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2010/10/29

耳嚢 巻之三 吉瑞の事に付奇談の事

「耳嚢 巻之三」に「吉瑞の事に付奇談の事」を収載した。

 吉瑞の事に付奇談の事

 松本豆州吟味役より奉行にならんとせし前の年に、鎭守の稻荷へ松錺(まつかざり)せしが、七種(ななくさ)過て松錺を崩し、土俗の習ひ任せ其枝をとりて松杭の跡にさし置しに、雨露のした入りに塵つもりけるや、右松自然と根を生ぜしとて殊の外悦びし事あり。予が御加増給りて御役替被仰付候前年、蒔藁の内より雨の後稻葉生出しを、兒女子悦びて是を植置しに、穗に出て米と成りぬ。かゝる事も自然と時節に合ひていわゐ祝ふ事とはなりぬ。然れどもかゝる事に深く信じ迷ひなば、あしき兆の有りし時は嘆き愁べし。婦女子にもよく諭し、善兆ありとて強て悦ぶ事なからん事を教へし。しかあれ共よき事ありしと人の祝し悦ばんをかき破るは、不祥の一つと知べし。心へ有べき也。

□やぶちゃん注

○前項連関:誉めておけば上手く行く、吉兆と思えるならそれはそれでよいというプラシーボ効果で連関。根岸の謂いは深遠で正鵠を射ている。素晴らしい。

・「松本豆州」松本秀持(ひでもち 享保151730)年~寛政9(1797)年)最下級の身分から勘定奉行(在任:安永8(1779)年~天明6(1786)年)や田安家家老へと異例の昇進をした、天明期、田沼意次の腹心として経済改革を推進した役人の一人。蝦夷地開発に意欲を燃やしたりしたが、寛政の改革によって失脚、勘定奉行在任中の不正をでっち上げられ、天明6(1786)年には500石から150石に減封の上、逼塞を命ぜられた。「卷之一」の「河童の事」「卷之二」の「戲藝侮るべからざる事」にも登場した「耳嚢」の一次資料的語部の一人。

・「松本豆州吟味役より奉行にならんとせし前の年」松本秀持は勘定吟味役から勘定奉行に安永8(1779)年に抜擢されているから、これは安永7(1778)年の正月のこと。

・「土俗の習ひ」門松は年初に新しいパワーを持った神霊を迎え入れるための寄り代であると考えてよいであろう。アニミズムでは、しばしば木片や枝が神霊の宿る対象として登場する。底本の鈴木氏注では、この「其枝をとりて松杭の跡にさし置」くという儀式について、『門松を取去ったあとへ、松のしんの部分を立てておく習俗。望の正月に再び門松を立てる風習の処もまだ残っているが、こうした二度目の松立てを形ばかり演ずる意味かと考えられる。遠州では松植え節句などといって、正月二十日に氏神の境内や山に小松を植える風習があり、』この松本秀持の話と考え合わせると興味深い、と記されておられる。引用文中の「望の正月」とは小正月、旧暦の1月15日のことである。この「松植え節句」なるもの、現在でも行われているのであろうか。ネット上では、この文字列では残念ながらヒットしない。識者の御教授を乞うものである。

・「予が御加増給りて御役替被仰付候前年」根岸の場合、二回の加増(逝去した文化121815)年12月の半年程前の500石加増〔結果して逝去時は1000石〕も含むと3回)がある。天明4(1784)年3月に勘定人見役から役替えとなって佐渡奉行に拝された際の50俵加増と、天明7(1787)年7月に勘定奉行に抜擢されて500石となった折りである。本「卷之二」の年記載記事の下限が天明6(1786)年までで、そう考えると、本巻執筆をあくまで佐渡奉行時代とするならば、佐渡奉行就任前年の天明3(1783)年正月の出来事となる。しかし、先行する本巻所収の佐渡在勤時代のエピソードが完全な過去形で記されている点、本巻が前二巻の補完的性格を持っている点などから見て、勘定奉行就任後の多忙期の合間を見ての執筆とも考え得るので断定は出来ない。加増額や役職の格、また「兒女子悦びて」という描写の向うに見えて来るもの(佐渡奉行拝命は児女が悦んだとは思えず、逆に佐渡に児女も一緒に赴任していたとすれば、佐渡から江戸に戻れるという勘定奉行就任は躍り上がらんばかりの悦びであったはずである)からは、断然、後者のエピソードである方が理に叶っていると考えるのが至当である。だとすれば、この話柄は天明6(1786)年の正月ということになる。勿論、私の感覚論であるから現代語訳では同定を避けた。

・「蒔藁」巻藁。

・「不祥」には、不吉であること、の意の他に、運の悪いこと、不運の意がある。両様のニュアンスを私は感じる部分である。そうした杓子定規な現実論しか語れぬ者は、いつしか孤立してゆくしかないからである。

・「心へ」はママ。

■やぶちゃん現代語訳

 吉なる瑞兆事についての奇談の事

 松本伊豆守秀持殿が勘定吟味役から勘定奉行になられた、その前の年の正月のことである。

 伊豆守殿の御屋敷内に祀って御座った鎮守の稲荷、ここに例年通り、松飾りをなされた。

 七草を過ぎ、その松飾りを外し、土俗の習慣に従(したご)うて、その松の枝を刈り取り、松飾りの巻藁を取り除いた跡の中央へ、それを挿しておいた。

 暫く致いて、その挿したところに塵が積り、雨露が滴たってでも致いたものか、僅かに土のようになって御座ったところへ、かの木っ端の如き松の枝、自然、根を生じて御座った。

 これ吉瑞なりと、お屋敷上げて祝ったこと、これ御座ったという。

 ――この伊豆守殿のお話に似通うたことを、実は私も体験致いたことが御座る――

 私が御加増を給わって御役替え仰せつけらるる前の年の正月のことで御座った。

 松飾り土台の巻藁の中より、雨後、稲穂が生い出でて御座ったのを家内の子女がいたく歓び、これを地に植えおいたところ、秋には穂を出して米が実って御座った。

 ――さて――こうしたことは、後に起こった吉事と偶々附合致いたが故に、それを吉瑞と致いて祝い悦ぶこととはなった。――

 ――然れども――かかることを必要以上に気にし、信じ込み、盲信と言うに相応しい事態に陥るようでは――逆によくない兆しに見えようこと、これ、御座った折りには――また必要以上に気に掛けることとなり、果ては嘆き愁えることと相成るに違い御座らぬ。

 ――かかればこそ――婦女子にもよく諭して、何やらん前兆めいたこと、これ御座ったからというて、殊更に悦ぶには――同様に懼るるには――決して当らぬこと、教うるに若くはない。

 ――とは申せど――縁起のよきことがあったと人が祝い、悦んで御座るを――ただの偶然、気のせいと――殊更、鯱鉾(しゃっちょこ)ばった理を説いて、折角の場を白けさすというのも――これはまた、悦べる当人らにとっては、至って「不吉」なることにて御座る――また翻って考うれば、そのように多くの者どもが喜んでおるところに、敢えて冷ややかな水を注した者にとっても――これ、ゆくゆく「不運」なることと相成ること――これ、知るべし。

 ――この玄妙なる趣きを心得ておくことが、これ、肝要なので御座る。

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