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2010/10/28

耳嚢 巻之三 其職の上手心取格別成事

「耳嚢 巻之三」に「其職の上手心取格別成事」を収載した。


 其職の上手心取格別成事

 小笠原平兵衞、小笠原縫殿助(ぬひのすけ)は騎射歩射の禮家也。今の平兵衞租父は老功の人にてありしが、有德院樣御代、惇信院(じゆんしんゐん)樣御婚姻の御用被仰付、懸りの御老中方と度々申合有しに、御輿迎ひの御用承り給ふ老中、家來の禮者に段々學び給ひて、其式法を辨へ給ひけれど、猶小笠原に對談ありて其式を相談有けるに、平兵衞申けるは、如何御心得被遊候哉、思召の御式を承りたしと申けるにぞ、かく/\致さんと心得候由被申ければ、至極其通にて聊(いささかも)當家の通禮式に相違なし、至極其通り可然と申けると也。傍に聞し人、老中心得の通禮式相違なしやと平兵衞へ尋ければ、答へていへるは、さればとよ當流と違ひし事も有なれど、都(すべ)て禮は其規式に望みて間違なく、事やすらかに濟んこそ禮の可貴(たふとぶべき)所なり、老中の此度御用被仰付、志しを勞し其家士に學び給ひしを、夫は違へり、是はか樣有たしといはゞ、其期(ご)に望んで迷ひを生じ、自然滯る事もありなん、かの學び覺へ給ひしを其通也と譽め稱しぬれば、其學に覺へ給ひし事なれば、心も伸びて取計ひ越度(おちど)なきものとかたりし由。誠に其職の上手名人ともいふべきと沙汰ありしと也。

□やぶちゃん注

○前項連関:第八代将軍吉宗御世で連関。ここのところ、登場人物の騎射が多出している点での繋がりもあるように思われる。老中が登場人物である以上、相応な配慮を致すが必定と、そのような藪野家礼法として仕儀を現代語訳に仕込ませて御座ればこそ――。

・「小笠原平兵衞、小笠原縫殿助は騎射歩射の禮家也」弓道に関わるYamato氏の堅実なるHP「そらにみつWebSiteに、ズバリ! 「小笠原平兵衛家と小笠原縫殿助家」という頁が存在する。本話柄の注として、これ以上正鵠を射たものはないので、少々気が引けるが全文引用させて頂く。御免蒙る、Yamato殿!

 《引用開始》

江戸時代には旗本で弓馬礼法の師範家として、小笠原平兵衛家と小笠原縫殿助家が存在します。現在の小笠原流宗家は平兵衛家になります。小笠原流は流祖長清から長経→長忠と続き、室町末期の長時・貞慶父子と受け継がれます。他方で長忠の弟に清経が居り、伊豆国の赤沢山城守となり代々赤沢姓を名乗ります。

 赤沢家が経直の代に、惣領家長時・貞慶父子は信玄に信州を追われて越後の上杉謙信の元に落ち延びます。その後に伊勢に移り同族である阿波・三好長慶に招かれ上京し、将軍義輝公の弓馬指南役となり河内国高安に領を賜ります。しかし、将軍義輝公は長慶亡き後の三好政権中枢の松永弾正と三好三人衆により殺されてしまいます。これにより長時・貞慶父子は再度越後の謙信を頼ることになりました。1578(天正6)年に謙信が病死した後は越後を去り、会津の蘆名氏の元に身を寄せます(天正11年、長時は会津で没します)。1579(天正7)年貞慶は家督を継ぎ信長に仕えて武田勝頼と戦います。天正10年に武田氏が滅亡すると、信長より信州の一部を与えられ旧領に復します。本能寺の変で信長亡き後は家康の家臣となり、松本城を与えられて大名として復帰しました。

 このように、小笠原惣領家は戦国の争乱のまぎれに弓馬の伝統が絶えたとも伝えられています。現在の小笠原宗家の小笠原氏来歴書には、「小笠原長時及貞慶の時に至り家伝弓馬的伝礼法一切を小笠原経直に譲る。経直弓馬礼法に精進せるを以つて徳川家康召して武家の礼法を司どらしむ。」とあるそうです。弓馬礼法伝来系譜には1575(天正3)年の出来事であったと記されており、京を離れて再度越後に落ち延びていた時期に当たります。

 赤沢経直は長時・貞慶父子から糾方的伝・系図・記録を受け継ぎ、赤沢の姓を小笠原の本姓に復して、小笠原流弓馬礼法の一切を掌りました。その後、1604(慶長9)年に徳川家康に拝謁し、小笠原の弓馬礼法を以て将軍家に旗本500石で仕え、大名旗本の糾方師範となりました。小笠原平兵衛家中興の祖と言われています(経直より三代後の常春が平兵衛と名乗り、代々平兵衛を名乗っていた事より)。

 ここからは縫殿助家の話をしていきたいと思います。流祖長清から長経→長忠と続く惣領家の当主が宗長の時に鎌倉幕府が滅び、宗長の子である建武武者所・貞宗の頃には南北朝時代の乱世が訪れ、貞宗は後醍醐天皇に仕えました。宗長の弟である長興は伊豆赤沢家の養子となり、長興の子常興も惣領家と同じく南朝に仕えます。後醍醐天皇は貞宗・常興を師範とし、貞宗に対しては昇殿を許すまでに至ります。また、貞宗・常興は「神伝糾方修身論64巻」という起居動静之法を定めた書物を記し、これが小笠原流の根本となる秘書となりました。この後貞宗・常興は足利氏に招かれて室町幕府に仕えることになり、貞宗の曾孫に当たる足利義満師範「長秀」は、将軍家より諸礼品節を糺すべき命を蒙り、今川氏頼・伊勢憲忠の両氏と議して「三儀一統」を現しました。「当家弓法集」といい12門より構成されています。また、「弓馬百問答」を編して家宝とし、小笠原流の基礎を固めました。この頃より、幕府即ち武家の礼を2部門に分け、伊勢氏は内向き(殿中)の諸礼を仕い、小笠原家は外向き(屋外)一切の武礼をあづかる様になりました。

 縫殿助家の話が全然出てきませんが、建武武者所・貞宗の弟に貞長が居り、別に一家を立てることになりました。この家が後世まで続き江戸時代の幕臣である小笠原縫殿助家になります。八代将軍吉宗公が騎射歩射の業を再興復古させようとして古書を集めた時には、縫殿助家から古書を多く得たと言われています。平兵衛家・縫殿助家は相助け合いながら弓馬礼法を司り、吉宗公が再興復古した新流(徳川流!?)も両家に預けられて、古流・新流の両方とも存続させて幕末を向かえます。現在の小笠原宗家である平兵衛家は存続していますが、縫殿助家は弓を離れてしまったのか、調べることが出来ませんでした。幕臣であった日置当流・吉田宗家と同じパターンですね。

 《引用終了》

以下、最後に「参考文献」として「弓道及弓道史」浦上栄・斉藤直芳著、「弓道講座小笠原流歩射入門」小笠原清明・斉藤直芳著、「日本武道全集」第三巻の三冊の書名が掲げられてある。

・「今の平兵衞」小笠原常倚(つねより 寛延3(1750)年~安永4(1775)年)。底本の鈴木氏注によれば、『安永四年遺蹟(五百石)を継いだが同年二十六で没した』とある。「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるが、その下限まで引っ張ると、この「今の平兵衞」という謂いは11年も経過していて、不自然である。これはまさに常倚が生きていた当時の根岸の記録を元にしているものと考えてよい。因みに、安永4(1775)年頃、根岸は御勘定組頭で30代後半、翌年に39歳で御勘定吟味役に抜擢される、まさに油ののり切った時期にあった。

・「今の平兵衞租父」小笠原常喜(つねよし 貞享2(1685)年~明和6(1769)年)。底本の鈴木氏注に、『書院番、御徒頭、御先鉄砲頭、御持筒頭、新番頭を歴任。宝暦九年西丸御留守居、従五位下出羽守。明和元年御旗奉行、四年致仕』とある。

・「小笠原縫殿助」小笠原持易(もちやす 元文5(1740)年~安永5(1776)年)。底本の鈴木氏注に、『七百八十石を領し、明和元年御徒頭』とある。なお、氏は『本書執筆当時の縫殿助は』という条件文を示しておられが――これは決して揚げ足を取るのではない――ただ「耳嚢」の執筆の着手を佐渡奉行在任中の天明5(1785)年頃とされ、「卷之二」の執筆の下限を天明6(1786)年までと置かれたのは鈴木氏である――しかし、ここで見たように、この二人の登場人物は既に1770年代中頃には死去している。前注で示した如く、この話を根岸が記録として残したのは11年以上前の、1775年代以前に遡るものでなくてはならない。『本書執筆当時』というのは少し違和感が私にはあるのである。天明6年より遡れない「耳嚢」(記事ではない)の執筆時期には、明らかに両家は代替わりをしてしまっているからである。くどいようだが『本件記事を記録した当時』とされるのが厳密であろうと思われる。

・「騎射歩射」「騎射」は「騎射三物」。五項前の「雷公は馬に乘り給ふといふ咄の事」の「騎射」の注を参照。「歩射」は「かちゆみ」とも読み(「ほしゃ」は正式な読みではないという)、騎乗せずに地面に立って行う弓射を言う。以下、ウィキの「弓術」の該当項より一部引用する。『南北朝時代以降、戦陣において歩射が一般化すると』、『戦国時代初期には歩射弓術を基礎とする日置流が発生し、矢を遠くへ飛ばす繰矢・尋矢(くりや、遠矢とも)、速射をする指矢(さしや、数矢とも)など様々な技法が発展した』が、実践を重んじる武射系――実は、礼節を重んじる「文射」という大切な側面が弓にはあり、さすれば、この話柄に於いて老中が公家の姫君を迎える礼法について小笠原に訊ねるというのも、眼から鱗なのである――『では、膝を着いて弓を引き、的(敵)を射る射術が基本であり、その他にも様々な体勢の技術が伝わる』。因みに、このウィキの記載から、騎射と歩射の二大射法以外にもう一つの射撃法があることを知った、「堂射」である。同じページから該当項を引用して参考に供しておく。『堂射とは江戸初期に京都三十三間堂、江戸三十三間堂、東大寺などで盛んに行われた通し矢競技の射術。弓射の分類は伝統的に騎射と歩射の二分類であるが、江戸時代に堂射が隆盛し独自の発展を遂げたので、射法の系統としては堂射を加えた3分類とされることが多い。堂射は高さ・幅に制限のある長い軒下(三十三間堂は高さ約5.5m、幅約2.5m、距離約120m)を射通す競技で、低い弾道で長距離矢を飛ばし、さらに決められた時間内で射通した矢数を競うため、独自の技術的発展を遂げた。江戸時代中期以降堂射ブームは沈静化したものの、堂射用に改良された道具(ゆがけ等)や技術が後の弓術に寄与した面は大きい。日置流尾州竹林派、紀州竹林派の射手が驚異的な記録を残した事で有名』。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延41751)年)の諡り名。

・「惇信院樣御婚姻」「惇信院」は九代将軍徳川家重(正徳元(1712)年~宝暦111761)年)の諡り名。その「御婚姻」というのは正室増子女王(ますこじょおう 正徳元(1711)年~享保181733)年)との婚儀を指すものと思われる。増子女王は伏見宮邦永親王の第4皇女で、父吉宗の正室理子女王の姪。享保161731)年に家重と婚姻、江戸城西の丸へ入って御廉中様(将軍世子の正室)と称された。享保171732)年に家重と船で隅田川遊覧をした記録がある。享保181733)年に懐妊したが、9月11日に早産(生まれた子も間もなく死去)、増子も産後の肥立ちが悪く、同年10月3日に23歳の若さで死去した。彼女は家重将軍就任前に没していることから、御台所とは呼称されない(以上はウィキの「増子女王」を参照した)。側室に聡明な第十代将軍徳川家治を生んだ於幸の方(公家梅渓通条の娘)や於遊の方(三浦義周の娘・松平親春養女)などがいるが、本話柄の緊張感は、やはり正室増子女王とのものであろう。

・「懸りの御老中方」仮にこれが正室増子女王との享保161731)年の婚儀を指すものであったとすれば、当時の老中は以下の三人である。

酒井忠音(ただおと 元禄4(1691)年~享保201735)年)若狭小浜藩第5代藩主。当時42歳。老中の前職は奏者番兼寺社奉行・大坂城代を歴任。後に侍従。因みに彼は在任中の死去。

松平信祝(のぶとき 天和(1683)年~延享元(1744)年)下総古河藩第2代藩主・三河吉田藩主・遠江浜松藩初代藩主。当時49歳。因みに彼も在任中の死去。老中の前職は大坂城代のみ。

松平輝貞(てるさだ 寛文5(1665)年~延享4(1747)年)側用人・老中格。上野国高崎藩初代藩主。当時67歳。

ビビッているのはこの中の誰かということになるが、最年長で綱吉時代からの側用人、海千山千、老中「格」でもあればこそ松平輝貞ではあるまい。年齢的には酒井忠音が最も若いが、キャリアの弱さから見ると、自信のなさそうに見えるのは松平信祝か? 識者の御教授を乞う。

・「其規式に望みて間違なく」底本では「望み」の右に『(臨)』の注記を附す。

・「其期に望んで迷ひを生じ」底本では「望み」の右に『(臨)』の注記を附す。

・「越度(おちど)」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 その道の名人の心構えは格別という事

 小笠原平兵衛殿と小笠原縫殿助(ぬいのすけ)殿の御家系は、弓道に於ける正統なる騎射歩射の礼家で御座る。

 さて、今の小笠原平兵衛殿御祖父常喜(つねよし)殿は誠(まこと)老功なる御仁で御座った。

 有徳院吉宗様の御代のこと、小笠原平兵衛常喜殿、当時、世子であられた惇信院家重様の御婚姻の儀の御用を仰せつけられ、係りとなられた御老中方と度々打ち合わせを致いておられたのじゃが、増子女王様御輿(おんこし)迎えの御用を承っておられた御老中が――初めてのこととて、自家の家来のうちの礼法を職掌とせる者に命じて、細かな作法の教授をお受けになられ、だんだんと相応に学ばれて、その式法につきては粗方の弁えをなさっては御座ったれど――土壇場になって、なお常喜殿に直談面談の上、その式法御確認の儀、申し込まれてこられた。

 平兵衛殿がまず、かの御老中に、優しく静かなる声にて、

「さても、かくかくの場合、これ、如何なされんとする? 正しきとお思いになられて御座る御仕儀を承りとう御座る。」

と、お訊ね申し上げた。かの老中は、やや自信無げなご様子乍らも、

「あー……その折りには……そうさ……しかじかの如く致すがよき、と心得て御座る……」

と申されたところ、平兵衛殿、ぽんと軽く膝を打つと、

「――至極その通りにて聊かも当家の礼式に相違御座らぬ。その通りに、なさいますがよろしゅう御座る。」

と申し上げたとのことである。

 さて――その老中がほっとして退座なされた後、先程より傍らにて、この様子を黙って聴いて御座った、平兵衛殿の知れる、また、小笠原家礼式に明るいある者が、どことは言わず、疑義を含んで、

「……真実(まこと)、先程の、かの御老中が仰せになった通りの礼式にて……よろしゅう御座いまするか?……」

と訊ねた。

 平兵衛殿が応えて言うことには、

「……さればとよ。――確かにそなたが秘かに首を傾(かたぶ)けた如く――当流とは違うたところも、これ、御座った。……なれど――総ての礼、これ、その儀式に臨んで間違いのう、事安らかに済み終えてこそ――そこにこそ、礼の貴ぶべきところは、ある。――かの御老中、このたびの御用を仰せつけられては、気を遣い、心を悩ませて、その上に、己(おの)が赤子(せきし)たる家士如き者より、我慢致いて礼式をお学びになられた。――にも拘わらず、拙者が『それは違(ちご)う』『これはかくあるが正しい』なんどと、ちまちま申さば……肝心の御婚礼の御儀式の、その期に及んで、ふと、迷いが生じ、それがまた、自ずと、とんでもない滞りや失態を生み出すものともなる。……なればこそ――かねてより学び覚えられて、自ずと身についてこられたことであったならば――『至極その通り』と申さば――かの御老中の心ものびのびと致いて、その取り計らいに、何の落ち度も、これ、なくなるというもの。」

とのことで御座った。

 後、

「……誠(まっこと)その職の、上手、名人たる者の言葉じゃ!……」

と、世間にて秘かに褒めそやされた、ということで御座る。

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