耳嚢 巻之三 明君儉素忘れ給はざる事
「耳嚢 巻之三」に「明君儉素忘れ給はざる事」を収載した。
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明君儉素忘れ給はざる事
有德院樣御代、御大切の物とて箱に入て御床に有りしものあり。古き土燒の火鉢にてありし由。紀州にて未(いまだ)主税頭(ちからのかみ)樣と申せし頃、途中にて御覺被遊、安藤霜臺の親郷右衞門に求候樣被仰付、則郷右衞門家僕の調へし品のよし、霜臺教示の物語りにてありし。昔を忘れ給はざる難有明德と、子弟の爲に爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:「蛇淫を祀った長持ち」グロテスク・ホラーから、「暴れん坊将軍吉宗少年の日の思い出の小箱――ならぬ大箱の火鉢」心温まるファンタジーで明るく連関。
・「倹素」無駄な出費をせず質素なこと。ここではどんな物でも大切に使うという意。
・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。
・「主税頭」吉宗は幼名を源六、通称新之介(新之助)と呼ばれ、元禄9(1696)年12月18日13歳で従四位下に叙されて右近衛権少将兼主税頭に任官している(ここで正式の名を松平頼久とし、後、頼方と改めている)。元禄10(1697)年4月11日に越前国丹生郡葛野藩3万石藩主を襲封(のちに1万石加増)されている。一見すると彼が主税頭と呼ばれて紀州にいたのはこの14歳までのように思われるが、実際には葛野藩には家臣団が送られて統治し、吉宗は和歌山城下にとどまっていたとされている。その後、宝永2(1705)年10月6日に紀州徳川家5代藩主就任、同年12月1日には従三位左近衛権中将に昇叙転任して将軍綱吉の偏諱を賜り、「吉宗」と改名した。この時、24歳。享保元(1716)年8月13日征夷大将軍及び源氏長者宣下を経て、正二位内大臣兼右近衛大将、第八代将軍の座に就いた(以上は主にウィキの「徳川吉宗」に拠った)。従って13歳から24歳までを範囲とするが、本話柄の印象では、やはり13、14歳の少年であって欲しい。
・「安藤霜臺」安藤郷右衛門惟要(ごうえもんこれとし 正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「彈正少弼」は弾正台(少弼は次官の意)のことで、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。既にお馴染み「耳嚢」の重要な情報源の一人。
・「郷右衞門」安藤惟泰(元禄7(1694)年~享保6(1721)年)。同じ郷右衛門を名乗った安藤惟要の実父。底本の鈴木氏注に、『紀州家で吉宗に仕え、享保元年幕臣となり、御小性。三百石』とある。二十八歳の若さで亡くなっている。
■やぶちゃん現代語訳
明君は倹素ということを決してお忘れにならぬという事
有徳院吉宗様の御代のこと、上様御自身が大切の物とされて、箱に納め、常に床の間の御座敷にお置きになられていた物が御座った。それは古い素焼きの火鉢で御座った由。紀州にて未だ主税頭様と申されて御座った十三、四の砌、とあるお成りの道中、市中の道具屋の店先に置かれていたのを御覧遊ばされ、御少年乍ら、その火鉢の素朴なる風情が痛く気に入られて、安藤霜台惟要殿の父君であられた郷右衛門惟泰殿に求めて参るよう仰せつけられ、郷右衛門殿家僕が買(こ)うて御座った品の由、霜台殿御自身より承った話で御座る。
昔日をお忘れにならぬ有難き明徳の、教訓にもならんかと、御武家子弟のために、ここに記しおくものである。