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2010/11/02

耳嚢 巻之三 太平の代に處して勤を苦む誤りの事

「耳嚢 巻之三」に「太平の代に處して勤を苦む誤りの事」を収載した。


 太平の代に處して勤を苦む誤りの事

 日光山御修復に付、予三ケ年打續きて登山(とうさん)せしに、御虫干の節御寶藏の品を拜見なしけるに、東照宮御陣場(ごじんば)を召れたる御駕(おかご)あり。結構成品にはなく、前後は竹を打曲て御簾(みす)はあんだやうの物也。恐多くも御軍慮の御手すさみや、前の御簾竹にこよりをかけて、くわんぜよりの御よりかけ二三寸あり。又右あんだにに鐵炮の玉跡二三ケ所あり。神君の大德(だいとこ)宇宙を灑掃(さいさう)なし給ふに、千辛萬苦なし給ひてかく危難に處し給ふを見れば、かく太平の代に住みて、飽迄食ひ暖(あたたか)に着て猶遊樂を願ふの心、愼むべき事と爰に記し置きぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:西本願寺門主と安藤惟要の深慮と礼節から、神君家康公の神慮で直連関。

・「日光山御修復に付、予三ケ年打續きて登山せし」根岸は安永6(1777)年より安永8(1779)年までの3年間「日光御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用として日光山に在勤」(「卷之二」「神道不思議の事」より)していた。

・「東照宮」徳川家康。元和2(1616)年4月17日に駿府城(現在の静岡県静岡市)で75歳で没し、直ちに久能山に葬られたが、遺言によって翌元和31617)年4月15日に久能山より日光山に移されて神格として遷宮され、東照社となった。その後、正保2(1645)年に正式に宮号を賜って、東照宮と呼称されるようになった。

・「御陣場」戦争に於いて陣取っている場所を言う。陣所。ここでは広義の戦場の意。

・「召れたる」この「召す」は「乗る」の尊敬語。

・「あんだ」「箯輿」で「あんだ」と読む。「おうだ」とも。元来は「あみいた」の転訛したもので、本来は板の床に竹を編んだ粗い笊状の縁を廻らせるらせたような屋根のない駕籠のことで、戦場で死傷者を運搬したり、罪人の護送に用いたりした極めて粗末なものを言う。但し、ここでは駕籠の御簾部分がそのような「箯輿」染みた粗末な造りであったと言っているので、駕籠全体が「箯輿」様であったという訳ではない。

・「手すさみ」手遊(すさ)び。手慰み。

・「くわんぜより」「観世縒り」のこと。「かんぜこより」「かんじんより」「かんぜんより」等とも言う。で、和紙を細く切って指先で縒(よ)り糸のようにし縒って、その2本を縒り合わせた紐状の紙。又はそれ一本単独の紙縒(こよ)りを言う。能の観世大夫を語源とするという説がしばしば行われているが、実際には未詳である(小学館「大辞泉」の記載を参照した)。現代語訳では、単に戦闘の合間、暇潰しに紙縒りを作ったという雰囲気で訳したが、もしかするとこの紙縒り、何か軍議軍略上、何か特別な使用法でもあったものか。識者の御教授を乞うものである。

・「灑掃」洒掃とも。「洒」「灑」は、ともに水を注ぐ意で、水をかけたり、塵を払ったりして綺麗にすること。掃除。

■やぶちゃん現代語訳

 太平の代に処するに勤めを苦しく思うこと大いなる誤りなる事

 日光東照宮御修復につき、私は三年に亙って日光山に登山(とうさん)して御座ったが、丁度、虫干しの季節なれば、東照宮御宝蔵の品々を拝見致す機会が御座った。

 その中に、神君家康公が御戦場にてお乗りになられた御駕籠が御座った。

 それは決して豪華なる品にては、これなく、前後の駕籠掻きの棒は、何と、素竹をただうち曲げたものにて、御簾(みす)に至っては箯輿(あんだ)の如き目の粗き如何にも粗末な作りで御座った。

 よく拝見してみると――恐れ多くも戦場にての采配指揮の合間に手遊(すさ)びになされたことででもあられたものか――御駕籠前方にある御簾竹には紙縒りが掛けられて御座って――それはまた、丁寧にしっかりと二本を捩じ絡めた観世縒りのこよりで御座った――それが二、三寸程ぶら下がって残っていたものが、夏の涼やかな風に揺れて御座ったのが今も忘れられぬ。

 また、更に仔細に観察致いたところ――この御簾には鉄砲の玉跡の穴が二、三箇所御座った。――神君家康公が、その大いなる人徳を以ってこの世この宇宙全体を清浄安泰なるものに成さんとなさった、その大御所様の――千辛万苦遊ばされ乍ら、かくも凄まじき危難を経験なされ、美事に天下統一を御成就なされたこと――この御駕籠一つにさえ感じ入って御座ったので御座る。――さればこそ――かくも今、太平の世に住みて、飽きるまで喰らい、暖かなるものをぬくぬくと着、それでもなお、遊楽を願わんとする心あるは――これ、不埒千万、重々厳に慎むべきことで御座る、と痛感致いた故、ここに記しおくものである。

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