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« 僕の手風琴の思ひ出に | トップページ | やぶちゃんの花押――耳嚢 巻之三 大坂殿守廻祿番頭格言の事 収載記念 »

2010/10/03

耳嚢 巻之三 大坂殿守廻祿番頭格言の事

「耳嚢 巻之三」に「大坂殿守廻祿番頭格言の事」を収載した。

 大坂殿守廻祿番頭格言の事

 享保の始にや、大坂殿守(てんしゆ)雷火にて燒し事あり。平生火災稀成(まれなる)土地、上下騒動大かたならず。江戸表への注進状出來(しゆつたい)して、御城代御城番番頭其外一同花押してのべられけるに、大番頭勤たりし岡部何某、いかにも花押(くわあふ)の認方丁寧にて良(やや)暫く懸りし故、御城代も退屈やあらんと、傍の同役御城番など、隨分宜く相見へ候間、最早御手入にも及まじ、急變の事故急ぎ調印然るべしと有ければ、彼人答て、廻碌の注進一刻半刻遲かりしとて害ある事候はず、かゝる時節書判(かきはん)其外書面等に麁末(そまつ)あらば、番頭其外狼狽たるものかなと、江戸表にて御氣遣ひ思召(おぼしめさ)るべしと、聊(いささか)とり合(あは)ず、心靜に調印有りしと也。尤の事と人みな感じける。

□やぶちゃん注

○前項連関:京阪事蹟で連関。これも好きだ。焼け焦げた臭いのする中、平然とゆっくりまったり花押を描く岡部……一筆引いては、少し顔を離して、ためつすがめつ……既に引いた箇所に後付けなんど致す……いいねえ! 見えるようだ!

・「殿守」天守閣。

・「廻祿」底本ではこの標題の「廻」及び本文に現れる「廻祿」の、それぞれの右に『(回)』とある。回禄とは元来、中国の火の神の名で、転じて火災のことを言う語である。

・「番頭」ここでは文中の「大番頭」のこと。大番は旗本を編制した要地警護部隊の名で、二条城および大坂城を、それぞれに二組一年交代で守備した。大番頭はその長。

・「享保の始」とあるが、大阪城天守閣は寛文5(1665)年の落雷によって火災で焼失して後、天守閣は復元されていない(FM長野のブログ記事「小池さえ子おすすめ大阪城!」の記載による)(寛文(16601673)は12年まであるから「始」というのは誤りとはいえない)。ということは享保(17161736)の初め頃には既に消失していたことになり、話が合わない。根岸の記憶違いである。訳では「寛文」と正した。底本鈴木氏注は、やはりこれを誤りとし、『寛文五年正月二日。天守の他に番士の詰所、糒蔵なども焼けた。この注進は六日に江戸へ到着している(徳川実記)。当時の大坂城代は青山宗俊で、この際の処置がよかったというので賞せられた』という事実を示しておられる。「糒蔵」は「ほしいぐら/ほしいいぐらと読み、戦時の保存食を保管した蔵。「青山宗俊」(むねとし 慶長9(1604)年~延宝7(1679)年)は信濃小諸藩主・大坂城代から遠江浜松藩初代藩主。青山家宗家3代。ウィキの「青山宗俊」によれば、『慶長9年(1604年)、徳川氏譜代の重臣・青山忠俊(武蔵岩槻藩主・上総大多喜藩主)の長男として生まれる。元和7年(1621年)、従五位下・因幡守に叙位・任官する。元和9年(1623年)に父が第3代将軍・徳川家光の勘気を受けて蟄居になったとき、父と共に相模高座郡溝郷に蟄居した』。『寛永11年(1634年)、家光から許されて再出仕する。寛永15年(1638年)12月1日に書院番頭に任じられ、武蔵・相模国内で3000石を与えられて旗本となる。寛永21年(1644年)5月23日に大番頭に任じられる。正保5年(1648年)閏1月19日、信濃小諸において2万7000石を加増され、合計3万石の大名となり、信濃小諸藩主となる。寛文2年(1662年)3月29日、大坂城代に任じられたため、所領を2万石加増されて合計5万石の大名となった上で、所領を摂津・河内・和泉・遠江・相模・武蔵などに移され、移封となる』。『寛文9年(1669年)1226日、従四位下に昇叙する。延宝6年(1678年)に大坂城代を辞職し、8月18日に浜松藩に移封となる。延宝7年(1679年)2月15日に死去。享年76。』とある。それにしても鈴木先生の注は痒いところに手が届くばかりでなく、そこに抗アレルギー剤さえも塗ってくれる優れものである。

・「岡部何某」諸注不詳とする。寛文年間の誤りである以上、この姓自身も怪しい気がする。

・「花押」正式署名の代わり若しくはその記載者の正当な証しとして附帯して使用された一種の記号的符号的署名。書判(かきはん)。以下、ウィキの「花押」より一部引用する。『元々は、文書へ自らの名を普通に自署していたものが、署名者本人と他者とを明確に区別するため、次第に自署が図案化・文様化していき、特殊な形状を持つ花押が生まれた。花押は、主に東アジアの漢字文化圏に見られる。中国の唐(8世紀ごろ)において発生したと考えられており、日本では平安時代中期(10世紀ごろ)から使用され始め、判(はん)、書判(かきはん)などとも呼ばれ、江戸時代まで盛んに用いられた』。『日本では、初めは名を楷書体で自署したが、次第に草書体にくずした署名(草名(そうみょう)という)となり、それを極端に形様化したものを花押と呼んだ。日本の花押の最古例は、10世紀中葉ごろに求められるが、この時期は草名体のものが多い。11世紀に入ると、実名2字の部分(偏や旁など)を組み合わせて図案化した二合体が生まれた。また、同時期に、実名のうち1字だけを図案化した一字体も散見されるようになった。いずれの場合でも、花押が自署の代用であることを踏まえて、実名をもとにして作成されることが原則であった。なお、当初は貴族社会に生まれた花押だったが、11世紀後期ごろから、庶民の文書(田地売券など)にも花押が現れ始めた。当時の庶民の花押の特徴は、実名と花押を併記する点にあった(花押は実名の代用であるから、本来なら花押のみで十分である)』。『鎌倉時代以降、武士による文書発給が格段に増加したことに伴い、武士の花押の用例も激増した。そのため、貴族のものとは異なる、武士特有の花押の形状・署記方法が生まれた。これを武家様(ぶけよう)といい、貴族の花押の様式を公家様(くげよう)という。本来、実名をもとに作る花押であるが、鎌倉期以降の武士には、実名とは関係なく父祖や主君の花押を模倣する傾向があった。もう一つの武士花押の特徴として、平安期の庶民慣習を受け継ぎ、実名と花押を併記していたことが挙げられる。武士は右筆に文書を作成させ、自らは花押のみを記すことが通例となっていた。そのため、文書の真偽を判定する場合、公家法では筆跡照合が重視されたのに対し、武家法では花押の照合が重要とされた』。『戦国時代になると、花押の様式が著しく多様化した。必ずしも、実名をもとに花押が作成されなくなっており、織田信長の「麟」字花押や羽柴秀吉(豊臣秀吉)の「悉」字花押』(これは『一説には、「秀吉」を音読みにして「しゅうきつ」とし、その最初と最後の一文字を合わせて「しつ」に由来するといわれている』との注記あり)、『伊達政宗の鳥(セキレイ)を図案化した花押などの例が見られる。家督を継いだ子が、父の花押を引き継ぐ例も多くあり、花押が自署という役割だけでなく、特定の地位を象徴する役割も担い始めていたと考えられている。花押を版刻したものを墨で押印する花押型(かおうがた)は、鎌倉期から見られるが、戦国期になって広く使用されるようになり、江戸期にはさらに普及した。この花押型の普及は、花押が印章と同じように用いられ始めたことを示している。これを花押の印章化という』。『江戸時代には、花押の使用例が少なくなり、印鑑の使用例が増加していった。特に百姓層では、江戸中期ごろから花押が見られなくなり、もっぱら印鑑が用いられるようになった』。『1873年(明治6年)には、実印のない証書は裁判上の証拠にならない旨の太政官布告が発せられた。花押が禁止されたわけではないものの、ほぼ姿を消し、印鑑が取って代わることとなった。その後、押印を要求する文書については必要に応じて法定され、対象外の文書であっても押印の有無自体は文書の真正の証明に関する問題として扱われることに伴い、上記太政官布告は失効した。しかし、花押に署名としての効力はあり、押印を要する文書についても花押を押印の一種として認めるべき旨の見解(自筆証書遺言に要求される押印など)が現れるようになった』。『また、政府閣議における閣僚署名は、明治以降現在も、花押で行うことが慣習となっている。なお、多くの閣僚は閣議における署名以外では花押を使うことは少ないため、閣僚就任とともに花押を用意しているケースが多い』。『21世紀の日本では、パスポートやクレジットカードの署名、企業での稟議、官公庁での決裁などに花押が用いられることがあるが、印章捺印の方が早くて簡便である為非常に稀である』(閣僚が花押を持っているというのは初耳であった)。江戸中期の故実家伊勢貞丈(いせさだたけ)は、花押を5種類に分類しており(『押字考』)、後世の研究家も概ねこの5分類を踏襲している。5分類は、草名体、二合体、一字体、別用体、明朝体である』。『別用体とは、文字ではなく絵などを図案化したものをいう』。『明朝体とは、上下に並行した横線を2本書き、中間に図案を入れたものをいう。明朝体は、明の太祖がこの形式の花押を用いたことに由来するといわれ、徳川家康が採用したことから徳川将軍に代々継承され、江戸時代の花押の基本形となり、徳川判とも呼ばれた』とあり、これら以外にも公家様・武家様・『禅僧様(鎌倉期に中国から来日した禅僧が用いた様式。直線や丸など形象化されたものが多い。)また、ルーツとされる『中国の花押の起源は、文献(高似孫『緯略』)によると南北朝時代の斉にまで遡ることができる(秦や晋の時代とする説もある)。唐代には韋陟の走り書きの署名があまりに流麗であったので「五朶雲(ごだうん)」と称揚された(『唐書』韋陟伝)。この署名は明らかに花押のことである。中国では現存する古文書が少ないこともあり、花押の実態は必ずしも明かではない。宋代の文書に記されている花押は、直線や丸を組み合わせた比較的簡単なものであり、日本の禅僧様もこの形式である。また、明の太祖が用いたとされる明朝体は、日本に伝わり、江戸時代の花押の主流をなした』。『なお、五代の頃より花押を印章にした花押印が使われ始め、宋代には花押印そのものを押字あるいは押と呼称した。元朝では支配民族であるモンゴル人官吏の間でもてはやされたが、これを特に元押という。モンゴル人官吏は漢字に馴染めなかったようである(陶宗儀『南村輟耕録』)。花押印は明清まで続いたが次第に使われなくなった』とある。確かに今のモンゴル語の文字の方を見ると、よっぽど花押みたようだ。

・「良(やや)」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 大阪城天守閣火災時の大番頭名言の事

 寛文の始めであったか、大阪城天守閣に落雷出火、天守閣は丸焼けになるという事態が出来(しゅったい)して御座った。

 天守閣という、平生、火災自体が稀れな特殊な場所柄で御座ったれば、文字通り上へ下へのてんやわんやの大騒ぎとなって御座った。

 即座に江戸表へ、落雷による出火にて大阪城天守閣焼亡の旨、注進状に認(したた)めて早駆けにて言上致すことと相成り、御城代・御城番・大番頭その外一同、各々注進状に花押をして仕上げんとせしところ、大番頭を勤めて御座った岡部何某なる者、如何にも花押の認め方丁寧にして、彼のところでやや暫く署名に時間がかかって御座った。

 御城代も焦っておられるに違いないと察した、傍らの同役大番頭の同僚や御城番らが、

「随分美事に仕上がれる書判とお見受け申す。最早、御手入れなさるにも及ぶまいぞ。急変の事ゆえ、急ぎ、お認めなされて早(はよ)う回さるるがよいぞ。」

と殊更に急かしたところ、かの岡部某答えて、

「――既に火災は鎮火致いて御座る。――その天守閣火災全焼の注進――一刻や半刻遅かったと致いても、これ、何の害あるはずも御座ない。――かゝる時こそ書判その他書面等に沮喪(そそう)あらば、『番頭その他の者、さぞや、うろたえ騒ぎ慌てふためいておるのであろう』なんどと、江戸表にては、お思い遊ばさるるに違い御座らぬ――」

と、急かしの言葉にも聊かとり合うことのう、落ち着いて書判致いたとの由。

 いや、尤もなることと、城代を始めとしてその場の人々みな、感じ入って御座ったということで御座る。

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