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2010/10/31

耳嚢 巻之三 一向宗信者の事

「耳嚢 巻之三」に「一向宗信者の事」を収載した。

 一向宗信者の事

 一向宗は僧俗男女に限らず、甚だ其宗旨を信仰なす者也。予が知れる小普請方の改役を勤りける泉本(みづもと)庄助といへる老人有りしが、一向宗にはありしがさまで信仰の人にもあらざりし。彼老人咄けるは、或年末本願寺門跡江戸表へ下りし時、菩提寺よりも御門跡下向に候間、御目見(おめみえ)以上の御方は何の方にても別て尊敬もなし候事なれば、參詣有て可然由申ける故、麻上下を着し少々の音物を持て本願寺へ參りけるに、殊外の馳走にて、門跡對面ありて熨斗を手づから付與なしける故、申請て其席を立歸りしに、次の間より玄關廣間迄取詰居し町家の者共庄助に向ひ、頂戴の御熨斗少し給り候やうと申ける故、安き事也とて少しづゝ切りて兩三人に施しけるに、壹人の出家來りて、信心の者へ爰にて其熨斗分け與へ給ふ事有べからず、御宅へ參候樣答へ給へと教へし故、其通り答ければ、翌日に至り、人數二三十人も熨斗をわけ給はるべしとて來りし故、少しづゝ分け與へけるに、厚く忝(かたじけなき)由を申越て歸りしが、銘々樽肴或ひは冥加と號し、白銀反物やうの物を以謝禮をなしける故、聊德付し、かくあらば又餘計には附與(つけあたへ)しまじきものを、と笑ひかたりぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:神道(背景に切支丹)から浄土真宗へ、宗教絡みで連関。

・「一向宗」ここでは広義に浄土真宗の意で用いている。但し、本願寺教団自身は決してこの称を用いていない。寧ろ、外部の者が一向一揆の如く、浄土真宗信徒(しばしば特にその中でもファンダメンタルな傾向や一団)を差別化特異化して批判的含意を含んで用いたケースが多いと理解した方がよい。

・「小普請方の改役」小普請奉行(江戸城・徳川家菩提寺寛永寺及び増上寺等の建築修繕を掌る)配下で実務監察に当たった役職。

・「泉本(みづもと)庄助」ルビは底本のもの。泉本聖忠(みずもとなりただ 生没年未詳)。「新訂寛政重修諸家譜」を見ると「庄助」ではなく「正助」で載る。底本の鈴木氏注に、『元文四年御徒に召加えられ、のち小普請方の改役となり、拝謁をゆるさ』れた。『その子忠篤は清水家に配属されて、相当の出世をしている』とある。

・「本願寺門跡」泉本聖忠の事蹟から年号の分かる唯一の、元文4(1739)年以降の門跡(門主)を調べると、寛保3(1743)年~寛政元(1789)年まで在任した西本願寺17世法如(ほうにょ 寛永4(1707)年~寛政元(1789)年)か(本話の細部から聖忠の問跡拝謁は寛保3(1743)年以降としか読めない)。ウィキの「法如」の人物の項によれば、『播磨国亀山(現姫路市)の亀山本徳寺大谷昭尊(良如[やぶちゃん注:第13代宗主。]10男)の2男として生まれる。得度の後、河内顕証寺に入り、釋寂峰として、顕証寺第11代を継職するが、その直後に本願寺16世湛如が急逝したため、寛保3年37歳の時、同寺住職を辞して釋法如として第17世宗主を継ぐ。この際、慣例により内大臣九条植基の猶子とな』り、『83歳で命終するまで、47年の長期にわたり宗主の任にあたった。この間、明和の法論をはじめ、数多くの安心問題に対処し辣腕を振るったが、その背景にある宗門内の派閥争いを解消することは出来なかった。大きな業績としては、阿弥陀堂の再建や「真宗法要」などの書物開版などがある。男女30人の子をもうけて、有力寺院や貴族との姻戚関係を結ぶことに努めた』とある(書名の括弧を変更した)。因みに万一、泉本聖忠が長命で、この一件が法如遷化の寛政元(1789)年以降のものであったと仮定してしまうと、これは本巻の下限である天明6(1786)年をオーバーしてしまうので、考えにくい。

・「御目見以上」将軍直参の武士で将軍に謁見する資格のある者。旗本から上位の者若しくは旗本を指して言う。

・「麻上下」麻布で作った単(ひとえ)の裃 (かみしも)。当時の武士の出仕用通常礼装。

・「音物」「いんもつ」又は「いんぶつ」と読む。贈り物。進物。

・「本願寺」京都市下京区堀川通花屋町下ルにある龍谷山本願寺の通称。永く私は何故西と東があるのか、分からなかった。目から鱗のウィキの「本願寺の歴史」からその部分を引用しておく。そもそもは戦国時代の内部対立に始まる。『元亀元年(1570年)912日、天下統一を目指す信長が、一大勢力である浄土真宗門徒の本拠地であり、西国への要衝でもあった環濠城塞都市石山からの退去を命じたことを起因に、約10年にわたる「石山合戦」が始まる。合戦当初』、大坂本願寺(石山本願寺)門跡であった『顕如は長男・教如とともに信長と徹底抗戦』したが、『合戦末期になると、顕如を中心に徹底抗戦の構えで団結していた教団も、信長との講和を支持する勢力(穏健派)と、徹底抗戦を主張する勢力(強硬派)とに分裂していく。この教団の内部分裂が、東西分派の遠因とな』ったとする。この二派の対立がその後も本願寺内部で燻り続け、それに豊臣秀吉の思惑が絡んで、文禄2(1593)年には教如の弟である『准如が本願寺法主を継承し、第十二世となる事が決定する。教如は退隠させられ』てしまう(この辺り、ウィキの「本願寺の歴史」中の記載が今一つ不分明。同じウィキの「准如」には『西本願寺の主張によると、もともと顕如の長男である教如は天正8年の石山本願寺退去の折、織田氏への抗戦継続を断念した父に背いて石山本願寺に篭るなど父と不仲で、また、織田氏を継承した秀吉にも警戒されており、自然と准如が立てられるようになったという』という記載があり、また別な史料では生母如春尼が門主を弟にと秀吉に依願したともあり、これで取り敢えず私なりには分明となった)。ところが、『慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで豊臣家から実権を奪取した徳川家康は、同戦いで協力』『した教如を法主に再任させようと考える。しかし三河一向一揆で窮地に陥れられた経緯があり、重臣の本多正信(三河一向一揆では一揆側におり、本願寺の元信徒という過去があった)による「本願寺の対立はこのままにしておき、徳川家は教如を支援して勢力を二分した方がよいのでは」との提案を採用し、本願寺の分立を企図』、『慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸六条の四町四方の寺領が寄進され、教如は七条堀川の本願寺の一角にある堂舎を移すとともに、本願寺を分立させる。「本願寺の分立」により本願寺教団も、「准如を十二世法主とする本願寺教団」(現在の浄土真宗本願寺派)と、「教如を十二代法主とする本願寺教団」(現在の真宗大谷派)とに分裂したので慶長8年(1603年)、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え、本願寺(東本願寺)が分立する。七条堀川の本願寺の東にあるため、後に「東本願寺」と通称されるようになり、准如が継承した七条堀川の本願寺は、「西本願寺」と通称されるようにな』ったとある。因みに『現在、本願寺派(西本願寺)の末寺・門徒が、中国地方に特に多い(いわゆる「安芸門徒」など)のに対し、大谷派(東本願寺)では、北陸地方・東海地方に特に多い(いわゆる「加賀門徒」「尾張門徒」「三河門徒」など)。また、別院・教区の設置状況にも反映されている。このような傾向は、東西分派にいたる歴史的経緯による』ものであるとする。こうした経緯から、幕末でも東本願寺は佐幕派、西本願寺は倒幕派寄りであったとされる(但し、ある種の記載では双方江戸後期にはかなりの歩み寄りを見せており、天皇への親鸞の大師諡号(しごう)請願等では共同で働きかけている。但し、親鸞に「見真大師」(けんしんだいし)の諡(おくりな)が追贈されたのは明治91876)年であった)。慶応元(1865)年3月に新選組が壬生から西本願寺境内に屯所を移しているが、一つにはそうした倒幕派への牽制の意があったものとも言われる。慶応3(1867)年6月には近くの不動堂村へと移ったが、その移転費用は西本願寺支払った由、個人のHP「Aワード」の「新選組の足跡を訪ねて2」にあり、『お金を払ってでも出ていってほしかったのだろう』と感想を述べておられる。現在、西本願寺は浄土真宗本願寺派、東本願寺は真宗大谷派(少数乍ら大谷派から分離した東本願寺派がある)で別宗派であるが、ネット上の情報を見る限りは、東西両派を含む十派からなる真宗教団連合や交流事業も頻繁に行われており、関係は良好と思われる。

・「熨斗」熨斗鮑。アワビの殻や内臓や外套膜辺縁を除去し、軟体部を林檎の皮むくように小刀で薄く削いで、天日干にして琥珀色の生乾きにし、それを更に、竹筒を用いて押し伸ばしては水洗いし、重しをかけてより引き伸ばしては乾燥させるという工程を何度も繰り返して調製したもので、古くは食用でもあったが、早くから祭祀の神饌としても用いられ、中世の頃には縁起物として貴族や武家の婚礼や祝儀贈答品として使用されるようなった。熨斗鮑の細い一片を折りたたんだ方形色紙に包んだ現在の熨斗紙の原型が出来上がった。以下、民俗学的な意味の部分を平凡社「世界大百科事典」の「熨斗」から引用する(句読点を変更した)。『贈物にのしを添えるのは、その品物が精進でない、つまり不祝儀でない印として腥物(なまぐさもの)を添えたのが起りとされている。これと類似の風習に、魚の尾を乾かして貯えておき、これを贈物に添えて贈ったり、青物に鳥の羽などを添えるものなどがある。また博多湾沿岸地方には、ハコフグを干したものを貯えておいて、めでたいときの来客の席上だけでなく、平常、茶を出す際にもこれを添え、手でこれに少し触れてから茶を飲むことにしている所があった。旅立ちや船出に際して無事を祈ってするめや鰹節を食べたり、精進上げに必ず魚を食べるのも、同じ考え方から出た風習といえる。これら一連の慣習に共通してみられるのは、〈ナマグサケ〉と称せられる臭気の強い腥物はさまざまな邪悪なものを防ぐことができるという考え方である。このため、鳥、魚、鰹節を贈る場合にはのしをしないのが普通である。この風習の成立には、死に関するいっさいの儀式を扱った仏教が凶礼に精進(しようじん)を要求し、いっさいの腥物をさけたこともおおいに関与していよう。とくにのし鮑は腥物として保存しやすく、しかも持ち運びに便利なために広く用いられるようになったのである。しかし、のし鮑に限らず、魚の尾、ハコフグ、鯨の鬚など、食用に不適であっても、日常備えておける腥物であれば間にあったのである。鰹節が広く用いられるようになった背景にも、単に食用だけでなく、保存できる腥物でもあったことがあると思われる』(引用部の著作権表示:飯島吉晴 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)。

・「樽肴」贈答用の酒の入った樽と酒の肴。

・「冥加」広く神仏の御加護に対する、それを受けた者からの神仏への御礼の供物。

・「白銀」贈答用に特別に鋳造された三分銀(楕円形銀貨)を白紙に包んだもの。三分で一両の2/3であるから、現在の45,000円程度はあるか。鮑の熨斗の切れっ端で、これでは、とんでもないボロ儲けである。

■やぶちゃん現代語訳

 浄土真宗の信者の事

 浄土真宗は僧俗男女に限らず、その開祖親鸞聖人から延々と受け継がれてきたかの特異なる宗旨を――聊かそこまで信心致すかと呆れるほどにまで――深く信仰帰依なす者、これ、多御座る。

 ここに私の知っている者で、小普請方改役を勤めて御座る泉本(みずもと)正助なる御老人がおるが、この御仁、浄土真宗の信者乍ら――実はそれ程、熱心なる信者にては御座らなんだ。その御老人の話。

 ……ある年のこと、京都西本願寺御門跡が江戸表へ下られたとのことで、拙者の菩提寺からも、

「――御門跡御下向につき、御門跡様におかせられましては、御目見以上の御方々に対されては、如何なる御方なりとも、これ、相応の敬意を以って御挨拶なされんとの御心にあらせられますれば――是非、御参詣、これ、御座ってしかるべきことにて御座る――」

という使いが御座った。

 とりあえずは行かずばなるまいと、麻上下着用の上、少々の進物を持ちて御逗留なされて御座った築地の本願寺へ参ったところ、これ、殊の外の歓待にて、御門跡御自身、我らに対面なされ、贈答として御熨斗一枚を手ずから付与なされて御座った。

 とりあえず平身低頭致いてそれを頂戴、席を立って帰らんと致いたところ、対面の方丈の次の間から玄関広間まで、びっしりと詰かけて御座った大勢の町屋の者どもの内から、何人かが拙者の手にした熨斗を目聡く見つけ、

「――御門跡より御頂戴なされた、そのお熨斗ッ!……」

「――そ、それ! 少しばかり、お分け戴けませぬかッ!……」

「――我らにもッ!……」

と、あたかも土壇場に命乞いでもせんかと思う声にて懇請致いて参った。

 余りの勢いに、拙者も吃驚り致し、

「……あん? い、いや、それは安きことじゃ……」

と、僅かな熨斗で御座ったが、少しずつ切り分けて、都合三人ばかりの者に分け与えたところ、一人の寺僧が進み出でて参り、

「……信者衆へ、ここにて、貴殿に御門跡のお与えになられし、そのありがたき熨斗、これ、お分けなさること、これ――畏れながら――なさるべきことにはあらざることにて御座いまする。……せめて、後日、御自宅へと参り候て懇請せよ、と仰せ下さるるがよろしかろうと存ずる。……」

と耳打ち致さばこそ、拙者も、まあ、その謂いも尤もなことならんと合点致し、雲霞の如く後から後から申し出でて参った者どもへは、かく答えて御座ったところが……

……さても翌日になると、人数(にんず)にして有に二、三十人も御座ったか、

「――何卒!! 御熨斗を! お分け下さいますように!……」

とて、来訪、引きも切らず。

 言うがままに、ちまちまと千切り分けては、少しずつ分け与えて御座ったが、

「忝(かたじけの)う御座るッ!」

と、悉くの者が、頭を地に擦り付けんばかりに深謝致いて帰って御座った。

 また、それにては留まらず……後には、その者ども銘々より、樽・肴或いは『冥加』と称して白銀やら反物といったもの、これ、謝礼と称して、ごまんとつけ届けて参ったがため……言うも愚かながら……へへ、聊か、儲けて御座った。……

「……ふふふ♪……こんなことなら、かの初めより、多くは与えずにおけば……もっと良かったのうと……聊か、後悔致いて御座ったじゃ……」

と笑いながら、泉本翁は語られて御座った。

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