耳嚢 巻之三 時節ありて物事的中なす事
「耳嚢 巻之三」に「時節ありて物事的中なす事」を収載した。
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時節ありて物事的中なす事
牧野大隅守御勘定奉行の折から、甲州都留郡忍草(しぼくさ)村と同郡山中村と富士の裾野入會野(いりあひの)の論有しを、予留役の節吟味なしけるに、其以前の裁許墨筋の通無相違故、猶又境を立、裁斷ありし。然るに山中村の者右裁許にては趣意相違なしける由、數度(すど)箱訴(はこそ)なしけれど燒捨に成けるに、松平右京大夫殿老中の折から駕訴(かごそ)などして、可糺とて大隅守へ下りける故、尚又予が懸りにて右箱訴人を呼出吟味なしけるに、山中村甚右衞門といへる百姓至て我意強く、外に壹人差添て難立(たちがたき)事を押返し/\申張りて、壹年餘も時々呼出し利害申含(ふくめ)ぬれど申募りけるに、餘りにわからぬ事を我意をはりぬる故、子細こそあらめと風聞を聞候者を彼村最寄へ遣し相糺(あひただし)ければ、彼者立歸りて申けるは、裁許の通にて何も相違の事なしと近郷近村にても申ぬとて、委細吟味の趣に引合風聞承り候趣書付にて差出しぬ。其折からかの者雜談なしけるは、甲州都留郡は至て我執深く、右出入何卒こぢ直して山中の勝利になすべしとて、江戸表へ出候者其の雜用等、月々村中小前(こまへ)より一錢二錢づゝ取集め、何年懸り候共願ひ可申由申合ぬる由。扨又右惣代に出し者共は、何れも右村にて命をも不惜我意の者共を差出置ぬるが、右惣代の内甚右衞門は別(べつし)て強氣の者成が、彼が妻は甚右衞門に増(まさ)りてすさまじき女子也。裁許濟て甚右衞門歸村の節、公事(くじ)に負て歸りし趣を聞て、如何いたし歸り給ふや、負て歸りて村方の者に面(をも)テを合さるべきや、早々江戸表へ立歸り給へとて我宿へ不入、押出しけるといへる事を咄しぬ。其後吟味の折から、風與(ふと)右女房に追出されて江戸表へ出しといへる事を甚右衞門へ申ければ、右風聞的中せしや、又は左はなけれど女房に追出されしといひしを恥て怒りしや、以の外面色をかへ、江戸表はしらず、甲州に夫を追ひだす女もなく、追出され候男あるべき樣なしと、面色ちがへ申しける故、予申聞けるは、右は風聞にて聞し事なれば僞り成べし、さこそ甲州とてもかゝる非禮の有べきやうなし、しかし夫(それ)に付汝等が此度の願ひもよく/\考べし。下につくべき女房に追出されしといふ事を聞て憤る心ならば、一旦下にて濟ざる儀を公裁(こうさい)を受けて、右裁許下(しも)の心に叶はずとて、難立願ひに我意を申張ぬればとて、公儀にて御取上あるべきや、夫婦上下の禮は知りながら、私を以、公儀を凌(しの)ぐの心わかりがたしと申聞けるに、數年我意を張りし彼甚右衞門、暫く無言にて有りしが、吟味の趣得心せし由にて、口書(くちがき)に印形(いんぎやう)なし、裁許にさわらざる外々の願などせしゆへ、其さわらざる事は夫々片を付て落着なしける也。何程我意強き者にても、其病根に的中なしぬれば早速落着なしぬ。予も暫くの間不相當の藥のみ施し居けると思ひつゞけぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:枯れ芒ならぬ生臭坊主を斬って浪人した恥ずかしい武士、一見、手におえない頑固者が実は外弁慶で妻には全く頭が上がらぬ情けなさで連関して読める。本話柄は珍しく根岸自身の実話譚、それも評定所留役であった当時の公務上知り得た秘密の暴露(間諜を用いて探索させている点でもセキュリティ保全上は高いレベルの秘密であり、実名も出しているので、現在なら国家公務員法の守秘義務違反に立派に抵触する内容である)をしている点でも特異。「耳嚢」にあっては、根岸自身の実体験、それも公務上の実録譚は、意外なことにそれ程多くはない。しかし、現在の刑事や検察官の『落し』の技法としても、間者を用いている点等、極めて参考になるべき事例と言えよう。
・「牧野大隅守」牧野大隅守成賢(しげかた 正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)。勘定奉行・江戸南町奉行・大目付を歴任した。以下、ウィキの「牧野成賢」より一部引用する。『西ノ丸小姓組から使番、目付、小普請奉行と進み、宝暦11年(1761年)勘定奉行に就任、6年半勤務し、明和5年(1768年)南町奉行へ転進する。南町奉行の職掌には5年近くあり、天明4年(1784年)3月、大目付に昇格した。しかし翌月田沼意知が佐野政言に殿中で殺害される刃傷沙汰が勃発し、この時成賢は指呼の間にいながら何ら適切な行動をとらなかったことを咎められ、処罰を受けた。寛政3年(1791年)に致仕し、翌年没した』(佐野政言は「まさこと」と読む。因みにこの事件の動機は、意知(おきとも)とその父意次が先祖粉飾のために佐野家の系図を借りたまま返さなかったことや、上野国佐野家領内にあった佐野大明神を意知の家来が横領した上、田沼大明神と変えたこと、田沼家へ相応の賄賂を成したにも拘わらず昇進出来なかったことなどの恨みが積ったものであった。事件は政言の乱心として処理され、切腹命ぜられ佐野家は改易となった。但し、世評の悪かった意知を斬ったことから世間では『世直し大明神』と称えられたという。以上はウィキの「佐野政言」を参照した)。『牧野の業績として知られているのが無宿養育所の設立である。安永9年(1780年)に深川茂森町に設立された養育所は、生活が困窮、逼迫した放浪者達を収容し、更生、斡旋の手助けをする救民施設としての役割を持っていた。享保の頃より住居も確保できない無宿の者達が増加の一途を辿っており、彼らを救済し、社会に復帰させ、生活を立て直す為の援助をすることが、養育所設置の目的、趣旨であった。定着することなく途中で逃亡する無宿者が多かったため、約6年ほどで閉鎖となってしまったが、牧野の計画は後の長谷川宣以による人足寄場設立の先駆けとなった』とある。根岸は後に同じく勘定奉行から南町奉行となっているので一応確認しておくと、牧野成賢の勘定奉行の就任期間は1761年から1768年、根岸鎭衞は19年後の1787年から1798年、牧野が南町奉行であったのは1768年から1784年、根岸はその14年後、牧野の五代後の1798年から1815年であった。
・「御勘定奉行」勘定奉行のこと。勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司ったが、寺社奉行・町奉行と共に三奉行の一つとされ、三つで評定所を構成していた。一般には関八州内江戸府外、全国の天領の内、町奉行・寺社奉行管轄以外の行政・司法を担当したとされる。厳密には享保6(1721)年以降、財政・民政を主な職掌とする勝手方勘定奉行と専ら訴訟関係を扱う公事方勘定奉行とに分かれている。
・「甲州都留郡忍草村」現在の山梨県南都留郡忍野(おしの)村の一部。忍野村は廃藩置県によって内野村と忍草村が合併して明治8(1875)年に誕生した。ここ一帯は富士山東北の麓に位置する標高約940mの高原盆地であり、山中湖を源とする桂川及びその支流の新名庄川が流れ、今は忍野八海に代表される湧水地として観光で知られるが、当時、土地は痩せており、粟や稗などの雑穀栽培が主流であった(忍野村HPその他の複数のソースを参考しにした)。
・「同郡山中村」現在の山梨県南都留郡山中湖村の一部。山中湖の西岸の梨ヶ原を含む一帯を言ったものと思われる。忍草村の南に接しており、忍草村からは南南東に延びる忍草道で繋がっていたことが比較的古い地図で確認出来る。古くは山中村・長池村・平野村に分かれていた。
・「入會野」入会地であった原野のこと。入会地とは村落や町などの共同体が村落全体として所有管理した土地で、このような秣(まぐさ)・屋根葺用の茅(かや)などの採取した原野・草刈場(河原・河川敷)である入会野と、薪・炭・材木・枯葉や腐葉土などを採取した入会山の2つがあった。複数の村落が隣接する場合、他の村落の入会地と区別するために「内山」「内野」「内原」という地名で呼ばれる場合があったが、現在の忍野村の西部には「内野」という地名があり、近代、この内野村が忍草村と合併して忍野村が出来ている経緯を考えると(それぞれ一字を組み合わせて村名としている近親性から見ても)、この忍草村の入会野であったのがここ内野(古い地図ではすぐ南に山中村や長池村が接していたように見える)ではなかったかと私は思う。ただ本文では「富士の裾野入會野」と言っており、そうするとはっきりとした富士の裾野と言うなら、逆に山中村に接して西に広がる梨ヶ原一帯(この南は忍草道と接している)を指しているようにも読める。郷土史研究家の御教授を乞う。
・「留役」現在の最高裁判所予審判事相当。根岸が1762年から1768年までであったから、以上の牧野成賢の事蹟と重ねると、この事件は根岸の留役就任期間総てが含まれ、宝暦12(1762)年から明和5(1768)年の間の出来事となる。
・「裁許墨筋」私は先の入会野認定や訴訟時に地図上に墨で引かれた境界のことと読んだが、岩波版長谷川氏注に鈴木氏注を引用して『境界を示すために土中に木炭を埋める』とある。このような平坦地ではそう為されたと思われるが、山間岩盤域ではそれはなかなか難しいし、実際にこの「墨筋」なる語が専ら裁可や訴訟の際に書類に地図上の境界線の名として頻繁に用いられているのを見ても、私は通常の地図上の墨筋と採る。
・「箱訴」享保6(1721)年に八代将軍吉宗が庶民からの直訴を合法的に受け入れるために設けた制度。江戸城竜ノ口評定所門前に置かれた目安箱に訴状を投げ入れるだけで庶民から訴追が出来た。
・「松平右京大夫」松平輝高(享保10(1725)年~天明元(1781)年)。上野国高崎藩主。寺社奉行・大坂城代・京都所司代・老中を歴任した。高崎藩大河内松平家4代。以下、ウィキの「松平輝高」より一部引用する。『所司代在任中、竹内式部を逮捕した(宝暦事件)。同年老中にのぼり、安永8年(1779年)、松平武元死去に伴い老中首座となり勝手掛も兼ねる。天明元年(1781年)、輝高が総指揮をとり、上州の特産物である絹織物や生糸に課税を試み、7月、これを発表したところ、西上州を中心とする農民が反対一揆・打ちこわしを起こし、居城高崎城を攻撃するという前代未聞の事態に発展した。幕府は課税を撤回したが、輝高はこの後、気鬱の病になり、将軍家治に辞意を明言するも慰留され、結局老中在任のまま死去した。これ以降、老中首座が勝手掛を兼務するという慣例が崩れることになる』とあるが、この慣例が崩れた直後の話柄が「卷之一」の「松平康福公狂歌の事」である。但し、松平康福(やすよし)は松井松平家6代であって、輝高の直接の血縁者ではない。なお、解説文中の『宝暦事件』について、やはりウィキの「宝暦事件」より一部引用しておく、『江戸時代中期尊王論者が弾圧された最初の事件。首謀者と目された人物の名前から竹内式部一件(たけうちしきぶいっけん)とも』言う。『桜町天皇から桃園天皇の時代(元文・寛保年間)、江戸幕府から朝廷運営の一切を任されていた摂関家は衰退の危機にあった。一条家以外の各家で若年の当主が相次ぎ、満足な運営が出来ない状況に陥ったからである。これに対して政務に関与できない他家、特に若い公家達の間で不満が高まりつつあった』。『その頃、徳大寺家の家臣で山崎闇斎の学説を奉じる竹内式部が、大義名分の立場から桃園天皇の近習である徳大寺公城をはじめ久我敏通・正親町三条公積・烏丸光胤・坊城俊逸・今出川公言・中院通雅・西洞院時名・高野隆古らに神書・儒書を講じた。幕府の専制と摂関家による朝廷支配に憤慨していたこれらの公家たちは侍講から天皇へ式部の学説を進講させた。やがて1756年(宝暦6年)には式部による桃園天皇への直接進講が実現する』。『これに対して朝幕関係の悪化を憂慮した時の関白一条道香は近衛内前・鷹司輔平・九条尚実と図って天皇近習7名(徳大寺・正親町三条・烏丸・坊城・中院・西洞院・高野)の追放を断行、ついで一条は公卿の武芸稽古を理由に1758年(宝暦8年)式部を京都所司代に告訴し、徳大寺など関係した公卿を罷免・永蟄居・謹慎に処した。一方、式部は京都所司代の審理を受け翌1759年(宝暦9年)重追放に処せられた』。『この事件で幼少の頃からの側近を失った桃園天皇は一条ら摂関家の振舞いに反発を抱き、天皇と摂関家の対立が激化する。この混乱が収拾されるのは桃園天皇が22歳の若さで急死する1762年(宝暦12年)以後の事である』とし、最後に『徳大寺公城らは、徳川幕府崩壊後の明治24年(1891年)に名誉回復を受け、各々の生前の最終官位から一つ上格の官位の追贈を受けた』とある。132年後の名誉回復とは凄い。翌明治25(1892)年には芥川龍之介が生れてるんだから。
・「駕訴」江戸時代における越訴(おっそ)の一つ。農民や町人が自らの要求を書状に認(したた)め、将軍や幕閣・藩主といった高位の人物の行列を待ち受けて、これに直接、訴状を差し出す行為を言う。下総国印旛郡公津村(現・千葉県成田市台方)の名主佐倉惣五郎が領主の苛斂誅求を老中久世大和守広之及び将軍家綱に駕籠訴した例が最も知られる(但し、実際に直訴が行われたという事実史料はない)。越訴は公的に認められた所定の訴訟手続を経ないで訴え出る行為であるから非合法であるから、一般に直訴した本人は死刑を含む厳罰に処せられたが、結果として訴えの内容に相応の高い正当性が認められた場合には再吟味が行われ、そこから更に重大な事件事実が発覚したケースも「耳嚢」に示されている(「卷之二」の「猥に人命を斷し業報の事」を参照されたい)。
・「風聞を聞候者」間諜、スパイのこと。行商人などに扮装して情報収集に従事した者のこと。
・「こぢ直して」「こぢ」は正しくは「こじ」で「こず」(ザ行上二段活用)。現在の「抉(こじ)る」(これは「こず」が上一段化した「こじる」が更に五段化したもので、近世末ごろから既に五段化した用例が見られるという)で、隙間などに物をさし込んで捻る、の意から、捻くれた言い方をしたり、抗議したりすることを言うようになった。「こじ直す」で無理を言って形を自分の思ったように直す、で、この場合、無理強いをして訴訟を有利な方へ持って行くことを言っている。
・「小前」小前百姓・平百姓とも。元来は田畑と家屋は持つが、特に家格や特殊な権利を持たない一般の多くの百姓のことを指したが、江戸時代の農民の一定の階層を示す語。本来は村役人に対して一般本百姓を言ったが、江戸時代中期以降は地主など富裕層の豪農に対する、水呑や零細困窮農民を含む中下級農民の総称として用いられた。
・「口書」訴訟に就いての供述を筆記したものを言うが、特に百姓・町人の場合に言った(罪人の白状書に爪印を押させたものもこう言った)。
・「印形」印章であるが、この場合、署名であろう。
・「さわらざる」はママ。
■やぶちゃん現代語訳
自然かくなるべき時節が到来して初めて物事の核心を摑むことが出来るという理りの事
牧野大隅守成賢(しげかた)殿が御勘定奉行を勤めておられた時のことで御座る。
甲斐国都留郡忍草(しぼくさ)村と同郡山中村との間で富士裾野入会野境界を巡り、訴訟沙汰となって御座った。
当時、評定所留役を勤めて御座った拙者、その訴えを取り上げて吟味致いたところ、以前に両村に関わって裁許致いて御座った地境墨筋の通りにて問題なきこと、判然と致いたによって、再応、確認のために新たな地図を起こし、境界墨筋を誤たず正確に写して、裁下致いた。
然るに山中村の者ども、この裁許には重大なる錯誤ありとし、到底承服出来かぬる由にて、度々箱訴致いて御座ったれど――根岸が裁許に間違いなきこと明々白々たりとて――その度ごとに、訴状は焼き捨てと相成って御座った。
ところが、村人ども、命も顧みず、当時の御老中であらせられた松平右京大夫輝高殿の行列に、あろうことか、駕訴に及んで御座った。――勿論、強訴(ごうそ)の者どもは定法(じょうほう)により打首獄門と相なったれど――御老中松平右京大夫殿御本人より直々に、勘定奉行牧野大隅守殿へ再応糺すべき旨、下知されて御座った。
このため、不服乍ら再応、拙者の担当と相成り、先の本件総代で御座った複数の箱訴人を呼び出だいて、吟味致いた。
ところが、その中に山中村の甚右衛門という百姓が、これ、至って強情にて、他一名と一緒になって、如何にも喧しゅう、
「――このままにては!――いっかな、納得出来申されませぬ!――」
の一点張り。
一年余りの間、数度に亙って評定所へ呼び出だいて、理を説き、宥めたりすかしたり致いては、この訴えを続けんことの甚だしき利害なんどまでも、申し含めては御座ったのだが、これがまた糠に釘、馬に念仏で、
「――何とかして下されぇぇい!――お飯(まんま)食えねぇぇぇえ!――死ぬしかねぇぇぇぇえ!――」
と五月蠅くがなり立てるばかり。
呼び出す都度、納得せぬ乍ら、その場その場で最後にはいい加減にあしろうて、幾分、がなり疲れたのを見計らって、体(てい)よく追い返すことが続いて御座った。
状況膠着、拙者もほとほと困って御座った。
あまりに依怙地なればこそ、この訴えの背後には、何ぞ、隠れた子細や遺恨でもあるに違いないと疑(うたご)うた拙者は、取り敢えず、間者(かんじゃ)を遣わして、かの山中村周辺を密かに探索させてみたので御座る。
暫くして訊き込んで参った間諜、江戸表に立ち返り、かの者より、
『……件の入会野一件に就きては――評定所裁許の通りにて何らの問題もこれ御座らぬ――とは忍草村併びに山中村近郷近村に於ける大方の一致せる意見にて御座候……』
旨、正に先の拙者の吟味に何らの誤りなきこと、現地にての大方の見方で御座った由との報告書が認(したた)められ、提出されて御座った。
なれど、これにては、折角の間諜も、これ、何の役にも立たなんだこととなってしまえばこそ、その報告を受けた際、この諜者にいろいろ話を聞いて見ることに致いた。すると、
「……昔より、かの甲州都留郡の者は、押しなべてこれ、我意を通さんとする性質(たち)至って、強う御座いまして、この度も、
『――この訴訟、何が何でも――無二無三に押し通しででも――我らが方へ利あるように全面勝利を勝ち取るべし!』
とのことにて、聴き込んだ話によりますれば、訴訟に関わって江戸表へ出でまする者ども、その旅費その他雑費なんどについても、村中の総ての百姓より、個別に月々定額で一銭二銭と集金致いて、相応に溜め込んだ金を、その者どもに渡し、その折りにも、
『――たとえ何年掛かろうが、勝つまでは訴え続けて呉りょう!』
と、皆々にて申し合わせおる、とのことにて御座いました。……さても、その訴訟総代となっております者どもについてで御座いますが……これまた何れも、かの村にては飛び切り我を押し通さんとするに、命知らずの依怙地なる者どもばかりを、選りすぐったるとのことにて御座いましたが……が……その中にても、甚右衛門というは、これ、別して頑強頑固にして岩盤の如き強情者にてこれある、とのこと……なれど……さてもさても、その甚右衛門が妻たるや、これ、また、甚右衛門にも増して、強固頑迷なる凄まじき剛情なる女子(おなご)のよし……かの根岸様の先の御裁許下って後、甚右衛門が山中村へ戻りましたところ、風の便りに訴訟に負けてのこのこ帰って参ったとのこと、早々伝え聞いて御座った妻が、先に沿道にて夫を待ち構え、
『――何故にお帰りなすった?! 負けて帰って、村の衆に合わせる、どの面(つら)やある?! とっとと、江戸表へたち帰りなされぇぇい!!』
と言い放って、家へ立ち入ることさえ許さず、即座に村内(むらうち)から夫を追い出した、という専らの噂で御座いました……。」
との、誠に興味深い話を聴いて御座った。――
さて、その後日(ごにち)のこと、かの甚右衛門取り調べの折り、何心なく、
「……時に、甚右衛門……汝、女房に追い出されて、……この度、この江戸表へ立ち帰ったと聞いたが……そりゃ、真実(まこと)か?……」
と申したところが――この噂、真実(まこと)の話にて正に心の臓にばすんと的中致いたが故か――はたまた、かの噂は誤りなれど、女房に追い出されたと言われたを、辱しめられたと感じて憤ったためか――急に以ての外の憤怒の相の、恐ろしき鬼面へとうち変じ、
「――江戸表にては、知らざれど!――甲州にては、夫を追い出すべき不実不届きなる、妻ならざる妻なんどは一人として、これ、おらず!――また、追い出さるるべき軟弱愚鈍なる男ならぬ男も、これ、御座らぬ、わ!!」
と、烈火の如き朱面と相成って吐き捨つるように申した。
拙者、そこで、穏やかな謂いにて、
「……いやいや、これは少しばかり、噂に聞いたまでのこと……勿論、根拠なき偽りであろうの……いっかな、甲州とは申せ、まさか、そのような妻の、妻にあらざるおぞましき夫への非礼……これ、あろうはずも、ない。……なれど……それにつけても……汝らの、この度の願いも……これ、よくよく考えたがよかろう……下につくべき女房に追い出されたと言う、根も葉もない、たわいもなき愚かなる噂を聞き……憤る程の汝の心にて、よう、考えてみるがよい……。
一旦、下々の百姓どもの間にて決着つかざるが儀――それに、一度(ひとたび)お上の公けの裁きを受けた――にも拘わらず、その裁許、我らが下々の者の思いに叶わぬとて、成り立ち難き難癖だらけの願い――汝ら百姓どもが、理に合わぬそのような強情を如何に張ったとしても――それ、御公儀が御取り上ぐること――これ、どうして御座ろうや? 御座ない!――。
夫婦(めおと)上下の当然の礼は弁え乍ら、私(わたくし)を以って御公儀に背かんとする、その心、分かり難し!」
と述べた。
数年来、我意を張り通して参った甚右衛門――これを聞きて、暫くの間、黙って御座った。――
やがて、
「……御吟味の趣き……得心致いた。……」
とぽつりと告ぐると、今までのことが嘘のように、素直に口書に署名を致いて後、今度(このたび)の訴訟には直接関わらざる、山中村のその外の諸事願いにつき、淡々と請い願って参ったが故、一々即座に吟味の上、その中でも特に問題のない部分については、適切に即決処理致いて、それにて一件落着と相成って御座った。
どれ程、我意強き者にても、その病根――その者の心の弱み――そこを、ずばん、と的中成しぬれば――これ、アッと言う間に――『落ちる』――のである。
この一件、拙者も甚だ長きに亙り……甚右衛門という『病者』に、見当違いの薬を、これ、施し続けて御座ったものよ……と思うこと、頻りで御座った……。