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2010/10/26

耳嚢 巻之三 蛇を祭りし長持の事

「耳嚢 巻之三」に「蛇を祭りし長持の事」を収載した。

 蛇を祭りし長持の事

 天野城州日光奉行勤の折から咄しけるは、同人日光在勤の内、同所今市とやらにて長持の拂ひもの有れど、誰も調んといふ物なし。其謂れを尋るに、元來御所領の内在郷にての事にて有しや、富貴なる家に役長持を所持しけるが、右今市の者身上宜しからず、何卒富貴ならん事を祈りて右長持を買受しに、夫より日増に富貴と成て今は有福の家なる由。然るに此長持を拂はんといふ譯難分(わけわかりがたし)とて、其趣意をも糺しけるに、右長持の内に三尺計(ばかり)の蛇を飼置事也。或は四時の草を入れ、二時の食事を與へ、わけて難儀なるは二月に一度三月に一度宛、其あるじなる者右長持の内に入て、布を以蛇の惣身をよく拭ひふきて掃除して遣はす事の由。此事をいとゐてはならざるゆへに、人にも讓り度といふ由也。富貴を求る心よりは右業をもなすべけれど、彼御所領の者と成らんの人に讓りしも、或年其妻懷姙して出産しけるに蛇を産出しけるより、恐れて人に讓りしと巷説に申けるが、實事や、其證はしらずとかたりぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。叙述が短く、微妙な描写がスポイルされていて話がぎくしゃくしているので、相当に恣意的な敷衍訳を行った。何やらん、蛇で頰を撫ぜられたよな、虫唾が走る「耳嚢」では珍しい生理的嫌悪感を惹起させる話柄ではある。更に、言えば如何にも不吉な印象も拭えぬのだ……これを語っている天野山城守康幸自身の眼が蛇のような爛々とした輝きを以って迫って来る……語るその脣のぬらりとした感じ、時々赤い舌がそこから覗くようなが気がする……それを避けて眼を落とすと、その天野のがさついた手指に鱗がぼんやりと浮いて見えるようだ……そうして……そうしてそれはもしかすると、その彼の、十年後に訪れる転落の凶兆ででもあったのではなかったろうか?……

・「天野城州」諸注、天野山城守康幸(生没年未詳)とする。底本の鈴木氏注に、『宝暦元年御徒頭、布衣を許さる。西城御目付、同新番頭を経て安永四年日光奉行、同年従五位下山城守。寛政三年家政不始末により、采地千石廩米三百俵のところ、二百石と廩米三百俵とを没収、小普請におとされた』とある。「布衣」は「ほい」と読み、近世、無紋の狩衣を指したが、同時に六位以下及び御目見以上の者が着用したことから、その身分の者を言う。「采地」采配を振るう地の意で、領地。知行所。采邑(さいゆう)などとも言う。「廩米」は「りんまい」と読み、知行取りの年貢米以外に幕府から俸禄として給付されたものを言う。彼が転落する寛政三年は西暦1791年で日光奉行辞任との間には約7年程ある(因みに、その間の天明6(1786)年前後にこの「耳嚢」の記事は書かれている)。しかし、日光奉行の格は次注で見るように2000500俵で、小普請入りの寛政三年時の1000300俵では、凡そ半分に減収してしまっている。何があったのか。ともかくも本話は彼の最後の栄光の時代の話柄であったものと窺える。

・「日光奉行」元禄131700)年にそれまでの同職に従事していた日光目付に代えて創設された遠国(おんごく)奉行の一つ。老中支配で定員2名。役高2000石に役料500俵。東照宮・大猷院廟(徳川家光廟)の経営及び日光山年中行事等を掌った。配下に同心36人を擁した。寛政3(1791)年以降は日光目代の職権を兼務して日光領を直接支配した(以上は主に平凡社「マイペディア」の記載を参考にした)。天野康幸が日光奉行であったのは安永4(1775)年320日から天明4(1784)年2月12日までの9年間で、根岸が安永6(1777)年より安永8(1779)年までの3年間「日光御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用として日光山に在勤」(「卷之二」「神道不思議の事」より)していた時期と一致する。根岸の本話柄が天野から直に聴いた話であることがここから分かる。

・「今市」栃木県北西部。旧今市市更に古くは上都賀郡。江戸時代には日光街道や会津西街道が分岐する宿場町今市宿として繁栄した。現在は新たに統合され巨大化した新しい日光市に編入されている。

・「御所領」日光山の神領。記載の核心は60年ほど後のことであるが、歴史を踏まえられて書かれており、この神領の広大さが(そして実はまたその貧窮も)容易に知れるので、BE AN INDIVIDUAL氏のブログ「GAIAの日記」中の「いまいち市史」「二宮尊徳日光神領復興の構想」にある「日光神領」より引用したい(一部表記を変更した)。二宮尊徳が『弘化元年(1844)4月5日、幕府から3度目の大役を命ぜられたのは、日光神領の荒地開発の調査であった。日光神領は、日光山の開基勝道上人が1,200年前、二荒山の山頂を極め、天平神護2年(766)に四本龍寺を創建して以来、山岳仏教の隆盛に伴って繁栄してきたが、天正18年(1590)秀吉の小田原攻めに組みしなかったため、所領の大部分を没収され、わずかに門前と足尾村を安堵されたにすぎなかった』。『元和3年(1617)徳川家康の遺骸が駿河国久能山から改葬されて後、秀忠が寺領(光明院)を拡大し、東照大権現社領5,000石を寄進したのをはじめとして、家光が全体で7,000石の「判物」を出し、更に家綱が東照大権現領として1万石、大猷院領(家光)に3,600石余、計13,600石余の「判物」を出している。元禄14年(1701)の綱吉の「判物」では合計25,000石余の日光領となっている』。『その内訳は神領54ヶ村、御霊屋(みたまや)領9ヶ村、御問跡領26ヶ村とされているが、高29,065石余、反別4,064町歩余、家数4,133軒、人数21,186人、馬2,669匹で、これが日光仕法開始にあたっての、嘉永6年(1853)3月日光奉行所の調査記録である。旧今市市に含まれる41ヶ村をはじめ、日光市13ヶ村、栗山村9ヶ村、藤原町4ヶ村、鹿沼市8ヶ村、足尾町14ヶ村の地域である。過半は山村であり、地味はやせ、高冷の気候のため収穫は乏しく、不作凶作が多く、そのたびに潰れ百姓が続出、耕地も荒れて、1,074町歩の荒地をかかえ、生活は細々として恵まれない土地柄であった』とある。「判物」は「はんもつ」と読み、将軍や大名が発した文書の内、発給者花押が付されたものを言う。

・「役長持」「やくながもち」と読むか。「役」には軍役の意があるので、ただの長持ちではなく、戦時軍事用の武具等を保管運搬するための大型のものを言うか。

・「いとゐ」はママ。

■やぶちゃん現代語訳

 生きた蛇を祀った長持ちの事

 天野山城守康幸殿が日光奉行を勤めて御座った折りに、私に直接語られた話で御座る。

 ――――――

 ……今市とやらの宿場町道具屋にて、中古の長持ちの売り物が御座った。

 拙者、一目で気に入り、相応に贅沢な作りなればこそ買い手も既について御座ろうがとも思うたが、訊けば、誰(たれ)も買おうという者がおらぬという。

 不審なれば、そのいわれを訊ねてみた。……

 ……その長持ち、元来が日光山御神領の内の、かなりの田舎の村にあるという、さる裕福なる者の家が所持致いて御座った武具用の長持ちで御座った由。

 ……さて、ここに、この今市の宿の、身上傾きて如何ともし難き者が御座ったが、何を思うたか、何卒富貴にならんことを祈願致いて、この長持を買い受けたと――

――いやとよ、何故、この長持ちなのか、生活に困窮致いておるに、何故長持ちを買(こ)うたかは分からねど――もしや何やらん、この長持ちに就いての、これからお話するところの摩訶不思議な噂が、これ、既に知られて御座って、なけなしの金にて、清水の舞台から飛び降りる気持ちで買(こ)うた、ということででも御座ったか――

 ……ところが……それからというもの、この左前で御座った男、日増しに商売繁盛致いて、今では今市にても有数の富家となって御座る、ということであった。

「……然るに何故、その福を呼んだ長持ちを売らんとする? 訳が分かりかねるが?……」

と、再応、その主意を糺したところが――

 ……この長持の内には……

――三尺ばかりの蛇が飼いおかれておる――

というのじゃ。……

 ……或いは四季には必ずそれぞれの草々を敷き入れ……日には必ず二度の食事を与えて世話致させねば、これならず……なかにても難儀なは……季節により二つ月或いは三つ月に一度づつ必ず……家の主人、これ、この長持ちの中にすっぽりと入り……用意した上布にて……かの長き蛇の……そのおぞましき総身を……きゅうるきゅうるきゅっきゅっ……きゅうるきゅうるきゅっきゅっ……と……よう拭いた上……長持ちの中も……隅から隅まで蛇と一緒に……舐めるように這い蹲って……掃除してつかわすこと……これ、必定の由。……

「……まんず、厭うてはならざる故――それがまた、日々忌まわしく厭わしくなった故――人に譲らん、とて手間どもの店にこうして置いて御座るのですが……まんず、この話、知らざる者、この辺りにては、知らぬ者とて御座らねばのぅ……」

とのこと。――

 ……何でも――その後(のち)耳に入ったことにて、拙者の謂いにては、これ、御座らぬぞ――富貴を求める執心にては、それ位のことは、我慢出来そうなもので御座るが……いやとよ、最初にお話致いた、ほれ、例の最初の長持ちの持主で御座った御神領の裕福なる者……彼がそれを今市の者に売り渡した本当の理由は……実は……その富家の妻、これ、懐妊致いて出産したところが……生まれ出でたは……何と、蛇で御座ったと……あまりのことに恐れ、丁度、求むる者がおったればこそ、厄払いにかの者に譲ったのじゃ……とは、もっぱらの噂で御座る。

 ……いやとよ……根岸殿、これ、事実かどうかは……存ぜぬがの……

 ――――――

とは、山城守殿の何とも言えぬ気味悪き真に迫った語りでは、御座った。

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