして保存し、江戸からの下知を待って後に刑が執行された。幕府の承認を得ず、独断専行すれば、処罰の対象とされた。大事件については、幕府からの上使の下向を仰ぎ、その指示の下にその処理にあたった』。『奉行所の判決文集である「犯科帳」で、本文の最後に「伺の上~」として処罰が記してあるのは、その事件が極刑にあたる重罪である場合や、前例の少ない犯罪である場合等、長崎奉行単独の判断では判決を下せない時に、江戸表に伺いをたて、その下知によって処罰が決まった事を指した。その江戸表への伺いの書類を御仕置伺という。遠島以上の処分については、長崎奉行は御仕置伺に罪状を詳しく記した後、「遠島申し付くべく候や」という風に自分の意見を述べた。下知は伺いのままの場合が多かったが、奉行の意見より重罪になる事もあれば軽くなる事もあった。なお、キリシタンの処罰については、犯科帳には記述されていない』。『遠島刑は、長崎からは壱岐・対馬・五島へ流されるものが多く、大半は五島であった。まれに薩摩や隠岐にも送られた。天草島は長崎奉行の管理下にあったが、そこには大坂町奉行所で判決を下された流人が多かった。遠島の場合、判決が下っても、すぐに島への船が出る訳ではなく、天候や船の都合、判決の前後する犯人を一緒に乗船させる都合等により、かなり遅れる事もあった。そのため、遠島の判決文には、末尾に「尤も出船迄入牢申し付け置く」と書き添えてあるものが多かった』。『長崎で判決を受けた流人の大部分は五島に送られたが、その流人の支配については五島の領主に一任された。五島の領主から、流人がさらに罪を重ねたり島抜けをしたり等の報告があった場合には、奉行所の記録にもその事が付け加えられた。天草島の流人は長崎から送られる者は比較的少なかったが、天草は長崎奉行の支配下にあったため、長崎奉行所の記録には天草流人の様子を伺うものが多い。流人が島で罪を重ねた場合、天草は長崎奉行の支配下のため、奉行がその処罰を直接指示した。壱岐・五島・対馬などの場合は、処罰はその領主家来の支配に委ねられるが、その連絡報告を長崎奉行から求められた』。『奉行所の取り調べや処分について不平不満のある市民は、それについて意見を述べたいと思ったら町役人を通じて訴える必要があった。手続きの煩雑さや、上申しても願いが通る可能性が低い事から、町役人も手続きをしようとしない場合が多かった。これに対して市民は、願いを文書にして奉行所に投げ込む「投げ文」「捨て訴え」、直接役人や役所へ陳情する「駕籠訴え」「駈けこみ訴え」等を行なった。これらの非正規の手順は、「差越願(さしこしねがい)」として却下され、投げ文をした者の身元が分かれば、本人を町役人付き添いで呼び出し、目の前で書状は焼き捨てられた。しかし、表面上はそれを却下しながら、奉行所でそれを元に再吟味をし、市民の要求が通る場合もあった』。相応な治安維持のシステムであるが、場所柄、例外があった。今で言う治外法権である。『唐人やオランダ人に対する処罰は日本人と同じにする訳にはいかず、手鎖をかけて中国船主やカピタンに身柄を渡し、貴国の法で裁いて欲しいと要求する程度だった。罰銅処分(過料)か国禁処分になる場合が多く、国禁処分になった唐人は唐人屋敷に閉じこめられ、次に出港する船で帰国させられ、日本への再渡航を禁じられた。しかし開港後は、多くの外国人によるトラブルが発生し、従来のように唐船主や出島のカピタン相手に通達するだけでは済まず、各国の領事に連絡し、しかもその多くは江戸表へ伺いをたてねばならなくなった』。なお、『江戸やその他の場所では、非人に対する刑罰はその頭の手に委ねられていたが、長崎の場合は直接奉行によって執行された』とある。次に「長崎奉行の収入」の項。『奉行は、格式は公的な役高1000石、在任中役料4400俵であったが、長崎奉行は公的収入よりも、余得収入の方がはるかに大きい』。『すなわち、輸入品を御調物(おしらべもの)の名目で関税免除で購入する特権が認められ、それを京・大坂で数倍の価格で転売して莫大な利益を得た。加えて舶載品をあつかう長崎町人、貿易商人、地元役人たちから八朔銀と呼ばれる献金(年72貫余)や清国人・オランダ人からの贈り物や諸藩からの付届けなどがあり、一度長崎奉行を務めれば、子々孫々まで安泰な暮らしができるほどだといわれた。そのため、長崎奉行ポストは旗本垂涎の猟官ポストとなり、長崎奉行就任のためにつかった運動費の相場は3000両といわれたが、それを遥かに上回る余得収入があったという』。最後に「長崎在勤奉行の交替」の項が映像を髣髴とさせるので見ておこう。『江戸詰めの奉行が、長崎在勤の奉行と交替するため長崎に向け出立すると、その一行が諫早領矢上宿に到着する頃に、長崎在勤奉行は町使と地役人の年行司各2人ずつを案内のため、矢上宿に遣わす。そして奉行所西役所では屋内だけでなく庭の隅々まで清掃して着任する奉行を出迎える用意をする』。『さらに在勤奉行の代理として、その家臣1人が蛍茶屋近くの一ノ瀬橋に、西国の各藩から派遣されている長崎聞役は新大工町付近に、年番の町年寄は地役人の代表として日見峠に、その下役の者達は桜馬場から日見峠の間に並ぶ。そして長崎代官高木作右衛門は邸外に出て、それぞれ新奉行を待つ事になる』。『矢上宿に一泊した奉行は、駕籠の脇に5人、徒士5人、鎗1筋・箱3個、長柄傘・六尺棒その他からなる一行で出発。日見峠で小憩を取る際に、町年寄らが出迎え、奉行の無事到着を祝う。ついで沿道の地役人らが両側に整列する間を一行は進む。在勤奉行代理の家臣が、その氏名を1人ずつ紹介するが奉行はそれに対しては特に言葉を返さない』。『桜馬場まできたところで、出迎える諸藩の聞役の名を披露され、そこで初めて奉行はいちいち駕籠を止めて会釈する。ついで勝山町に進み、代官高木作右衛門と同姓の道之助が出迎えるのを見て、奉行は駕籠を出てこれと挨拶を交わす。西役所に一行が到着するのはこの後である』。『長崎の地役人や先着の家臣達が奉行所の門外や玄関でこれを迎え、奉行が屋内に入ったところで、皆礼服に改め、無事に到着した事を祝い、奉行もまたこれに応える。その後直ちに立山の長崎在勤奉行の下に使者を遣わして無事到着を報告する。これを受けた立山奉行所はそれを祝い、鯛一折りを送り届ける。到着した奉行は、昼食の後、立山奉行所に在勤奉行を訪問し、然るべき手続きを終え、西役所に戻る。その後、地役人らの挨拶があるが、これには新奉行は顔を出さない。その後、立山から在勤奉行がここに返礼に来る、というものであった』とある。
・「長崎市中三分一燒失の事」長崎は度重なる火災が起こっているが、藤城かおる氏の個人がお作りになった「長崎年表」の該当部分を見ると、新見正栄が長崎奉行をしていた明和2(1765)年から安永3(1774年)までの約10年間で、15回の出火を数える。その中でも大火災っとなったものは明和3(1766)年2月27日の大火がこれであると思われる。その記載に拠れば、『夜、四つ時に西古川町の林田あい・林田まさ宅の風呂場の火元不始末により出火』、その後、『大風で風向きが変わり本古川町、今鍛冶屋町、出来鍛冶屋町、今籠町、 今石灰町、新石灰町、油屋町、榎津町、万屋町、東浜町を焼き尽く』して、『西古川町、西浜町、銀屋町の過半数を焼』き、実に『16町、2794戸を焼失する大火災』となった。『罹災者には米、銭を与え仮屋33棟を造って収容』、本話に記された如く、『市内の富豪も米銭を寄付』したとあり、その救済を行った具体的な人名と拠出寄付した物品事業等が以下のように記されている。『村山治兵衛は米300俵、青木左馬は苫1200枚、筵600枚、飛鳥八右衛門ら14人は銀26貫目』、『川副大恩は無利子で銀52貫200目、上田嘉右衛門は低利で銀63貫目を貸与』とある。また本文に現れる新見ら奉行所の指示としては、『奇特の人々に奉行所はそれぞれ麻上下ひと揃え或いは衣服を与え賞』し、『類焼地役人にも貸与が許可』され、『消防尽力者は表彰を受け、町乙名は各麻上下ひと揃い、消火夫には各銭200文が与えられ』たとある。更に、この年表の真骨頂であるが、逆に火災に関わる処罰者の一覧も示されている。出火元となった西古川町の林田あいは押込30日、同林田まさは叱(しかり)、更に不作為犯として『出火の折り、隣家の者がその場に駆けつけ消火もせず、駆けつけても消火に尽くさ』なかったとして『西古川町・安留勘兵衛、西古川町・小柳久平次、西古川町・大薗長右衛門、榎津町・櫛屋市太郎、榎津町・利三次』の5名が叱、『出火を発見し消防のため水をかけるた』が、その消火活動が杜撰であったがために大火となったとして、西古川町の清助及び金次郎が叱を受けた、とある。
・「長崎始ての大火故」この言いは誤りである。長崎ではこれ以前、遡ること約百年前に「寛文長崎大火」と呼ばれるほぼ全市中を焼き尽くした大火災があった。以下、ウィキの「寛文長崎大火」より引用して、本話との類似性の参考に供しておく。『寛文3年(1663年)3月8日の巳の刻に、筑後町で火災が発生。その火は北風に煽られ、周囲の町へと広がっていき、長崎市中のほとんどを焼き尽くす大火災となった』。『この火災は筑後町に居住する浪人・樋口惣右衛門による放火が原因だった。日頃から鬱々としていた惣右衛門が発狂して自宅の2階の障子に火をつけ、隣家の屋根に投げつけて発火させた。当時の家屋のほとんどの屋根は茅葺だったため火の回りが速く、市街57町、民家2900戸を焼き尽くす大災害となり、長崎奉行所もこの時焼失した』(脚注に「増補長崎略史」を引用し、『市街六十三町、民家二千九百十六戸、及び奉行所・囚獄・寺社三十三ヶ所を焼亡す。その間口延長二百二十九町三十間、災いを蒙らざる者は金屋町・今町・出島町・筑後町・上町・中町・恵比寿町の幾分にして、戸数わずかに三百六十五戸のみ』とある)。『この火事は放火された日の翌朝午前10時まで約20時間続いたという』。『この後、放火の犯人である惣右衛門は捕らえられ、焼け出された人々の前を引き回された上で火あぶりの刑に処せられ』ている。『この火災は長崎の町が出来てから最大の災厄で、焼け出された町人達はその日の糧にも窮することとなった』。『これに対し、当時の長崎奉行の島田守政は、幕府から銀2000貫を借り、内町の住民に間口1間あたり290匁3分(銀60匁=1両=約20万円)、外町の住民に同じく121匁から73匁の貸与を行い、焼失した住宅の復旧を図った』(この「内町」「外町」については『地租を免ぜられた町で、「外町」はそれ以外の町。』という脚注がある)。『また、焼失した社寺に銀を貸与し、近国の諸藩から米を約16,000石購入して被災者に廉価で販売するなどの緊急対策を行った。この時の借銀は10年賦だったが、10年後の延宝元年(1673年)に完済された』。『また、島田は長崎の町の復興に際し、道路の幅を本通り4間、裏通り3間、溝の幅を1尺5寸と決め、計画的に整備していった。この時に造られた道幅は、以後も長崎の都市計画の基本となり、明治時代以後に道幅が変更されたところはあるが、現在でも旧市街にそのまま残されていて、独特な町並を形成している』。『本五島町の乙名倉田次郎右衛門は、かねてより長崎の町の水不足を案じていたが、この火事の際の消火用水の不足を知り、私費を投じて水道を開設する事を決意。延宝元年(1673年)に完成した倉田水樋は、200年余にわたって長崎の町に水を供給し続けた』。「始て」としたのは根岸の誤りと思われる。新見は寛文長崎大火から実に百年振りの大火であったことを述べた際、根岸がこの「百年」を稀に見る大火という形容と誤解したのではなかったか? 現代語訳はそのままとした。
・「陰德」人に知られぬように秘かにする善行。仏教・儒教にては大いに貴ばれる仁徳である。
・「崎陽」長崎の漢文風の美称。
■やぶちゃん現代語訳
風土気性なんどというものは一概には決め難きものである事
ある年、新見加賀守正栄殿が長崎奉行を勤めておられた折りのこと、長崎市中三分の一が焼失するという大火災が御座った。長崎にては初めての大火でもあったがため、勿論、奉行所からも迅速な救済が行われたが、長崎の土地柄には実は、『陰徳』を殊更に貴ぶ風が御座って、この折りにも、大火の翌日のこと、突如、何者かによって浜辺に米三百俵が積み上げられており、そこに
――些少乍ら被災の貧民ら御救い下され候よう御使い下されたく候――
と墨痕鮮やかに書かれた匿名の立て札が御座ったり、あるいは出火元の町屋の名を借りて、大枚の入った千両箱などを、こっそりと御役所門前へ差し出だいて消えてゆく者なんどが御座った由。
その年、加賀守殿と共に長崎に在勤して御座った者が語った話で御座る。
崎陽は異国との交易を専らにし、正に専ら利に走るばかりの土地柄と思って御座ったれど、この話を聞いての後は、強ち、守銭の民草と賤しむべき土地とは、これ、全く思えぬようになって御座ったれば、ここに特に記しおくもので御座る。
「耳嚢 巻之三」に「金銀二論の事」を収載した。
*
金銀二論の事
或人曰、金銀の世に通用するいと多き事ながら、右金銀の出來立(できたち)を考れば、數千丈の地中を穿(うが)ち千辛萬苦して取出し、或はこなし或は汰りわけ、又吹立(ふきたて)吹別(ふきわけ)て漸々して筋金(すぢがね)灰吹銀(はいふきぎん)といへる物になるを、猶吹立て小判歩判銀(ぶはんぎん)とはなしぬ。最初より出來上り迄手の懸る事、人力の費へいくばくぞや。然れば壹分或ひは又壹兩の金を遣ふも容易に遣ふべきにあらずといふ。尤成事也。又或人の曰、金銀の出來立は甚だ人力を費し漸くにして通用なす程になす。かゝる寶を少しも貯へ置べきやうなし、隨分遣ひて世に通用せんこそよけれといひし、是も又尤也。何れを善としいづれを非とせん。しかしながら金銀の貴き事のみを知りて、たやすく出來ざる事のみを思ひて、世の中の肝要其身の樞機(すうき)をも不顧、一金一錢を惜しみ親族知音(ちいん)の難儀をも不思、金錢を貯へ衣食住も人に背きて賤(いやし)からんは、是守錢の賊といふべき也。しかはあれど私の奢りに千金を不顧酒色に遣ひ捨んは、是國寶の冥罰(みやうばつ)も蒙りなん。世の中に武器を賣りて色欲に費し、升秤を賣て酒の價とし、農具を質入して美服をなす士農商の類ひも少なからず。心得有べき事也と爰にしるしぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:佐渡金山実録物連関であるが、内容は根岸の鋭い社会への批評眼と、その絶妙のバランス感覚を持った論理的思考が伝わってくる、真摯な経済哲学論である。
・「數千丈」1丈=約3.03mであるから、例えば「數千丈」の下限を二千丈≒6㎞、上限を八千五百丈≒26㎞弱と仮定しても、実際の佐渡金山の坑道総延長は実に400km以上に及んでおり、遙かに過小評価している。勿論、これを地上からの垂直距離とするなら、たかだか約350mである(しかしこれは有に海面下数mにまで達するもので、故にこそ前話に語られる水替の作業が必要になってきたのであった。当時の技術としても非常に深い地底にまで掘り進んでいると言える)。しかし、通常、鉱山の深さは坑道距離を言うのが普通であるから、ここはやはり、誇張表現どころか、根岸さん、佐渡奉行としては大いに不勉強ですぜ、と言わざるを得ない。
・「こなし」これは精錬行程の初期段階に行われる「粉成し」作業のこと。ブログ「佐渡広場」の「歴史スポット55:佐渡金銀山絵巻の意味」に以下の詳細な記載があった。
《引用開始》
(4)荻原三雄:「金銀山絵巻に見る鉱山技術ー採鉱から選鉱(粉成)の世界ー」
採掘された金銀鉱石はその後粉砕される。この選鉱工程を粉成(こなし)ともいう。この粉成には佐渡金銀山絵巻にみる「ねこ流し」の技法と岩手県金沢金山絵巻にみる「セリ板採り」の技法がある。この二つの技術系統は、江戸時代前期にはすでに成立していたようで、秋田藩士の黒沢元重が元禄4年(1691)に著した「鉱山至宝要録」の中に「金鉑(きんぱく)の荷、焼て唐臼にてはたき、石臼にて引、夫(それ)を水にてなこなりせり板にて流し、木津にて舟の如く成物へ洗ひため置き、是を打込と言ひ、更に板にゆり、金砂を取り、紙に包み、かはらけ様に、土にて作りたる物の内へ、鉛を合せ、いろりの内にても口吹すれば、黄金に成るなり」と見えることからも理解できる。ただし、なぜ、この二つの技術が並存していたのか、いまだ未解明である。
粉成には鉱山臼が用いられる。搗(つ)く・磨(す)る・挽(ひ)くの三つの態様に応じた搗き臼・磨り臼・挽き臼と呼ばれる鉱山臼によって微粉化される。なかでも佐渡の挽き臼は大きく、しかも上臼と下臼の石質を変えるなど、他の鉱山に比べ特徴的である。石見銀山のように挽き臼がほとんどなく、「要(かなめ)石」という搗く・磨る専用の臼で粉成されていたところもあり、各地の鉱山ではそれぞれの鉱山臼を巧みに使い分けていたようである。粉成された鉱石は引き続き、鉛などを使い製錬していった。
佐渡金銀山絵巻などにはこうした鉱山技術がじつに詳細に描かれており、往時の鉱山世界を浮かびあがらせている。
《引用終了》
『水にてなこなり』の部分、意味不明であるが、「水にて粉成し」ということであろう。
・「汰(よ)りわけ」「汰」には「よる」という訓はないが、「洗う。洗い除く。」の意、及び「汰(よな)ぐ」「汰(よな)げる」と訓じて、淘汰の意、則ち「水で洗って悪い部分を取り去る。劣悪な部分を選び分けて取り去る、選び取る。」の意を持つので、所謂、水の中で笊や籠で揺すって選別する作業(恐らく前注で引用した「鉱山至宝要録」の部分の『板にゆり、金砂を取り』の部分)に相当する語と考えられる。
・「吹立吹別」製錬作業のこと。鉱石から目的とする金属を分離・抽出し(これが「吹別」。「吹分」とも書く)、精製して鋳造・鍛造・圧延用の地金とすること。鞴を用い、強力な風力で火を掻き立てて行うことから、かく言うのであろう。
・「筋金」「すじがね」とも「すじきん」とも読む。精錬の粉成し吹き立て吹き分け作業後、の成品。金鉱石から製錬したものを面筋金、銀を主成分とした鉱石を製錬した山吹銀を分筋金と呼んだ。
・「灰吹銀」山吹銀は中に金を含んでいるため、灰吹法により更に銀純度を高めて製錬された銀地金を言う。以下、ウィキの「灰吹銀」より一部引用する。『銀を含有する黄銅鉱などの鉱石に鉛または方鉛鉱を加え、鎔融すると銀は鎔融鉛のなかに溶け込む』。『また銀を含有する荒銅(粗銅)を鎔融し鉛を加え、徐々に冷却し800℃前後に保つと、鉛に対する溶解度の小さい精銅が固体として析出し、依然鎔融している鉛の中には溶解度の大きい銀が溶け込んでいる』。『さらに鉛の鉱石である方鉛鉱も0.1~0.2%程度の銀を含んでいるのが普通であり、取り出された粗鉛地金にも少量の銀が含まれる』。『この銀を溶かし込んだ鉛は貴鉛(きえん)と呼ばれ、鎔融した状態で精銅などから分離され、骨灰製の坩堝で空気を吹きつけながら鎔解すると、鉛は空気中の酸素と反応し酸化鉛となり骨灰に吸収され、酸化されない銀が残る』。『これが灰吹銀で』、『荒銅から灰吹法により銀を取り出す作業は特に南蛮吹(なんばんぶき)あるいは南蛮絞(なんばんしぼり)と呼ばれ、取り出された灰吹銀は絞銀(しぼりぎん)と呼ばれた』。『これらの灰吹銀は極印が打たれ、また打ち延ばされたものは、それぞれ極印銀および古丁銀と呼ばれ、この秤量銀貨は領国貨幣として流通し、江戸時代の丁銀の原型となった』。『戦国時代から江戸時代前半に掛けて、ソーマ銀(佐摩、石見)、ナギト銀(長門)、セダ銀(佐渡)等といわれる灰吹銀が貿易決済のため多量に海外へ流出し、幕府は長崎において良質灰吹銀の輸出を監視したが、17世紀の間に丁銀を合わせて110万貫(4,100トン)を超える銀が流出したという』。『銀座における銀地金の調達法には二通りあり、幕領銀山からの上納灰吹銀は公儀灰吹銀(こうぎはいふきぎん)または御灰吹銀(おはいふきぎん)と呼び、これを御金蔵から預り吹元にして丁銀を鋳造し吹立高の3%を銀座の収入とし、残りを御金蔵へ上納した御用達形式があり、他方、幕領以外の銀山、私領銀山から銀座が買入れ、丁銀を鋳造する場合は買灰吹銀(かいはいふきぎん)もしくは諸国灰吹銀(しょこくはいふきぎん)と称した』。『江戸時代初期、石見銀山、蒲生銀山、生野銀山、多田銀山、院内銀山の産銀は最盛期を迎え、また佐渡金山も金よりも寧ろ銀を多く産出した』。
『これらの鉱山から産出される銀は灰吹銀として銀座に買い上げられたが、その銀品位に応じて買い上げ価格が定められた。純度の高い上銀は南鐐(なんりょう)と呼ばれ、さらに精製度の高いものは花降銀(はなふりぎん)と呼ばれた。純銀は鎔融すると空気中の酸素を溶かし込み、凝固時にこれを放出して花が咲くように痘痕になるからである』。『このような最上級の銀地金は、1.1倍の慶長丁銀でもって買い入れられたため、一割入れと呼ばれた。慶長丁銀は銀を80%含有するため、1.1倍であれば0.8×1.1=0.88となり、この12%分が銀座の鋳造手数料などに相当した』。『90.91%の銀を含有する地金は0.9091×1.1=1.00となり、同質量の慶長丁銀で買い入れられるため、釣替(つりかえ)と呼ばれ』、『85%の銀を含有する地金であれば、0.85×1.1=0.935となり、六分五厘引きとなった』。『「明和諸国灰吹銀寄」による各銀山より山出しされた灰吹銀の品位の例を挙げると、津軽銀は三分引き(88%)、院内銀山の秋田銀は二分入れ(93%)、佐渡印銀は一割入れ(上銀)、因幡銀は五分引き(86%)、雲州銀は一割引き(82%)となっている』(原文の書名の『 』を「 」に変えた。以下同じ)。『公儀灰吹銀の場合では、「官中秘策」にある銀座の書上の記述には佐渡、但馬の御銀は100貫につき銅20貫加え、石見御銀は100貫目につき銅22貫を加え丁銀を吹立たとあり』、『計算上では佐渡、但馬の灰吹銀は銀含有率96.0%、石見の灰吹銀は97.6%ということになる』。
・「歩判銀」一分判金のこと。一分金(いちぶきん)とも。金貨の一種。注意すべきは「一分銀」とは違うことである。一分銀はずっと後、幕末に登場する天保一分銀以降の、当該同類銀貨の呼称である。以下、ウィキの「一分金」より一分、じゃない、一部引用する(記号の一部を変更した)。『金座などで用いられた公式の名称は一分判(いちぶばん)であり』、『「三貨図彙」には一歩判と記載されている。一方「金銀図録」および「大日本貨幣史」などの古銭書には一分判金/壹分判金(いちぶばんきん)という名称で収録されており、貨幣収集界では「一分判金」の名称が広く用いられる。また天保8年(1837年)の一分銀発行以降はこれと区別するため「一分金」の名称が普及するようになった』。『形状は長方形。表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、中部に「一分」の文字、下部に五三の桐紋が刻印されている。一方、裏面には「光次」の署名と花押が刻印されている。これは鋳造を請け負っていた金座の後藤光次の印である。なお、鋳造年代・種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されている』。『額面は1分。その貨幣価値は1/4両に相当し、また4朱に相当する計数貨幣である。江戸時代を通じて常に小判と伴に鋳造され、品位(金の純度)は同時代に発行された小判金と同じで、量目(重量)は、ちょうど小判金の1/4であり、小判金とともに基軸通貨として流通した』。『江戸期の鋳造量は、小判金と一分判金を合わせた総量を「両」の単位をもって記録されており、本位貨幣的性格が強い』。『これに対し、一朱判金、二朱判金、二分判金は、純金量が額面に比して少ないことから補助貨幣(名目貨幣)の性格が強かった(ただし、元禄期に発行された元禄二朱判金は、一分判金と同様に本位貨幣的である)。京師より西の西日本では俗称「小粒」といえば豆板銀を指したが、東日本ではこのような角型の小額金貨を指した』。『慶長6年(1601年)に初めて発行され、以後、万延元年(1860年)までに10種類鋳造されたが、幕府および市場の経済事情により時代ごとに品位・量目が小判金と同様に改定されている。また、江戸時代後期には、一分金と等価の額面表記銀貨、一分銀が発行されて以降、一分金の発行高は激減した』。「銀」という本話の表記に疑問を持つ向きもあろうが、「銀」は銀貨以外に、広義の錢(ぜに)の意でもあるから、言い立てるには及ばないと考えてよいように思われる。
・「樞機」「枢」は戸の枢(くるる:戸を閉めるための戸の桟から敷居に差し込む止め木又はその仕掛け。おとし。)、「機」は石弓の引き金で、物事の最も大切な部分。要め。要所。肝要。枢要。
・「是國寶の冥罰も蒙りなん」の「ん」は婉曲の助動詞「む」である。
■やぶちゃん現代語訳
金銀に就いての二つの議論の事
ある人曰く、
「……金銀の、世に流通するその量たるや甚だ膨大なものにて御座るが、その金貨銀貨鋳造の成り立ちを慮るならば――則ち、数千丈に地中を穿ち、人々が千辛万苦の血の小便(しょんべん)を流して掘り取りて、或いは砕いて粉と成し、或いは揺り分け選り分け、また、火にて吹き立て、吹き分けて、漸っと筋金や灰吹銀という物と成る。それをまた、金座銀座にて吹き溶かして小判や一分判金とは成すので御座る。――この鉱石採掘の最初より金貨銀貨出来上がる迄、どれほどの手間、労力が消費されることであろう、それはもう、想像を絶するものにて御座ろうぞ。さすれば一分、または一両の金を使うにしても、ほいほいと容易く使うべきものにては、これ、御座ない。心してその粒粒辛苦を思うべしじゃ。……」
と。
尤もな意見で御座る。
また、ある人曰く、
「……金銀は成り立ちは甚だ多くの労力を費やして、漸っと金貨銀貨と成り広く世間に流通するようになる物にて御座る。さればこそ、このような世の宝はビタ一文なりとも無駄に貯え置いてよいはず、これ、御座ない。――青砥藤綱の故事にもある如く、あたら死に金とせず――十全に使い廻し使い廻しし、更に広う広う世に流通させることこそ、これ、良きことにて御座る。……」
これもまた、尤もな意見で御座る。
では、さても――何れを善とし、いずれを非とすべきで御座ろう。
まずは前者への反論を致す。
その、金銀成立の労苦を知り、それを尊崇し大切に致すべしという、その考え方、これは基本的には正しい――しかし乍ら、その主張の視線は、ただ金銀が入手し難い貴金属であること、金貨銀貨が容易く出来ざる物であるということ、それのみに向けられたものであり――世の中にとって欠くべからざる肝心なる流通経済ということ、またその身の地位家柄及び人としての世に於ける役分とは何かといった、何よりも肝要なる人倫の道を顧みることなく――一金一銭を惜しみ、親族知人の困窮の難儀をも何処吹く風と、金銭を貯え、己れのみの衣食住の豊かなればよしとて、人の道に背いて御座るような魂の賤しい者――これ、人でなしの守銭奴、とも言うべき輩である。――
さて、翻って後者への反論に移ろう。
その、世の枢要とも言える流通経済の円滑発展を第一に図るべしという、その考え方、これは基本的には正しい――とは言え、私利私欲に奢り、あたら貴重な千金を惜しむことなく――湯水下痢便を垂れ流す如くに酒色に使い捨つるような輩――これ、国の宝たる金銀を蔑(ないがし)ろにする人非人として、必ずや、天罰を蒙るものである。――世の中には、武士でありながら、武具を売って色欲に注ぎ込み、商人でありながら、升や天秤を売り払って酒代とし、農民でありながら、農具を質入して奢侈なる服を着て酔うておる愚かな類いも、これ、少なくはない。――
以上、金銭なるものに対し、心得ておくべきと、私の思うておることなれば、ここに記しおくものである。
「耳嚢 巻之三」に「惡業その手段も一工夫ある事」を収載した。
*
惡業その手段も一工夫ある事
佐州銀山敷内の水替として、明和の頃より江戸表にて被召捕し無罪の無宿を遣れる事也。其内大坂吉兵衞といへるありしが、元來大坂者にて巧(たくま)しき者にて用にも立ける故、一旦は水替の部屋頭に成りしが、彼者佐州相川町の一向宗の寺院へ來りて、我等事代々一向宗なれど、水替死失の節取捨の寺院は眞言宗にて、上の御極はいたしかた爲けれど、生涯の菩提先租の吊(とむら)ひ等は御寺にて勤給はる樣相歎きければ、尤の事とて他事なくあいしらひしに、時々の附屆も分限不相應になしてよろづつゞまやか也ければ、彼和尚のゆかりの町家抔へも吹聽なし、宗旨深切の心より彼旦家(だんか)ゆかりの町家にても他事なくしけるに、右寺并(ならびに)ゆかりの町家子供の祝ひなど有折からも厚く禮物(れいもつ)など施しける故、彌々奇特に思ひけるに、或る年の暮何か入用の由にて錢五六十貫文も借用を申ければ借遣しけるに、限りに至らずして返濟などなしぬる事一兩度成ければ、吉兵衞は氣遣ひなしとて、其後才覺賴みける節も兩家にては相應に調へ渡しけるに、一兩年に積て四五百貫文も借ける上、其後は絶て返さゞりし。不屆と思へど、元より水替躰(てい)のものに證文もなく貸し遣ける故、願出る事もならず、無念をこらへ過しと聞し。元來の惡黨には其心得も有べき事也と、佐州在勤の折から人の咄しけるを聞ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。
・「佐州」佐渡国。
・「水替」鉱山の坑道内に溜まった水を、釣瓶(つるべ)・桶・木製手動ポンプなどを用いて外部に排出する作業。これに従事する労働者を水替人足と呼んだ。刑罰の一部として犯罪者が使役された。この佐渡のケースが最も知られる。以下、ウィキの「水替人足」から一部引用しておく。『佐渡金山へ水替人足が送られるようになったのは安永6年(1777年)のことで』、『天明の大飢饉など、折からの政情不安により発生した無宿者が大量に江戸周辺に流入し、様々な凶悪犯罪を犯すようになった。その予防対策として、懲罰としての意味合いや将軍のお膝元である江戸浄化のため、犯罪者の予備軍になりえる無宿者を捕らえて佐渡島の佐渡金山に送り、彼らを人足として使役しようと』したものであった。『発案者は勘定奉行の石谷清昌(元佐渡奉行)』で、佐渡奉行は治安が悪化するといって反対したが、半ば強引に押し切る形で無宿者が佐渡島に送られることになり、毎年数十人が送られた』とある。その当時の反対した佐渡奉行というのは高尾孫兵衛信憙(のぶよし:在任期間は安永2(1773)年~安永6(1777)年)と依田十郎兵衛政恒(在任期間は安永4(1775)年~安永7(1778)年)の何れか若しくは両者である。因みに、根岸が佐渡奉行になったのはその7年後の天明4(1784)年3月のことであった(後、天明7(1787)年勘定奉行に栄転)。『当地の佐渡では遠島の刑を受けた流人(「島流し」)と区別するため(佐渡への遠島は元禄13年(1700年)に廃止されている)、水替人足は「島送り」と呼ばれた』。『当初は無宿である者のみを送ったが、天明8年(1788年)には敲や入墨の刑に処されたが身元保証人がいない者、文化2年(1805年)には人足寄場での行いが悪い者、追放刑を受けても改悛する姿勢が見えない者まで送られるようになった』。『犯罪者の更生という目的もあった(作業に応じて小遣銭が支給され、改悛した者は釈放された。佃島の人足寄場とおなじく、囚徒に一種の職をあたえたから、改悟すれば些少の貯蓄を得て年を経て郷里にかえることをゆるされた)が、水替は過酷な重労働であり、3年以上は生存できないといわれるほど酷使された。そのため逃亡する者が後を絶たず、犯罪者の隔離施設としても、矯正施設としても十分な役割を果たすことが出来なかった』とある。『島においてさらに犯罪のあったときは鉱穴に禁錮されたが、これは敷内追込といい、また島から逃亡した者は死罪であった』とある。また、佐渡関連の私の御用達ブログである『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」』の「水替」の記載には、『地底のいちばん深いところでの作業なので、坑内労働ではもっとも難儀なものとされた。坑内は絶え間なく地下水がわいて出る。水は川となって坑道を流れ、豪雨ともなれば地上の洪水が坑内に流れこんで、人が坑道もろとも埋まることもあった。世界のどこの鉱山も、開発に当って直面する第一の仕事が水との闘いとされ、奥村正二氏は、「産業革命の端緒となった蒸気機関の発明も、実は鉱山の地下水汲上用ポンプの動力として生まれている」(「火縄銃から黒船まで」)と書いて、鉱山と水との関係に注意している。排水法でもっとも原始的で一般的なのが、手操(てぐり)水替といって「つるべ」(釣瓶)によるくみあげだ。少し進んだ方法は、家庭の車井戸と同じ仕組みで、井車を坑内の上部に仕掛けて、両端の綱につけた二つの釣瓶でくみ上げた。これを「車引き」といい、車の滑りを利用したものだ。坑内は広さが限られていて、細工物では取付けが難しい上に、故障が多いためである。細工物(器具)で慶長年間から使われたのは「寸方樋」(すっぽんどい)で、これは木製のピストン・ポンプである。鉱山の絵巻物にも見えている。つぎに西洋式の「水上輪」が承応二年(一六五三)以降、幕末まで使用される。もっとも精良なポンプだった。天明二年(一七八二)になってオランダ水突道具の「フランスカホイ」が、初めて青盤坑内で用いられる。老中田沼氏の腹心だった勘定奉行松本伊豆守が所持していたのを、試みに佐渡に運んで使ったものだ。九州大学工学部所蔵の「金銀山敷岡稼方図」にも実物が描かれているが、近年まで島内各地でも使われていた、天秤式手押消防ポンプとほぼ同じものだった。水上輪と同様に鉱山のポンプが、やがて農家に灌漑用または消防用として普及した事例の一つとなる』とある。根岸が佐渡奉行になったのは天明4(1784)年3月であるから既にフランスカホイが使用されている。何時もながら、ガシマさんは強い味方!
・「明和江戸表にて被召捕し無罪の無宿を遣れる事」明和年間は西暦1764年から1772年で、安永年間(1772から1781年)。前注の安永6(1777)年からは、やや前にずれている。根岸の勘違いか。「無宿」とは宗門人別改帳から除籍された者のこと。以下、ウィキの「無宿」には、『江戸時代は連座の制度があったため、その累が及ぶことを恐れた親族から不行跡を理由に勘当された町人、軽罪を犯して追放刑を受けた者もいたが、多くは天明の大飢饉や江戸幕府の重商主義政策による農業の破綻により、農村で生活を営むことが不可能になった百姓だった』とする。『村や町から出て一定期間を経ると、人別帳から名前が除外されるため、無宿は「帳外」(ちょうはずれ)とも呼ばれた』。『田沼意次が幕政に関与した天明年間には折からの政情不安により無宿が大量に江戸周辺に流入し、様々な凶悪犯罪を犯すようになったため、それらを防ぐため、幕府は様々な政策を講じることにな』り、この無罪の無宿の水替人足送りというのもその一つということになる。『犯罪を犯し、捕縛された無宿は「武州無宿権兵衛」、「上州無宿次郎吉」等、出身地を冠せられて呼ばれた』とある。
・「大坂吉兵衞」前注の最後の記述から、これは大坂無宿吉兵衞で、彼が実は無罪の無宿ではなく、実際の未遂或いは既遂の実行行為を伴う犯罪を犯した罪人であることが分かる。現代語訳ではそう補正してみた。
・「巧しき」これは「逞しき」に単に「巧」の字を当てただけのものではあるまい。所謂、「巧む」で、企てる、企(たくら)むの小利口・悪知恵のニュアンスを意識して用いている。「小悧巧な性質(たち)」と現代語訳してみた。
・「相川町」現在、佐渡市相川。旧新潟県佐渡郡相川町(あいかわまち)。佐渡島の北西の日本海に面した海岸にそって細長く位置していた。内陸は大佐渡山地で海岸線近くまで山が迫っている。南端部分が比較的なだらかな地形となっており、当時は佐渡金山(相川金山)と佐渡奉行所が置かれた佐渡国の中心であった。
・「吊ひ」「吊」には「弔」の俗字としての用法がある。
・「つゞまやか也」出しゃばることなく、要領を得ているさまを言う形容動詞。
・「あいしらひ」正しくは「あひしらひ」で、付き合う、もてなすの意。元は「あへしらふ」で後の「あしらふ」現代語「あしらう」の原形である。
・「旦家」檀家。
・「五六十貫文」一貫文(謂いは1000文であるが実際には960文)で、これを仮に現在の1万円から1万5000円程度と安めに換算しても、これだけでも50万円~90万円前後となり、最後に踏み倒した「四五百貫文」に至っては実に400万円から750万円という法外な金額になる。そもそもそんな大金何に使ったのだろう?――もしや、何やらん、非合法的な闇の取引なんぞが佐渡にて横行していた臭いさえしたりしてくるが――それよりやっぱり、信用が置けるからと言って、無宿咎人にそこまで貸す方が馬鹿である。しかし話柄としては、これくらいでなけりゃ、我々も驚かないといえば驚かない話ではある。
■やぶちゃん現代語訳
悪業にもその手段に一工夫ある事
佐渡銀山坑内の水替えとして、明和の頃より、水替人足として、江戸表で召し捕られた無罪の無宿人が遣わされておったが、その中に――更に咎を犯して島送りとなった――大阪無宿吉兵衛という者が御座った。
こ奴、大阪生れにて、如何にも大阪人らしい小悧巧な性質(たち)にて、いろいろ役にも立つ男であった故――無宿であるばかりでなく真正の罪人ではあったものの――ある時、一度、水替の人足部屋の頭ともなったことがあった。
ある日のこと、この男、相川町にある、とある一向宗の寺院へ参ると、
「……我らが家、代々一向宗なれど……ここにては水替作業にて死にし者、これ、真言宗の寺院に取り捨てらるることと相成って御座る。……お上の御取り決めとなれば、致し方御座らぬこととは言い乍ら……やはり……何と言うても、せめてもの生涯の菩提や先祖の弔い、さまざまなる死後の勤行なんどは……どうか、このお寺にて、お願い仕りとう存ずればこそ……。」
と、如何にも殊勝且つ悲痛に懇請致いた。
されば、それを聞いた当山住持も不憫に思い、
「それはそれは、如何にも尤もなることじゃ。」
と、菩提供養の件、快く受け、その後、この吉兵衛とも懇意になって御座った。
この吉兵衛、時節の付け届けなんどにも、無宿咎人とは思えぬ分不相応なる物をかの住持に贈り、万事が万事、出しゃばることとてなく、要領を得て付き合(お)うて御座ったれば、かの和尚、知れる町屋の者たちなんどにも、
「咎人ながら、誠(まっこと)殊勝な者じゃ。」
と吹聴して廻る。
これより吉兵衛は、かの住持の寺の檀家やら、寺僧に所縁(ゆかり)のある町家の者どもとも親しゅうするようになった。
さてもそれから、寺は勿論のこと、その縁ある町家にても子供の祝いなんどある折りにても、吉兵衛より厚き祝いの品々なんどが施されて御座ったによって、いよいよ、『信心厚き好き人なり』との噂、これ、広がって御座った。
ある年の暮れ、この吉兵衛、懇意に致して御座った、かの町家の一つに訪ね来て、何やらん物入りの由にて、銭五、六十貫文をも借用申し入れて参った。高額なれど、普段の信用もあれば、二つ返事で貸してやったところ、吉兵衛は返済の期日に至る前に返して参った。
かようなことが何度か御座ったれば、
「吉兵衛は信用の置ける男じゃて。」
とますます安心致いて、その後(のち)も度々借金を請うて参れば、言うがままに貸し渡いて御座った。
……ところが……
……気がつけば、その貸した金、一、二年で積もり積もって四、五百貫文にも膨れ上がって御座った。……
……ところが……
……そこに至るまで気がつかぬも愚かなれど……
……吉兵衛の奴(きゃつ)、それっきり絶えて、ビタ一文……
……返しては御座らなんだのじゃった。……
不届きなることとは思うたものの、気がつけば、もとより水替え人足の如き輩相手の上、迂闊にも信用貸しにて、証文なんどを交わすこともなしに貸し与えてきてしまったれば、奉行所へ訴え出ることも。これならず、ただただ無念を堪え、ただただ泣き寝入り致いた、と聞いた。
「……元来の悪党には……相応の猜疑の心得にて臨まねば、これ、なりません。……」
とは、佐渡奉行在勤の折り、聞いた話で御座る。
炎帝や地煞と堕して曼珠沙華
*
「地煞」は「ちさつ」と読む。意味? 自分で調べてな――僕は今日、冷たいんだ――
宇宙即ち世界を語り尽くすことを目指した人間は自身がちっぽけな生物種に過ぎないということを自覚し乍らもそれを征服しようとした。
この命題が偽であることも分からない人間は宗教を創始することで有象無象の神と言う外化した存在を措定することで解決しようとした。
――何と言う、愚劣さ加減!――
その後人類はそれによって自己解決が図られぬことを悟って有象無象の思想を打ち立てた。
――何と言う、愚劣さ加減!――
宗教は思想であり、思想は宗教である。
この命題は真である。
従って我々人類は完膚なきまでに愚劣である。
その存在証明(レゾン・デトール)を分かっていたのは――
老子と荘子――
そうして禅宗の殺された中国の幾たりかの名もなき僧――
そして
――多分、近代ではヴィトゲンシュタインだけであった。
芥川龍之介の書簡を読んでいるうちに新しい発見をし、「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」の「柳田國男氏に」の一首に注を増補追加した。以下に「柳田國男氏に」全体を示す。追加したのは後方の注の最後の書簡部分である。
*
柳田國男氏に
君が文を鐵箒に見て思へらく吾(あ)もまた「けちな惡人」なるらし
[やぶちゃん注:「鐵箒」は「てつさう(てっそう)」と読む。当時の『東京朝日新聞』に最初に作られた投稿欄の名前である。当初は記者が書くコラムとして大正8(1916)年に始まったが、翌大正9(1917)年には一般読者投稿も採用し始めた。現在の「声」に相当するものであるが、ネット上で該当欄の画像で形態を見、また内容を読んでみると、寧ろ現在の記者が書く「天声人語」と同じと言った方がいい、内容的にも高度に優れたものであることが分かる(以上は2000年度立命館大学産業社会学部朝日新聞協力講座ニュースペーパーリテラシー第9回「新聞との関わり」の「声」編集長の北村英雄氏の2000年11月30日の講演記事を参照した)。「けちな惡人」という柳田の該当記事は大正15(1926)年12月2日付『東京朝日新聞』の「鐵箒欄」に掲載された記事の標題である。柳田國男の新版全集には収録されているが、残念なことに私は旧版を元に編集された文庫版しか所持しておらず、職場の図書館の所蔵も旧全集で当該評論を読むことは出来なかった。その内、読む機会があれば芥川龍之介が「けちな惡人なるらし」と言った真意を究明すべく、その梗概を提示しようと思っている。]
しかはあれ「山の人生」はもとめ來ついまもよみ居り電燈のもとに
[やぶちゃん注:「山の人生」は大正15(1926)年2月に郷土研究社から刊行された柳田民俗学の核心に触れる記念碑的著作で、「遠野物語」に刺激された彼が、山中異界へと本格的に旅立った最初の作品である。なお、大正15(1926)年12月2日附柳田國男宛書簡(葉書・鵠沼から発信)にこのカタカナ表記のこの二句(「吾」を「ア」とする点が異なる)を含む三首が載っているので以下に示す。
君ガ文ヲ鐵箒ニ見テ思ヘラクアモマタ「ケチナ惡人」ナルラシ
シカハアレ「山ノ人生」ハモトメ來ツイマモヨミ居リ電燈ノモトニ
足ビキノ山ヲ愛(カナ)シト世ノ中ヲ憂シト住ミケン山男アハレ
十二月二日夜半
歌トハオ思ヒ下サルマジク候
芥川龍之介よ、悪いな、歌として採るよ。]
芥川龍之介の書簡を読んでいるうちに新しい発見をし、「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」の「越びと 旋頭歌二十五首」の一首に注を増補追加した。以下に示す。
これは「無知も甚だしいエッセイ池内紀「作家の生きかた」への義憤が芥川龍之介の真理を導くというパラドクス」で紹介した池内氏が片山廣子の夫と勘違いした人物である。そちらにもこれを追加配置した。
腹立たし身と語れる醫者の笑顏(ゑがほ)は。
馬じもの嘶(いば)ひわらへる醫者の齒ぐきは。
[やぶちゃん注:「馬じもの」の「じもの」は接尾語で名詞に付いて「~のようなもの」という意を表す。「あたかも馬のように」の意。この人物は恐らく岩波版旧全集書簡番号一三六二の大正14(1915)年8月29日附塚本八洲(妻文の弟。結核で長い闘病生活を送った)宛書簡に登場する後者の歯科医であろう。以下にその軽井沢からの書簡の一部を示す。
目下同宿中の醫學博士が一人ゐますが、この人も胸を惡くしてゐたさうです。勿論いまはぴんぴんしてゐます。この人、この間「馬をさへながむる雪のあしたかな」と云ふ芭蕉の句碑を見て(この句碑は輕井澤の宿(シユク)のはづれに立つてゐます)「馬をさへ」とは「馬を抑へることですか?」と言つてゐました。氣樂ですね。しかし中々品の好い紳士です。それからここに別荘を持つてゐる人に赤坂邊の齒醫者がゐます。この人も惡人ではありませんが、精力過剰らしい顏をした、ブルドツクに近い豪傑です。これが大の輕井澤通(ツウ)で、頻りに僕に秋までゐて月を見て行けと勧誘します。その揚句に曰、「どうでせう、芥川さん、山の月は陰氣で海の月は陽氣ぢやないでせうか?」僕曰、「さあ、陰氣な山の月は陰氣で陽氣な山の月は陽氣でせう。」齒醫者曰「海もさうですか?」僕曰「さう思ひますがね。」かう言ふ話ばかりしてゐれば長生をすること受合ひです。この人の堂々たる體格はその賜物かも知れません。僕はこの間この人に「あなたは煙草をやめて何をしても到底肥られる體ぢやありませんな。まあ精々お吸ひなさい」とつまらん煽動を受けました。
「惡人ではありませんが」と断っているが、如何にも生理的に不快な相手であることが髣髴としてくる音信で、本歌の「腹立たし」「馬じもの嘶ひわらへる醫者の齒ぐき」が美事にダブって来るように思われるのである。]
本トップ・ページに『父のアトリエ』を増築、父の書いた中でも出色の読物「落葉籠――昭和22(1947)年群馬県多野郡神流川流域縄文遺跡 調査行ドキュメント――日本考古学の「種蒔く人」酒詰仲男先生の思い出に」をPDFファイルにて公開した(リンクがうまく機能しないのでトップ・ページから宜しく)。
正式な題名は
☆1947年≪昭和22≫群馬県多野郡;神流川流域縄文遺跡調査行ドキュメント。
「日本考古学の種蒔く人」酒詰仲男先生を偲ぶ落葉籠≪編纂;藪野豊昭≫
である。
欺されたと思って読んでみて戴きたい。僕の父という手前味噌ではなく、一読者として、考古学に興味のない方でも文句なしに面白いと思われるはずである。
神流川上流鬼石の戦後風景も髣髴とし、そこに父の師として日本縄文研究の碩学にして真のフィールド・ワーカー酒詰仲男教授が、次に誰もが御存知の「ひょっこりひょうたん島」の人形劇団「ひとみ座」及びデフ・パペットシアター・ひとみ(聾者と聴者の上演グループ)創立者の一人にして財団法人現代人形劇センター理事長、日本児童演劇協会賞受賞者、日本芸能実演家団体協議会芸能文化問題研究委員会委員、国際人形劇連盟アジア・オセアニア委員、2003年には芸能功労者として表彰された知る人ぞ知る日本人形劇界の重鎮宇野小四郎が一緒に調査に出向く父の友人として登場する。
僕と同じで、最後は勝手な連想から脱線・増殖といった経路を辿って、更には口語俳句の推進者であった市川一男や、本邦の数少ない真のシュールレアリスト瀧口修造との出逢い、鮎釣りから生物多様性に繋がって新潮選書の「里という思想」で知られる立教大学大学院教授哲学者内山節までオール・スター・キャストが舞台に現れる。あなたを飽きさせないこと、請合う。
この話、すっごい好き! 面白くって、それでいて格好ええ~なあ! 映像で撮りたいなあ! 黒澤明なら、きっと「撮る!」って言ってくれると思う!
例によって本公開と差別化するために、注部分を割愛した。
――本話は「耳嚢」の「卷之三」の最後から二つ目の話。ということで、「耳嚢」の「卷之三」の全訳注をほぼ完了することが出来た。
*
古へは武邊別段の事
水野左近將監(しやうげん)の家曾祖父とやらん、至て武邊の人なりしが、茶事(ちやじ)を好みけるを、同志の人打寄て水野をこまらせなんとて、茶に相招きいづれも先へ集りてけるが、左近將監跡より來りて、例の通帶刀をとりにじり上りより數寄屋(すきや)へ入りしに、先座(せんざ)の客はいづれも帶劍にて左近將監がやうを見居たりければ、左近將監懷中より種が嶋の小筒を出して、火繩に火を付て座の側に置ける由。昔はかゝる出會にて有りしと也。
■やぶちゃん現代語訳
古えの武辺これまた格段にぶっ飛んでいる事
水野左近将監(しょうげん)忠鼎(ただかね)殿の曾祖父の逸話であるらしい。
この御仁、至って武辺勇猛なるお方で御座ったが、同時にまた、茶事(ちゃじ)をもお好みになった風流人でも御座った由。
ある時、彼の朋輩らがうち集うて、
「一つ、水野を困らせてみようではないか。」
と相談一決、水野大監物殿を茶席に招いておいて、彼らは皆、わざと早々先に茶室に入って御座った。
そこへ大監物殿、後から――とはいうものの時刻通りに――ゆるりと現れ、茶事作法に従(したご)うて帯刀をば外し、にじり口より茶室へ入った。
……と……
先座せる一同は――これが皆、腰に刀剣二領挿しのまま、彼をじろりとねめつけて御座った……
……ところが……
大監物殿は――これがまた、表情一つ変えることものう、徐ろに――懐から種子島の短筒を引き出だいて――「フッ!」――とやおら火繩に火を付け――己が着座致いたその傍らに、トン!――と置いた……
……昔は、如何なる折りにも、かかる心構えをなして御座った、という何やらんうきうきしてくる話では御座ろう?
「耳嚢 巻之三」に「大坂殿守廻祿番頭格言の事」を収載した記念に、僕の花押を即席で創ってみた。
僕の名前は「直史」で「ただし」と読むのであるが、この字は実は書判(花押)向きの字である事に気がついた。「直」はしばしば左側の8画目の縦線が省略されることがあり、「史」と共にほぼ左右対称であるからである。
取り敢えず草書辞典を調べて、複数の草書(崩し字)を見て最も気に入ったもの――縦方向に圧縮して図案化した際に格好いいと想像される字――を抜き出し(これを怠るとどんな達人でも読めない芸能人のサインや子供の落書きとしか思われないものになってしまうから要注意!)、何回か筆で書いてみて、バランスや圧縮度、重ね方等を考えて――さあ! あなたもやって見ては? 花押なんて――と僕も思ってたんだけど――知ってた? 内閣閣僚は全員が今も花押を持ってるんだってさ!
「耳嚢 巻之三」に「大坂殿守廻祿番頭格言の事」を収載した。
*
大坂殿守廻祿番頭格言の事
享保の始にや、大坂殿守(てんしゆ)雷火にて燒し事あり。平生火災稀成(まれなる)土地、上下騒動大かたならず。江戸表への注進状出來(しゆつたい)して、御城代御城番番頭其外一同花押してのべられけるに、大番頭勤たりし岡部何某、いかにも花押(くわあふ)の認方丁寧にて良(やや)暫く懸りし故、御城代も退屈やあらんと、傍の同役御城番など、隨分宜く相見へ候間、最早御手入にも及まじ、急變の事故急ぎ調印然るべしと有ければ、彼人答て、廻碌の注進一刻半刻遲かりしとて害ある事候はず、かゝる時節書判(かきはん)其外書面等に麁末(そまつ)あらば、番頭其外狼狽たるものかなと、江戸表にて御氣遣ひ思召(おぼしめさ)るべしと、聊(いささか)とり合(あは)ず、心靜に調印有りしと也。尤の事と人みな感じける。
□やぶちゃん注
○前項連関:京阪事蹟で連関。これも好きだ。焼け焦げた臭いのする中、平然とゆっくりまったり花押を描く岡部……一筆引いては、少し顔を離して、ためつすがめつ……既に引いた箇所に後付けなんど致す……いいねえ! 見えるようだ!
・「殿守」天守閣。
・「廻祿」底本ではこの標題の「廻」及び本文に現れる「廻祿」の、それぞれの右に『(回)』とある。回禄とは元来、中国の火の神の名で、転じて火災のことを言う語である。
・「番頭」ここでは文中の「大番頭」のこと。大番は旗本を編制した要地警護部隊の名で、二条城および大坂城を、それぞれに二組一年交代で守備した。大番頭はその長。
・「享保の始」とあるが、大阪城天守閣は寛文5(1665)年の落雷によって火災で焼失して後、天守閣は復元されていない(FM長野のブログ記事「小池さえ子おすすめ大阪城!」の記載による)(寛文(1660~1673)は12年まであるから「始」というのは誤りとはいえない)。ということは享保(1716~1736)の初め頃には既に消失していたことになり、話が合わない。根岸の記憶違いである。訳では「寛文」と正した。底本鈴木氏注は、やはりこれを誤りとし、『寛文五年正月二日。天守の他に番士の詰所、糒蔵なども焼けた。この注進は六日に江戸へ到着している(徳川実記)。当時の大坂城代は青山宗俊で、この際の処置がよかったというので賞せられた』という事実を示しておられる。「糒蔵」は「ほしいぐら/ほしいいぐらと読み、戦時の保存食を保管した蔵。「青山宗俊」(むねとし 慶長9(1604)年~延宝7(1679)年)は信濃小諸藩主・大坂城代から遠江浜松藩初代藩主。青山家宗家3代。ウィキの「青山宗俊」によれば、『慶長9年(1604年)、徳川氏譜代の重臣・青山忠俊(武蔵岩槻藩主・上総大多喜藩主)の長男として生まれる。元和7年(1621年)、従五位下・因幡守に叙位・任官する。元和9年(1623年)に父が第3代将軍・徳川家光の勘気を受けて蟄居になったとき、父と共に相模高座郡溝郷に蟄居した』。『寛永11年(1634年)、家光から許されて再出仕する。寛永15年(1638年)12月1日に書院番頭に任じられ、武蔵・相模国内で3000石を与えられて旗本となる。寛永21年(1644年)5月23日に大番頭に任じられる。正保5年(1648年)閏1月19日、信濃小諸において2万7000石を加増され、合計3万石の大名となり、信濃小諸藩主となる。寛文2年(1662年)3月29日、大坂城代に任じられたため、所領を2万石加増されて合計5万石の大名となった上で、所領を摂津・河内・和泉・遠江・相模・武蔵などに移され、移封となる』。『寛文9年(1669年)12月26日、従四位下に昇叙する。延宝6年(1678年)に大坂城代を辞職し、8月18日に浜松藩に移封となる。延宝7年(1679年)2月15日に死去。享年76。』とある。それにしても鈴木先生の注は痒いところに手が届くばかりでなく、そこに抗アレルギー剤さえも塗ってくれる優れものである。
・「岡部何某」諸注不詳とする。寛文年間の誤りである以上、この姓自身も怪しい気がする。
・「花押」正式署名の代わり若しくはその記載者の正当な証しとして附帯して使用された一種の記号的符号的署名。書判(かきはん)。以下、ウィキの「花押」より一部引用する。『元々は、文書へ自らの名を普通に自署していたものが、署名者本人と他者とを明確に区別するため、次第に自署が図案化・文様化していき、特殊な形状を持つ花押が生まれた。花押は、主に東アジアの漢字文化圏に見られる。中国の唐(8世紀ごろ)において発生したと考えられており、日本では平安時代中期(10世紀ごろ)から使用され始め、判(はん)、書判(かきはん)などとも呼ばれ、江戸時代まで盛んに用いられた』。『日本では、初めは名を楷書体で自署したが、次第に草書体にくずした署名(草名(そうみょう)という)となり、それを極端に形様化したものを花押と呼んだ。日本の花押の最古例は、10世紀中葉ごろに求められるが、この時期は草名体のものが多い。11世紀に入ると、実名2字の部分(偏や旁など)を組み合わせて図案化した二合体が生まれた。また、同時期に、実名のうち1字だけを図案化した一字体も散見されるようになった。いずれの場合でも、花押が自署の代用であることを踏まえて、実名をもとにして作成されることが原則であった。なお、当初は貴族社会に生まれた花押だったが、11世紀後期ごろから、庶民の文書(田地売券など)にも花押が現れ始めた。当時の庶民の花押の特徴は、実名と花押を併記する点にあった(花押は実名の代用であるから、本来なら花押のみで十分である)』。『鎌倉時代以降、武士による文書発給が格段に増加したことに伴い、武士の花押の用例も激増した。そのため、貴族のものとは異なる、武士特有の花押の形状・署記方法が生まれた。これを武家様(ぶけよう)といい、貴族の花押の様式を公家様(くげよう)という。本来、実名をもとに作る花押であるが、鎌倉期以降の武士には、実名とは関係なく父祖や主君の花押を模倣する傾向があった。もう一つの武士花押の特徴として、平安期の庶民慣習を受け継ぎ、実名と花押を併記していたことが挙げられる。武士は右筆に文書を作成させ、自らは花押のみを記すことが通例となっていた。そのため、文書の真偽を判定する場合、公家法では筆跡照合が重視されたのに対し、武家法では花押の照合が重要とされた』。『戦国時代になると、花押の様式が著しく多様化した。必ずしも、実名をもとに花押が作成されなくなっており、織田信長の「麟」字花押や羽柴秀吉(豊臣秀吉)の「悉」字花押』(これは『一説には、「秀吉」を音読みにして「しゅうきつ」とし、その最初と最後の一文字を合わせて「しつ」に由来するといわれている』との注記あり)、『伊達政宗の鳥(セキレイ)を図案化した花押などの例が見られる。家督を継いだ子が、父の花押を引き継ぐ例も多くあり、花押が自署という役割だけでなく、特定の地位を象徴する役割も担い始めていたと考えられている。花押を版刻したものを墨で押印する花押型(かおうがた)は、鎌倉期から見られるが、戦国期になって広く使用されるようになり、江戸期にはさらに普及した。この花押型の普及は、花押が印章と同じように用いられ始めたことを示している。これを花押の印章化という』。『江戸時代には、花押の使用例が少なくなり、印鑑の使用例が増加していった。特に百姓層では、江戸中期ごろから花押が見られなくなり、もっぱら印鑑が用いられるようになった』。『1873年(明治6年)には、実印のない証書は裁判上の証拠にならない旨の太政官布告が発せられた。花押が禁止されたわけではないものの、ほぼ姿を消し、印鑑が取って代わることとなった。その後、押印を要求する文書については必要に応じて法定され、対象外の文書であっても押印の有無自体は文書の真正の証明に関する問題として扱われることに伴い、上記太政官布告は失効した。しかし、花押に署名としての効力はあり、押印を要する文書についても花押を押印の一種として認めるべき旨の見解(自筆証書遺言に要求される押印など)が現れるようになった』。『また、政府閣議における閣僚署名は、明治以降現在も、花押で行うことが慣習となっている。なお、多くの閣僚は閣議における署名以外では花押を使うことは少ないため、閣僚就任とともに花押を用意しているケースが多い』。『21世紀の日本では、パスポートやクレジットカードの署名、企業での稟議、官公庁での決裁などに花押が用いられることがあるが、印章捺印の方が早くて簡便である為非常に稀である』(閣僚が花押を持っているというのは初耳であった)。江戸中期の故実家伊勢貞丈(いせさだたけ)は、花押を5種類に分類しており(『押字考』)、後世の研究家も概ねこの5分類を踏襲している。5分類は、草名体、二合体、一字体、別用体、明朝体である』。『別用体とは、文字ではなく絵などを図案化したものをいう』。『明朝体とは、上下に並行した横線を2本書き、中間に図案を入れたものをいう。明朝体は、明の太祖がこの形式の花押を用いたことに由来するといわれ、徳川家康が採用したことから徳川将軍に代々継承され、江戸時代の花押の基本形となり、徳川判とも呼ばれた』とあり、これら以外にも公家様・武家様・『禅僧様(鎌倉期に中国から来日した禅僧が用いた様式。直線や丸など形象化されたものが多い。)また、ルーツとされる『中国の花押の起源は、文献(高似孫『緯略』)によると南北朝時代の斉にまで遡ることができる(秦や晋の時代とする説もある)。唐代には韋陟の走り書きの署名があまりに流麗であったので「五朶雲(ごだうん)」と称揚された(『唐書』韋陟伝)。この署名は明らかに花押のことである。中国では現存する古文書が少ないこともあり、花押の実態は必ずしも明かではない。宋代の文書に記されている花押は、直線や丸を組み合わせた比較的簡単なものであり、日本の禅僧様もこの形式である。また、明の太祖が用いたとされる明朝体は、日本に伝わり、江戸時代の花押の主流をなした』。『なお、五代の頃より花押を印章にした花押印が使われ始め、宋代には花押印そのものを押字あるいは押と呼称した。元朝では支配民族であるモンゴル人官吏の間でもてはやされたが、これを特に元押という。モンゴル人官吏は漢字に馴染めなかったようである(陶宗儀『南村輟耕録』)。花押印は明清まで続いたが次第に使われなくなった』とある。確かに今のモンゴル語の文字の方を見ると、よっぽど花押みたようだ。
・「良(やや)」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
大阪城天守閣火災時の大番頭名言の事
寛文の始めであったか、大阪城天守閣に落雷出火、天守閣は丸焼けになるという事態が出来(しゅったい)して御座った。
天守閣という、平生、火災自体が稀れな特殊な場所柄で御座ったれば、文字通り上へ下へのてんやわんやの大騒ぎとなって御座った。
即座に江戸表へ、落雷による出火にて大阪城天守閣焼亡の旨、注進状に認(したた)めて早駆けにて言上致すことと相成り、御城代・御城番・大番頭その外一同、各々注進状に花押をして仕上げんとせしところ、大番頭を勤めて御座った岡部何某なる者、如何にも花押の認め方丁寧にして、彼のところでやや暫く署名に時間がかかって御座った。
御城代も焦っておられるに違いないと察した、傍らの同役大番頭の同僚や御城番らが、
「随分美事に仕上がれる書判とお見受け申す。最早、御手入れなさるにも及ぶまいぞ。急変の事ゆえ、急ぎ、お認めなされて早(はよ)う回さるるがよいぞ。」
と殊更に急かしたところ、かの岡部某答えて、
「――既に火災は鎮火致いて御座る。――その天守閣火災全焼の注進――一刻や半刻遅かったと致いても、これ、何の害あるはずも御座ない。――かゝる時こそ書判その他書面等に沮喪(そそう)あらば、『番頭その他の者、さぞや、うろたえ騒ぎ慌てふためいておるのであろう』なんどと、江戸表にては、お思い遊ばさるるに違い御座らぬ――」
と、急かしの言葉にも聊かとり合うことのう、落ち着いて書判致いたとの由。
いや、尤もなることと、城代を始めとしてその場の人々みな、感じ入って御座ったということで御座る。
言わねばならぬことだけを言って去ればよいのではなかったか――
俺の授業を聞かずに数学の勉強をしていたって――それはそれで、いいじゃないか――
俺の話を真剣に聴かない奴――
それはあいつばかりじゃあないんだ――疲れ切った同僚や愚劣な自己完結の世界に生きている管理職の中にだって腐るほどいるんだ――
俺は――
――でも
お前らを愛する――
では――さようなら!
……僕の……そうだ! 在りもしなかった『手風琴の思ひ出』に!……
「耳嚢 巻之三」に「天成自然の事」を収載した。
*
天成自然の事
天子の御位はいともかしこき御事、申もおろか也。何れの御代にやありし、御名代上京にて、天顏を拜し天杯頂戴の事ありしに、右御名代關東歸府の上、御用の趣言上相濟て申上られけるは、向後(きやうかう)京都の御名代には、御譜代の内よく/\其人を見て被仰付可然也、其趣意は天盃頂戴の折から、頻に人間ならぬ神威の難有さいわん方なし、若し外樣或ひは不義の心聊かもあらん者、禁裏より被仰付筋あらば、違背なく隨ひ奉る事あらんと覺ゆと申上られければ、上にも尤に思召けると也。右は板倉周防守(すはうのかみ)とも松平讚岐守とも聞しが、しかと覺へざれば爰に記し置ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。
・「天杯」底本は「天抔」で「抔」(など)とあるのだが、意味が通じない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「天盃」とあるから、これは底本の誤字で「天杯」であろう。本文をそのように訂した。天盃は宴席にて賜わるが、その場合、注がれた酒は他の杯に移して飲むのが礼である。
・「譜代」譜代大名。ウィキの「譜代大名」より一部引用しておく。『もともと「譜第(譜代)の臣」と言うように、数代にわたり主家に仕え(譜第/譜代)、家政にも関わってきた家臣のことをさす。主家との君臣関係が強く、主家滅亡時に離反すると、世間から激しく非難されることが多かった』。『譜代大名のはじまりは徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格を与えて徳川氏を支える藩屏としたことに由来する。それに対してそれ以外の家臣は徳川氏の直轄軍に編成されて後の旗本や御家人の元となった』。以下、「譜代大名の定義」が示されている。
1『徳川将軍家により取り立てられた大名のうち、親藩及び、外様大名と、その支藩(分家)を除いたもの』
2『関ヶ原の戦い以前より、徳川氏に臣従して取り立てられた大名』
3『幕府の要職に就任する資格のある大名』
とある。但し、『旗本が加増され大名となった場合や、陪臣出身の堀田氏・稲葉氏・柳沢氏・摂津有馬氏有馬氏倫系のように、幕府によって新たに取り立てられ大名になった場合は1の定義にあてはまり、譜代大名となる。一方で外様大名家からの分家や、立花宗茂・新庄直頼のように、改易された外様大名が再興した場合は外様となる。家康の男系子孫の建てた家は基本的に親藩とされ、譜代とは呼ばれなかった』。『一方、会津松平家や鷹司松平家のように譜代大名に定義されるべき家柄であっても、徳川家との血縁を考慮されて親藩となることもある。一方で、蜂須賀斉裕のように将軍の実子が養子となっても外様のままの場合もある。一方、御三家、御三卿の庶子を譜代大名が養子としても親藩にはならないが、親藩待遇となることがあった』。『また本来外様大名である家も、血縁関係や幕府への功績を考慮されて譜代扱いとなることもある。これを便宜上「願い譜代」「譜代各」「準譜代」など呼んでいる。脇坂氏・苗木遠山氏・戸沢氏・肥前有馬氏・堀氏堀直之家・相馬氏・加藤氏加藤嘉明家・秋田氏などがその例である』。『江戸城ではこれらの大名は家格により、「溜間」「帝鑑間」「雁間」「菊間広縁」(菊間縁頬)の各伺候席に詰めた』。『狭義の徳川家譜代は、代々松平家に仕えた家や、徳川家康に取り立てられた家を指す。これらの家は臣従した時期をさらに細分化して、『安祥譜代』、『岡崎譜代』、『駿河譜代』などと称され』、『特に最古参の安祥譜代は伺候席で厚遇され、ひとたび取り潰されても、またすぐに何らかの形で家名が再興されることが非常に多かった。但し、安祥譜代出身でも石川氏の石川康長・石川康勝は豊臣家に寝返った後に関ヶ原の合戦で東軍についたという経歴のため、外様大名とされた』。以下、譜代大名の役割について。『第一に譜代大名は、老中・若年寄をはじめとする幕閣の要職に就く資格があることである。幕府は将軍家の家政機関であると言う建て前上、幕閣の要職には、幕末及び越智松平家の例外を除き譜代大名以外からは、登用しない慣行が不文律として厳格に守られた。親藩出身者を幕府の役職に就任させたり、外様の大藩を政治顧問として、幕政に参与させないのが、徳川政権の大きな特徴でもある』『保科正之の4代将軍家綱の後見は、例外的だとする指摘もあるが、この後見も、何らかの幕府の役職に就任して行われたものではない(正之は大老またはきちんとした役職としての将軍後見役に任じられていたという説もある。しかしながら、この時点では保科家=後の会津松平家は親藩ではなく未だ譜代扱いなので、親藩大名が幕府要職につく例には当たらない)』。『もう一つの譜代大名の役割は、外様大名を監視することである。外様大名が置かれているときは、同じ国内にいる譜代大名は、参勤交代で、同時に江戸表には在府させず、必ず在所(国許)に残る譜代大名を置いた。もっとも、外様大名が「国持大名」で、一カ国の全てを知行しているときは、近隣の譜代大名や、親藩がこれに当たった』。『江戸幕府では、徳川家康の男系親族である十八松平の内、大名になった者は「親藩」ではなく「譜代大名」とする。十八松平とは家康の祖父である松平清康の時代までに分家したルーツを持つ十八家で』、『家康の異父弟の久松松平家は、言うまでもなく、親藩ではなく譜代大名である。徳川吉宗の孫の松平定信は、陸奥国白河藩の久松松平家に養子に出た者であるから、出自は親藩ではなく、譜代大名として、老中となり寛政の改革にあたった』。『久松松平家の中で、最も有力であった伊予国松山藩主と、伊勢国桑名藩主(一時、高田藩→白河藩)の家系は譜代大名ながら、両家は田安宗武の男子を養子とし、藩主として迎えたので、親藩待遇となった。その他の久松松平家の諸藩(<1.美濃国大垣藩→信濃国小諸藩→下野国那須藩→伊勢国長島藩、改易>・2.伊予国今治藩・3.下総国多古藩)は、譜代大名である』最後に「譜代大名の一覧」が示されているが、『松平氏以外の順番は『柳営秘鑑』に準じた』由但し書きがある。
《引用開始》
安祥譜代(7家)―酒井氏、大久保氏、本多氏、阿部氏、石川氏、青山氏、植村氏(阿部氏、石川氏、青山氏の代わりに、大須賀氏、榊原氏、平岩氏が入る場合もある)
岡崎譜代(16家)―井伊氏、榊原氏、鳥居氏、戸田氏、永井氏、水野氏、内藤氏、三河安藤氏、久世氏、大須賀氏(断絶)、三河井上氏、阿部氏、秋元氏、渡辺氏(伯太藩)、伊丹氏、屋代氏
駿河譜代―板倉氏、太田氏(太田資宗流)、西尾氏、土屋氏、森川氏(生実藩)、稲葉氏(稲葉正成の系統、能登守家は外様)、藤堂氏、高木氏(丹南藩)、堀田氏(出自からは三河衆のため譜代の理由不明)、三河牧野氏(牛久保牧野氏)、奥平氏、岡部氏、小笠原氏、朽木氏、諏訪氏、保科氏、土岐氏、稲垣氏、一色丹羽氏、三浦氏、遠山氏(苗木藩)、加賀氏、内田氏、小堀氏、三河西郷氏、奥田氏、毛利氏(内膳家、断絶)、山口氏(牛久藩)、柳生氏、蜂須賀氏(阿波富田藩家・廃藩)、増山氏
貞享元年12月より譜代―水谷氏(準譜代の秋田氏・有馬氏(有馬晴信系)・相馬氏と同時)
徳川綱吉の時代以後の譜代 - 本庄氏
享保以後の譜代―加納氏、有馬氏(赤松氏分家)
『柳営秘鑑』には記載なし―田沼氏、間部氏、三河松井氏、柳沢氏
松平一門―大給松平家、形原松平家、桜井松平家、滝脇松平家、竹谷松平家、長沢松平家(大河内松平家)、能見松平家、久松松平家(伊予松山藩・伊勢桑名藩以外)、深溝松平家、藤井松平家
《引用終了》
・「外樣」外様大名。ウィキの「外様大名」より一部引用しておく。外様大名とは『日本の封建時代の大名の主君との主従関係の緊密さを区別した語ったもので、既に室町時代からこの言葉は由来しており、室町時代は幕府とのつながりの密でない大名たちを外様衆と呼んだ。江戸時代になってからは、関ヶ原の戦い以前から徳川幕府につかえた大名たち、いわゆる譜代に対して、その後、幕府に用立てられた大名たちを外様大名と呼んだ』。『外様大名とは、関ヶ原の戦い前後に徳川氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。「外様」は、もともとは主家とゆるい主従関係を持った家臣を指す語で、主家の家政には係わらず、軍事動員などにだけ応じる場合が多かった。またこの外様の家臣は主家滅亡時に主家から離反しても非難されることは無かった』。『外様大名には大領を治める大名も多いが、基本的に江戸を中心とする関東や京・大阪・東海道沿い等の戦略的な要地の近くには置かれなかった。江戸時代の初期には幕府に警戒され些細な不備を咎められ改易される大名も多かった』。『外様大名は一般に老中などの幕閣の要職には就けないとされていたが、対馬国の宗氏は伝統的に朝鮮との外交に重きを成し、また江戸後期になると真田氏、松前氏のように要職へ就く外様大名も現れた。また、藤堂氏は徳川氏の先鋒とされ軍事的には譜代筆頭の井伊氏と同格であり、池田輝政は親藩と同格とされ大坂の陣の総大将を勤める予定だったといわれる』。『また、同じ外様大名でも比較的早い時期から徳川家と友好関係があった池田氏・黒田氏・細川氏などと関ヶ原の戦い後に臣従した毛利氏・島津氏・上杉氏などでは扱いが違ったとの説もある』。『なお、血縁関係や功績などにより譜代に準ずる扱いを受けている外様大名について、便宜的に準譜代大名と呼ぶこともある。また、外様大名の分家・別家で1万石以下の旗本から累進して諸侯に成った場合、菊間縁頬の詰席を与えられ、譜代大名として扱われた』。以下、「主な外様大名」が示されている。
《引用開始》[やぶちゃん注:縦に箇条書きにされているが、中黒で併記した。]
前田家(加賀藩)・島津家(薩摩藩)・毛利家(長州藩)・山内家(土佐藩)・藤堂家(津藩)・浅野家(広島藩)・上杉家(米沢藩)・佐竹家(秋田藩)・細川家(肥後藩)・池田家(岡山藩・鳥取藩)・鍋島家(佐賀藩)・黒田家(福岡藩)・伊達家(仙台藩)
《引用終了》
・「板倉周防守」板倉重宗(天正14(1586)年~明暦2(1657)年)。譜代大名で京都所司代。板倉家宗家2代。ウィキの「板倉重宗」より一部引用する。『徳川家康に早くから近侍して、大いに気に入られた。関ヶ原の戦いや大坂の陣(このときは小姓組番頭)にも参陣した』。『元和6年(1620年)、徳川二代将軍秀忠の時代、父の推挙により京都所司代となる。承応3年(1654年)12月6日まで30年以上にわたって在職。朝廷との交渉・調整の任にあたった。明暦2年(1656年)8月5日、下総国関宿藩に転ずる。この年、関宿で死去』。『勝重と重宗は、親子二代でありながら世襲職ではない所司代の職に就任しているのを見てもわかるように、その卓越した政治手腕は徳川氏に大いに信頼されていた。それは『板倉政要』によって現在にも伝えられているが、この史料は過大評価もあると言われている。だが、この親子以外に所司代に親子二代にわたって就任した例は無いのをみてもわかるように、優れていたことは間違いないだろう』。『こんな話が残っている。ある日、父の勝重が重宗と後に島原の乱で討死した弟の板倉重昌に、ある訴訟の是非について答えよと言った時に、重昌はその場で返答したが重宗は一日の猶予を求めたうえ、翌日に弟と同じ結論を答えた。周りのものたちは重昌の方が器量が上だと評価したが、父の勝重は、重宗は重昌同様に結論を早く出していた、ただ慎重を期すためにあの様な振る舞いをしただけであり、重宗のほうが器量が上であると評したという。このような姿勢は、京都所司代になってからも見られ、訴訟の審理をする際は、目の前に「灯かり障子」を置き、傍らにはお茶を用意することによって、当事者の顔を見ないようにして心を落ち着かせ(人相などで)いらぬ先入観を持たないようにし、誤った判決をしないように心掛けたという。そんな重宗も朝廷対策には苦労していた。後光明天皇には「切腹して見せよ」とやりこめられている』とある。以下の松平康盛の先代康親の事蹟(大名ではなく旗本で松平一族の中では優遇されなかったという記載)と本話の進言内容を考えると、この話の主人公は板倉周防守重宗としか私には考えられないのであるが。識者の御教授を乞うものである。
・「松平讚岐守」松平康盛(慶長6(1601)年~寛文11(1671)年)。御小姓組番士。元和3(1617)年、千石。福釜(ふかま)松平家宗家5代(ウィキの「福釜松平家」によれば、三河国碧海郡(あおみのこおり)福釜(現在の愛知県安城市福釜町)を領した一族。『3代親俊から徳川家康に仕え、4代康親のとき、家康の関東転封に従い、大番頭となり、下総・武蔵の両国に領地を与えられ、禄高は一千石余りとなる。関ヶ原の戦い、大坂の役に加わり、康親は伏見城番を勤めるが、大名には取り立てられず、旗本どまりで、松平氏一族のなかでは優遇されなかった。本家は元禄年間、松平康永が嗣子無く没したため絶家となったが、庶流はその後も存続している』とある)。なお、底本注で鈴木氏は松平清成の名も挙げられているが、この人物は大給(おぎゅう)松平氏家康の家臣ではあったが、時代的にも早過ぎる感じがし、鈴木氏御自身、『清成は歴戦のつわもので、この場合にはふさわしくない』と記されている。また鈴木氏も私と同様、「松平讚岐守」は『作者の記憶違いらしく、板倉重宗またはその父勝重がふさわしい』と述べておられる。
■やぶちゃん現代語訳
天子の神妙なる威厳は天然自然の采配にして生得のものである事
天子様におかせられましては、これ、この上のう、畏れ多くもかしこみかしこみ申すべきものなるは、申すも愚かなることにて御座る。
さても何れの帝の御代にてのことで御座ったか、将軍家御名代の者、上洛致いて、天顔拜し奉り、天杯拝領の事など御座りましたが、右御名代、関東帰府致しまして、この度の御名代仕儀に付、仔細御用始末の趣き、言上申し上げ致しました。それら一通り相済みて、最後に徐ろに付け加えて更に申し上げたことには、
「……向後(きょうこう)、京都御名代には御譜代の内より、よくよくその人品腹蔵お鑑みの上、仰せ付けらるること、これ、然るべき大事にて御座る。……その趣意は……我等、天盃拝領の折柄、その御前(ごぜん)にかしこまりしに――頻りにその御前(ごぜん)の人間ならぬ神威、言わん方なき有り難き感――無量にして言わん方なし。……さても万一、外様衆或いは二心不義の念、聊かにてもこれある者……禁裏より……『何事』か……仰せ付けらるる筋、これ、あらば……それ、如何なる恐ろしき、忌まわしき、まがまがしき、御事の仰せなれども……一瞬の戸惑いものう、違背のう、隨い奉らんこと、これ、間違い御座らぬ……と感じて御座った。……」
と申し上げになられたによって、上様にても、
「げにも尤もなること。」
と思し召されたとのことで御座る。
この言上せしは板倉周防守(すおうのかみ)とも松平讃岐守とも聞いて御座るが、しかとは覚えて御座らねば、取り敢えず話の趣きのみ、ここに記しおくものである。
赤いリボンが似合うかな
美味しい食べ物がほしいかな
いつもの散歩がしたいかな
キラキラした瞳をもつ貴女は光そのもの
アリスちゃん
お誕生日おめでとう♪
「耳嚢 巻之三」に「安藤家踊りの事」を収載した。
*
安藤家踊りの事
安藤對馬守家に家の踊りといふ事あり。御先代御覽にも入りし事故、今に右家にて絶ず右の踊を覺へ習ふ事成由。予が同僚也し江坂某、當安藤公寺社奉行の節見物なしける事ありしと語りけるが、至て古風なるものにて五七番も有る由。亂舞(らんぶ)などに似寄りて亂舞とも違ひ、謠ひもの節も事かはり、多く鼓をあいしらふ事の由。年若の近士の内抔へ申付其藝を施し候事なるが、當時の風と違ひよろづ古風なる事ゆへ、みな/\嫌ふといへども、家の踊ゆへ絶ず其業を殘し置(おか)れける由。古雅なる事にてありしと語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:大身独特の食味から、やはり大身独特の御家芸伝承で直連関。
・「安藤家」三河安藤氏。以下、ウィキの「三河安藤氏」から一部引用する。『元は三河国の土豪。安藤家重は松平広忠(徳川家康の父)に仕えていたが、天文9年(1540年)に三河安祥城に攻め寄せてきた織田信秀との攻防戦のさなかに討死』。『家重の子の安藤基能は、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで武田軍相手に討死した』。以下、「三河安藤氏嫡流」の項(信成は嫡流ではないことを示すために引用しておく)。『基能の嫡男安藤直次は、祖父や父のように志半ばで討ち死にする事もなく、戦乱の世を生き抜いた』。『直次は家康の側近として活躍し、慶長15年(1610年)には家康の命により徳川頼宣(長福丸)付の家老に任じられたが、その後も幕政に参与していた。元和3年(1617年)には、遠州掛川城主となり、掛川藩2万8,000石の所領を与えられた。元和5年(1619年)に頼宣が紀伊国に移ると、同国田辺城に3万8,000石の所領を与えられ、以後幕末まで続いた』。『ちなみに、江戸幕府で老中等の要職を歴任した重信系の安藤氏が嫡流と誤認されがちであるが、嫡流は紀伊田辺藩主を務めた安藤氏である』。以下が信成の「重信系」安藤氏の項。『直次の弟安藤重信(安藤基能の次男)も、元和5年(1619年)にはそれまでの領地である下総国小見川2万石から加増移封されて、上野国高崎5万6000石の藩主となっている。幕府の要職を務め、安藤氏嫡流よりも石高が高いため安藤氏の嫡流と誤認されるが、三河安藤氏の分家筋にあたる』。『小見川藩、高崎藩、備中松山藩、加納藩と移封を繰り返した後、磐城平藩で明治維新を迎えた』。『幕末に公武合体を進めた老中の安藤信正は、磐城平藩の出身である』とある。以下、歴代の当主の名。この中の安藤信成以前に「踊り」のルーツがあるはず。
《引用開始》
安藤重信
安藤重長
安藤重博
安藤信友
安藤信尹
安藤信成
安藤信馨
安藤信義
安藤信由
安藤信正
安藤信民
安藤信勇
《引用終了》
一応、家祖安藤重信(弘治3(1557)年~元和7(1621)年)についてウィキの「安藤重信」より一部引用しておく。彼、なかなかの豪傑である。『徳川家康に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属して真田昌幸(西軍)が守る信濃国上田城攻めに参加した。慶長16年(1611年)、奉行に任じられ、翌年12月には下総国小見川に2万石の所領を与えられ、大名となった。慶長19年(1614年)、大久保長安事件で大久保忠隣が改易されたとき、高力忠房と共に小田原城の受け取りを務めた』。『同年、冬からの大坂の役には冬、夏とも参戦し、夏の陣では大野治房率いる豊臣軍と戦ったが、敵の猛攻の前に敗退した。元和5年(1619年)、上野国高崎5万6,000石及び近江国山上藩1万石へ加増移封された。同年、福島正則が改易されたとき、広島城に向かって永井直勝とともにその後の処理を担当した。元和7年(1621年)6月29日、65歳で死去。家督は養子・重長が継いだ』。『怪力伝説があり、前述の広島城受け取りの際、船から落ちた共の者を掴んで助けた時に、ちょっと掴んだだけなのに掴まれた部分が痣になって後々まで残ったとか、小姓にたくさんの鎧や銃を担がせ、その小姓を碁盤に乗せ、その碁盤を担いで城内を一周したという伝説もある』。ただ、古雅な舞踊とあるのは、どうもこの始祖の荒武者と一致しない。そこでその後の藩主をウィキで手っ取り早く辿ってみた。すると重信系の安藤家4代目に、如何にもそれっぽい人物が出現する。安藤信友(寛文11(1671)年~享保17(1732)年)である。これを参考までにウィキの「安藤信友」より一部引用しておく。『備中松山藩の2代藩主、のち美濃加納藩の初代藩主となった。また、徳川吉宗の時代に老中を務めた。文化人としても名高く、特に俳諧では冠里(かんり)の号で知られ、茶道では御家流の創始者となった』先代『安藤重博の長男』。子が次々に『早世したため、祖父の弟の子にあたる安藤信周を養子として迎え』ている。『天和元年(1681年)10月28日、11歳のときに初めて将軍綱吉に拝謁する。貞享2年(1685年)、長門守に叙任。元禄11年(1698年)8月9日に父が死去し、10月3日、幕府の許しを得て備中松山藩(6万5000石)藩主の地位を継いだ。宝永元年(1704年)に奏者番となり、同6年(1709年)には寺社奉行を兼任する。宝永8年(1711年)2月15日、美濃加納藩(美濃国内に6万石、近江国内に5000石の計6万5000石)に転封される。正徳3年(1713年)に寺社奉行を辞めるが、享保2年(1717年)に再び寺社奉行となる。翌年、大坂城代となり、享保7年(1722年)、8代将軍・徳川吉宗から老中に任じられ、享保の改革の推進に関与した』。『享保12年(1727年)6月7日、跡継ぎとなるべき養子の信周が死去した後、同月22日、信周の長男信尹を跡継ぎとすることを幕府に許される。享保17年(1732年)6月に病に伏せ、7月25日に62歳で死去し』たが、彼は文化人としての側面を強く持ち、特に俳諧では『宝井其角に師事し、水間沾徳などとも交流があった。さまざまな書物でたびたび紹介され、もっともよく知られた句は、雪の降る寒い日に駕籠で江戸城へ登城する途上で、酒屋の丁稚小僧が薄着で素足の姿で御用聞きをして回っているのを見かけてよんだものである。
雪の日やあれも人の子樽拾ひ
「樽拾ひ(たるひろい)」とは酒屋の丁稚のことで、自分の子にはとてもまねさせられないが、あの丁稚も同じ人の子なのにとても不憫である、という意味である。
また、信友が藩主だった頃の備中松山藩内では、俳諧が流行した』とある。なかなかいい発句である。他にも茶道にも熱心で、『はじめ織部流であったが、後に米津田盛の二男米津田賢の門人となり、千利休からそのままの形で細川三斎(忠興)、一尾伊織、米津田賢へと伝えられてきたとされる三斎流(一尾流)を学んだ。その後、三斎流を基本として織部流を組み合わせることで独自の流儀を確立させた。これが安藤家で「御家流」として代々伝えられて、今日に至』っている、とある。この記載から、どうも古雅の乱舞の臭いの元凶は(失礼!)、この、本話に登場する安藤信成の祖父に当るところの安藤信友を始祖とするものではなかったろうか、と私は推測するのである。識者の御意見を乞う。
・「安藤對馬守」安藤家6代安藤信成(寛保3(1743)年~文化7(1810)年)のこと。寺社奉行・若年寄・老中を歴任した。以下、参照したウィキの「安藤信成」より一部引用する。『美濃加納藩第3代藩主で、陸奥磐城平藩初代藩主』。父の安藤信尹(のぶただ 享保2年(1717)年)~明和7(1771)年)は『乱行が原因で隠居を命じられ、宝暦5年(1755年)に信成が家督をつぐことになった。懲罰の意味もあって、安藤家は間もなく、加納6万5,000石より陸奥磐城平藩5万石に減転封させられた。その後、幕府内では寺社奉行、若年寄を経て、寛政5年(1793年)に老中に就任。在任中の功績に免じ、没収されていた美濃領のうち1万7,000石を加増され、都合6万7,000石となる』。『藩政として瞥見すべき点は、平に入封後、藩校・施政堂を城下の八幡小路に創設した点である。ここでは漢学、四書五経、国語、小学、通鑑、習字をはじめ、兵法・洋学が教育された。文化7年(1810年)死去。信成には長男・信厚があったが廃嫡し、次男・重馨に家督を継がせた』。以下、略歴。
《引用開始》
1743年(寛保3年) 生誕
1755年(宝暦5年) 家督をつぐ
1756年(宝暦6年) 磐城平に転封
1781年(天明元年) 5月11日 寺社奉行
1784年(天明4年) 4月15日 若年寄
1793年(寛政5年) 8月24日 老中
1810年(文化7年) 5月14日 死去
《引用終了》
これにより、信成が寺社奉行であったのは、天明元(1781)年5月11日から天明4(1784)年4月14日迄であった事が分かる。この頃、根岸は勘定吟味役であった(ぎりぎり最後で天明4(1784)年3月に佐渡奉行に昇進している)。
・「御先代」安藤家先祖の謂いであろう。将軍家御先代の意にも取れぬことはない。その場合は、執筆時が第十代将軍徳川家治(将軍在位は宝暦10(1760)年から天明6(1786)年迄)の父である第九代徳川家重ということになるが、今までの訳注作業で感じることとして、根岸は(少なくともここまでの「耳嚢」の中では)、執筆時の当代将軍家(ここまでは主に家治になる。家重の在位は根岸の生れる前の延享2(1745)年から隠居する宝暦10(1760)年5月13日までで、この時根岸は未だ24歳であった)を起点とした物謂いを殆んどしていないように思われる。従って、ここは前者で採る。
・「御覽」将軍家への直々の披露。
・「江坂某」諸注注せず。本話柄の数年後の佐渡奉行時代に本巻が記されているが、その中で直接体験過去で「同僚」であったという以上、これは前任職であった勘定吟味役時代の同僚である。勘定所勘定吟味役は旗本・御家人から抜擢される中間管理職としては上位のもので、勘定所内では勘定奉行に次ぐ地位、更に勘定奉行次席ではなく老中直属でもあった。定員は4~6名とあるから、この「江坂某」もその内の一人に違いない。相応の実質的地位と、その社会的な立ち回りの巧みなる才能の持ち主と思われるが(でなくては大名諸侯本人の舞いを見られようはずもない)、後半でやや問題のある安藤家家士連中の本音を語っているので、変名にしてある可能性も考え得る。しかし、実はここに一人、丁度その頃、江坂姓で勘定吟味役を勤めていた可能性が高い人物がいる。ネット検索によって個人ブログ「『鬼平犯科帳』Who's Who」の「『よしの冊子』中井清太夫篇(3)」の記載の中に見出した人物で、江坂孫三郎正恭(まさゆき 享保(1720)年~天明4(1784)年)という。同記事中に、彼は評定所留役兼任で百五十俵とも記されているが、これは当時の根岸家の家禄と全く同じである。先に記したように本話柄は天明元(1781)年5月から根岸が佐渡奉行となる天明4(1784)年春迄に限定される。この江坂孫三郎正恭が本話の江坂某であったとしたら――私はその可能性が極めて高いと今は感じているのだが――根岸は43~47歳、江坂正恭は61~65歳であった。家士の本音を引き出す辺り、この根岸の大先輩に当る老練な同僚ならでは、という感じがしてこないだろうか? 識者の御意見を乞うものである。
・「寺社奉行」寺社領地・建物・僧侶・神官関連の業務を総て掌握した将軍直属の三奉行の最上位である。譜代大名から任命された。
・「五七番」五曲から七曲という謂いは如何にもお洒落じゃないし、「もあるよし」とはならないからあり得ない。武家とはいえ、剣法に擬えれば七曲は覚えられよう。五十七曲であれば確かに「もある」に、うんざりということにもなろうが、これでは多すぎて素人の覚える域を遙かに越えているように思われてならない。また根岸はこうした場合、一般には「十」を入れて書く(脱字・省略でないと言えないが)。さすればこれはよくある掛け算で三十五曲の謂いであろう。それならば十分に「もある」と言っておかしくはないし、三十五曲の舞踊を覚えるのは素人には無理とは言えないが、甚だキツいとも思うのである。
・「亂舞」「日本大百科全書」(小学館)によれば(読みの一部を省略した)、『とくに定まった型や曲はなく、歌や音楽にあわせて自由奔放に手足を動かして舞い踊るものをいう。平安末期から鎌倉時代にかけて、公家貴族の殿上淵酔(てんじょうえんずい)で乱舞が盛んに行われたが、このときの乱舞は朗詠、今様や白拍子、万歳楽などを取り入れて歌い舞われた。このような殿上淵酔の乱舞は猿楽ともいわれ、やがて専業の猿楽者の演ずる猿楽をも乱舞といった。乱舞はその後の猿楽能はじめ、さらには風流踊にも影響を与えたと思われるが、具体的なことは不明である。なお、能楽の乱舞(らっぷ)は一曲のうちの一節を舞うことをいったようである』とある。「殿上淵酔」とは清涼殿に殿上人を招いて行われた酒宴のこと。但し、ここで江坂が言っているのは、記載の最後にある能の各曲の合間に幕間狂言の一つとして行われたそれを指して言っているのではないかと思われる。それにしても乱舞――らっぷ――ラップ――rap……たあ、ゴロの妙だね!
■やぶちゃん現代語訳
安藤家家伝の踊りの事
安藤対馬守の主家には『家の踊り』と申す家伝の舞踊、これ、伝わって御座る。
御先祖が上様の御覧(ぎょらん)に入れたということも御座って、今にても、かの安藤家にて、代々この踊りを覚え習うこと、お家のしきたりとなって御座る由。
勘定吟味役を勤めて御座った折りの私の同僚江坂某が、かの安東公が寺社奉行をお勤めになられて御座った折り、その踊りを拝見致いたことが御座ったとて、以下、江坂殿の語りしことにて御座る。
「……それは、さても至って古風なる舞いにて御座っての……曲の数とては、何とまあ、三十五番も御座る由。……乱舞(らっぷ)などの如くにも見ゆれど……乱舞にては御座ない、……謡いの節にても、尋常なるものにては御座ない、これまた、如何にも独特なものにて……三十五番殆んどの曲にては、主に鼓(つづみ)をあしろうて舞うとの由。……さても、安藤家御家中の知れる者の話によれば……年若の近侍の武士どもにも申しつけてその芸を教え伝えておらるれど……当世風の踊りとは違(ちご)うて……これがまた、徹頭徹尾、古風なる舞いなれば……実は……皆々、厭い嫌うて御座るとのとじゃ。……とは言うても、主家家伝の踊りなればやはり代々、その技芸を承伝致いおいて御座る、とのことで……いや、確かに! 誠(まっこと)……退屈なる……いや、これは失言、失言……古雅なる、舞いにては御座ったのう……。」