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2010/10/07

耳嚢 巻之三 風土氣性等一概に難極事

耳嚢 巻之三」に「風土氣性等一概に難極事」を収載した。

 風土氣性等一概に難極事

 一年新見(しんみ)加賀守長崎奉行の節、長崎市中三分一燒失の事有りしに、長崎始ての大火故、役所よりも手當有之しが、長崎の土俗は陰德といふ事を專ら信仰なしけるが、濱表へ米三百俵ほど積みて、少分ながら貧民御救ひ被下候(さふらひ)しやう建札いたし置、或ひは火元の名を借りて銀箱等を役所へ差出し置候事ありし由。長崎に同年在勤せし者語りし也。崎陽は交易專らにて、專ら利に走る土地と思ひしに、此咄を聞てはあながち賤しむべき所とも思はれざるゆへ爰にしるし置ぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:金品論から、長崎の大火災に於ける被災者への篤志家の無私の金品拠出で直連関。

・「一年」ある年の意であるが、後注で判明するように、これは明和3(1766)年である。

・「新見加賀守」新見正栄(しんみまさなが 享保3(1718)年~安永5(1776)年)。底本の鈴木氏の注によれば、宝暦111761)年に小普請奉行、同年従五位下加賀守となったとある。明和2(1765)年から安永3(1774年)まで長崎奉行、同年御作事奉行へ転任(鈴木氏この転任の年を誤っている)、翌安永4(1775)年には勘定奉行となったが、その翌年に59歳で没している。この話、根岸は本文で新見本人から聴いたのではないとするが、新見が勘定奉行となり没する一年の間で根岸はこの新見本人とも親しく話す機会があった可能性がある。私はこの話、さりげなく新見正栄の名を「耳嚢」に示して一種のオードとしたかったのではなかったろうか? 何故なら、この頃、根岸は38歳、御勘定組頭で、正に新見が没する安永5(1776)年には勘定吟味役に抜擢されているからである。恐らく新見は根岸の才能を高く買っていた人物の一人であったに違いないからである。

・「長崎奉行」長崎を管理した遠国奉行の一つ。非常に長くなるが、本話を味わう上で必要と判断し、ウィキの「長崎奉行」より多くの部分を以下に引用させて頂く。『戦国時代大村氏の所領であった長崎は、天正8年(1580年)以来イエズス会に寄進されていたが、九州を平定した豊臣秀吉は天正16年(1588年)4月2日に長崎を直轄地とし、ついで鍋島直茂(肥前佐賀城主)を代官とした。文禄元年(1592年)には奉行として寺沢広高(肥前唐津城主)が任命された。これが長崎奉行の前身である』。『秀吉死後、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は豊臣氏の蔵入地を収公し、長崎行政は江戸幕府に移管された。初期は竹中重義など徳川秀忠側近の大名が任ぜられたが、やがて小禄の旗本が、のちには10002000石程度の上級旗本が任ぜられるようになった。長崎奉行職は幕末まで常置された』。『当初定員は1名で、南蛮船が入港し現地事務が繁忙期となる前(6月頃)に来崎し、南蛮船が帰帆後(10月頃)に江戸へ帰府するという慣習であった。しかし、島原の乱後は有事の際に九州の諸大名の指揮を執るため、寛永15年(1638年)以降は必ず1人は常駐する事になった。寛永10年(1633年)2月に2人制となり、貞享3年(1686年)には3人制、ついで元禄12年(1699年)には4人制、正徳3年(1713年)には3人制と定員が変遷し、享保期(1716年~1736年)以降は概ね2人制で定着する。天保14年(1843年)には1人制となったが、弘化2年(1845年)からは2人制に戻った。定員2名の内、1年交代で江戸と長崎に詰め、毎年8月から9月頃、交替した。また、延享3年(1746年)以降の一時期は勘定奉行が兼任した』。『奉行は老中支配、江戸城内の詰席は芙蓉の間で、元禄3年(1690年)には諸大夫格(従五位下)とされた。その就任に際しては江戸城に登城し、将軍に拝謁の上、これに任ずる旨の命を受ける』。『当初は、芙蓉の間詰めの他の構成員は全員諸大夫だったが、長崎奉行のみが布衣の身分で、しかも芙蓉の間末席であった。牛込重忝が長崎奉行を務めていた時期、当時の老中久世広之に対し長崎奉行が他の構成員と同様に諸大夫になれるようにという請願がなされたが、大老酒井忠清に拒否された。その理由は、「従来長崎奉行職は外国商人を支配する役職であって、外国人を重要視しないためにも、あえて低い地位の人を長崎奉行に任じてきた。しかし、もしここで長崎奉行の位階を上昇させれば、当然位階の高い人をその職に充てなければならなくなる。そして、これまで外国人を地位の低い役人が支配していることにより、それだけ外国において幕府の威光も高くなるとの考えから遠国奉行の中でも長崎奉行の地位を低くし、しかも芙蓉の間末席にしてきた。そのため、長崎奉行の地位を上げるような願いは聞き届けられない」というものであった』。『しかし、川口宗恒が元禄3年(1690年)に従五位下摂津守に叙爵された後、長崎奉行は同等の格に叙されるようになり、元禄12年(1699年)には京都町奉行よりも上席とされ、遠国奉行の中では首座となった』。『奉行の役所は本博多町(現、万才町)にあったが、寛文3年(1663年)の大火で焼失したため、江戸町(現、長崎市江戸町・長崎県庁所在地)に西役所(総坪数1679坪)と東役所が建てられた。寛文11年(1671年)に東役所が立山(現、長崎市立山1丁目・長崎歴史文化博物館在地)に移され、立山役所(総坪数3278坪)と改称された。この両所を総称して長崎奉行所と呼んだ』。『奉行の配下には、支配組頭、支配下役、支配調役、支配定役下役、与力、同心、清国通詞、オランダ通詞がいたが、これら以外にも、地役人、町方役人、長崎町年寄なども長崎行政に関与しており、総計1000名にのぼる行政組織が成立した。奉行やその部下、奉行所付の与力・同心は、一部の例外を除いて単身赴任であった』。『近隣大名が長崎に来た際は、長崎奉行に拝謁して挨拶を行なったが、大村氏のみは親戚格の扱いで、他の大名とは違い挨拶もそこそこに中座敷へ通し、酒肴を振舞うという慣例だった』。『奉行は天領長崎の最高責任者として、長崎の行政・司法に加え、長崎会所を監督し、清国、オランダとの通商、収益の幕府への上納、勝手方勘定奉行との連絡、諸国との外交接遇、唐人屋敷や出島を所管し、九州大名を始めとする諸国の動静探索、日本からの輸出品となる銅・俵物の所管、西国キリシタンの禁圧、長崎港警備を統括した。長崎港で事件が起これば佐賀藩・唐津藩をはじめとする近隣大名と連携し、指揮する権限も有していた』。『17世紀頃までは、キリシタン対策や西国大名の監視が主な任務であったが、正徳新令が発布された頃は貿易により利潤を得ることが長崎奉行の重要な職務となってきた』。『江戸時代も下ると、レザノフ来航、フェートン号事件、シーボルト事件、プチャーチン来航など、長崎近海は騒がしくなり、奉行の手腕がますます重要視されるようになる』。『長崎に詰めている奉行を長崎在勤奉行、江戸にいる方を江戸在府奉行と呼んだ。在府奉行は江戸の役宅で、江戸幕府当局と長崎在勤奉行の間に立ち、両者の連絡その他にあたった。在勤奉行の手にあまる重要問題や、先例のない事項は、江戸幕府老中に伺い決裁を求めたが、これは在勤奉行から在府奉行を通して行なわれ、その回答や指示も在府奉行を通して行なわれた。オランダ商館長の将軍拝謁の際に先導を務めたのも在府奉行であった』。以下は司法権の記載となる。『長崎の町の刑事裁判も奉行に任されていた。他の遠国奉行同様、追放刑までは独断で裁許出来るが、遠島刑以上の刑については、多くはその判決について長崎奉行から江戸表へ伺いをたて、その下知があって後に処罰される事になっていた。長崎から江戸までの往復には少なくとも3ヶ月以上を要し、その間に自害をしたり、病死したりする者もいた。その場合は、死体を塩漬けにして保存し、江戸からの下知を待って後に刑が執行された。幕府の承認を得ず、独断専行すれば、処罰の対象とされた。大事件については、幕府からの上使の下向を仰ぎ、その指示の下にその処理にあたった』。『奉行所の判決文集である「犯科帳」で、本文の最後に「伺の上~」として処罰が記してあるのは、その事件が極刑にあたる重罪である場合や、前例の少ない犯罪である場合等、長崎奉行単独の判断では判決を下せない時に、江戸表に伺いをたて、その下知によって処罰が決まった事を指した。その江戸表への伺いの書類を御仕置伺という。遠島以上の処分については、長崎奉行は御仕置伺に罪状を詳しく記した後、「遠島申し付くべく候や」という風に自分の意見を述べた。下知は伺いのままの場合が多かったが、奉行の意見より重罪になる事もあれば軽くなる事もあった。なお、キリシタンの処罰については、犯科帳には記述されていない』。『遠島刑は、長崎からは壱岐・対馬・五島へ流されるものが多く、大半は五島であった。まれに薩摩や隠岐にも送られた。天草島は長崎奉行の管理下にあったが、そこには大坂町奉行所で判決を下された流人が多かった。遠島の場合、判決が下っても、すぐに島への船が出る訳ではなく、天候や船の都合、判決の前後する犯人を一緒に乗船させる都合等により、かなり遅れる事もあった。そのため、遠島の判決文には、末尾に「尤も出船迄入牢申し付け置く」と書き添えてあるものが多かった』。『長崎で判決を受けた流人の大部分は五島に送られたが、その流人の支配については五島の領主に一任された。五島の領主から、流人がさらに罪を重ねたり島抜けをしたり等の報告があった場合には、奉行所の記録にもその事が付け加えられた。天草島の流人は長崎から送られる者は比較的少なかったが、天草は長崎奉行の支配下にあったため、長崎奉行所の記録には天草流人の様子を伺うものが多い。流人が島で罪を重ねた場合、天草は長崎奉行の支配下のため、奉行がその処罰を直接指示した。壱岐・五島・対馬などの場合は、処罰はその領主家来の支配に委ねられるが、その連絡報告を長崎奉行から求められた』。『奉行所の取り調べや処分について不平不満のある市民は、それについて意見を述べたいと思ったら町役人を通じて訴える必要があった。手続きの煩雑さや、上申しても願いが通る可能性が低い事から、町役人も手続きをしようとしない場合が多かった。これに対して市民は、願いを文書にして奉行所に投げ込む「投げ文」「捨て訴え」、直接役人や役所へ陳情する「駕籠訴え」「駈けこみ訴え」等を行なった。これらの非正規の手順は、「差越願(さしこしねがい)」として却下され、投げ文をした者の身元が分かれば、本人を町役人付き添いで呼び出し、目の前で書状は焼き捨てられた。しかし、表面上はそれを却下しながら、奉行所でそれを元に再吟味をし、市民の要求が通る場合もあった』。相応な治安維持のシステムであるが、場所柄、例外があった。今で言う治外法権である。『唐人やオランダ人に対する処罰は日本人と同じにする訳にはいかず、手鎖をかけて中国船主やカピタンに身柄を渡し、貴国の法で裁いて欲しいと要求する程度だった。罰銅処分(過料)か国禁処分になる場合が多く、国禁処分になった唐人は唐人屋敷に閉じこめられ、次に出港する船で帰国させられ、日本への再渡航を禁じられた。しかし開港後は、多くの外国人によるトラブルが発生し、従来のように唐船主や出島のカピタン相手に通達するだけでは済まず、各国の領事に連絡し、しかもその多くは江戸表へ伺いをたてねばならなくなった』。なお、『江戸やその他の場所では、非人に対する刑罰はその頭の手に委ねられていたが、長崎の場合は直接奉行によって執行された』とある。次に「長崎奉行の収入」の項。『奉行は、格式は公的な役高1000石、在任中役料4400俵であったが、長崎奉行は公的収入よりも、余得収入の方がはるかに大きい』。『すなわち、輸入品を御調物(おしらべもの)の名目で関税免除で購入する特権が認められ、それを京・大坂で数倍の価格で転売して莫大な利益を得た。加えて舶載品をあつかう長崎町人、貿易商人、地元役人たちから八朔銀と呼ばれる献金(年72貫余)や清国人・オランダ人からの贈り物や諸藩からの付届けなどがあり、一度長崎奉行を務めれば、子々孫々まで安泰な暮らしができるほどだといわれた。そのため、長崎奉行ポストは旗本垂涎の猟官ポストとなり、長崎奉行就任のためにつかった運動費の相場は3000両といわれたが、それを遥かに上回る余得収入があったという』。最後に「長崎在勤奉行の交替」の項が映像を髣髴とさせるので見ておこう。『江戸詰めの奉行が、長崎在勤の奉行と交替するため長崎に向け出立すると、その一行が諫早領矢上宿に到着する頃に、長崎在勤奉行は町使と地役人の年行司各2人ずつを案内のため、矢上宿に遣わす。そして奉行所西役所では屋内だけでなく庭の隅々まで清掃して着任する奉行を出迎える用意をする』。『さらに在勤奉行の代理として、その家臣1人が蛍茶屋近くの一ノ瀬橋に、西国の各藩から派遣されている長崎聞役は新大工町付近に、年番の町年寄は地役人の代表として日見峠に、その下役の者達は桜馬場から日見峠の間に並ぶ。そして長崎代官高木作右衛門は邸外に出て、それぞれ新奉行を待つ事になる』。『矢上宿に一泊した奉行は、駕籠の脇に5人、徒士5人、鎗1筋・箱3個、長柄傘・六尺棒その他からなる一行で出発。日見峠で小憩を取る際に、町年寄らが出迎え、奉行の無事到着を祝う。ついで沿道の地役人らが両側に整列する間を一行は進む。在勤奉行代理の家臣が、その氏名を1人ずつ紹介するが奉行はそれに対しては特に言葉を返さない』。『桜馬場まできたところで、出迎える諸藩の聞役の名を披露され、そこで初めて奉行はいちいち駕籠を止めて会釈する。ついで勝山町に進み、代官高木作右衛門と同姓の道之助が出迎えるのを見て、奉行は駕籠を出てこれと挨拶を交わす。西役所に一行が到着するのはこの後である』。『長崎の地役人や先着の家臣達が奉行所の門外や玄関でこれを迎え、奉行が屋内に入ったところで、皆礼服に改め、無事に到着した事を祝い、奉行もまたこれに応える。その後直ちに立山の長崎在勤奉行の下に使者を遣わして無事到着を報告する。これを受けた立山奉行所はそれを祝い、鯛一折りを送り届ける。到着した奉行は、昼食の後、立山奉行所に在勤奉行を訪問し、然るべき手続きを終え、西役所に戻る。その後、地役人らの挨拶があるが、これには新奉行は顔を出さない。その後、立山から在勤奉行がここに返礼に来る、というものであった』とある。

・「長崎市中三分一燒失の事」長崎は度重なる火災が起こっているが、藤城かおる氏の個人がお作りになった「長崎年表」の該当部分を見ると、新見正栄が長崎奉行をしていた明和2(1765)年から安永3(1774年)までの約10年間で、15回の出火を数える。その中でも大火災っとなったものは明和3(1766)年2月27日の大火がこれであると思われる。その記載に拠れば、『夜、四つ時に西古川町の林田あい・林田まさ宅の風呂場の火元不始末により出火』、その後、『大風で風向きが変わり本古川町、今鍛冶屋町、出来鍛冶屋町、今籠町、     今石灰町、新石灰町、油屋町、榎津町、万屋町、東浜町を焼き尽く』して、『西古川町、西浜町、銀屋町の過半数を焼』き、実に『16町、2794戸を焼失する大火災』となった。『罹災者には米、銭を与え仮屋33棟を造って収容』、本話に記された如く、『市内の富豪も米銭を寄付』したとあり、その救済を行った具体的な人名と拠出寄付した物品事業等が以下のように記されている。『村山治兵衛は米300俵、青木左馬は苫1200枚、筵600枚、飛鳥八右衛門ら14人は銀26貫目』、『川副大恩は無利子で銀52200目、上田嘉右衛門は低利で銀63貫目を貸与』とある。また本文に現れる新見ら奉行所の指示としては、『奇特の人々に奉行所はそれぞれ麻上下ひと揃え或いは衣服を与え賞』し、『類焼地役人にも貸与が許可』され、『消防尽力者は表彰を受け、町乙名は各麻上下ひと揃い、消火夫には各銭200文が与えられ』たとある。更に、この年表の真骨頂であるが、逆に火災に関わる処罰者の一覧も示されている。出火元となった西古川町の林田あいは押込30日、同林田まさは叱(しかり)、更に不作為犯として『出火の折り、隣家の者がその場に駆けつけ消火もせず、駆けつけても消火に尽くさ』なかったとして『西古川町・安留勘兵衛、西古川町・小柳久平次、西古川町・大薗長右衛門、榎津町・櫛屋市太郎、榎津町・利三次』の5名が叱、『出火を発見し消防のため水をかけるた』が、その消火活動が杜撰であったがために大火となったとして、西古川町の清助及び金次郎が叱を受けた、とある。

・「長崎始ての大火故」この言いは誤りである。長崎ではこれ以前、遡ること約百年前に「寛文長崎大火」と呼ばれるほぼ全市中を焼き尽くした大火災があった。以下、ウィキの「寛文長崎大火」より引用して、本話との類似性の参考に供しておく。『寛文3年(1663年)38日の巳の刻に、筑後町で火災が発生。その火は北風に煽られ、周囲の町へと広がっていき、長崎市中のほとんどを焼き尽くす大火災となった』。『この火災は筑後町に居住する浪人・樋口惣右衛門による放火が原因だった。日頃から鬱々としていた惣右衛門が発狂して自宅の2階の障子に火をつけ、隣家の屋根に投げつけて発火させた。当時の家屋のほとんどの屋根は茅葺だったため火の回りが速く、市街57町、民家2900戸を焼き尽くす大災害となり、長崎奉行所もこの時焼失した』(脚注に「増補長崎略史」を引用し、『市街六十三町、民家二千九百十六戸、及び奉行所・囚獄・寺社三十三ヶ所を焼亡す。その間口延長二百二十九町三十間、災いを蒙らざる者は金屋町・今町・出島町・筑後町・上町・中町・恵比寿町の幾分にして、戸数わずかに三百六十五戸のみ』とある)。『この火事は放火された日の翌朝午前10時まで約20時間続いたという』。『この後、放火の犯人である惣右衛門は捕らえられ、焼け出された人々の前を引き回された上で火あぶりの刑に処せられ』ている。『この火災は長崎の町が出来てから最大の災厄で、焼け出された町人達はその日の糧にも窮することとなった』。『これに対し、当時の長崎奉行の島田守政は、幕府から銀2000貫を借り、内町の住民に間口1間あたり290匁3分(銀60匁=1両=約20万円)、外町の住民に同じく121匁から73匁の貸与を行い、焼失した住宅の復旧を図った』(この「内町」「外町」については『地租を免ぜられた町で、「外町」はそれ以外の町。』という脚注がある)。『また、焼失した社寺に銀を貸与し、近国の諸藩から米を約16,000石購入して被災者に廉価で販売するなどの緊急対策を行った。この時の借銀は10年賦だったが、10年後の延宝元年(1673年)に完済された』。『また、島田は長崎の町の復興に際し、道路の幅を本通り4間、裏通り3間、溝の幅を1尺5寸と決め、計画的に整備していった。この時に造られた道幅は、以後も長崎の都市計画の基本となり、明治時代以後に道幅が変更されたところはあるが、現在でも旧市街にそのまま残されていて、独特な町並を形成している』。『本五島町の乙名倉田次郎右衛門は、かねてより長崎の町の水不足を案じていたが、この火事の際の消火用水の不足を知り、私費を投じて水道を開設する事を決意。延宝元年(1673年)に完成した倉田水樋は、200年余にわたって長崎の町に水を供給し続けた』。「始て」としたのは根岸の誤りと思われる。新見は寛文長崎大火から実に百年振りの大火であったことを述べた際、根岸がこの「百年」を稀に見る大火という形容と誤解したのではなかったか? 現代語訳はそのままとした。

・「陰德」人に知られぬように秘かにする善行。仏教・儒教にては大いに貴ばれる仁徳である。

・「崎陽」長崎の漢文風の美称。

■やぶちゃん現代語訳

 風土気性なんどというものは一概には決め難きものである事

 ある年、新見加賀守正栄殿が長崎奉行を勤めておられた折りのこと、長崎市中三分の一が焼失するという大火災が御座った。長崎にては初めての大火でもあったがため、勿論、奉行所からも迅速な救済が行われたが、長崎の土地柄には実は、『陰徳』を殊更に貴ぶ風が御座って、この折りにも、大火の翌日のこと、突如、何者かによって浜辺に米三百俵が積み上げられており、そこに

――些少乍ら被災の貧民ら御救い下され候よう御使い下されたく候――

と墨痕鮮やかに書かれた匿名の立て札が御座ったり、あるいは出火元の町屋の名を借りて、大枚の入った千両箱などを、こっそりと御役所門前へ差し出だいて消えてゆく者なんどが御座った由。

 その年、加賀守殿と共に長崎に在勤して御座った者が語った話で御座る。

 崎陽は異国との交易を専らにし、正に専ら利に走るばかりの土地柄と思って御座ったれど、この話を聞いての後は、強ち、守銭の民草と賤しむべき土地とは、これ、全く思えぬようになって御座ったれば、ここに特に記しおくもので御座る。

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