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2010/10/19

耳嚢 巻之三 夢兆なしとも難申事

「耳嚢 巻之三」に「夢兆なしとも難申事」を収載した。

 夢兆なしとも難申事

 本所石原に設樂(しだら)某といへる人、召仕の女懷姙して三ツ子を生し事あり。則(すなはち)名を文藏孝藏忠藏と付て、今ははやいづれも廿才になりぬべし。右設樂の縁者たる石黑某かたりけるは、物には自然と感ずる前兆も有ものかや、右設樂初め小十人組にて御城泊番に有りしが、夢に三子を設けたる故名をば何と付べきや、文孝忠信といへど信は殘り三字へ渡りたる義也、文藏孝藏忠藏と附べしと思ひて夢覺めけり。おかしき夢を見しと思ひしが、果して三子を設けて其通り名を付しと也。

□やぶちゃん注

○前項連関:聴覚的予兆から夢の予兆で直連関。

・「本所石原」現在の墨田区南西部、蔵前橋東南岸を東へ下る蔵前橋通りの左右に現存。御竹蔵(現・国技館)の東北に位置し、東へ縦に長い町である(但し、東方向の現「石原(三)」「石原(四)」は切絵図では「石原新町」とある)。嘉永年間の絵図であるが、そこには「設楽」姓は発見出来なかったが、以下の注で分かる通り、この設楽家は並みの格ではない。絵図にないのは出世して引っ越したと考えるべきであろうか。

・「設楽某」岩波版長谷川氏注では設楽正凝(しだらまさなり 享保9(1724)年~天明4(1784)年)とし、『大番を経て田安郡奉行』となったとあり、更に『三子に該当するのは豊蔵惟綏(これよし)・幸蔵久厚(ひさあつ)・忠蔵政厚。三つ子ではない。』と懇切な注がある(本文は明らかな三つ子として記載されている)。大番は将軍を直接警護する、現在のシークレット・サーヴィス相当職で、五番(御番)方の一つ(後注「小十人組」を参照。その中でも最も歴史が古い)。田安郡(こおり)奉行とは江戸幕府第八代将軍吉宗次男宗武を家祖とする御三卿の一つ田安徳川家の領地の郡代を言う。しかし正直に言うと、この正凝なる人物が独身であったのか、妻がありながら召使いに手を出したのか、長谷川氏がかく注を引くことが出来るということは、正妻がなかったか、正妻はあったが子がなかったか――そんなことの方が気にかかる私であった。また、そんなところを勝手に類推敷衍して、現代語訳に突っ込もうと思った。こうした条件をつけた方が、夢告の不思議さ――都市伝説的なリアルなインパクトを付与出来ると考えたからである――と、底本の鈴木氏注を見た――またしても、『新たな』動き! 新事実! まず、そこには、設楽正凝の子として男子三人ではなく四人を挙げ、何とそこには「信」さえ居るのである!――『七蔵正信・豊蔵惟綏・幸蔵久厚・忠蔵政厚の四子がある。文蔵ではない。なお三つ子を生んだのではなく、豊蔵と忠蔵は二年違い。嗣子七蔵も母某氏とあり、正妻には子がなかったのであろう。』――いつも乍ら、鈴木先生に感謝! 先生の推測に、私の敷衍を組み合わせて――設楽某のアーバン・レジェンド、出来上がり、出来上がり!

・「小十人組」将軍家警護組織であった五番方の一つ。以下、ウィキの「小十人」から引用する。『江戸幕府における警備・軍事部門(番方)の役職のひとつである。語源は扈従人であるとされる。将軍及びその嫡子を護衛する歩兵を中心とした親衛隊であり、行軍・行列の前衛部隊、目的地の先遣警備隊、城中警備係の3つの役目がある』。『小十人の役職名は、江戸幕府と諸藩(特に大きな藩)に見ることができ、将軍(あるいは藩主)及び嫡子の護衛・警備を役目とする。歩兵が主力であるが、戦時・行軍においては主君に最も近い位置にいる歩兵であるため、歩兵でも比較的格式が高い』。『江戸幕府においては五番方(新番・小十人・小姓番・書院番・大番)のひとつとされる。平時にあっては江戸城檜之間に詰め、警備の一翼を担ったが、泰平の世にあっては将軍が日光東照宮、増上寺、寛永寺などに参拝のため、江戸城を外出するときが腕の見せ所であり、繁忙期であった。将軍外出時には将軍行列の前衛の歩兵を勤めたり、将軍の目的地に先遣隊として乗り込んでその一帯を警備した。江戸時代初期や幕末には小十人が将軍とともに京・大坂に赴き、二条城等の警護にも当たっている』。『小十人のトップは、小十人頭(あるいは小十人番頭)であり、主に1,000石以上の大身旗本から選ばれた(足高の制による役高は1,000石)。中間管理職として小十人組頭(役高300俵)があり、将軍外出予定地の実地調査のためにしばしば出張した。小十人頭(番頭)・組頭は馬上資格を持つ。時代によって異なるが、江戸幕府には概ね小十人頭は20名、小十人組頭は40名、小十人番衆は400名がいた』。『小十人の番士は、旗本の身分を持つが、馬上資格がないという特徴がある。小十人番衆は家禄100俵(石)級から任命されることが多く、小十人の役職に就任すると、原則として10人扶持の役料が付けられた。知行になおすと計120余石となる。江戸城に登城する際は、徒歩で雪駄履き・袴着用で、槍持ちと小者の計2名を従えた』。『江戸時代初期には、譜代席の御家人(御家人の上層部)の中で優秀な者・運の良い者(あるいはその惣領)は小十人となり、旗本に班を進める者もいた。泰平の世となると、番方は家柄優先の人事が行われていたので、将軍通行の沿道警備役の御家人から小十人に直接抜擢された例はほとんどなく、勘定・広敷をはじめとする役方(行政職・事務職)の役職に就任していた御家人(あるいはその惣領)が論功として小十人になることがあった』とある。

・「御城泊番に有りし」ここでわざわざ設楽の役職を仔細に述べ、夢を見たのが城内での宿直の晩であったと述べているのは、もしかすると根岸、江戸城徳川将軍家の持つ神威のパワーを暗に示さんとしたものででも、あったものと私は推測している。

■やぶちゃん現代語訳

 夢兆など存在しないなどとも言い難き事

 本所石原に住まう設楽某というお方があったが――御正妻はあられたが、御子がなかった――その召使いの女が懐妊して三つ子が生れた――かく申せば言わずもがな、設楽某殿の御子で御座った――。

 則ち――この女を側室と致いて――名を文蔵・孝蔵・忠蔵と付け――そうさ、今ははや、二十歳(はたち)前後にはなり申そう。

 この設楽の親戚の者で御座った私の知人石黒某が語った話で御座る。――

「……物事というもの、自(おの)ずと不思議に感応致すところの、前兆というもの、これ、あるので御座ろうか。……かの設楽、子もなくて――未だかの女も召し使う前にて御座った由――大番になる前は、初めは小十人組に勤めて御座って、御城の宿直(とのい)番に当たった夜の夢の中にてのこと、と申す……

『……かくも――三つ子を設けたる、故は……さても――名何と付くるが、よかろう?……世には――「文・孝・忠・信」とは言うも、これは四つ……なれど――『信』は他の三字総てにあるべきものにて、相通ずればこそ……これぞ、文蔵・孝蔵・忠蔵と名付くるが、よかろう……』

と、思うた……

――と夢の中にて思うたところで、設楽……目が覚めたと申す。勿論、妻には子も一向に出来ず……況や、子を孕ませた女のある訳にてもなし……

『……妙な夢を……見たもんじゃ……』

と思って御座ったところ……暫く致いて、新たに雇うた召使いの女の色香に迷い……孕ませ……かくも誠に三つ子が……かの日の夢の通りの、三つ子が生まれ……かの夢告の通り、文蔵・孝蔵・忠蔵と名を付けたということにて御座る。……」

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