耳嚢 巻之三 先祖傳來の封筐の事
「耳嚢 巻之三」に「先祖傳來の封筐の事」を収載した。
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先祖傳來の封筐の事
予親友なる萬年(まんねん)某の語りけるは、同人家に先祖より傳りし一ツの封筐(ふうきやう)あり。上は包を解き見しに、子孫窮迫の時披之(これひらく)べしとあり。其頃萬年至て危窮なりしかば、かゝる時先祖の惠みを殘し給ふ難有さよ、いざ開封なして其妙計に隨んと、右箱の封尚又(なほまた)切解(きりとき)て其内を見しに、何もなくて一通の書面あり。是を披き見れば、三代程以前の租の自筆にて認置し、先祖子孫を惠みて、危急の時開きて用を辨じ候やうの書添にて、黄金一枚此箱の中にありしを、我等危急の入用ありて遣ひ候て先租の高恩に浴しぬ、何卒其基を償ひ置んと、生涯心掛しが其時節なし、子孫是を忘れず先祖を思ひて償ひ置べしと認し故、大きに笑ひて又金一枚の借用の増せし心せしと笑ひけるとかたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:根岸のごく親しい朋輩の滑稽なる体験談で連関。もろに落語である。
・「萬年某」底本の鈴木氏注に、『万年氏は六家あり、そのいずれか明らかではないが』とされながら、萬年頼行(享保16(1731)年~天明7(1787)年)なる人物を同定候補とされている。『宝暦八年御勘定、十三年評定所留役、明和七年代官、天明七年任地備中国倉敷で没』すとあり、根岸より6歳上であるが、この経歴は根岸と大きくダブっているからである。根岸は全く同じ宝暦8(1758)年に同じ御勘定となり、やはり全く同年の宝暦13(1763)年に同職である評定所留役に就任、明和5(1768)年御勘定組頭となっている。萬年頼行が代官となるまで実に12年近くに渡って同僚として勤務している。特に評定所留役(現在の最高裁判所予審判事相当)は定員8名であるから、極めて親しく接し得る人物と考えてよい。
■やぶちゃん現代語訳
先祖伝来の封ぜられた筐の事
私の親友で御座る萬年某が語った話。
同人萬年家には、先祖より代々伝わって御座る一つの封印された筐(こばこ)が御座った。
上(うわ)包みを解いて見ると、その筐の上には墨痕黒々と、
『――子孫窮迫ノ時之開クベシ――』
と、認めて御座った。
さて、その頃の我が友萬年某、至って危機的な貧窮に陥って御座ったればこそ、
「……このような時こそ御先祖様の御恵みを残し置き下されしことの有り難さよ! さあ! 封印を解いて、御先祖様の絶妙なる取り計らい方に従わんとす!」
と、上包みを取り、更に厳重に施された筐の封印をも切り解き、
――カタリ――
と、徐ろに蓋をとって中を見る……と……
……空……である……
……いや……唯、一通の書面が入っておる……
……つま披らいて見た……
……と……
……これ、萬年某三代程前の御先祖様が自筆にて認(したた)めたもので御座った……
……それには、かく書かれて御座った……
――――――
御先祖樣儀將來ガ子孫ヘノ惠ミトテ
危急ノ時開キテ要ニ用フルベシトノ
書キ添ヘト共ニ金貨大判一枚此ノ箱
ノ中ニアリシヲ我等事危急ノ入用ア
ラバコソ使ヒ候フテ
御先祖樣高恩ニ浴シヌ何卒何時カハ
カノ元通リノ金一枚ヲ償ヒテ筐中ニ
復セント生涯心掛ケシガ其ノ時節ハ
遂ニ訪ルルコトコレ無シ 子孫ハ是
ノ
御先祖樣御高恩ノ儀忘ルルコト無ク
御先祖樣御遺志ノ儀受ケ繼ギテ急度
償ヒテ置クベシ
――――――
萬年某、
「……いやはや、大きに笑(わろ)うたわ……さてもまた、却って金一枚分、借金が増したよな気も致いたもんじゃい!……」
と笑いながら語って御座った。
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