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2010/10/13

耳嚢 巻之三 稽古堪能人心を感動せし事

「耳嚢 巻之三」に「稽古堪能人心を感動せし事」を収載した。

 稽古堪能人心を感動せし事

 神山某は樂家(がくけ)の子にてひちりきの堪能也しが、其身放蕩にて中年の比(ころ)至て窮迫也しが、或日吉原町に至りて、かたらひし女の部屋にてひちりきを吹(ふき)すさみけるを、座敷を隔て富客の聞て、右ひちりきを吹し客に苦しからずば知る人にならんと好(このみ)し故、やがて通じけるにぞ、其座敷へ至りて好に任せ其能を施しければ、甚感心有りて、酒などともに汲かわし、我身は溜池(ためいけ)内藤家の家士何某也、尋來り給ふべしとてあくる朝立別れぬ。其後右の事も心にもかけずくらしけるが、彌々窮迫に及し故、風與(ふと)思ひ出で内藤家を尋ね、かの富家の名前を尋ければ、右長屋にて何方より來り給ふといひし故、しかじかの譯にて來れり、何某と申者の由申ければ、あるじ對面なしけるが、いつぞや吉原にて逢し人にてなき故大に驚きければ、彼者それには譯こそあれとて暫く待(また)せ、やがて案内なして一間なる金殿へ伴ひ、間もなく出し人は彼靑樓にてひちりきを好し人也。能くこそ尋給へる、度々來て其堪能を施し給へとて、其業(わざ)を好み聞て數々の賜もの有し上、仕官の望あらば小身なれど屋敷に仕へよとの事也しが、遊樂のみにふけりし我身、物の用に不立とて辭しけるに、時々呼れて扶持(ふち)など給(たまひ)て、養子を呼出て今神山某とて勤仕(ごんし)せる也。富家と見し人は溜池に棟高き諸侯也。今さし合(あふ)事あればいづれも名はもらしぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:時節をツボ得て強情頑なな心を落すことも可能なことならば、時節を得てツボを得て大名諸侯の心を摑んで放蕩の賤しき楽人でも思わぬ出世を致すという連関。

・「神山某」諸注注せず、未詳。「神山 篳篥」でそれらしき家系や歴史的人物や現代の演奏家はヒットしない。

・「樂家」広義に雅楽の技芸を伝える家系のこと。ウィキの「雅楽」によれば、平安時代には左右の近衛府官人や殿上人が雅楽の演奏を担っていたが、平安末期には地下人の楽家が実力を持ち始め、鎌倉後期以降は殿上人の楽家にかわって雅楽演奏の中核をなすようになったとある。『この影響で龍笛にかわって地下人の楽器とされていた篳篥が楽曲の主旋律を担当するようになった』。『室町時代になると応仁の乱が起こり京都が戦場となったため多くの資料が焼失し楽人は地方へ四散してしまい多くの演目や演奏技法が失われた。この後しばらくは残った楽所や各楽人に細々と伝承される状態が続いたが、正親町天皇と後陽成天皇が京都に楽人を集めるなどして楽人の補強をはかり徐々に再興へと向かってゆく』。『江戸時代に入ると江戸幕府が南都楽所、天王寺楽所、京都方の楽所を中心に禁裏様楽人衆を創設し、雅楽の復興が行われた。江戸時代の雅楽はこの三方楽所を中心に展開していくこととなり、雅楽を愛好する大名も増え古曲の復曲が盛んに行われるようになった』とあり、本話柄の参考になる。なお、『明治時代に入ると、三方楽所や諸所の楽人が東京へ招集され雅楽局(後の宮内省雅楽部)を編成することとな』り、『この際に各楽所で伝承されてきた違った節回しや舞の振り付けを統一するなどした。 また、明治選定譜が作成され明治政府は選定曲以外の曲の演奏を禁止したため千曲以上あった楽曲の大半が途絶えたとされている。しかし、江戸時代後期には既に八十曲あまりしか演奏がなされていなかったとの研究もありこの頃まで実際にどの程度伝承されていたかはよくわかっていない』。『現在宮内省雅楽部は宮内庁式部職楽部となり百曲ほどを継承しているが、使用している楽譜が楽部創設以来の明治選定譜に基づいているにも関わらず昭和初期から現代にかけて大半の管弦曲の演奏速度が遅くなったらしく、曲によっては明治時代の三倍近くの長さになっておりこれに合わせて奏法も変化している。これは廃絶された管弦曲を現代の奏法で復元した際に演奏時間が極端に長くなったことにも現れている』。『このような変化』『などから現代の雅楽には混乱が見られ、全体としての整合性が失われているのではないかと見ている研究者もいるが、その成立の過程や時代ごとの変遷を考慮すれば時代ごとの雅楽様式があると見るべきで、確かに失われた技法などは多いが現代の奏法は現代の奏法として確立しているとの見方もある』とある。また、現代の雅楽音楽家として知られる東儀秀樹氏について、ウィキの「東儀秀樹」の家系の記載に『母親が東儀家出身。東儀家の先祖は渡来人であり、聖徳太子の腹心であった秦河勝(はたのかわかつ)とされるが、正確なことは不明。下級の官人なので、正確な系譜は伝わっていない』。『楽家は下級の官人であったため、天皇への拝謁はおろか、堂上に上がることさえ許されない家柄であった』。『インターネットの一部の情報として、早稲田大学校歌の作曲者である東儀鉄笛の子孫とする記載がみられるが、東儀秀樹は徳川幕府に仕えた楽人の末裔であって、京の朝廷に仕えた楽士の家系(安部姓東儀・あべのとうぎ)である鉄笛とは直接の先祖-子孫の関係にはあたらない(藤原氏と同じく、東儀家も数多くの家系・分家がある)』とあり、本話柄の参考になる記載である。

・「ひちりき」篳篥。以下、ウィキの「篳篥」から引用する。『篳篥(ひちりき)は、雅楽や、雅楽の流れを汲む近代に作られた神楽などで使う管楽器の1つ。吹き物。「大篳篥」と「小篳篥」の2種があり、一般には篳篥といえば「小篳篥」を指す』。「構造」の項。『篳篥は漆を塗った竹の管で作られ、表側に7つ、裏側に2つの孔(あな)を持つ縦笛である。発音体にはダブルリードのような形状をした葦舌(した)を用いる』。『乾燥した蘆(あし)の管の一方に熱を加えてつぶし(ひしぎ)、責(せめ)と呼ばれる籐を四つに割り、間に切り口を入れて折り合わせて括った輪をはめ込む。もう一方には管とリードの隙間を埋める為に図紙(ずがみ)と呼ばれる和紙が何重にも厚く巻きつけて作られている。図紙には細かな音律を調整する役割もある。そして図紙のほうを篳篥本体の上部から差し込んで演奏する。西洋楽器のオーボエに近い構造である。リードの責を嵌めた部分より上を「舌」、責から下の部分を「首」と呼ぶ』。「概要」の項、『音域は、西洋音階のソ(G4)から1オクターブと1音上のラ(A5)が基本だが、息の吹き込み方の強弱や葦舌のくわえ方の深さによって滑らかなピッチ変化が可能である。この奏法を塩梅(えんばい)と呼ぶ』。『雅楽では、笙(しょう)、龍笛(りゅうてき)と篳篥をまとめて三管と呼び、笙は天から差し込む光、龍笛は天と地の間を泳ぐ龍の声、篳篥は地に在る人の声をそれぞれ表すという。篳篥は笙や龍笛より音域が狭いが音量が大きい。篳篥は主旋律(より正しくは「主旋律のようなもの」)を担当する』。『篳篥にはその吹奏によって人が死を免れたり、また盗賊を改心させたなどの逸話がある。しかしその一方で、胡器であるともされ、高貴な人が学ぶことは多くはなかった。名器とされる篳篥も多くなく、海賊丸、波返、筆丸、皮古丸、岩浪、滝落、濃紫などの名が伝わるのみである。その名人とされる者に、和邇部茂光、大石峯良、源博雅、藤原遠理(とおまさ)などがいる』。以下、「歴史」の項。『亀茲が起源の地とされている。植物の茎を潰し、先端を扁平にして作った芦舌の部分を、管に差し込んで吹く楽器が作られており、紀元前1世紀頃から中国へ流入した。3世紀から5世紀にかけて広く普及し、日本には6世紀前後に、高麗の楽師によって伝来された。大篳篥は平安時代にはふんだんに使用されていた。「扶桑略記」「続教訓抄」「源氏物語」などの史料、文学作品にも、大篳篥への言及がある。しかし、平安時代以降は用いられなくなった。再び大篳篥が日の目を浴びるのは明治時代であった。1878年、山井景順が大篳篥を作成し、それを新曲に用いて好評を博した』(「亀茲」は「くし」と読む。古代中国に存在したオアシス都市国家で、現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区アクス地区庫車(クチャ)県付近、タリム盆地北側の天山南路の途中にあった。玄奘三蔵の「大唐西域記」には「屈支國」と記される)。以下、「篳篥の製作」の項。『篳篥は楽器であり、響のよい音色と音程が求められる。篳篥の音程には寺院の鐘の音が使われる。京都の妙心寺、知恩院の梵鐘の音とそれぞれ決められている』。『楽器の音階を決める穴配りと穴あけには高度の製作技術が必要とされる。穴あけには電動錐は使われない。穴と穴に距離がある楽器ならば素材が割れないので電動錐を使えるが、篳篥は穴の間隔が近く、使う素材は枯れて古く乾燥し、農家の囲炉裏の天井で300年~350年、日々の生活の中で燻(いぶ)されたスス竹であるため非常に堅く割れやすい。紐巻上げ式で、神社の儀式で神火をおこすときに使われることでも知られる日本古来から使われてきた火熾し[やぶちゃん注:「ひおこし」と読む。]の「巻き錐」を使い、割れないように穴をあける。素材の竹は自然に育ったものなので内径、肉厚がすべて微妙に異なるため、外形の穴の位置を正確に真似ただけでは音階は決まらない。楽器として製作するため、穴配りに工夫と匠の技が求められる。感じて心に響く音を生み出すように、全ての穴配りと穴あけをしてゆく』。『素材をみて、ここと思い決めた位置に穴をあけ、吹きながら穴の形状を調整して製作してゆく。一つの穴に割れが入れば失敗であり、楽器として使えない。入手困難な素材の中から楽器に良い条件をみたすわずかな一部分を選んで作っている貴重な竹であるので、失敗は許されない緊張と迷いが生じる。吹奏し、穴を空け、調整し、吹奏する。穴をあけるときには精神集中し、ここであると思い切る勇気が必要とされる』。『漆を中に塗って音階を調整する。製作技術習得者には、音律の習得は技術習得の最初の6ヶ月間に集中して習得してしまうことが求められる。木漆と水を合せて内径をヘラで塗る。乾かして吹いて確認し、音階を調整する。集中した慎重な塗りの技術を要求される。篳篥に使われている素材は乾ききった古くもろい竹であるため、塗りに失敗すると漆の水分の乾き際に穴から下まで一直線に割れが入る。篳篥の内側の漆はこの時期のみ塗ることができ、この時期以外は塗ると割れてしまう』。『篳篥は楽器であり、割れのないことはもちろん、正しい音階、響のよい音色となるように製作される。10管作って5本が楽器として完成されれば上々の技とされる。演奏者は、演奏前に製作者が精魂こめて作った篳篥を見つめていると精神が統一されると述べる。篳篥の形は古来から大きさが決まっているので先人の作品が技術向上の参考になる。管楽器の笙は1尺7寸、13世紀の鎌倉初期までは大きな笙だったがその後は小さくなった。しかし笛と篳篥は昔から長さが決まっているのでそれ以前の昔に作られた名器が参考になる。製作者は自らの作品を作ってばかりでは技術はそこまでで止まってしまう。しかし古代から伝えられた名器を観察し工夫努力を重ねることで製作者の技術は上乗せされてさらに伸びてゆく』。『舌の材料に用いられる葦は琵琶湖、淀川から採取されることが多い。なかんずく淀川右岸の鵜殿で採取される葦は堅さ、締り共に最良とされていた。しかし環境の悪化の影響で材料に使える良質な葦の確保が難しくなっている』。『採取した葦は4,5年ほどの年月をかけ、一切の湿気を排除した場所で乾燥させる。その後、拉鋏という専門の道具を用い、火鉢の上にかざして押し潰して平滑にし、先端に和紙を貼り付ける。舌を磨く際にはムクノキの葉が用いられる』(最後の引用部は誤字を正した。「拉鋏」の読みは不明。音ならば「ラツキョウ」「ラキョウ」、訓ならば「ひしぎばさみ」「くじきばさみ」「ひきばさみ」等が考えられる。識者の御教授を乞う)。

・「吹すさみける」「すさむ」は「すさぶ」と同義で、動詞の連用形について「~し興ずる」の意となる。

・「かわし」はママ。

・「溜池」現在の東京都港区赤坂にあった旧地名。ウィキの「赤坂(東京都港区)にある記載によれば、『溜池は江戸城外濠の一部を構成していた。元々水の湧く所であり、堤を作り水を溜めるようにしたためこの名がある。その形から別名ひょうたん池とも呼ばれた。神田上水、玉川上水が整備されるまではこの溜池の水を上水として利用していた。堤に印の榎を植えたため、現在赤坂ツインタワーから駐日アメリカ合衆国大使館に上る坂道は榎坂と呼ばれる』。『宝永年間より断続的に埋め立てられ、明治時代には住宅街となり溜池町となった』。『1967年の住居表示実施に伴う町名変更により赤坂一丁目と赤坂二丁目が誕生し、溜池町は消滅。今日、溜池交差点や東京地下鉄溜池山王駅、都営バス(都01)溜池停留所などに名を残』すのみである。

・「内藤家」嘉永年間の江戸切絵図をみると、溜池地区には、「棟高き諸侯」に相当する最も広大な屋敷を持つのは日向延岡藩7万石の内藤延岡家の内藤紀伊守上屋敷及び越後村上藩5万石の内藤村上家である。「卷之二」の下限天明6(1786)年に近い以前を調べると、内藤延岡家では明和8(1771) 年に第2代藩主内藤政陽(まさあき 元文4(1739)年~天明元年(1781)年)が35歳で致仕し隠居、養子の政脩(まさのぶ 宝暦221752)年~文化2(1805)年)が20歳で相続、天明1(1781)年に政陽が45歳で死去、天明6年には第3代当主内藤右京亮政脩は36歳であった。私はこのどちらかの人物が(「時々呼れて扶持など給て、養子を呼出て今神山某とて勤仕せる也」という有意な時間経過や年齢から見て、隠居していた養父政陽の可能性が高いように感じられる)本話柄の内藤家当主ではなかったかと推測している(因みに、調べるうちにこの内藤家、私の好きな鎌倉は光明寺裏手の荒れ果てた広大な内藤家墓所の、正にあの内藤家であることを知って感慨深かったことを述べておきたい)。越後村上藩の場合は第5代藩主が内藤紀伊守信凭(のぶより 寛延元(1748)年~安永10・天明元(1781)年)、第6代藩主内藤信敦(のぶあつ 安永6(1777)年~文政8(1825)年)は天明元年に僅か5歳で家督を相続しているから、天明6年でも10歳、こちらならば内藤信凭(天明6年当時は38歳で生存)の可能性しかない。信凭としても本話柄の印象からすると私は若過ぎる気がするし、7万石内藤延岡家の方が都市伝説としてはよりインパクトがあるとも思う。但し、底本の鈴木氏注には、ほかに内藤家は七家もあると記されているから、同定は早計か。

・「風與(ふと)」は底本のルビ。

・「長屋」町人の長屋ではない。大名の江戸屋敷内にあった江戸勤番の家士が居住した長屋のこと。

・「靑樓」妓楼・遊女屋の美称。

・「扶持」扶持米のこと。主君から家臣に給与として与えた俸禄。一人一日玄米5合を標準として、当該一年分を米又は金で給付した。神山の場合、正規の家士になることは生涯固辞したものと思われるから、「事実上の扶持米」と現代語訳しておいた。

■やぶちゃん現代語訳

 稽古に精進した才人が人の心を感動させた事

 神山某は楽家(がっけ)出身の子にして、篳篥に精進致いて堪能で御座ったれど、生来の放蕩者であったがため、中年の頃には、至って困窮致いて御座った。

 ある日のこと、久し振りに小金を得て吉原町に遊び、馴染みの女の部屋で篳篥を思うままに吹き興じて御座ったところ、別な座敷に御座った如何にも裕福そうな客人が、その音(ね)を聴き及んで、

「――かの篳篥を吹ける御客人と――もし御本人苦しからざるとの趣きにて御座らば――知遇を得たいものじゃ――」

と、神山の篳篥を賞美致いた旨伝言御座ったれば、それを受けて、かの客人の座敷を訪ね、挨拶の上、再びそこにて思うがまま、篳篥吹笛に興じて御座ったところ、かの客人、その音色に甚だ感心致し、酒なんどを直に酌み交わして、

「――我らは溜池内藤家の家士○○と申す者にて御座る――近隣に参られた折りには是非ともお訪ねあられよ――」

と述べ、翌朝には立ち別れた。

 その後(のち)、神山はそんな出逢いなんど、特に思い出すことものう過して御座ったが、いよいよ暮し向きが貧の極みへと至った、そんな折り、ふと、かの御仁のことを思い出だいて、赤坂は溜池町に御座った内藤家上屋敷を訪ね、屋敷内の御家中家史の長屋へと赴き、その下役の者に、かの客人の名を告げ、面会を求めて御座った。

 下役の者より、

「何処(いずこ)より参られたか?」

と問われたので、

「……かつて、とある席にて○○殿に篳篥の吹笛を請われ、率爾乍ら御披露申し上げたこと、これ御座いましたが、かの折り、近在へ参らんには訪ぬるようにとお声掛けを頂戴致しましたれば罷り越しまして御座いました。……神山と申す者にて御座いまする……」

と来意を申した。

 すると、やがて姿を現したその○○という屋の主人、これ、吉原で出逢(お)うた御仁とは、似ても似つかぬ別人で御座った故、神山――その実、貧窮の果ての無心という気の引ける訪問にてもあればこそ――吃驚仰天、腰も立たぬほどに、ぶるぶる震えて御座るばかり。

 ところが、その○○なる者、一向に不審なる趣きもこれなく、逆に、

「……御不審の趣き……いや、それには少し訳が御座る。……暫し、お待ちあれ。……」

と、暫くの間、神山をそこに待たせておいた。

 やがてかの者に伴われ、案内(あない)されたは――その上屋敷母屋にある――一間(ひとま)の広き華麗なる御殿で御座った。

 やがて間もなく現れたお方は――正しく、あの日、青樓にて神山が篳篥に興じなさったお人で御座った。

「――よくぞ訪ねて下された――向後も度々来て、その至芸、御披露あられよ――」

とて、そのお方より、再応、篳篥御所望あり、数曲吹き上げ、その褒美の由、数々の賜わり物、これあり、その上、

「――仕官の望みがあらば――小身にてはあれど――その望み叶えん――我が屋敷に仕えるがよい――」

との仰せで御座った。

 しかし、流石に神山も恥を知って御座ったれば、

「……遊興のみに耽って参りました我が身なれば……何のものの役にも、立ち申さざればこそ……」

と固辞致いたとのことで御座った。

 なれど、その後(のち)も度々かの溜池の上屋敷に呼ばれては、篳篥を奏で、事実上の扶持米なんども賜わって御座った。 神山は、捨て置き同然にして御座った己れの養子を呼び出だいて、かの内藤家へ仕えさせて御座ったという。

 今も神山某という名にて勤仕(ごんし)しておるとのこと。 ――裕福なる御仁と見えし人は――これ、溜池のやんごとなき大名諸侯その人で御座ったのじゃった。――差し障りあればこそ、敢えてその御方の名は記さずにおこう――。

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