耳嚢 巻之三 言語可愼事/戲れ事にも了簡あるべき事
三日間、名古屋の義母を見舞いで不在にするため、「耳嚢 巻之三」に「言語可愼事」「戲れ事にも了簡あるべき事」二篇を収載した。
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言語可愼事
いつの頃にやありし、諸侯の奧方京都堂上(たうしやう)の息女にて、右奧方に附添來りし京侍、其儘右諸侯に勤仕(ごんし)して後は表方へ出勤しけるが、或日雨の日若侍寄合て雜談の折から、武士は關東北國の生れならでは用に不立、昔語りにも京家の侍は戰場を迯(にげ)去り勇氣甲斐なき抔雜談せしを、彼京侍聞て、京家の武士也(なる)とて魂次第なるべし、何ぞ京家の者臆病なるべきやと申けるに、言ひかゝりにや彼是ひとつふたつ取合しが、京家の侍の魂を見よなどゝて、果は刃傷(にんじやう)に及び双方共無益の事に命を果しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:敢えて禁忌に触れて禍いを招き、言葉を慎まざるによって命を落とすで連関。
・「堂上」堂上家。昇殿を許された四位以上の、公卿に列することの出来る家柄を言う。
・「表方」藩で政務を掌る所。また、その藩政関連の仕事。
・「武士は關東北國の生れならでは用に不立……」以下の叙述からはこの大名諸侯は東国以北の出身で領地も同地方にあり、御家中の家士も殆んどがそうであったと考えてよかろう。
■やぶちゃん現代語訳
言葉は重々慎むべき事
いつ頃のことで御座ったか、大名諸侯の奥方――京都堂上家の御息女にて――その奥方となられた方の道中付添いとして来府した京侍、そのままこの諸侯に勤仕(ごんし)致いて後は、表方へ出勤致いて御座った。
とある雨の日のこと、退屈しのぎに御家中の若侍どもが寄り集うて雑談など致いておったところ、そのうちの東国出の武士の一人が、
「――ところで、武士たるもの、関東北国の生まれでのうては役に立たざるものにて、昔語りにも『京の出の侍なんぞは戦場から逃げ去りて、勇気も甲斐性も何もかもない』と言うではないか……」
と言うたのを聞き咎め、
「京師(けいし)の武士であろうと、その者の心根、次第! 何故、京師の者を以って臆病となすか!」
と一喝した。先の男も半ばは冗談のつもりで言いかけたに過ぎぬので御座ったろうが、京出の侍が如何にも向きになったによって、売り言葉に買い言葉、二言三言の言い合いの末、京侍、抜刀の上、
「京師の侍の魂を見よ!」
とて刃傷に及び、双方とも――誠(まっこと)つまらぬことにて――命を落といた、ということで御座る。
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戲れ事にも了簡あるべき事
予がしれる人に岡本源兵衞といへる人のありしが、彼のゆかりの者清水御殿の小十人となん勤けるに、或夜泊りの折から、坊主衆の戲れに白※(しろぎぬ)など着し、妖怪のまなびして右の者を威しけるに、臆したる男にや有けん、帶劍拔はなし彼坊主をあやめけるを、右聲に驚きて欠(かけ)集りけるに坊主も薄手にて死もやらざりしが、吟味の上双方共に御暇を給りて浪人なしぬ。坊主は勿論、さこそ切りしおのこも跡にては恥敷(はづかしく)ありけんと人々申ぬ。
[やぶちゃん字注:「※」=「糸」+=「旨」。]
□やぶちゃん注
○前項連関:言葉を慎まざるによって命を落とし、おふざけで危うく命を落としかけ、武士も面目を失ったで直連関。
・「岡本源兵衞」岡本正輔(まさすけ 享保18(1733)年~?)。岩波版長谷川氏注に『宝暦元年(一七五一)十九歳で相続、百五十俵。明和六年(一七六九)小十人。』とあり、底本の鈴木氏注では更に、天明4(1784)年の『火災に役向で預けられている鎧を焼失して暫く出仕を止められたことが寛政譜に出ているが、浪人うんぬんはない。家譜以後のことか。或いは誤聞か』とされる。しかしこれは鈴木氏の『誤読』で、主人公は岡本源兵衛の親戚の者である。
・「清水御殿」底本鈴木氏注に『清水屋敷。清水御門内。徳川重好』『の屋敷で、宝暦九年に作られたもの。』とある。徳川重好(延享2(1745)年~寛政7(1795)年)は第十代将軍家治の弟で、徳川御三卿の一つ清水徳川家初代当主。通称、清水重好。以下、ウィキの「徳川重好」から一部引用する(記号の一部を変更した)。『延享2年(1745年)2月15日、9代将軍家重の次男として生まれる。幼名は萬二郎。松平姓を称した』。『天明8年(1788年5月、御庭番高橋恒成は清水徳川家に関して、「御取締り宜しからず候由」と報告書を記している。具体的には、家臣の長尾幸兵衛が清水家の財政を私物化していると指摘している。また、「よしの冊子」では、長尾は3万両を田沼意次に献金し、重好を将軍職に就けようと目論んだと示唆している。寛政7年(1795年)7月8日、死去。享年51(満50歳没)』。『重好には嗣子がなかったため、清水徳川家は空席となる。その際、領地・家屋敷は一時的に幕府に収公されている。収公は将軍吉宗の意向に背くものであったため、同年7月、一橋徳川家当主の治済は老中松平信明らに強く抗議している。治済は7男亀之助(後の松平義居)による相続を考えていたようである。その後の清水家は、第11代将軍家斉の5男敦之助が継承している』。
・「小十人」は将軍及びその嫡子を護衛する歩兵を中心とした親衛隊。前衛・先遣・城中警備の3つの部隊に分かれ、その頂点にいるのが小十人頭(小十人番頭)であった(以上はウィキの「小十人」を参照した)。底本の卷之一にある鈴木氏の注によれば、若年寄支配で『二十人を一組とし、組数は増減があるが、多い時は二十組あった』とある。
・「坊主衆」これは江戸城や大名などに仕え、僧形で茶の湯など雑役をつとめた者のこと。その職掌により茶坊主・太鼓坊主などと呼称された。
・「白※」[「※」=「糸」+=「旨」。]この字は「絹」の国字。
・「欠集りける」底本では「欠」の右に『(駈)』とある。
■やぶちゃん現代語訳
ふざけるのも大概にせいという事
私の知人に岡本源兵衛という方が御座った。
その彼の親戚筋の者に、清水御殿で確か小十人とやらを勤めておる者が御座った由。
ある夜、宿直の折から、御殿の坊主衆がふざけて白い薄絹を被って、妖怪変化の真似なんどをして、この男を脅かそうと致いたところが――実際、この御仁、臆病な男ででもあったものか――見た途端、帯刀抜き放って坊主を袈裟懸けに斬ってしまった。
斬られた坊主の悲鳴に驚いた家内の者どもが泡を食って駆け集うた。――幸いなことに坊主の傷は浅手にて、死にもせなんだが――吟味の上、双方共に御暇を賜るという仕儀と相成り、源兵衛所縁の男子は、これ、浪人の憂き目に遭(お)うた。
「……坊主は勿論……えいや! とう! と一刀両断致さんとしたその男も、これ、赤っ恥、かいたもんだ……」
と、人々、噂致いたとのことである。

