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2010/10/15

耳嚢 巻之三 橘氏狂歌の事

「耳嚢 巻之三」に「橘氏狂歌の事」を収載した。

 橘氏狂歌の事

 橘宗仙院は狂歌の才ある由聞し。一とせ隅田川御成の御伴にて、射留の矢を御小人(おこびと)の尋ありけるを見て、

  いにしへは子を尋ける隅田川今は小人がお矢を尋(たづぬ)る

當意即妙の才なりと人のかたりぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。

・「橘宗仙院」岩波版長谷川氏注に橘『元孝・元徳(もとのり)・元周(もとちか)の三代あり。奥医から御匙となる。本書に多出する吉宗の時の事とすれば延享四年(一七四七)八十四歳で没の元孝。』とある。このシーン、将軍家隅田川御成の際に鳥を射た話柄であるから、狩猟好きであった吉宗という長谷川氏の橘元孝(もとたか 寛文4(1664)年~延享4(1747)年)の線には私も同感である。この次の話柄の主人公が吉宗祖父徳川頼宣で、次の次が吉宗であればこそ、そう感じるとも言える。底本鈴木氏注でも同人に同定し、『印庵・隆庵と号した・宝永六年家を継ぎ七百石。享保十九年御匙となり同年法眼より法印にすすむ。寛保元年、老年の故を以て城内輿に乗ることをゆるされた。延享三年致仕、四年没、八十四。』とある。「御匙」とは「御匙(おさじ)医師」で御殿医のこと。複数いた将軍家奥医師(侍医)の筆頭職。

・「御小人」小者。武家の職名。ここにあるように、将軍家の放った矢を拾いに行ったり、鉄砲を担いで付き従ったりする、極めて雑駁な仕事に従事した最下級の奉公人。

・「いにしへは子を尋ける隅田川今は小人がお矢を尋る」観世元雅作の謡曲「隅田川」に引っ掛けた狂歌。まず、謡曲「隅田川」についてウィキの「隅田川(能)」より一部引用しておく(記号・漢字の一部を変更した)。

 一般に能の『狂女物は再会からハッピーエンドとなる。ところがこの曲は春の物狂いの形をとりながら、一粒種である梅若丸を人買いにさらわれ、京都から武蔵国の隅田川まで流浪し、愛児の死を知った母親の悲嘆を描』いて、荒涼たる中に悲劇として幕を閉じる。登場人物は狂女(梅若丸の母:シテ)・梅若丸の霊(子方)・隅田川渡守(ワキ)・京都の旅の男(ワキヅレ)で、舞台正面後方(能では「大小前」だいしょうまえ)という)に塚の作り物(子方はこの中で待機する)がある。『渡し守が、これで最終便だ今日は大念仏があるから人が沢山集まるといいながら登場。ワキヅレの道行きがあり、渡し守と「都から来たやけに面白い狂女を見たからそれを待とう」と話しあう』。『次いで一声があり、狂女が子を失った事を嘆きながら現れ、カケリを舞う。道行きの後、渡し守と問答するが哀れにも「面白う狂うて見せよ、狂うて見せずばこの船には乗せまいぞとよ」と虐められる』(「カケリ」とは能の働き事(演出法)の一つ。修羅物に於ける戦闘の苦患(くげん)、狂女物に於ける狂乱の様態などの興奮状態の演技、及び大鼓・小鼓に笛をあしらったその場面の囃子(はやし)をも言う)。『狂女は業平の「名にし負はば……」の歌を思い出し、歌の中の恋人をわが子で置き換え、都鳥(実は鷗)を指して嘆く事しきりである。渡し守も心打たれ「かかる優しき狂女こそ候はね、急いで乗られ候へ。この渡りは大事の渡りにて候、かまひて静かに召され候へ」と親身になって舟に乗せる』。『対岸の柳の根元で人が集まっているが何だと狂女が問うと、渡し守はあれは大念仏であると説明し、哀れな子供の話を聞かせる。京都から人買いにさらわれてきた子供がおり、病気になってこの地に捨てられ死んだ。死の間際に名前を聞いたら、「京都は北白河の吉田某の一人息子である。父母と歩いていたら、父が先に行ってしまい、母親一人になったところを攫われた。自分はもう駄目だから、京都の人も歩くだろうこの道の脇に塚を作って埋めて欲しい。そこに柳を植えてくれ」という。里人は余りにも哀れな物語に、塚を作り、柳を植え、一年目の今日、一周忌の念仏を唱えることにした』。『それこそわが子の塚であると狂女は気付く。渡し守は狂女を塚に案内し弔わせる。狂女はこの土を掘ってもわが子を見せてくれと嘆くが、渡し守にそれは甲斐のないことであると諭される。やがて念仏が始まり、狂女の鉦の音と地謡の南無阿弥陀仏が寂しく響く。そこに聞こえたのは愛児が「南無阿弥陀仏」を唱える声である。尚も念仏を唱えると、子方が一瞬姿を見せる。だが東雲来る時母親の前にあったのは塚に茂る草に過ぎなかった』。

 折角、しみじみしたところで恐縮であるが、これを宗仙院はパロって、

○やぶちゃんの現代語訳

――その昔、狂うた親が、去(い)んじ子を、尋ね参った隅田川――今は子ならぬお小人が、親ならぬ御矢(おや)、尋ね渡らん――

と掛けたのである。

■やぶちゃん現代語訳

 奥医橘宗仙院殿の狂歌の事

 昔、奥医であられた橘宗仙院殿は狂歌の才にも長けたお人であった由、聞き及んで御座る。

 ある時、隅田川御成りの折り、そのお供を致いたが、鳥を射とめたはずの上様の御弓矢が、亡失致いて、従ごうて御座った御小人が、あちらへ一散、こちらへ一散、さんざん駆け回って尋ね求めて御座るのを見、

 いにしへは子を尋ねける隅田川今は小人がお矢を尋ぬる

と歌ったとのこと。

「……当意即妙の才にて御座ろう……。」

と、ある人が語って呉れた話で御座る。

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