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2010/10/16

耳嚢 巻之三 賴母敷き家來の事

「耳嚢 巻之三」に「賴母敷き家來の事」を収載した。

 賴母敷き家來の事

 紀州南陵院樣、或日若山におゐて御物見に入らせられ往來を御覧ありしに、御出の樣子もしらず御家中の者も大勢往來なせしに、或御家來侍草履取挾箱鑓(やり)にて通りしを、御側に居し者、あれは彼沙汰ありし男なりと笑ひけるを御聞被遊、いかなる沙汰ありしと御意の時、御側の者共無據申けるは、彼者儀身上不勝手の由、しかはあれど取計(とりはからひ)かたも可有之儀、甚だ不束(ふつつか)の儀に有之と申上けるに、いか成(なる)謂(いはれ)と御尋有ければ、右の者召連候侍は彼者次男に御座候。草履取鑓持箱持何れも三男四男、或ひは懸り居候甥などにて候と申ければ、南陵院樣御意ありけるは、それは賴母敷家來也、予は大勢召連ぬれど、彼家來におとりたる、草履鑓持の處は心元なし。不如意は是非もなしと被仰けるが、無程かの者を御取立ありて相應に子供も片付をなしけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:もし前項が想像した通りの吉宗の逸話であれば、その祖父の話として連関する。

・「賴母敷き」「たのもしき」と読む。

・「紀州南陵院」正しくは南龍院。徳川家康十男で紀伊国和歌山藩初代藩主となった徳川頼宣(慶長7(1602)年~寛文111671)年)の尊称。戒名も南龍院殿従二位前亜相顗永天晃大居士である。ウィキの「徳川頼宣」より一部引用する。『常陸国水戸藩、駿河国駿府藩、紀伊国和歌山藩の藩主を歴任して紀州徳川家の祖となる。母は側室の養珠院(万)である。八代将軍徳川吉宗の祖父にあたる。幼名は長福丸、元服に伴い頼将、元和年中に頼信、さらに頼宣と改名する。初任官が常陸介であったため、子孫も代々常陸介に任官した』。『1602年(慶長7年)、伏見城にて生まれる。1603年(慶長8年)、2歳にして常陸水戸藩20万石を与えられる。1606年(慶長11年)、家康に従い京都に上り元服。同年、駿河駿府藩50万石に転封され、駿府城に入って家康の許で育てられた。1617年2月27日(元和3年正月22日)に加藤清正の第五女・八十姫(瑤林院)を正室とする』。『1614年(慶長19年)、大坂冬の陣で初陣を飾り、天王寺付近に布陣した。翌年大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで後詰として活躍した』。『1619年(元和5年)、紀伊国紀州藩55万5千石に転封、紀州徳川家の家祖となる。入国の前に、家臣を派遣して、以前の領主・浅野家に対する領民の不満などを調査させている。入国後は、和歌山城の改築、城下町の整備など、紀州藩の繁栄の基礎を築いた。また、地元の国人を懐柔する地士制度を実施した。また、浪人問題を解消すべく、多くの対策を打ち出した』。『1651年(慶安4年)の慶安の変において、由井正雪が頼宣の印章文書を偽造していたため幕府(松平信綱・中根正盛)に謀反の疑いをかけられ、10年間紀州へ帰国できなかった』。『なおその時期、明の遺臣・鄭成功(国姓爺)から日本に援軍要請があったが、頼宣はこれに応じることに積極的であったともいう。その後、疑いは晴れて無事帰国したが、和歌山城の増築を中止しなければならなかったとも言われる(和歌山県和歌山市にはこの伝承に因む「堀止」という地名がある)』。『1667年(寛文7年)嫡男・光貞に跡を譲り隠居』。暴れん坊将軍吉宗の祖父に相応しく、『覇気に富む人柄であったと伝えられている』とある。現代語訳では正しく南龍院と改めた。

・「物見」城や貴人の屋敷などで、外部の様子を眺めるために高所に設けられた場所。物見窓。一般には外からは見え難い構造になっている。

・「若山」和歌山。

・「身上不勝手」家計不如意、経済的に困窮しいること。

・「おゐて」はママ。

・「おとりたる、草履鑓持の」底本では右に『(尊本「劣らざる草履取鎗持の」)』と注する。これで採る。

■やぶちゃん現代語訳

 

 頼もしき家来の事

 ある折り、大御所様御子にして吉宗公御祖父であらせられた紀州南龍院徳川頼宣様が、和歌山城の御物見にお入りになられ、往来をご覧になられておられた。

 御物見台へ御出でになられておられることを知らぬ御家中の者らが、御城下御物見下を大勢往来致いておった。

 その時、ある家士の一人が、物見のすぐ下を、供侍一人、草履取一人、挟箱一人、槍持一人を従え、通って行くの見た御近習の者が、別の一人に――上様のお傍なれば、上様に聴こえぬようにと――遠慮がちに笑い乍ら、耳打ち致いた。

「……あれ、見よ。……ほれ、『あの評判の』、例の男ぞ。……」

耳聡き南龍院様がこれをお聞き遊ばされ、

「――『あの評判』――とは、如何なる評判じゃ?――」

との御意。聴き咎められた御傍衆は恐縮し乍ら、拠所なく、以下のように申し上げた。

「……かの者儀……如何に身上不如意とは申せ……他にも取り計らい方、これ、御座ろうと思われまするに……甚だ見苦しき仕儀、致いて御座れば……」

と申し上げたところ、南龍院様は、

「――かの者を見るに――これと言うて、何の見劣れるところも、これ、ないが――何の謂われを以って『見苦しい』とは、申すか?――」

とのお訊ねなれば、

「……お恐れ乍ら、実は……かの者の、あの召し連れて御座いますところの供侍……これ、次男にて御座いまする。……また、その後ろの草履取、槍持、箱持は何れも三男、四男、或いは、かの家士に頼って居候致いて御座る甥子(おいご)……といった次第にて御座いますればこそ……」

と、如何にもかの家士を賤しき者と馬鹿にした風に申し上げる。

 ところが、南龍院様、にっこりと微笑まれ、御意あらせられたことには、

「――それは頼もしき家来じゃ! 予は大勢、家来を召し連ねておれど――かの家来に劣らぬ草履取、槍持がおるか――と思うと、心許ない。――身上不如意――それとこれとは、何の関係も、これ、ない。――」

と仰せられた由。

 程なく、南龍院様は、かの家士を殊の外御取り立てになられ、その子供らをも、相応の職に落ち着かせたとのことで御座った。

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