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2010/11/10

耳嚢 巻之三 先格を守り給ふ御愼の事

「耳嚢 巻之三」に「先格を守り給ふ御愼の事」を収載した。

 先格を守り給ふ御愼の事

 將軍家は宇宙を指揮なし給ひよろづ御心の儘なるべき。年々南部仙臺の御買上馬の節は、御覧留の事は御目留りと唱へ、除して御買上に成事也。近頃御馬を好ませ給ふの間、御目留り三疋有けるが、暫(しばらく)して御近邊へ、御先代御目留り幾ツありしと上意ありける故、御先代御目留り一疋づゝ也、時により二疋の事も候ひしが、多分は一疋の由御答有ければ、三疋の内二疋御戻し相成、一疋御留めに成りしと也。かゝる御事にも古きを顧み給ふ御惇通(じゆんつう)の御事、難有儀也と諏訪部文九郎物語なりき。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。

・「將軍家」当代となると第十代徳川家治(元文2(1737)年~天明6(1786)年)で、将軍職在任期間は宝暦101760)年から天明6(1786)年。「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるからぎりぎり問題ない。その前代は言語不明瞭の家重で、「暫して御近邊へ、御先代御目留り幾ツありしと上意ありける」という部分が気になる。私はこの可能性はないと思う(同時に家治がこの将軍だと彼がここで言う「御先代」になるというのもやや気にはなるのである)。更に遡るなら根岸が頻繁にエピソードとして引用する暴れん坊将軍第八代将軍吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の可能性も考えられなくはない。吉宗の将軍在任期間は享保元(1716)年から延享2(1745)年までで、諏訪部文九郎が二十代の1732年から1742年頃となると、既に49歳から59歳という中年期(当時としては高齢期)に達しているが、暴れん坊将軍なればこそ、この年になって馬に特に興味が生じたとしても、決して不自然な気が私にはしないのである。しかし、今まで話柄中に吉宗が登場する場合は、ほぼ決まって「有德院樣」と明記されており(そうでない場合でも年号によって吉宗と特定出来た)、「近頃」という表現や「諏訪部文九郎物語なりき」で本文中でも直接体験過去の助動詞「き」が使用されていることからも、ここはやはり家治ということになろうか。取り敢えず、現代語訳は特定を避けることにしたが、如何にもそれでは尻が落ち着かぬ。識者の御教授を乞うものである。

・「南部仙臺の御買上馬」「延喜式」の昔より、強健な南部馬は軍馬として高く評価されていたが、古くから育馬に精魂を傾けてきた南部氏を藩主とした盛岡藩(後に七戸藩=盛岡新田藩・八戸南部藩に分かれた)では、徹底した生産管理を行って、江戸期最高峰の日本馬を創り出した。戦国時代には既に人為交配によって丈十寸(とき:「寸」(き)は馬の背丈の特異的単位で、地表から跨る背までの高さを示す。4尺を標準として、それより一寸高ければ「一寸」(ひとき)と数えた。が約150㎝)を越える当時としては非常に大きい名馬を産出していたが、江戸に至って大平の世となると、荷駄用の使役馬の需要が主流となった結果、逆に荷の積み卸しが容易なように小型に改良され直し、4尺(標準値:約120㎝)程度の馬が再増産されたという。本話よりやや後になるが寛政9(1797)年の盛岡新田藩の馬の頭数は約8万7000頭、八戸南部藩は約2万頭、幕末期でも南部藩(どちらか一方か両藩かは不明)が所有する馬は約7万、その内の小荷駄馬は約3万頭を数えたとある。しかし戦争の近代化により軍馬の需要が減り、昭和の初期には純粋な南部馬は絶滅してしまった(以上はネット上の複数の資料をかなり自由に参考させてもらって総合的に作成したので特に引用元を明記しない)。

・「御先代」家治なら家重、あり得ないと私は思うが家重なら吉宗、吉宗なら綱吉、ということになる。

・「惇通」一般的な熟語としては見慣れない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「惇直」とあり、書写時の誤りの可能性が疑われる。こちらを採る。万葉的な一途な「直き」心の持ち主である。

・「諏訪部文九郎」諏訪部堅雄(かたお 正徳3(1713)年~寛政3(1791)年)。岩波版の長谷川氏注によれば、『西丸の御馬預から本丸御馬預を兼ねる』とある。諏訪部家は代々幕府御馬役を世襲した由緒ある馬術名家の家柄であった(南部藩との密接な関係があったことや同名の先祖諏訪部文九郎と柳生宗矩との馬上試合の話などをネット上に見ることが出来る)。この語りが本巻下限の天明6(1786)年頃であったとすれば、堅雄は既に74歳である。

■やぶちゃん現代語訳

 先例を守られるお慎みの事

 将軍家は、この総ての精気の集合体である宇宙を総指揮し給い、あらゆることはその御心のまま――全知全能にして、御心のままになさることが出来る――というに……

 ……毎年南部仙台から馬をお買い上げされる際には、南部藩より選りすぐられた名馬が馬場に引き出され、御覧に供されたものの内、将軍家の御目にお留まりになった優れもの――これを『御目留り』と称し――を別に囲っておき、最終的にはそれをお買い上げになられるのがその場の仕来りで御座った。

 ある年のこと――その頃、上様におかせられては殊に御馬に御興味があられたが故――かの『御目留り』が三頭御座った。

 ところが、暫くして上様が御側近の者へ、

「……御先代の『御目留り』はこれ、何匹であられたか?」

とのお訊ね、これあり、

「御先代の『御目留り』は、これ、一匹ずつであられました。時によっては二匹お選びになられることも御座いましたが、殆んどは一匹にてあられました。――」

とお答え申し上げたところ、上様は三匹の内、二匹を御戻しになられ、囲いには――お買い上げは一匹のみになされたということで御座った。

「……このような小事に対しても御先代御先祖故事故実を顧み給う御惇直、これ、誠(まっこと)有り難きことにて御座った……。」

と、幕府御馬方で御座った諏訪部文九郎堅雄殿が、思い出語りに話して呉れたことにて御座る。

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