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2010/10/01

耳嚢 巻之三 安藤家踊りの事

「耳嚢 巻之三」に「安藤家踊りの事」を収載した。

 安藤家踊りの事

 安藤對馬守家に家の踊りといふ事あり。御先代御覽にも入りし事故、今に右家にて絶ず右の踊を覺へ習ふ事成由。予が同僚也し江坂某、當安藤公寺社奉行の節見物なしける事ありしと語りけるが、至て古風なるものにて五七番も有る由。亂舞(らんぶ)などに似寄りて亂舞とも違ひ、謠ひもの節も事かはり、多く鼓をあいしらふ事の由。年若の近士の内抔へ申付其藝を施し候事なるが、當時の風と違ひよろづ古風なる事ゆへ、みな/\嫌ふといへども、家の踊ゆへ絶ず其業を殘し置(おか)れける由。古雅なる事にてありしと語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:大身独特の食味から、やはり大身独特の御家芸伝承で直連関。

・「安藤家」三河安藤氏。以下、ウィキの「三河安藤氏」から一部引用する。『元は三河国の土豪。安藤家重は松平広忠(徳川家康の父)に仕えていたが、天文9年(1540年)に三河安祥城に攻め寄せてきた織田信秀との攻防戦のさなかに討死』。『家重の子の安藤基能は、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで武田軍相手に討死した』。以下、「三河安藤氏嫡流」の項(信成は嫡流ではないことを示すために引用しておく)。『基能の嫡男安藤直次は、祖父や父のように志半ばで討ち死にする事もなく、戦乱の世を生き抜いた』。『直次は家康の側近として活躍し、慶長15年(1610年)には家康の命により徳川頼宣(長福丸)付の家老に任じられたが、その後も幕政に参与していた。元和3年(1617年)には、遠州掛川城主となり、掛川藩2万8,000石の所領を与えられた。元和5年(1619年)に頼宣が紀伊国に移ると、同国田辺城に3万8,000石の所領を与えられ、以後幕末まで続いた』。『ちなみに、江戸幕府で老中等の要職を歴任した重信系の安藤氏が嫡流と誤認されがちであるが、嫡流は紀伊田辺藩主を務めた安藤氏である』。以下が信成の「重信系」安藤氏の項。『直次の弟安藤重信(安藤基能の次男)も、元和5年(1619年)にはそれまでの領地である下総国小見川2万石から加増移封されて、上野国高崎5万6000石の藩主となっている。幕府の要職を務め、安藤氏嫡流よりも石高が高いため安藤氏の嫡流と誤認されるが、三河安藤氏の分家筋にあたる』。『小見川藩、高崎藩、備中松山藩、加納藩と移封を繰り返した後、磐城平藩で明治維新を迎えた』。『幕末に公武合体を進めた老中の安藤信正は、磐城平藩の出身である』とある。以下、歴代の当主の名。この中の安藤信成以前に「踊り」のルーツがあるはず。

   《引用開始》

安藤重信

安藤重長

安藤重博

安藤信友

安藤信尹

安藤信成

安藤信馨

安藤信義

安藤信由

安藤信正

安藤信民

安藤信勇

   《引用終了》

一応、家祖安藤重信(弘治3(1557)年~元和7(1621)年)についてウィキの「安藤重信」より一部引用しておく。彼、なかなかの豪傑である。『徳川家康に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属して真田昌幸(西軍)が守る信濃国上田城攻めに参加した。慶長16年(1611年)、奉行に任じられ、翌年12月には下総国小見川に2万石の所領を与えられ、大名となった。慶長19年(1614年)、大久保長安事件で大久保忠隣が改易されたとき、高力忠房と共に小田原城の受け取りを務めた』。『同年、冬からの大坂の役には冬、夏とも参戦し、夏の陣では大野治房率いる豊臣軍と戦ったが、敵の猛攻の前に敗退した。元和5年(1619年)、上野国高崎5万6,000石及び近江国山上藩1万石へ加増移封された。同年、福島正則が改易されたとき、広島城に向かって永井直勝とともにその後の処理を担当した。元和7年(1621年)6月29日、65歳で死去。家督は養子・重長が継いだ』。『怪力伝説があり、前述の広島城受け取りの際、船から落ちた共の者を掴んで助けた時に、ちょっと掴んだだけなのに掴まれた部分が痣になって後々まで残ったとか、小姓にたくさんの鎧や銃を担がせ、その小姓を碁盤に乗せ、その碁盤を担いで城内を一周したという伝説もある』。ただ、古雅な舞踊とあるのは、どうもこの始祖の荒武者と一致しない。そこでその後の藩主をウィキで手っ取り早く辿ってみた。すると重信系の安藤家4代目に、如何にもそれっぽい人物が出現する。安藤信友(寛文111671)年~享保171732)年)である。これを参考までにウィキの「安藤信友」より一部引用しておく。『備中松山藩の2代藩主、のち美濃加納藩の初代藩主となった。また、徳川吉宗の時代に老中を務めた。文化人としても名高く、特に俳諧では冠里(かんり)の号で知られ、茶道では御家流の創始者となった』先代『安藤重博の長男』。子が次々に『早世したため、祖父の弟の子にあたる安藤信周を養子として迎え』ている。『天和元年(1681年)1028日、11歳のときに初めて将軍綱吉に拝謁する。貞享2年(1685年)、長門守に叙任。元禄11年(1698年)8月9日に父が死去し、10月3日、幕府の許しを得て備中松山藩(6万5000石)藩主の地位を継いだ。宝永元年(1704年)に奏者番となり、同6年(1709年)には寺社奉行を兼任する。宝永8年(1711年)2月15日、美濃加納藩(美濃国内に6万石、近江国内に5000石の計6万5000石)に転封される。正徳3年(1713年)に寺社奉行を辞めるが、享保2年(1717年)に再び寺社奉行となる。翌年、大坂城代となり、享保7年(1722年)、8代将軍・徳川吉宗から老中に任じられ、享保の改革の推進に関与した』。『享保12年(1727年)6月7日、跡継ぎとなるべき養子の信周が死去した後、同月22日、信周の長男信尹を跡継ぎとすることを幕府に許される。享保17年(1732年)6月に病に伏せ、7月25日に62歳で死去し』たが、彼は文化人としての側面を強く持ち、特に俳諧では『宝井其角に師事し、水間沾徳などとも交流があった。さまざまな書物でたびたび紹介され、もっともよく知られた句は、雪の降る寒い日に駕籠で江戸城へ登城する途上で、酒屋の丁稚小僧が薄着で素足の姿で御用聞きをして回っているのを見かけてよんだものである。

  雪の日やあれも人の子樽拾ひ

「樽拾ひ(たるひろい)」とは酒屋の丁稚のことで、自分の子にはとてもまねさせられないが、あの丁稚も同じ人の子なのにとても不憫である、という意味である。

また、信友が藩主だった頃の備中松山藩内では、俳諧が流行した』とある。なかなかいい発句である。他にも茶道にも熱心で、『はじめ織部流であったが、後に米津田盛の二男米津田賢の門人となり、千利休からそのままの形で細川三斎(忠興)、一尾伊織、米津田賢へと伝えられてきたとされる三斎流(一尾流)を学んだ。その後、三斎流を基本として織部流を組み合わせることで独自の流儀を確立させた。これが安藤家で「御家流」として代々伝えられて、今日に至』っている、とある。この記載から、どうも古雅の乱舞の臭いの元凶は(失礼!)、この、本話に登場する安藤信成の祖父に当るところの安藤信友を始祖とするものではなかったろうか、と私は推測するのである。識者の御意見を乞う。

・「安藤對馬守」安藤家6代安藤信成(寛保3(1743)年~文化7(1810)年)のこと。寺社奉行・若年寄・老中を歴任した。以下、参照したウィキの「安藤信成」より一部引用する。『美濃加納藩第3代藩主で、陸奥磐城平藩初代藩主』。父の安藤信尹(のぶただ 享保2年(1717)年)~明和7(1771)年)は『乱行が原因で隠居を命じられ、宝暦5年(1755年)に信成が家督をつぐことになった。懲罰の意味もあって、安藤家は間もなく、加納6万5,000石より陸奥磐城平藩5万石に減転封させられた。その後、幕府内では寺社奉行、若年寄を経て、寛政5年(1793年)に老中に就任。在任中の功績に免じ、没収されていた美濃領のうち1万7,000石を加増され、都合6万7,000石となる』。『藩政として瞥見すべき点は、平に入封後、藩校・施政堂を城下の八幡小路に創設した点である。ここでは漢学、四書五経、国語、小学、通鑑、習字をはじめ、兵法・洋学が教育された。文化7年(1810年)死去。信成には長男・信厚があったが廃嫡し、次男・重馨に家督を継がせた』。以下、略歴。

   《引用開始》

1743年(寛保3年) 生誕

1755年(宝暦5年) 家督をつぐ

1756年(宝暦6年) 磐城平に転封

1781年(天明元年) 5月11日 寺社奉行

1784年(天明4年) 4月15日 若年寄

1793年(寛政5年) 8月24日 老中

1810年(文化7年) 5月14日 死去

   《引用終了》

これにより、信成が寺社奉行であったのは、天明元(1781)年5月11日から天明4(1784)年4月14日迄であった事が分かる。この頃、根岸は勘定吟味役であった(ぎりぎり最後で天明4(1784)年3月に佐渡奉行に昇進している)。

・「御先代」安藤家先祖の謂いであろう。将軍家御先代の意にも取れぬことはない。その場合は、執筆時が第十代将軍徳川家治(将軍在位は宝暦101760)年から天明6(1786)年迄)の父である第九代徳川家重ということになるが、今までの訳注作業で感じることとして、根岸は(少なくともここまでの「耳嚢」の中では)、執筆時の当代将軍家(ここまでは主に家治になる。家重の在位は根岸の生れる前の延享2(1745)年から隠居する宝暦101760)年5月13日までで、この時根岸は未だ24歳であった)を起点とした物謂いを殆んどしていないように思われる。従って、ここは前者で採る。

・「御覽」将軍家への直々の披露。

・「江坂某」諸注注せず。本話柄の数年後の佐渡奉行時代に本巻が記されているが、その中で直接体験過去で「同僚」であったという以上、これは前任職であった勘定吟味役時代の同僚である。勘定所勘定吟味役は旗本・御家人から抜擢される中間管理職としては上位のもので、勘定所内では勘定奉行に次ぐ地位、更に勘定奉行次席ではなく老中直属でもあった。定員は4~6名とあるから、この「江坂某」もその内の一人に違いない。相応の実質的地位と、その社会的な立ち回りの巧みなる才能の持ち主と思われるが(でなくては大名諸侯本人の舞いを見られようはずもない)、後半でやや問題のある安藤家家士連中の本音を語っているので、変名にしてある可能性も考え得る。しかし、実はここに一人、丁度その頃、江坂姓で勘定吟味役を勤めていた可能性が高い人物がいる。ネット検索によって個人ブログ「『鬼平犯科帳』Who's Who」の「『よしの冊子』中井清太夫篇(3)」の記載の中に見出した人物で、江坂孫三郎正恭(まさゆき 享保(1720)年~天明4(1784)年)という。同記事中に、彼は評定所留役兼任で百五十俵とも記されているが、これは当時の根岸家の家禄と全く同じである。先に記したように本話柄は天明元(1781)年5月から根岸が佐渡奉行となる天明4(1784)年春迄に限定される。この江坂孫三郎正恭が本話の江坂某であったとしたら――私はその可能性が極めて高いと今は感じているのだが――根岸は4347歳、江坂正恭は6165歳であった。家士の本音を引き出す辺り、この根岸の大先輩に当る老練な同僚ならでは、という感じがしてこないだろうか? 識者の御意見を乞うものである。

・「寺社奉行」寺社領地・建物・僧侶・神官関連の業務を総て掌握した将軍直属の三奉行の最上位である。譜代大名から任命された。

・「五七番」五曲から七曲という謂いは如何にもお洒落じゃないし、「もあるよし」とはならないからあり得ない。武家とはいえ、剣法に擬えれば七曲は覚えられよう。五十七曲であれば確かに「もある」に、うんざりということにもなろうが、これでは多すぎて素人の覚える域を遙かに越えているように思われてならない。また根岸はこうした場合、一般には「十」を入れて書く(脱字・省略でないと言えないが)。さすればこれはよくある掛け算で三十五曲の謂いであろう。それならば十分に「もある」と言っておかしくはないし、三十五曲の舞踊を覚えるのは素人には無理とは言えないが、甚だキツいとも思うのである。

・「亂舞」「日本大百科全書」(小学館)によれば(読みの一部を省略した)、『とくに定まった型や曲はなく、歌や音楽にあわせて自由奔放に手足を動かして舞い踊るものをいう。平安末期から鎌倉時代にかけて、公家貴族の殿上淵酔(てんじょうえんずい)で乱舞が盛んに行われたが、このときの乱舞は朗詠、今様や白拍子、万歳楽などを取り入れて歌い舞われた。このような殿上淵酔の乱舞は猿楽ともいわれ、やがて専業の猿楽者の演ずる猿楽をも乱舞といった。乱舞はその後の猿楽能はじめ、さらには風流踊にも影響を与えたと思われるが、具体的なことは不明である。なお、能楽の乱舞(らっぷ)は一曲のうちの一節を舞うことをいったようである』とある。「殿上淵酔」とは清涼殿に殿上人を招いて行われた酒宴のこと。但し、ここで江坂が言っているのは、記載の最後にある能の各曲の合間に幕間狂言の一つとして行われたそれを指して言っているのではないかと思われる。それにしても乱舞――らっぷ――ラップ――rap……たあ、ゴロの妙だね!

■やぶちゃん現代語訳

 安藤家家伝の踊りの事

 安藤対馬守の主家には『家の踊り』と申す家伝の舞踊、これ、伝わって御座る。

 御先祖が上様の御覧(ぎょらん)に入れたということも御座って、今にても、かの安藤家にて、代々この踊りを覚え習うこと、お家のしきたりとなって御座る由。

 勘定吟味役を勤めて御座った折りの私の同僚江坂某が、かの安東公が寺社奉行をお勤めになられて御座った折り、その踊りを拝見致いたことが御座ったとて、以下、江坂殿の語りしことにて御座る。

「……それは、さても至って古風なる舞いにて御座っての……曲の数とては、何とまあ、三十五番も御座る由。……乱舞(らっぷ)などの如くにも見ゆれど……乱舞にては御座ない、……謡いの節にても、尋常なるものにては御座ない、これまた、如何にも独特なものにて……三十五番殆んどの曲にては、主に鼓(つづみ)をあしろうて舞うとの由。……さても、安藤家御家中の知れる者の話によれば……年若の近侍の武士どもにも申しつけてその芸を教え伝えておらるれど……当世風の踊りとは違(ちご)うて……これがまた、徹頭徹尾、古風なる舞いなれば……実は……皆々、厭い嫌うて御座るとのとじゃ。……とは言うても、主家家伝の踊りなればやはり代々、その技芸を承伝致いおいて御座る、とのことで……いや、確かに! 誠(まっこと)……退屈なる……いや、これは失言、失言……古雅なる、舞いにては御座ったのう……。」

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