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2010/10/25

耳嚢 巻之三 年ふけても其業成就せずといふ事なき事

「耳嚢 巻之三」に「年ふけても其業成就せずといふ事なき事」を収載した


 年ふけても其業成就せずといふ事なき事

 予がしれる田代某は三百石にて、壯年より弓馬を出精して騎射帶佩を修業して、兩御番大御番の御番入りを願しに、かの家は寶永の頃桐の間御廊下の類にて、元來猿樂より出し家なれば御番入もなくて、いろ/\なしけるに御番入は成がたしといへる事、あらはに知れけるにぞ大に歎き、然らば御右筆の御役出をなさんと思ひけるに、誠に無筆同意の惡筆なれば、此願ひも叶ひがたしと長歎なしけるが、あくまで氣丈なる人にて有りし故、年三十餘四十に近かりしが、一願一誓を生じて頻に手習をなしけるが、三年目に願の通御右筆に出で、夫より今は番頭(ばんがしら)といふものに轉役なしけるなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:努力の人、祐筆職となる、で直連関(但し、こちらは大名の祐筆ではなく、幕府祐筆である)。本話柄には当時の芸能者への職業差別が如実に反映されている。現代語訳でもそれが分かるように訳しておいた。こうした差別に対して批判的な視点を以ってお読み頂けるよう、お願いしたい。

・「田代某」田代賀英(よしひで 正徳5(1715)年~寛政8(1796)年)。底本の鈴木氏注に、『九左衛門、主馬。延享二年、養父賀信の遺跡を継ぐ。のち騎射をつとめて物を賜わる。宝暦九年表右筆、安永四年富士見御宝蔵番頭、寛政元致仕、八年没、八十二。田代氏は賀信の父賀次のとき、葛野一郎兵衛の弟子となり、猿楽の技を以て相馬図書頭に仕え、のち徳川氏の臣となったものと家伝にある。』と記し、岩波版長谷川氏注には更に、田代家は元は我孫子姓であって、前記相馬図書頭の扶助を受けて御家人になったという経緯を記されている。彼が表祐筆(祐筆には将軍側近として重要機密文書を扱った奥祐筆と一般行政文書担当の表祐筆とがあった。詳しくは前項注参照のこと)となった宝暦九年は西暦1759年であるから、数え45歳である(富士見御宝蔵番頭となった安永四年は西暦1775年で61歳)。「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから、執筆時にはばりばりの富士見御宝蔵番頭現役の70歳前後である。

「新訂寛政重修諸家譜」に「紹古」という号を記すが、古えを引き継ぐ、とは如何にも元右筆っぽい号ではある。

・「騎射帶佩」「騎射」は「騎射三物」。二項前の「雷公は馬に乘り給ふといふ咄の事」の「騎射」の注を参照。「帶佩」は元来は「佩帯」と同義で、太刀を身に帯びることを言ったが、ここでは騎射と合わせて、剣術の身の構えや型や作法を言う。後には広く武術から芸能の型や作法の意にも拡大した。「体配」「体拝」とも書く。

・「兩御番」底本の鈴木氏注に、『初めは大番と書院番をいったが、後には書院番と小性組番の称となった。』「大番」は、将軍を直接警護する、現在のシークレット・サーヴィス相当職であった五番方(御番方・御番衆とも言う。小姓組・書院番・新番・大番・小十人組を指す)の一つで、中でも最も歴史が古い。「書院番」は将軍直属の親衛隊で、ウィキの「書院番によると、『当初四組によって構成され、後に六組まで増員される。また親衛隊という性格から、西丸が使用されているとき(大御所もしくは将軍継嗣がいるとき)は、西丸にも本丸と別に四組が置かれる。一組は番士50名、与力10騎、同心20名の構成からなる。番頭は、その組の指揮官である』。『大番と同じく将軍の旗本部隊に属し、他の足軽組等を付属した上で、備内の騎馬隊として運用されるが、敵勢への攻撃を主任務とする大番と異なり、書院番は将軍の身を守る防御任務を主とする』とある。「小性組番」は小姓組番とも書き、単に小姓(小性)組とも呼ばれた。ウィキの「小姓組」によれば、『一般的イメージの小姓とは異なり、純然たる戦闘部隊で』、『慶長11年(1606年)11月に設立され、水野忠元・日下部正冬・成瀬正武・大久保教隆・井上正就・板倉重宗の六人を番頭とし』て創始されたもので、『戦時の任務は旗本部隊に於いて将軍の直掩備・騎馬隊の任に就き、平時は城内の将軍警護に就く。書院番とともに親衛隊的性格を持つため、番士になる資格が家格や親の役職などで制限されていた。そのため番士の格が他の番方より高いとみられ、その後も高い役職に就くことが多かった。若年寄支配で、番頭の役高4000石。6番あり、番頭の他に与頭1人と番士50人。西の丸に他に4番あった』とある。この両番(書院番と小姓組)の有能な番士には、特に出世の途が開かれていた旨、ウィキの「書院番の記載中にある。因みに残りの「新番」は『将軍の江戸城外出時に隊列に加わり、警護に当たったほか、武器の検分役などの役目』を持った部隊で、『新番の責任者である新番頭は、役高2000石であるが、5000石級の旗本から選任されることもあった。新番衆の役高は250石(俵)であり、書院番衆・小姓番衆より50石(俵)少ないが、軍役上、馬を常時用意する義務がないのが特徴である。ただし、馬上資格は認められている。大番と同じく出世は限られていた』とあり(引用はウィキの「番」より)、「小十人組」は将軍及びその嫡子を護衛する歩兵を中心とした親衛隊で、前衛・先遣・城中警備の3つの部隊に分かれ、その頂点に小十人頭(小十人番頭)がいた(以上はウィキの「小十人」を参照した)。底本の卷之一にある鈴木氏の注によれば、小十人組は若年寄支配で『二十人を一組とし、組数は増減があるが、多い時は二十組あった』とある。

・「大御番」前注の「大番」に同じ。

・「番入」番衆に加えられること。以上の注から判然とするように、一般に行政職を役方、警察保安相当職を番方という。

・「寶永」西暦1704年から1711年であるが、次注で示す通り、これは宝永元(1704)年から宝永6(1709)年に絞られる。

・「桐の間」底本の鈴木氏注に『桐の間番といい、能楽に巧みな者をかかえ、城中の桐の間を詰所とした。綱吉の時から始ま』ったが、岩波版の長谷川氏の注によれば、宝永6(1709)年に廃止されたとある。この桐の間番はまた、美少年を集めた綱吉の城内での半ば公然たる若衆道の場でもあったらしい。宝永6年とは第6代将軍家宣の就任の年である。綱吉の養子であった彼は、養父ながら綱吉と家宣の関係は良好ではなかったとされ、就任するや、庶民を苦しめた生類憐れみの令や酒税を廃止、柳沢吉保を免職、新井白石らを登用しての文治政治を推進したが、そうした清浄化の方途の一つがこれだったのであろう。また、根岸が、当時、富士見御宝蔵番頭現役の相応に知られていたはずの田代賀英を、わざわざ「田代某」と濁している点、田代家の家系を述べる際にも、何となく歯切れの悪さがあるのは、そうした出自を慮ってのことででもあったのであろう。相応の出世をした根岸であったが、彼自身、全く以って古えの由ある血脈ではなかった。現代語訳では敷衍訳をして、そうした差別感覚や根岸の同情し乍らも、如何とも言い難い内心を出してみたつもりではある。

・「御廊下」底本の鈴木氏注に『廊下番。能役者の中から選抜し苗字を改めて勤番させたもの。綱吉のとき貞享元年に始まる。』とある。

・「猿樂」この場合は能楽の意で用いている。狭義・原義としての猿楽は平安期の芸能で、一種の滑稽な物真似や話芸を主とし、唐から伝来した散楽(さんがく)に日本古来の滑稽な趣向が加味されたものであった。主に宮中に於ける相撲節会(すまいのせちえ)や内侍所(ないしどころ)の御神楽(みかぐら)の夜に余興として即興的に演じられていたものが、平安後期から鎌倉期にかけて、寺社の支配下に猿楽法師と称する職業芸能者が出現し、各種祭礼などの折りに、それを街頭で興行するようになった。それに更に多種多様な他の芸能が影響を与え、次第に高度な演劇として成長、戦国から近世初期にかけて様式美を持った能や狂言が成立した。そうした関係上、江戸から明治初期にかけて能・狂言を指す古称として猿楽という語が使われていた。

・「右筆」祐筆に同じ。前項注参照。

・「御役出」読み不明。「ごやくしゆつ」か、それとも「おやくにいづる」と訓読みするか(やや苦しい)。ともかくも、御役に出る、役職に就く、役付きの仕事に昇進することであろう。

・「番頭」前注の田代賀英の事蹟に現れる「富士見御宝蔵番頭」を意識的にぼかして言った。北畠研究会のHP「日本の歴史学講座」「江戸幕府役職辞典」に、『留守居支配の職で、徳川氏歴代の宝物を収納している富士見宝蔵を守備する任務である。定員は4人で、御役高400俵高である。宝蔵は中雀門を入って北に進み、富士見櫓と数寄屋多門の続きの二重櫓の中間の北側に張り出た一角にある。ここは4棟5区割に分かれている。番所は、本丸中雀門の北側の北隅の一角の宝蔵の塀に相対したところにあり、ここに番衆が詰め、その隣に番頭の宿泊所があってここで番頭は当宿直する』とある。因みに、その支配下にあった「富士見宝蔵番組頭」及び「富士見宝蔵番衆」については、『10数人おり、交替で当宿直する。番衆は100俵高の御目見の譜代席以下で、御役御免になると家禄だけでは100俵もらえない。世話役は御役扶持として3人扶持支給された。組頭は、番衆が病気などで欠勤すれば、古参の者を行かせて病気見舞いさせるし、事故による欠勤・遅刻があれば、相番の者たちに知らせなければならない。番衆の出勤時刻は、朝番が午前8時・夕番が午前10時・不寝番が午後4時となっている。不寝番の者は登城すると御帳といわれる出勤簿に判を押し、交替で不寝番をした。そして翌朝の朝番出勤の者と勤務引継ぎをおこなった』とある。

■やぶちゃん現代語訳

 年老いていても誠心あらば物事成就せざるということなき事

 私の知人である田代某殿は石高三百石取りにて、壮年に至ってから初めて弓馬の稽古に励まれ、騎射三物(みつもの)帯佩技法を修行致いて、何とか両御番や大御番入りを願って御座ったが――如何せん、田代殿の御家系、これ、宝永の頃、桐の間番やらん、御廊下番やらんといった『特別な』類いの出自にて御座って――元来が、その、武家にては御座なく、所謂、かの猿楽の流れを汲む血脈(けちみゃく)から出でた御家系にて御座ったがため――結局、御番入りもなく――田代殿御自身、自ら色々と手を尽くしてはみられたものの――ある時、知れる人より、

「……御番入りの件で御座るがのぅ……あれは、遺憾乍ら……貴殿の御家系にては……成り難きことにて、御座れば……」

と、あからさまに言われ、いよいよ我が身の血の程を、知ることと相成って御座った。

 田代殿、暫くは殊の外の落胆の体(てい)にて御座ったが、ある時、

「……なれば一つ、御祐筆の御役を得んことに精進致そう!」

と思い立って御座った。

……なれど――思い立ったはよう御座ったが――実は、田代殿――生来、読めるような字の書けぬ――と言うては失礼乍ら、これ――文盲かと紛うばかりの悪筆で御座ったがため、

「……と思うたものの……やはりこの願いとても……いや、なおのこと、叶い難きことにて、あるかのぅ……」

と深く長い溜息をついて諦めかけて御座った……

……が……

そこでめげずに、清水の舞台から飛び降り、

「……いや! やはり! ここが土壇場! 正念場ぞ!」

 ――――――

……また、田代殿は、あくまで気丈なお人柄でも御座ったが故――なれど、そうさ、もうその頃には、齢(よわい)三十余り、四十にも近こう御座ったのじゃが――一願一誓の御覚悟を立て――

一心不乱!――

――手習いに手習い! ただ手習い! あくまで手習い! 一に手習い二に手習い三四五六七八九……九十九と百に手習い!――

……と、三年が経ち申した。――

 ――――――

 その三年目のことで御座った。

 かの、蚯蚓がのたくって干乾びて蟻がたかった如き悪筆の田代殿が――何と! 美事、願いの通り、御祐筆役儀として出仕なされた!

 ――――――

 さても、それより堅実に勤仕なされ――今ではさる番方の頭という重役に御栄転なされたとの由にて御座るよ。

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