耳嚢 巻之三 門跡衣躰の事
「耳嚢 巻之三」に「門跡衣躰の事」を収載した。
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門跡衣躰の事
安藤霜臺は一向宗にて有りしが、信仰などせる人にてもなかりしが、御勘定奉行の節は何かもし用向の爲とて親敷(したしく)聞合せを賴みけるに、西本願寺出府の節何か世話にも相成多年の宗家の由にて、一ツの箱を謝禮とし送りける故、何か京都の土産ならんと是を開き見しに、衣躰(いたい)にて有之故、法中にてはさこそ難有も思ひなん、俗家にて衣を仕廻置て若麁末(そまつ)にも成ては如何成(いかがなり)、これは僧家へ遣し可然と思ひて本願寺塔頭(たつちゆう)なる僧に其事談じければ、夫は大き成(なる)了簡違なるべし、抑々門跡より衣たいなど附與(ふよ)は出家にても容易ならず、況や俗躰をや、數年の御馴染(おんなれそめ)を被存(ぞんぜられ)、何卒深切に厚き賜物(たまもの)有らんと思われても、金銀を以謝禮せんは重役へ對し失禮なれば、品々心を籠て深切の送り物也、今右の衣鉢を同宗信者成者に附與し給んに、百金より内には申請(うく)る者なし、我々に預け給へ、百金が百五十金にも附與なして見せ申さん、ひらに左なし給へと進めけるにぞ、我等事、公儀より厚く召使ひ給へば金銀望なし、左ほどに厚く思ひ給ひての音物(いんもつ)とはしらざりしが、かく深切の事ならば永くたくわへなんと受納せし由かたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:浄土真宗本願寺問跡関連で、高い確率で同じ17世法如関連。いつの世にも、両話柄に現れる、こうした盲信の愚民、これあらんこと、然り。衣――下着――汚物――こいつら、スカトロジストよろしく(というより宗教的エクスタシーはスカトロジスムなどの異常性愛と同根であると私は考えている)宗祖教祖の糞さえ聖物と見做して、有り難がって舐めそうだ。仏教嫌い神道大好きの根岸の両話柄での視線も、そこまでは言わずとも、至って言外に冷笑的である。因みに、以前に明らかにしたが、再度述べておくと、根岸の宗旨は実家(安生家)が禪宗の曹洞宗、養子先の根岸家は浄土宗である。「言外に」冷笑的であるのは、恐らく同根の浄土宗が養家の宗旨であるから、憚ったものであろう。それにしても、この話、エンディングの言外の映像もいい。金の亡者の腐った脳味噌の僧体の寺僧が――ぽかんと口を開けたまま――衣帯をぱらりと肩に引っかけて(じゃ、日活のヤクザ映画か)帰ってゆく安藤の後姿を見ているのである。
・「衣躰」衣帯。衣と帯。衣服を着、帯を結ぶことから、服装や装束。「衣体」とは一般に僧の地位によって異なる正装のことを指す。ここでは恐らく一般的な本願寺修行僧のためのオリジナルな衣服のことと推測される。
・「門跡」「門跡」は狭義には皇族や貴族が住職を務める寺格で、そうした特定寺院及びその住職を指す。但し、原義は開祖の正統後継者を言う「門葉門流」の謂いであり、鎌倉時代以降、単に位階の高い寺院格を広く指すようになった。後注で見るように安藤惟要が勘定奉行であったのは宝暦11(1761)年~天明2(1782)年の間であるが、その間の西本願寺(浄土真宗本願寺派)の「門主」(東本願寺=大谷派では「門首」)を調べると、寛保3(1743)年~寛政元(1789)年まで在任した西本願寺17世法如(ほうにょ 寛永4(1707)年~寛政元(1789)年)であることが判明する。ウィキの「法如」の人物の項によれば、『播磨国亀山(現姫路市)の亀山本徳寺大谷昭尊(良如[やぶちゃん注:第13代宗主。]10男)の2男として生まれる。得度の後、河内顕証寺に入り、釋寂峰として、顕証寺第11代を継職するが、その直後に本願寺16世湛如が急逝したため、寛保3年37歳の時、同寺住職を辞して釋法如として第17世宗主を継ぐ。この際、慣例により内大臣九条植基の猶子とな』り、『83歳で命終するまで、47年の長期にわたり宗主の任にあたった。この間、明和の法論をはじめ、数多くの安心問題に対処し辣腕を振るったが、その背景にある宗門内の派閥争いを解消することは出来なかった。大きな業績としては、阿弥陀堂の再建や「真宗法要」などの書物開版などがある。男女30人の子をもうけて、有力寺院や貴族との姻戚関係を結ぶことに努めた』とある(書名の括弧を変更した)。
・「安藤霜臺」安藤郷右衛門惟要(ごうえもんこれとし 正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼(弾正台の次官の意)を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。既にお馴染み「耳嚢」の重要な情報源の一人。
・「御勘定奉行の節」勘定奉行は勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司ったが、寺社奉行・町奉行と共に三奉行の一つとされ、三つで評定所を構成していた。一般には関八州内江戸府外、全国の天領の内、町奉行・寺社奉行管轄以外の行政・司法を担当したとされる。厳密には享保6(1721)年以降、財政・民政を主な職掌とする勝手方勘定奉行と専ら訴訟関係を扱う公事方勘定奉行とに分かれている。安藤惟要が勘定奉行であったのは、宝暦11(1761)年~天明2(1782)年の19年間で、因みにこの15代後には根岸鎭衞自身が就任している(在任期間は根岸鎮衛(天明7(1787)年から寛政10(1798)年の11年)。
・「思われても」はママ。
・「西本願寺」京都市下京区堀川通花屋町下ルにある龍谷山本願寺の通称。永く私は何故西と東があるのか、分からなかった。目から鱗のウィキの「本願寺の歴史」からその部分を引用しておく。そもそもは戦国時代の内部対立に始まる。『元亀元年(1570年)9月12日、天下統一を目指す信長が、一大勢力である浄土真宗門徒の本拠地であり、西国への要衝でもあった環濠城塞都市石山からの退去を命じたことを起因に、約10年にわたる「石山合戦」が始まる。合戦当初』、大坂本願寺(石山本願寺)門跡であった『顕如は長男・教如とともに信長と徹底抗戦』したが、『合戦末期になると、顕如を中心に徹底抗戦の構えで団結していた教団も、信長との講和を支持する勢力(穏健派)と、徹底抗戦を主張する勢力(強硬派)とに分裂していく。この教団の内部分裂が、東西分派の遠因とな』ったとする。この二派の対立がその後も本願寺内部で燻り続け、それに豊臣秀吉の思惑が絡んで、文禄2(1593)年には教如の弟である『准如が本願寺法主を継承し、第十二世となる事が決定する。教如は退隠させられ』てしまう(この辺り、ウィキの「本願寺の歴史」中の記載が今一つ不分明。同じウィキの「准如」には『西本願寺の主張によると、もともと顕如の長男である教如は天正8年の石山本願寺退去の折、織田氏への抗戦継続を断念した父に背いて石山本願寺に篭るなど父と不仲で、また、織田氏を継承した秀吉にも警戒されており、自然と准如が立てられるようになったという』という記載があり、また別な史料では生母如春尼が門主を弟にと秀吉に依願したともあり、これで取り敢えず私なりには分明となった)。ところが、『慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで豊臣家から実権を奪取した徳川家康は、同戦いで協力』『した教如を法主に再任させようと考える。しかし三河一向一揆で窮地に陥れられた経緯があり、重臣の本多正信(三河一向一揆では一揆側におり、本願寺の元信徒という過去があった)による「本願寺の対立はこのままにしておき、徳川家は教如を支援して勢力を二分した方がよいのでは」との提案を採用し、本願寺の分立を企図』、『慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸六条の四町四方の寺領が寄進され、教如は七条堀川の本願寺の一角にある堂舎を移すとともに、本願寺を分立させる。「本願寺の分立」により本願寺教団も、「准如を十二世法主とする本願寺教団」(現在の浄土真宗本願寺派)と、「教如を十二代法主とする本願寺教団」(現在の真宗大谷派)とに分裂したので慶長8年(1603年)、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え、本願寺(東本願寺)が分立する。七条堀川の本願寺の東にあるため、後に「東本願寺」と通称されるようになり、准如が継承した七条堀川の本願寺は、「西本願寺」と通称されるようにな』ったとある。因みに『現在、本願寺派(西本願寺)の末寺・門徒が、中国地方に特に多い(いわゆる「安芸門徒」など)のに対し、大谷派(東本願寺)では、北陸地方・東海地方に特に多い(いわゆる「加賀門徒」「尾張門徒」「三河門徒」など)。また、別院・教区の設置状況にも反映されている。このような傾向は、東西分派にいたる歴史的経緯による』ものであるとする。こうした経緯から、幕末でも東本願寺は佐幕派、西本願寺は倒幕派寄りであったとされる(但し、ある種の記載では双方江戸後期にはかなりの歩み寄りを見せており、天皇への親鸞の大師諡号(しごう)請願等では共同で働きかけている。但し、親鸞に「見真大師」(けんしんだいし)の諡(おくりな)が追贈されたのは明治9(1876)年であった)。慶応元(1865)年3月に新選組が壬生から西本願寺境内に屯所を移しているが、一つにはそうした倒幕派への牽制の意があったものとも言われる。慶応3(1867)年6月には近くの不動堂村へと移ったが、その移転費用は西本願寺支払った由、個人のHP「Aワード」の「新選組の足跡を訪ねて2」にあり、『お金を払ってでも出ていってほしかったのだろう』と感想を述べておられる。現在、西本願寺は浄土真宗本願寺派、東本願寺は真宗大谷派(少数乍ら大谷派から分離した東本願寺派がある)で別宗派であるが、ネット上の情報を見る限りは、東西両派を含む十派からなる真宗教団連合や交流事業も頻繁に行われており、関係は良好と思われる。
・「本願寺」浄土真宗本願寺派本願寺築地別院。一般に築地本願寺と呼ばれる。元和3(1617)年に西本願寺の別院として第12代門主准如上人によって浅草に近い横山町に建立されたため、「江戸浅草御坊」と通称されていたが、明暦3(1657)年の振袖火事(明和の大火)の折りに全焼し、更にその後の幕府による防火整備計画による区画整理が実施され、旧地への再建が許可が得られず、こともあろうに、その代替地として何と現在の八丁堀の先の浅瀬の海の上が指定された。そこで佃島の門徒衆が中心となって海浜を埋め立てて、延宝7(1679)年に本堂を再建。「築地御坊」と呼称されるようになった。再建時の本堂は正面 が西南向きで、現在の築地市場附近が門前町となっていた。後、この本堂は関東大震災で崩壊したが、東京帝国大学工学部教授伊東忠太博士設計になる、印象的な古代インド様式の現本堂が昭和9(1934)年に落成した(以上は築地本願寺公式HPの「築地本願寺紹介」を参照した)。
・「塔頭」江戸時代の築地本願寺の塔頭は真龍寺・宝林寺・敬覚寺等、58を数える膨大なものであった。霜台の檀家寺であろう。
・「百金」「百五十金」金百両・百五十両の意であるから、現在の価値に換算すると100両でも最低400万円最高3,500万円相当、150両となると600万から5,000万を超えるとんでもない金額である。安藤霜台! 男だねえ! 大好きッ!!!
■やぶちゃん現代語訳
門跡衣体の事
安藤霜台郷右衛門惟要(これとし)殿の宗旨は一向宗である。
ことさらに信仰厚き人にては御座らねど、勘定奉行を勤めておられた折り、何かと西本願寺からの用向きが御座った故、労を厭わず、親切に対応致いて御座った。
ある時、西本願寺御門主法如様江戸出府の砌、
――永年常々何かと世話に相成り候檀家なればこそ――
とて、使いの者より、一つの化粧箱に入れし謝礼が贈られて御座った故、霜台殿、
「何か、京土産ででも御座ろうか。」
とこの箱を開いて見たところが、美事なる僧衣では御座った。
霜台殿、つくづく眺め、
「……寺中にあっては、これ、さぞ格式高き衣体にて……有り難きものにも存ずるのではあろうが……これ、普段に着れるものにてもあらず……また、我らが俗なる者の家(や)に、かくも貴き御門主恩賜の衣体をしまいおきて、万一、鼠にでも食われるような沮喪があっては如何なものか。……これは、何より、檀家寺へ遣わすに若くはなかろう。」
と思い、衣体を携えて安藤家檀家寺で御座った築地本願寺のある塔頭に赴き、かくかくの由、住持に相談致いたところ、
「いやとよ! それは大きなる了見違いで御座いますぞ! そもそも御門主から衣体を頂戴致しますこと! これ、相応の出家にても容易にあろうことにては、これ、御座らぬぞ! 況や、貴殿の如き俗体に於いてをや! 御門主におかせられてましては、数年御馴染みのことを心におかけになられ、何とか貴殿のその親切なる御配慮に対し、厚き礼として賜物せんとお思い遊ばされたることなれども……金銀をもってこれに謝礼すること、これは貴殿の如き、勘定奉行という御重職に在られる御方に対して、如何にも礼を失するものとの御深慮にて……かくも有り難くも深き御心! これ、お込めになられた御贈品にて御座いまするぞ!……例えば、で御座る!……この衣体を西本願寺信徒に与えんと致さば! これ、百両以下にて購わんと申し出る者なんどは、決して御座らぬ!……そこで、御相談で御座る!……我らに、この衣体、一つお預けなされよ! 必ずや、百両が百五十両にても、美事、買わせて見申そうぞ! いやとよ! ひらに! そうなさるるに若くは御座らぬ!……」
と頻りに薦める。
霜台殿、これを聴き、
「――成程――なれど、我らこと、御公儀より厚く召し使われて御座ったる者にて御座れば――金銀百両の望み、これ、御座らぬ。――いやとよ、さほどに厚き御心映(ば)えの進物とは存ぜずにおって御座ったが――かくも親切なるものなればこそ、一つ、永く家宝と致いておこうと存ずる。――」
と、そのまま、持ち帰ったとのことの由――お語りになって御座った。