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2010/10/06

耳嚢 巻之三 金銀二論の事

「耳嚢 巻之三」に「金銀二論の事」を収載した。

 金銀二論の事

 

 或人曰、金銀の世に通用するいと多き事ながら、右金銀の出來立(できたち)を考れば、數千丈の地中を穿(うが)ち千辛萬苦して取出し、或はこなし或は汰りわけ、又吹立(ふきたて)吹別(ふきわけ)て漸々して筋金(すぢがね)灰吹銀(はいふきぎん)といへる物になるを、猶吹立て小判歩判銀(ぶはんぎん)とはなしぬ。最初より出來上り迄手の懸る事、人力の費へいくばくぞや。然れば壹分或ひは又壹兩の金を遣ふも容易に遣ふべきにあらずといふ。尤成事也。又或人の曰、金銀の出來立は甚だ人力を費し漸くにして通用なす程になす。かゝる寶を少しも貯へ置べきやうなし、隨分遣ひて世に通用せんこそよけれといひし、是も又尤也。何れを善としいづれを非とせん。しかしながら金銀の貴き事のみを知りて、たやすく出來ざる事のみを思ひて、世の中の肝要其身の樞機(すうき)をも不顧、一金一錢を惜しみ親族知音(ちいん)の難儀をも不思、金錢を貯へ衣食住も人に背きて賤(いやし)からんは、是守錢の賊といふべき也。しかはあれど私の奢りに千金を不顧酒色に遣ひ捨んは、是國寶の冥罰(みやうばつ)も蒙りなん。世の中に武器を賣りて色欲に費し、升秤を賣て酒の價とし、農具を質入して美服をなす士農商の類ひも少なからず。心得有べき事也と爰にしるしぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:佐渡金山実録物連関であるが、内容は根岸の鋭い社会への批評眼と、その絶妙のバランス感覚を持った論理的思考が伝わってくる、真摯な経済哲学論である。

・「數千丈」1丈=約3.03mであるから、例えば「數千丈」の下限を二千丈≒6㎞、上限を八千五百丈≒26㎞弱と仮定しても、実際の佐渡金山の坑道総延長は実に400km以上に及んでおり、遙かに過小評価している。勿論、これを地上からの垂直距離とするなら、たかだか約350mである(しかしこれは有に海面下数mにまで達するもので、故にこそ前話に語られる水替の作業が必要になってきたのであった。当時の技術としても非常に深い地底にまで掘り進んでいると言える)。しかし、通常、鉱山の深さは坑道距離を言うのが普通であるから、ここはやはり、誇張表現どころか、根岸さん、佐渡奉行としては大いに不勉強ですぜ、と言わざるを得ない。

・「こなし」これは精錬行程の初期段階に行われる「粉成し」作業のこと。ブログ「佐渡広場」の「歴史スポット55:佐渡金銀山絵巻の意味」に以下の詳細な記載があった。

 《引用開始》

(4)荻原三雄:「金銀山絵巻に見る鉱山技術ー採鉱から選鉱(粉成)の世界ー」

採掘された金銀鉱石はその後粉砕される。この選鉱工程を粉成(こなし)ともいう。この粉成には佐渡金銀山絵巻にみる「ねこ流し」の技法と岩手県金沢金山絵巻にみる「セリ板採り」の技法がある。この二つの技術系統は、江戸時代前期にはすでに成立していたようで、秋田藩士の黒沢元重が元禄4年(1691)に著した「鉱山至宝要録」の中に「金鉑(きんぱく)の荷、焼て唐臼にてはたき、石臼にて引、夫(それ)を水にてなこなりせり板にて流し、木津にて舟の如く成物へ洗ひため置き、是を打込と言ひ、更に板にゆり、金砂を取り、紙に包み、かはらけ様に、土にて作りたる物の内へ、鉛を合せ、いろりの内にても口吹すれば、黄金に成るなり」と見えることからも理解できる。ただし、なぜ、この二つの技術が並存していたのか、いまだ未解明である。

 粉成には鉱山臼が用いられる。搗(つ)く・磨(す)る・挽(ひ)くの三つの態様に応じた搗き臼・磨り臼・挽き臼と呼ばれる鉱山臼によって微粉化される。なかでも佐渡の挽き臼は大きく、しかも上臼と下臼の石質を変えるなど、他の鉱山に比べ特徴的である。石見銀山のように挽き臼がほとんどなく、「要(かなめ)石」という搗く・磨る専用の臼で粉成されていたところもあり、各地の鉱山ではそれぞれの鉱山臼を巧みに使い分けていたようである。粉成された鉱石は引き続き、鉛などを使い製錬していった。

 佐渡金銀山絵巻などにはこうした鉱山技術がじつに詳細に描かれており、往時の鉱山世界を浮かびあがらせている。

 《引用終了》

『水にてなこなり』の部分、意味不明であるが、「水にて粉成し」ということであろう。

・「汰(よ)りわけ」「汰」には「よる」という訓はないが、「洗う。洗い除く。」の意、及び「汰(よな)ぐ」「汰(よな)げる」と訓じて、淘汰の意、則ち「水で洗って悪い部分を取り去る。劣悪な部分を選び分けて取り去る、選び取る。」の意を持つので、所謂、水の中で笊や籠で揺すって選別する作業(恐らく前注で引用した「鉱山至宝要録」の部分の『板にゆり、金砂を取り』の部分)に相当する語と考えられる。

・「吹立吹別」製錬作業のこと。鉱石から目的とする金属を分離・抽出し(これが「吹別」。「吹分」とも書く)、精製して鋳造・鍛造・圧延用の地金とすること。鞴を用い、強力な風力で火を掻き立てて行うことから、かく言うのであろう。

・「筋金」「すじがね」とも「すじきん」とも読む。精錬の粉成し吹き立て吹き分け作業後、の成品。金鉱石から製錬したものを面筋金、銀を主成分とした鉱石を製錬した山吹銀を分筋金と呼んだ。

・「灰吹銀」山吹銀は中に金を含んでいるため、灰吹法により更に銀純度を高めて製錬された銀地金を言う。以下、ウィキの「灰吹銀」より一部引用する。『銀を含有する黄銅鉱などの鉱石に鉛または方鉛鉱を加え、鎔融すると銀は鎔融鉛のなかに溶け込む』。『また銀を含有する荒銅(粗銅)を鎔融し鉛を加え、徐々に冷却し800℃前後に保つと、鉛に対する溶解度の小さい精銅が固体として析出し、依然鎔融している鉛の中には溶解度の大きい銀が溶け込んでいる』。『さらに鉛の鉱石である方鉛鉱も0.10.2%程度の銀を含んでいるのが普通であり、取り出された粗鉛地金にも少量の銀が含まれる』。『この銀を溶かし込んだ鉛は貴鉛(きえん)と呼ばれ、鎔融した状態で精銅などから分離され、骨灰製の坩堝で空気を吹きつけながら鎔解すると、鉛は空気中の酸素と反応し酸化鉛となり骨灰に吸収され、酸化されない銀が残る』。『これが灰吹銀で』、『荒銅から灰吹法により銀を取り出す作業は特に南蛮吹(なんばんぶき)あるいは南蛮絞(なんばんしぼり)と呼ばれ、取り出された灰吹銀は絞銀(しぼりぎん)と呼ばれた』。『これらの灰吹銀は極印が打たれ、また打ち延ばされたものは、それぞれ極印銀および古丁銀と呼ばれ、この秤量銀貨は領国貨幣として流通し、江戸時代の丁銀の原型となった』。『戦国時代から江戸時代前半に掛けて、ソーマ銀(佐摩、石見)、ナギト銀(長門)、セダ銀(佐渡)等といわれる灰吹銀が貿易決済のため多量に海外へ流出し、幕府は長崎において良質灰吹銀の輸出を監視したが、17世紀の間に丁銀を合わせて110万貫(4,100トン)を超える銀が流出したという』。『銀座における銀地金の調達法には二通りあり、幕領銀山からの上納灰吹銀は公儀灰吹銀(こうぎはいふきぎん)または御灰吹銀(おはいふきぎん)と呼び、これを御金蔵から預り吹元にして丁銀を鋳造し吹立高の3%を銀座の収入とし、残りを御金蔵へ上納した御用達形式があり、他方、幕領以外の銀山、私領銀山から銀座が買入れ、丁銀を鋳造する場合は買灰吹銀(かいはいふきぎん)もしくは諸国灰吹銀(しょこくはいふきぎん)と称した』。『江戸時代初期、石見銀山、蒲生銀山、生野銀山、多田銀山、院内銀山の産銀は最盛期を迎え、また佐渡金山も金よりも寧ろ銀を多く産出した』。

『これらの鉱山から産出される銀は灰吹銀として銀座に買い上げられたが、その銀品位に応じて買い上げ価格が定められた。純度の高い上銀は南鐐(なんりょう)と呼ばれ、さらに精製度の高いものは花降銀(はなふりぎん)と呼ばれた。純銀は鎔融すると空気中の酸素を溶かし込み、凝固時にこれを放出して花が咲くように痘痕になるからである』。『このような最上級の銀地金は、1.1倍の慶長丁銀でもって買い入れられたため、一割入れと呼ばれた。慶長丁銀は銀を80%含有するため、1.1倍であれば0.8×1.10.88となり、この12%分が銀座の鋳造手数料などに相当した』。『90.91%の銀を含有する地金は0.9091×1.11.00となり、同質量の慶長丁銀で買い入れられるため、釣替(つりかえ)と呼ばれ』、『85%の銀を含有する地金であれば、0.85×1.10.935となり、六分五厘引きとなった』。『「明和諸国灰吹銀寄」による各銀山より山出しされた灰吹銀の品位の例を挙げると、津軽銀は三分引き(88%)、院内銀山の秋田銀は二分入れ(93%)、佐渡印銀は一割入れ(上銀)、因幡銀は五分引き(86%)、雲州銀は一割引き(82%)となっている』(原文の書名の『 』を「 」に変えた。以下同じ)。『公儀灰吹銀の場合では、「官中秘策」にある銀座の書上の記述には佐渡、但馬の御銀は100貫につき銅20貫加え、石見御銀は100貫目につき銅22貫を加え丁銀を吹立たとあり』、『計算上では佐渡、但馬の灰吹銀は銀含有率96.0%、石見の灰吹銀は97.6%ということになる』。

・「歩判銀」一分判金のこと。一分金(いちぶきん)とも。金貨の一種。注意すべきは「一分銀」とは違うことである。一分銀はずっと後、幕末に登場する天保一分銀以降の、当該同類銀貨の呼称である。以下、ウィキの「一分金」より一分、じゃない、一部引用する(記号の一部を変更した)。『金座などで用いられた公式の名称は一分判(いちぶばん)であり』、『「三貨図彙」には一歩判と記載されている。一方「金銀図録」および「大日本貨幣史」などの古銭書には一分判金/壹分判金(いちぶばんきん)という名称で収録されており、貨幣収集界では「一分判金」の名称が広く用いられる。また天保8年(1837年)の一分銀発行以降はこれと区別するため「一分金」の名称が普及するようになった』。『形状は長方形。表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、中部に「一分」の文字、下部に五三の桐紋が刻印されている。一方、裏面には「光次」の署名と花押が刻印されている。これは鋳造を請け負っていた金座の後藤光次の印である。なお、鋳造年代・種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されている』。『額面は1分。その貨幣価値は1/4両に相当し、また4朱に相当する計数貨幣である。江戸時代を通じて常に小判と伴に鋳造され、品位(金の純度)は同時代に発行された小判金と同じで、量目(重量)は、ちょうど小判金の1/4であり、小判金とともに基軸通貨として流通した』。『江戸期の鋳造量は、小判金と一分判金を合わせた総量を「両」の単位をもって記録されており、本位貨幣的性格が強い』。『これに対し、一朱判金、二朱判金、二分判金は、純金量が額面に比して少ないことから補助貨幣(名目貨幣)の性格が強かった(ただし、元禄期に発行された元禄二朱判金は、一分判金と同様に本位貨幣的である)。京師より西の西日本では俗称「小粒」といえば豆板銀を指したが、東日本ではこのような角型の小額金貨を指した』。『慶長6年(1601年)に初めて発行され、以後、万延元年(1860年)までに10種類鋳造されたが、幕府および市場の経済事情により時代ごとに品位・量目が小判金と同様に改定されている。また、江戸時代後期には、一分金と等価の額面表記銀貨、一分銀が発行されて以降、一分金の発行高は激減した』。「銀」という本話の表記に疑問を持つ向きもあろうが、「銀」は銀貨以外に、広義の錢(ぜに)の意でもあるから、言い立てるには及ばないと考えてよいように思われる。

・「樞機」「枢」は戸の枢(くるる:戸を閉めるための戸の桟から敷居に差し込む止め木又はその仕掛け。おとし。)、「機」は石弓の引き金で、物事の最も大切な部分。要め。要所。肝要。枢要。

・「是國寶の冥罰も蒙りなん」の「ん」は婉曲の助動詞「む」である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 金銀に就いての二つの議論の事

 

 ある人曰く、

「……金銀の、世に流通するその量たるや甚だ膨大なものにて御座るが、その金貨銀貨鋳造の成り立ちを慮るならば――則ち、数千丈に地中を穿ち、人々が千辛万苦の血の小便(しょんべん)を流して掘り取りて、或いは砕いて粉と成し、或いは揺り分け選り分け、また、火にて吹き立て、吹き分けて、漸っと筋金や灰吹銀という物と成る。それをまた、金座銀座にて吹き溶かして小判や一分判金とは成すので御座る。――この鉱石採掘の最初より金貨銀貨出来上がる迄、どれほどの手間、労力が消費されることであろう、それはもう、想像を絶するものにて御座ろうぞ。さすれば一分、または一両の金を使うにしても、ほいほいと容易く使うべきものにては、これ、御座ない。心してその粒粒辛苦を思うべしじゃ。……」

と。

 尤もな意見で御座る。

 また、ある人曰く、

「……金銀は成り立ちは甚だ多くの労力を費やして、漸っと金貨銀貨と成り広く世間に流通するようになる物にて御座る。さればこそ、このような世の宝はビタ一文なりとも無駄に貯え置いてよいはず、これ、御座ない。――青砥藤綱の故事にもある如く、あたら死に金とせず――十全に使い廻し使い廻しし、更に広う広う世に流通させることこそ、これ、良きことにて御座る。……」

 これもまた、尤もな意見で御座る。

 では、さても――何れを善とし、いずれを非とすべきで御座ろう。

 まずは前者への反論を致す。

 その、金銀成立の労苦を知り、それを尊崇し大切に致すべしという、その考え方、これは基本的には正しい――しかし乍ら、その主張の視線は、ただ金銀が入手し難い貴金属であること、金貨銀貨が容易く出来ざる物であるということ、それのみに向けられたものであり――世の中にとって欠くべからざる肝心なる流通経済ということ、またその身の地位家柄及び人としての世に於ける役分とは何かといった、何よりも肝要なる人倫の道を顧みることなく――一金一銭を惜しみ、親族知人の困窮の難儀をも何処吹く風と、金銭を貯え、己れのみの衣食住の豊かなればよしとて、人の道に背いて御座るような魂の賤しい者――これ、人でなしの守銭奴、とも言うべき輩である。――

 さて、翻って後者への反論に移ろう。

 その、世の枢要とも言える流通経済の円滑発展を第一に図るべしという、その考え方、これは基本的には正しい――とは言え、私利私欲に奢り、あたら貴重な千金を惜しむことなく――湯水下痢便を垂れ流す如くに酒色に使い捨つるような輩――これ、国の宝たる金銀を蔑(ないがし)ろにする人非人として、必ずや、天罰を蒙るものである。――世の中には、武士でありながら、武具を売って色欲に注ぎ込み、商人でありながら、升や天秤を売り払って酒代とし、農民でありながら、農具を質入して奢侈なる服を着て酔うておる愚かな類いも、これ、少なくはない。――

 以上、金銭なるものに対し、心得ておくべきと、私の思うておることなれば、ここに記しおくものである。

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