耳嚢 巻之三 酒宴の興も程有べき事
「耳嚢 巻之三」に「酒宴の興も程有べき事」を収載した。
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酒宴の興も程有べき事
酒宴の座專ら分量を過て呑むを興となし、強て酒を勸むる事又興となす事なれど、心得有べき事也。佐藤古又八郎白山に住居し時、祝ふ事有りて近隣打集り酒肴有しに、各々數盃を傾けし上、表御右筆勤たりし古橋忠藏といへる者ありしが、七合入の盃出しに何れも恐れて少しづゝ受て廻しけるを、酒量も有けるゆへや、忠藏右七合入をなみ/\と受て見事に干しけるを、座中稱歎なしけるに、右の趣にてあらば今一盃もなるべしと言へる者ありしを、伊達とや思ひけん、忠藏尚一盃を受て呑けるが、半ば呑と見へしに精心を失ひし樣に見へけるが、兎角して呑て其座に倒れしを彼是介抱なして駕(かご)にて宿へ返りぬ。夫より五七日煩ひけるが、一旦快成(なりて)出勤はなしけれど、終に右の節より病付(やみつき)候て失せにける也。興も心得有べき事と爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。しかし本件の古橋の死因は、緩快期を中に挟んでいるから、本飲酒を直接の原因とする急性アルコール中毒によるものではない。長期の飲酒による致命的な肝機能障害を考えるより寧ろ、脳卒中や脳梗塞、心筋梗塞の可能性の方を考慮すべきであろう。
・「佐藤古又八郎」佐藤豊矩(とよのり 宝永6(1709)年~安永9(1780)年)。岩波版長谷川氏注に表祐筆組頭であった由記載がある。「古」は「故」で故人のこと。「卷之二」の下限は天明6(1786)年で、執筆時、彼は既に亡くなっていた。
・「白山」現在の文京区の中央域にある地名。江戸時代までは武蔵国豊島郡小石川村及び駒込村のそれぞれの一部であった。ウィキの「白山」によれば、地名の由来は、『徳川綱吉の信仰を受けた』『白山神社から。縁起によれば、948年(天暦2年)に加賀一ノ宮の白山神社を分祀しこの地に祭った』とある。
・「表祐筆」表右筆とも書く。幕府方にあって将軍の機密文書を扱った奥右筆より格下で、一般的な行政文書の作成や諸大名の分限帳、旗本・御家人などの名簿管理をした。
・「古橋忠藏」古橋忠信(享保16(1731)年~明和4(1767)年)。岩波版長谷川氏注に西丸表右筆で、37歳で逝去の由記載がある。確かに若死にしている。恐らく、佐藤豊矩が右筆でなかったとしたら、また、そうであっても根岸に語らずにおいたとしたら、古橋忠信の不名誉なる死の真相を多くの現代人は知らずに済んだであろう。古橋忠信の霊にとっては、鈴木棠三氏、長谷川強氏、そしてこの不肖私という注釈者は、やらんでもいいことをしてくれる厄介者ではある。
■やぶちゃん現代語訳
酒宴で興に乗るにしても『程』というものを弁えなくてはならぬという事
酒宴の座にて、専ら並みの分量を遙かに過ぎて鯨飲をなすを殊更に酒の興と致いて、同席の者に強いて酒を勧むることを、また酒興と致すこと、屢々見らるるが、これには相応に『程』というもののあること、重々心得ておくべきことにて御座る。例えば――
佐藤故又八郎殿が白山に住んでおった頃のこと、とある祝い事が御座って近隣の者どもが集まり、酒宴を催して御座った。
又八郎殿も加わって、各々相当に盃を傾けて御座ったところ、その家の主人が、やおら七合入りの大盃を持ち出してきて、その回し飲みが始まった。
しかし流石に誰もが恐れをなし、形ばかりに少しずつ酒を受けては、じきに隣りの者に廻して御座った。
ところがここに、表御右筆を勤めて御座った古橋忠蔵殿という御仁がおられ――元来が酒に強き性質(たち)で御座ったものか――忠蔵殿は、この大盃になみなみと酒を受けて、それをまた一気、美事に呑み干して御座った。
一同から感嘆の声が上がったが、誰やらん、
「……かほどのことなれば、今一杯も、手もなく呑み干せようのぅ……」
と言うた者がおった。
それを聞き、ちょいと男伊達を気取らんとしたものか、忠蔵殿、なお一杯を受けて呑み始めた。
……が……この度は、半分干したところで……正気を失(うしの)うたような顔つきとなったかと思うと――
――そのまま残りをぐっと呑んだ――
――呑んだよいが――
――そのままばったり倒れたかと思うと――
――失神致いて仕舞(しも)うた……
皆、慌ててあれこれ介抱なんど致いて、忠蔵殿を駕籠でもって宿へ送り帰して御座った。――
それから五、六日程も煩い――一旦は幾分、快方に向かったかのように見え、出仕も致いたものの――またまた病み臥せることと相成り――遂には命を落とした。――
興に乗るのも大概にせよと心得よ、とのことならんとて、ここに記しおくものである。

