耳嚢 巻之三 未熟の射藝に狐の落し事
「耳嚢 巻之三」に「未熟の射藝に狐の落し事」を収載した。
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未熟の射藝に狐の落し事
予が親しき弓術の師たる人の語りけるは、或る出入の輕き者の悴を召連來りて、此者に狐付て甚難儀の由、蟇目(ひきめ)とかいへる事なして給り候へと歎きける故其樣を見しに、實(げに)も狐の付たると見へて、戲言(ざれごと)などいふてかしましく罵りける故、蟇目は潔齋の日數もありて急には成がたし、然し工夫こそあり、置て歸るやう申付て、則彼狐付を卷藁の臺へ縛り付て、子供其外弟子共へ申付て、さし矢を數百本いさせけるに、暫くは叫び罵りしが、後は靜に成て臥しけるに、果して狐は落にけり。子供弟子抔蟇目の法しるべきにあらず、未矢所も不極未熟故、風(ふ)としては卷藁をもはづれ候事度々ある事なれば、狐も其危きを知り、且さし矢の事なれば誠に少しのゆとりもなく、弦音矢音烈しければ、落んもむべ也と語りぬ。おかしき事にてありし。
□やぶちゃん注
○前項連関:不可思議の夢兆から、不可思議の狐憑き、それを落す摩訶不思議な呪法で連関するが、ここではその「蟇目」の呪術なんどは、全く使わず、美事に『狐憑き』を『落す』である。この子倅、一時的な一種の精神錯乱か神経症であったものか、若しくは親を困らすための佯狂(ようきょう)ででもあったものか、その辺のことをすっかり見抜いて、この弓術の先生、かの施術を行っているように、私には思われる。根岸もその辺りを「おかしき事」と言っているのではなかろうか。
・「蟇目」日本大百科全書(小学館)の入江康平氏の「蟇目」より引用する(「4・5寸」を「4、5寸」に変えた)。『引目・曳目・響矢などとも』長さ4、5寸(大きいものでは1尺を越えるものもある)の卵形をした桐(きり)または朴(ほお)の木塊を中空にし、その前面に数箇の孔(あな)をうがったもので、これを矢先につけ、射るものを傷つけないために用いた。故実によると、「大きさによって違いがあり、大きいものをヒキメといい小さいものをカブラという」とあるように、もともと同類のものであったようである。その種類には犬射(いぬい)蟇目、笠懸(かさがけ)蟇目などがある。またその名の由来については前面の孔が蟇(ひきがえる)の目に似ているという説や、これが飛翔(ひしょう)するとき異様な音響を発し、それが蟇の鳴き声に似ているとされることから魔縁化生のものを退散させる効果があると信じられ、古代より宿直(とのい)蟇目・産所蟇目・屋越(やごし)蟇目・誕生蟇目などの式法が整備されてきた。今日でもこの蟇目の儀は弓道の最高のものとして行われている』とある。ここでは矢そのものではなく、蟇目の矢を用いたそうした呪術としての「蟇目」の呪法を、かく呼んでいる。
・「實(げに)も」は底本のルビ。
・「卷藁」巻藁は弓術に於ける型の稽古用に作られた的のこと。藁を長手方向に矢が突き抜けず、且つ矢を傷めない程度の強さで束ねて相応の高さの台に乗せたものを言う。以下、参照したウィキの「巻藁(弓道)」から一部引用する。『見た目は米俵に似ているが、中身に何か入っている訳でなく、藁を必要な量束ねて藁縄で巻き締めてあるのみである。巻き締めは相当な力で締めてあり、一度バラせば人間の力で元に戻すのは難しい。巻藁の直径は30cm〜50cm、奥行きが80cm程度あり、巻藁の中心が肩先程の高さに来るよう、また重量があるため専用の巻藁台に据え置く。安全の為には巻藁はある程度大きい方が良く、巻藁の後ろには矢がそれた時のために畳を立てるのが好ましい。型稽古の為に射手の正面に大鏡を置く事もある。巻藁で行射中は射手より巻藁寄りへは出ない、近付かない等注意が必要である』。
・「さし矢」弓矢を番えては放ち、番えては放ち、文字通り、矢継ぎ早に次々と続けて矢を射ることを言う。
・「風(ふ)と」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
未熟の射芸に逆に狐が恐れて落ちた事
私が親しくして御座る弓術の師であるお方が語って下さった話にて御座る。
ある時、師の屋敷へ出入りしておった軽(かろ)き身分の男が、己(おの)がの子倅を召し連れて参ると、
「……こ奴に……狐が憑きまして……甚だ難儀致いて御座いまする……噂に聞いて御座いますところの……かの蟇目とやらん呪(まじな)いを施してやっては……戴けませんでしょうか……」
と切に歎き縋って御座れば、まずはその子の様子を窺って見たところが――成程、如何にも『狐が憑いておる』と見えて、訳の分からぬことを喚(おめ)き叫んで、何やらん、下卑たことを、喧(かまびす)しく口に致いて、五月蠅きこと、これ、話にならず。
それを見てとったかの師、
「――蟇目の法にては、それを執り行(おこの)うための精進潔斎のための日数(ひかず)、これ、必ず必要にて御座ればこそ――今直ぐに施術致す訳には、これ、参らぬ。……然し、拙者、一つ、工夫これあればこそ――まあ……倅をここに預けて、帰るがよい。……」
さて、師は親御が帰ったのを見計らうと、後に残った倅の襟首を荒々しく摑むや、矢の稽古のための巻藁の的を据えた台まで引きずって行き、そこへ雁字搦めに縛り付けると、己(おのれ)の子供や未だ未熟なる弟子ども総てに申しつけ、
「――稽古――始めぃ!」
とさし矢を――実に数百本も――かの的へ――射させる――
「……ぎゃん゛! こん゛! ごん゛!……人殺シィ! 人デ無シィ! 糞爺ィ!……ぎょほ! ぐをっほ!……あ゛~!!…………」
なんどと『狐が憑いた』子倅――暫くは恐れ叫び――狐の如き高き声にて罵しって御座ったが……やがて静かになったと思うたら……ころんと気を失(うしの)うておった。――
――そうして――果して狐はきれいさっぱり――落ちて御座った、とのこと。――
勿論、かの子供や弟子ども、蟇目の法など知る由もない。
それどころか、未だ己(おの)が放った矢が何処(いずこ)へ飛び、何処へ刺さるか、これもまた、まるで分からぬ未熟者ども故……いや! ふとした弾みには……巻藁をも大きに外るること……これ、度々あることなればこそ……『狐の奴』めも……その危うきを知り、且つ、さし矢にてあれば……落ち着いて考え、言わんこと択ぶゆとりも無(の)う……弦音(つるおと)矢音の激しきに、堪らず落ちたもむべなるかな!……いやいや! 誠に可笑しい話で、御座ろう?!