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2010/10/08

耳嚢 巻之三 人の禁ずる事なすべからざる事

「耳嚢 巻之三」に「人の禁ずる事なすべからざる事」を収載した。

 人の禁ずる事なすべからざる事

 大坂町奉行屋敷書院の庭に大き成石あり。右石に立寄ふれけがしぬれば必祟り有とて、昔より繩を張りて人の立寄事を戒めぬ。岡部對馬守町奉行の節、かゝる怪石とりのけ可然とて取除にかゝりしが、彼是する事ありて程過しに、對馬守はからず御役を退きし由。右對馬守は其身持よろしからず、石の祟りなくとも神明(しんめい)の罰も蒙るべき人なれど、都(すべ)て古來より人の禁じたる事破り捨んは、理に似て却て不理なるべし。心有べき事也と人のいひし。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。祟る石であるが、本記述を見ても、根岸は基本的にある種の臨機応変の健全なるプラグマティストの一面を持っていたことが分かる。

・「大坂町奉行屋敷」「大坂町奉行」は遠国奉行の一つ。江戸町奉行と同様、東西の奉行所があり、東西一ヶ月ごとの月番制であった。以下、ウィキの「大坂町奉行」より一部引用する。『老中支配下で大坂三郷及び摂津・河内国の支配を目的としていた』。例外の時期もあるが、『定員は東西それぞれ1名ずつ』で、『奉行には役高1500石及び役料600石(現米支給)が与えられ、従五位下に叙任されるのが慣例であった。配下は東西いずれも与力30騎、同心50人。奉行所は元々は東西ともに大坂城北西の出入口である京橋口の門外に設置されていたが、享保9年(1724年)の大火で両奉行所ともに焼失した教訓から、東町奉行所は京橋口に再建され、西町奉行所は本町橋東詰の内本町橋詰町に移転された』。『また、時代が下るにつれて糸割符仲間や蔵屋敷などの監督など、大坂経済関連の業務や幕府領となった兵庫・西宮の民政、摂津・河内・和泉・播磨における幕府領における年貢徴収及び公事取扱(享保7年(1722年)以後)など、その職務権限は拡大されることとなった』。ここで問題となっている「岡部對馬守」元良は西町奉行であったが、この屋敷は役宅の意であり、必ずしも本町橋東詰の内本町橋詰町近辺とは言い得ないが、一種の官舎であってみれば、とんでもなく遠い所にあるとも思えない。識者の御教授を乞うものである。

・「岡部對馬守」岡部元良(宝永6(1709)年~宝暦121762)年)。底本の鈴木氏注では宝暦7(1757)年から没する宝暦121762)年まで職にあった由記載があるので誤伝と考えられる。鈴木氏は更に『同姓の勝政(隠岐守。ただし父興貞が対馬守)と混同したのであろう』とされ、『勝政は元禄六年御留守居となり、同十年には千五百石加増、すべて四千五百石を領したが、十四年にいたり部下の私曲に関して罰せられ、小普請入り、逼塞を命ぜられ、宝永四年致仕、正徳三年七十四歳で没した。』と記されている。しかし、岡部勝政は大坂町奉行であったことはなく、正徳3(1713)年没では宝暦121762)年没の岡部元良と勘違いするには、50年近い差があり、やや不自然である。岩波版の長谷川氏注では、その辺りをお感じになられたのか、鈴木氏注を踏襲せず、岡部元良の『子元珍は閉門、それを継ぐ某は酒狂、追放。』と記され、元良の悪しき血筋との混同とする。この二人の事蹟は高柳光壽の「新訂寛政重修諸家譜」にあり、子の元珍(もとよし 延享3(1746)年~明和7(1770)年)の閉門は彼の咎ではなく、父元良の死後の背任行為によるものであることが分かる。即ち父が死んで『宝暦十二年十月十六日父の遺跡を繼、この日父元良職にあるとき、隊下の與力同心をして市人の金子をかりし事露顯し、糺明あるべき處、すでに死するにより、元珍これに座して閉門せしめられ、のちゆるさる』とあるからである。元珍は許された甲斐もなく、25歳で夭折している。また、それを継いだ岡部某は幼名徳五郎と言い、実は元良の次男で、兄の養子となって嗣子となった人物で、「新訂寛政重修諸家譜」には『安永九年八月二十三日さきに從者わづか二人をつれ、松平荒之助貞應とゝもに龜戸天神境内にいたり、住所もしれざる僧と出會し、酒宴を催し、沈醉のあまりまた其邊りの酒店にいり、酒肴を求むといへども酒狂の體なれば酒つきたりとて出さゞりしを恕り、高聲にのゝしり、途中にても法外のありさまなれば狂人なりとて、多くの人跡より附來るをいきどをり、荒之助とゝもに刀を拔て追拂はむとせしにその中より礫をうたれ、或は大勢に附纏はれ、せんかたなく刀をおさめ、逃れ去むとせしを所の者出あひ、割竹をもつて眉間に傷つけられ、誠にその人をも見失ひ、病に疲れたる往來の者を相手なりと心得たがひて切殺し、狼藉に及びしゆへ止事を得ず、討果せしむね支配岡部外記知曉が許に告。よりて糺明あるのところ、彼是僞をかまへ申陳せしこと、おほやけを恐れざる志始末かたがたその罪輕からざるにより、遠流にも處せらるべしといへども、獄屋火災ににかゝるとき、これを放たるゝ處、立ちかへりしかば一等を宥められ、追放に處せらる。』というとんでもなく詳しい「酒狂」ぶりが記されている。この内容を見てしまうと、私はここは長谷川氏注を採りたくなってしまう。現代語訳では「岡部対馬守殿」のみの、そのままとしておいた。

■やぶちゃん現代語訳

 人の禁ずる事はこれなすべきではないという事

 大阪町奉行屋敷書院の庭に、大きな石が御座った。

 この石に近寄ったり、触れて穢したならば、必ずや祟りがある、と言い伝えられて御座って、古えより、周囲に注連繩(しめなわ)を張り渡いて、人が不用意に近寄らぬようにして御座った。

 岡部対馬守殿が町奉行を勤めておられた際、日頃から、

「かかる怪石なんど、取り除いて然るべきこと。」

とて仰せになっておられたのだが、かれこれ所用雑務に追われておられたために、つい、そのままにして御座った。

 すると、そのうちに対馬守、突然の御役辞任と相成って御座った由。――まあ、この対馬守殿は、その身持ち、甚だよろしくなく、この石の祟りがなかったとしても、いずれは神明(しんめい)の罰を蒙らではおかぬとんでもないお人では御座ったが――何事に於いても、古来より人の禁じたることをまるっきり無視し、安易に破棄してしまうなんどということ、これ、一見合理的合目的的に見え乍ら、その実、却って天然自然の絶対の理(ことわり)に反するものであると言ってよい。このこと、心得るべきと、とある人が語って御座った話で御座る。

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