耳嚢 巻之三 惡業その手段も一工夫ある事
「耳嚢 巻之三」に「惡業その手段も一工夫ある事」を収載した。
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惡業その手段も一工夫ある事
佐州銀山敷内の水替として、明和の頃より江戸表にて被召捕し無罪の無宿を遣れる事也。其内大坂吉兵衞といへるありしが、元來大坂者にて巧(たくま)しき者にて用にも立ける故、一旦は水替の部屋頭に成りしが、彼者佐州相川町の一向宗の寺院へ來りて、我等事代々一向宗なれど、水替死失の節取捨の寺院は眞言宗にて、上の御極はいたしかた爲けれど、生涯の菩提先租の吊(とむら)ひ等は御寺にて勤給はる樣相歎きければ、尤の事とて他事なくあいしらひしに、時々の附屆も分限不相應になしてよろづつゞまやか也ければ、彼和尚のゆかりの町家抔へも吹聽なし、宗旨深切の心より彼旦家(だんか)ゆかりの町家にても他事なくしけるに、右寺并(ならびに)ゆかりの町家子供の祝ひなど有折からも厚く禮物(れいもつ)など施しける故、彌々奇特に思ひけるに、或る年の暮何か入用の由にて錢五六十貫文も借用を申ければ借遣しけるに、限りに至らずして返濟などなしぬる事一兩度成ければ、吉兵衞は氣遣ひなしとて、其後才覺賴みける節も兩家にては相應に調へ渡しけるに、一兩年に積て四五百貫文も借ける上、其後は絶て返さゞりし。不屆と思へど、元より水替躰(てい)のものに證文もなく貸し遣ける故、願出る事もならず、無念をこらへ過しと聞し。元來の惡黨には其心得も有べき事也と、佐州在勤の折から人の咄しけるを聞ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。
・「佐州」佐渡国。
・「水替」鉱山の坑道内に溜まった水を、釣瓶(つるべ)・桶・木製手動ポンプなどを用いて外部に排出する作業。これに従事する労働者を水替人足と呼んだ。刑罰の一部として犯罪者が使役された。この佐渡のケースが最も知られる。以下、ウィキの「水替人足」から一部引用しておく。『佐渡金山へ水替人足が送られるようになったのは安永6年(1777年)のことで』、『天明の大飢饉など、折からの政情不安により発生した無宿者が大量に江戸周辺に流入し、様々な凶悪犯罪を犯すようになった。その予防対策として、懲罰としての意味合いや将軍のお膝元である江戸浄化のため、犯罪者の予備軍になりえる無宿者を捕らえて佐渡島の佐渡金山に送り、彼らを人足として使役しようと』したものであった。『発案者は勘定奉行の石谷清昌(元佐渡奉行)』で、佐渡奉行は治安が悪化するといって反対したが、半ば強引に押し切る形で無宿者が佐渡島に送られることになり、毎年数十人が送られた』とある。その当時の反対した佐渡奉行というのは高尾孫兵衛信憙(のぶよし:在任期間は安永2(1773)年~安永6(1777)年)と依田十郎兵衛政恒(在任期間は安永4(1775)年~安永7(1778)年)の何れか若しくは両者である。因みに、根岸が佐渡奉行になったのはその7年後の天明4(1784)年3月のことであった(後、天明7(1787)年勘定奉行に栄転)。『当地の佐渡では遠島の刑を受けた流人(「島流し」)と区別するため(佐渡への遠島は元禄13年(1700年)に廃止されている)、水替人足は「島送り」と呼ばれた』。『当初は無宿である者のみを送ったが、天明8年(1788年)には敲や入墨の刑に処されたが身元保証人がいない者、文化2年(1805年)には人足寄場での行いが悪い者、追放刑を受けても改悛する姿勢が見えない者まで送られるようになった』。『犯罪者の更生という目的もあった(作業に応じて小遣銭が支給され、改悛した者は釈放された。佃島の人足寄場とおなじく、囚徒に一種の職をあたえたから、改悟すれば些少の貯蓄を得て年を経て郷里にかえることをゆるされた)が、水替は過酷な重労働であり、3年以上は生存できないといわれるほど酷使された。そのため逃亡する者が後を絶たず、犯罪者の隔離施設としても、矯正施設としても十分な役割を果たすことが出来なかった』とある。『島においてさらに犯罪のあったときは鉱穴に禁錮されたが、これは敷内追込といい、また島から逃亡した者は死罪であった』とある。また、佐渡関連の私の御用達ブログである『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」』の「水替」の記載には、『地底のいちばん深いところでの作業なので、坑内労働ではもっとも難儀なものとされた。坑内は絶え間なく地下水がわいて出る。水は川となって坑道を流れ、豪雨ともなれば地上の洪水が坑内に流れこんで、人が坑道もろとも埋まることもあった。世界のどこの鉱山も、開発に当って直面する第一の仕事が水との闘いとされ、奥村正二氏は、「産業革命の端緒となった蒸気機関の発明も、実は鉱山の地下水汲上用ポンプの動力として生まれている」(「火縄銃から黒船まで」)と書いて、鉱山と水との関係に注意している。排水法でもっとも原始的で一般的なのが、手操(てぐり)水替といって「つるべ」(釣瓶)によるくみあげだ。少し進んだ方法は、家庭の車井戸と同じ仕組みで、井車を坑内の上部に仕掛けて、両端の綱につけた二つの釣瓶でくみ上げた。これを「車引き」といい、車の滑りを利用したものだ。坑内は広さが限られていて、細工物では取付けが難しい上に、故障が多いためである。細工物(器具)で慶長年間から使われたのは「寸方樋」(すっぽんどい)で、これは木製のピストン・ポンプである。鉱山の絵巻物にも見えている。つぎに西洋式の「水上輪」が承応二年(一六五三)以降、幕末まで使用される。もっとも精良なポンプだった。天明二年(一七八二)になってオランダ水突道具の「フランスカホイ」が、初めて青盤坑内で用いられる。老中田沼氏の腹心だった勘定奉行松本伊豆守が所持していたのを、試みに佐渡に運んで使ったものだ。九州大学工学部所蔵の「金銀山敷岡稼方図」にも実物が描かれているが、近年まで島内各地でも使われていた、天秤式手押消防ポンプとほぼ同じものだった。水上輪と同様に鉱山のポンプが、やがて農家に灌漑用または消防用として普及した事例の一つとなる』とある。根岸が佐渡奉行になったのは天明4(1784)年3月であるから既にフランスカホイが使用されている。何時もながら、ガシマさんは強い味方!
・「明和江戸表にて被召捕し無罪の無宿を遣れる事」明和年間は西暦1764年から1772年で、安永年間(1772から1781年)。前注の安永6(1777)年からは、やや前にずれている。根岸の勘違いか。「無宿」とは宗門人別改帳から除籍された者のこと。以下、ウィキの「無宿」には、『江戸時代は連座の制度があったため、その累が及ぶことを恐れた親族から不行跡を理由に勘当された町人、軽罪を犯して追放刑を受けた者もいたが、多くは天明の大飢饉や江戸幕府の重商主義政策による農業の破綻により、農村で生活を営むことが不可能になった百姓だった』とする。『村や町から出て一定期間を経ると、人別帳から名前が除外されるため、無宿は「帳外」(ちょうはずれ)とも呼ばれた』。『田沼意次が幕政に関与した天明年間には折からの政情不安により無宿が大量に江戸周辺に流入し、様々な凶悪犯罪を犯すようになったため、それらを防ぐため、幕府は様々な政策を講じることにな』り、この無罪の無宿の水替人足送りというのもその一つということになる。『犯罪を犯し、捕縛された無宿は「武州無宿権兵衛」、「上州無宿次郎吉」等、出身地を冠せられて呼ばれた』とある。
・「大坂吉兵衞」前注の最後の記述から、これは大坂無宿吉兵衞で、彼が実は無罪の無宿ではなく、実際の未遂或いは既遂の実行行為を伴う犯罪を犯した罪人であることが分かる。現代語訳ではそう補正してみた。
・「巧しき」これは「逞しき」に単に「巧」の字を当てただけのものではあるまい。所謂、「巧む」で、企てる、企(たくら)むの小利口・悪知恵のニュアンスを意識して用いている。「小悧巧な性質(たち)」と現代語訳してみた。
・「相川町」現在、佐渡市相川。旧新潟県佐渡郡相川町(あいかわまち)。佐渡島の北西の日本海に面した海岸にそって細長く位置していた。内陸は大佐渡山地で海岸線近くまで山が迫っている。南端部分が比較的なだらかな地形となっており、当時は佐渡金山(相川金山)と佐渡奉行所が置かれた佐渡国の中心であった。
・「吊ひ」「吊」には「弔」の俗字としての用法がある。
・「つゞまやか也」出しゃばることなく、要領を得ているさまを言う形容動詞。
・「あいしらひ」正しくは「あひしらひ」で、付き合う、もてなすの意。元は「あへしらふ」で後の「あしらふ」現代語「あしらう」の原形である。
・「旦家」檀家。
・「五六十貫文」一貫文(謂いは1000文であるが実際には960文)で、これを仮に現在の1万円から1万5000円程度と安めに換算しても、これだけでも50万円~90万円前後となり、最後に踏み倒した「四五百貫文」に至っては実に400万円から750万円という法外な金額になる。そもそもそんな大金何に使ったのだろう?――もしや、何やらん、非合法的な闇の取引なんぞが佐渡にて横行していた臭いさえしたりしてくるが――それよりやっぱり、信用が置けるからと言って、無宿咎人にそこまで貸す方が馬鹿である。しかし話柄としては、これくらいでなけりゃ、我々も驚かないといえば驚かない話ではある。
■やぶちゃん現代語訳
悪業にもその手段に一工夫ある事
佐渡銀山坑内の水替えとして、明和の頃より、水替人足として、江戸表で召し捕られた無罪の無宿人が遣わされておったが、その中に――更に咎を犯して島送りとなった――大阪無宿吉兵衛という者が御座った。
こ奴、大阪生れにて、如何にも大阪人らしい小悧巧な性質(たち)にて、いろいろ役にも立つ男であった故――無宿であるばかりでなく真正の罪人ではあったものの――ある時、一度、水替の人足部屋の頭ともなったことがあった。
ある日のこと、この男、相川町にある、とある一向宗の寺院へ参ると、
「……我らが家、代々一向宗なれど……ここにては水替作業にて死にし者、これ、真言宗の寺院に取り捨てらるることと相成って御座る。……お上の御取り決めとなれば、致し方御座らぬこととは言い乍ら……やはり……何と言うても、せめてもの生涯の菩提や先祖の弔い、さまざまなる死後の勤行なんどは……どうか、このお寺にて、お願い仕りとう存ずればこそ……。」
と、如何にも殊勝且つ悲痛に懇請致いた。
されば、それを聞いた当山住持も不憫に思い、
「それはそれは、如何にも尤もなることじゃ。」
と、菩提供養の件、快く受け、その後、この吉兵衛とも懇意になって御座った。
この吉兵衛、時節の付け届けなんどにも、無宿咎人とは思えぬ分不相応なる物をかの住持に贈り、万事が万事、出しゃばることとてなく、要領を得て付き合(お)うて御座ったれば、かの和尚、知れる町屋の者たちなんどにも、
「咎人ながら、誠(まっこと)殊勝な者じゃ。」
と吹聴して廻る。
これより吉兵衛は、かの住持の寺の檀家やら、寺僧に所縁(ゆかり)のある町家の者どもとも親しゅうするようになった。
さてもそれから、寺は勿論のこと、その縁ある町家にても子供の祝いなんどある折りにても、吉兵衛より厚き祝いの品々なんどが施されて御座ったによって、いよいよ、『信心厚き好き人なり』との噂、これ、広がって御座った。
ある年の暮れ、この吉兵衛、懇意に致して御座った、かの町家の一つに訪ね来て、何やらん物入りの由にて、銭五、六十貫文をも借用申し入れて参った。高額なれど、普段の信用もあれば、二つ返事で貸してやったところ、吉兵衛は返済の期日に至る前に返して参った。
かようなことが何度か御座ったれば、
「吉兵衛は信用の置ける男じゃて。」
とますます安心致いて、その後(のち)も度々借金を請うて参れば、言うがままに貸し渡いて御座った。
……ところが……
……気がつけば、その貸した金、一、二年で積もり積もって四、五百貫文にも膨れ上がって御座った。……
……ところが……
……そこに至るまで気がつかぬも愚かなれど……
……吉兵衛の奴(きゃつ)、それっきり絶えて、ビタ一文……
……返しては御座らなんだのじゃった。……
不届きなることとは思うたものの、気がつけば、もとより水替え人足の如き輩相手の上、迂闊にも信用貸しにて、証文なんどを交わすこともなしに貸し与えてきてしまったれば、奉行所へ訴え出ることも。これならず、ただただ無念を堪え、ただただ泣き寝入り致いた、と聞いた。
「……元来の悪党には……相応の猜疑の心得にて臨まねば、これ、なりません。……」
とは、佐渡奉行在勤の折り、聞いた話で御座る。