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2010/11/21

耳嚢 巻之三 鈴森八幡烏石の事

「耳嚢 巻之三」に「鈴森八幡烏石の事」を収載した。

 鈴森八幡烏石の事

 鈴森八幡の境内に烏石(からすいし)といふ石ありて碑銘あり。書家烏石(うせき)といへる者の建し石也。右烏石(うせき)といへるは、元來親はスサキリとて下職(げしよく)の商家也しが、幼より手跡を出精し、三ケ年の間廣澤(くわうたく)、文山(ぶんざん)の筆意を追ひ、古法帖(こはふでふ)に心をよせて終に能書の譽れありしが、果は京都に遊びて親鸞上人大師號の事に携りて、敕勘の罪人になりし。末年許免ありし。右烏石生れ得て事を好むの人也しが、鷹石(たかいし)とて麻布古川町に久しく有りし石を調ひて、己(をのれ)が名を弘(ひろ)め尊せん爲、鈴が森へ同志の事を好む人と示し合て立碑なしける也。からす石といふ事を知て鷹石の事をしらず。右鷹石は山崎與次といへる町人の數寄屋(すきや)庭にありし石のよし也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。根岸は明らかに松下烏石の仕儀を売名行為として捉えており、この奇石について、せめてその本来の由来を正しく記しておこうという立場をここで示しているように私には感じられるので、そのようなバイアスを掛けた現代語訳にしてある。

・「鈴森八幡」現在の大田区大森北に鎮座する磐井神社。ウィキの「磐井神社」には、『この神社の創建年代等については不詳であるが、敏達天皇の代に創建されたと伝えられ、延喜式にも記載された神社で、武蔵国における総社八幡宮であったとされる。江戸時代には、将軍家の帰依を得、「鈴ヶ森八幡(宮)」とも称された。なお、鈴ヶ森という地名はこの神社に伝わる「鈴石」(鈴のような音色のする石)によるものとされる』とある。「江戸名所図会」によると、鈴石は延暦年間(782806)に当時の武蔵国国司石川氏が奉納した神功皇后三韓征伐所縁の石とあり、更に一説に本物の鈴石は盗賊に盗まれたともある。

・「烏石(からすいし)」「江戸名所図会」に(筑摩文庫版を元としつつ正字に直し、篆書碑文部分は写真版と底本鈴木氏注にあるものを参考にして字間を設けた)

 烏石 社地の左の方にあり。四、五尺ばかりの石にして、面に黑漆(こくしつ)をもつて画(ゑが)くがごとく、天然に烏の形を顯(あらは)せり。石の左の肩に、南郭先生の銘あり。「烏石葛辰(うかつかつしん)これを鐫(せん)す」と記せり。葛辰みづから烏石と號するも、この石を愛せしより發(おこ)るといふ。「江戸砂子」にいふ、『この石、舊へ麻布の古川町より三田の方へ行くところの三辻にありしを、後、このところへ遷(うつ)す』とあり。書は古篆なり。

 匪日匪星 烏石天墜 不黄維烏 書傑所致 取而祠之

 穀城是視 服元喬銘爲     烏石山人

 額「烏石」、阿野公繩(あのきんつな)卿筆、鳥居の額「烏石祠」、吉田二位兼隆卿筆。

「烏石葛辰」は松下烏石の、「服元喬」は服部南郭の漢文風雅号。

MINATO氏のHP内にある「名所・旧跡」中の「磐井神社」のページの「烏石」(からすいし)の項には『山の形をした自然石の上部に、墨で書いたような烏の形をした模様があるところからこの名が付けられた。もとは鷹石と呼ばれて麻布にあったが、松下烏石という人が移した。松下烏石の宣伝もあって有名になり、特に江戸文人に好まれて鑑賞のために訪れる者が後を絶たなかったという。この石も大田区の文化財で、現在は鈴石ともに社務所に保管されている』とある(リンク先で現在の「烏石」の画像を見られる。鈴石共に現存するが非公開の由)。また鈴木靖三氏のHP内の「東海七福神と大森海岸付近」の「磐井神社」には、江戸中期に成立した「武蔵志料」の記載から引用し、『「麻布古河ノ鷹石モ、葛山鳥石取之、鈴森八幡宮ニ納メ、名ヲ改メ烏石卜号ル』とあるとし、『この石は、もと鷹石とよばれて麻布の古川辺にあったものを、松下烏石(葛辰)が当社に移し、名を改めて自分の号をとり、烏石と称した』という情報を提示、『さらに服部南郭に依頼して、この石の側面に銘文を刻みこみ、小祠を建ててこれを祀り宣伝したことに対し、松下烏石の売名行為とする批判もあ』ったとする。『しかし松下烏石の文人としての力倆もさることながら、この石は次第に有名になり、文人たちに好まれ、鑑賞のため当社を訪ずれる者が、あとを絶たなかった』との由、記載がある。更に、個人のHP(ハンドル・ネーム不詳)「東京の地名由来 東京23区辞典」の「港区の地名の由来」に、

 《引用開始》

■鷹石 磐井神社に奉納

 3丁目8番の辺り、善福寺門前東町西南角に、江戸時代、植木屋の四郎左衛門という者が居て、伊豆から取り寄せた石面が鷹の形に見える石を店先に置いたところ、松下君岳という者がきて石を所望し、元文六年(1741)2月に鈴ヶ森八幡へ奉納した。君岳は烏石山人と称した書家で、この石に銘を彫った。石が鷹の形をしていたので、この辺りを里俗に鷹石といったと『文政町方書上』にある。

 鈴ヶ森八幡とは大田区の磐井神社だ。この神社は貞観元年(859)の創建で、江戸期には将軍も参詣し、鷹石が寄進されたことにより江戸の文人墨客にもてはやされた。この神社には他に鈴ヶ森の由来になる鈴石、狸筆塚などもあり、境内には万葉集にもよまれた笠島弁天もある。

 《引用終了》

ともある。

・「烏石(うせき)」松下烏石(元禄121699)年~安永8年(1779)年)。書家。本姓は葛山氏、烏石は号。荻生徂徠の流れを受ける服部南郭門下の儒学者であったが、本話及び次話を見るように無頼放蕩を繰り返した、放埒にして問題のある性格の持ち主ではあった。

・「スサキリ」「スサ」は苆(当該漢字は国字)・寸莎などと書き、「壁苆」(かべすさ)とか「つた」(江戸方言)などとも言った。壁土の原料に混ぜて、塗装後の乾燥による罅割れ等を防ぐためのツナギとするもの。よく知られるように荒壁には藁を用いた(上塗り用にはもっと目が細かく薄い麻または紙などを用いた)が、そうした壁用の藁スサを切る下賤の生業(なりわい)の謂いか。但し、底本の鈴木氏注には、『烏石の親は松下庄助という軽い御家人で、烏石はその次男であると、細井九皐の「墨直私言」にある由。』と附言されている。この細井九皐(きゅうこう 宝永8(1711)年~天明2(1782)年)は書家。姓からお分かりのように、本話に登場する細井広沢(次注参照)の長男である。それにしても何故、このように卑賤の誤伝が創られたのか。それもまた、烏石の一筋繩では行かぬ屈折した生涯が垣間見える気がする。

・「廣澤」細井広沢(こうたく 万治元(1658)年~享保201736)年)。儒学者にして書家・篆刻家。ウィキの「細井広沢」によれば、『赤穂四十七士の1人堀部武庸と昵懇で吉良邸討ち入りを支援した人物として知られる』。『博学をもって元禄前期に柳沢吉保に200石で召抱えられた。また剣術を堀内正春に学び、この堀内道場で師範代の堀部武庸と親しくなった。元禄赤穂事件でも堀部武庸を通じて赤穂一党に協力し、討ち入り口述書の添削』も行い、『吉良邸討ち入り計画にかなり深い協力をしており、武庸からの信頼の厚さが伺える』とある。この赤穂『事件の間の元禄15年(1702年)に柳沢家を放逐された。広沢が幕府側用人松平輝貞(高崎藩主)と揉め事を抱えていた友人の弁護のために代わりに抗議した結果、輝貞の不興を買い、広沢を放逐せよとしつこく柳沢家に圧力をかけるようになり、吉保がこの圧力に屈したというのが放逐の原因である。しかし、吉保は広沢の学識を惜しんで、浪人後も広沢に毎年50両を送ってその後も関係も持ち続けたといわれる』。以下、「書・篆刻」の項(記号の一部を変更した)。『広沢は書道に多大な貢献をしている。書に関する著述には「観鵞百譚」「紫微字様』」「撥蹬真詮」など多数。筆譜に「思胎斎管城二譜」がある』。『また日本篆刻の先駆とされる初期江戸派のひとりである。蘭谷元定や松浦静軒などに学び、明の唐寅や一元に師法し、羅公権の「秋間戯銕」などから独学した。また榊原篁洲や池永一峰・今井順斎らとの交流で互いに研鑽した。とりわけ池永一峰とともに正しい篆文の形を世に知らしめようと「篆体異同歌」を著した。また法帖の拓打について新しく正面刷りの方法を考案して「太極帖」を刻している。広沢と子の細井九皋[やぶちゃん注:「皐」の別字。こちらが正しいようである。]の印を集めた印譜「奇勝堂印譜」があり日本における文人篆刻の嚆矢とされ』、門弟には本「耳嚢 卷之三」の、先行する「生れ得て惡業なす者の事」に登場する関思恭や、本邦文人画の先駆者にして博物学的才人であった柳沢淇園(きえん)などがいた、とある。

・「文山」佐々木文山(ぶんざん 万治2(1659)年~享保201735)年)。讃岐高松藩お抱えの書家。唐様や朝鮮系の書体を得意とし、江戸に住んで俳人榎本其角らと交流、風流人としても知られた(以上は講談社刊「日本人名大辞典」の記載を参照した)。底本の鈴木氏には、『酒を好み、酔って筆を揮うときは一段とよかった』ともある。

・「古法帖」「法帖」は書道に於いて手本や鑑賞用に先人の筆跡を、紙に写して石に刻んだものを石摺(いしずり)にした折本のこと。後に碑文拓本を折本にしたものをも言うようになるが、ここではそうして作られた通常の中国の古書蹟の謂いであろう。

・「親鸞上人大師號の事に携りて、敕勘の罪人になりし」この事件の首謀者格が松下烏石であった。烏石は晩年に京都に移ってから西本願寺門跡賓客となったが、丁度その時期の宝暦111761)年が親鸞五百回忌に当たっていた。それを受けて、親鸞に対し朝廷から大師号を授けて戴けるよう、東西両本願寺が朝廷に願い出ていた(この陳情自体は宝暦4(1754)年より始まっていた。結局、この申請は却下され、親鸞に「見真大師」(けんしんだいし)の諡(おくりな)が追贈されたのは明治9(1876)年であった)が、烏石は中山栄親(なるちか)・土御門泰邦・園基衡(もとひら)・高辻家長らの公家と謀り、西本願寺及びその関係者に対して、金を出せば大師号宣下が可能になるという話を持ち込み、多額の出資をさせた。ところがそれが虚偽であり、烏石が当該出資金を着服していたことが暴露告発されるに及び、上記公家連中が蟄居させられた。これが本文に言う「敕勘」事件である。烏石の処分は不明とされているが、ここで根岸が「末年許免ありし」(後年になって赦免された)とあるのは貴重な発言である。なお、この一件に関わって、「卷之一」の「烏丸光榮入道卜山の事」の私の考察注も是非お読み頂きたい。

・「勅勘」底本の鈴木氏も注で述べておられるが、貴族どころか「下職」出自の一介の奇人書家である烏石に、勅勘とはおかしな謂いではある。

・「麻布古川町」現在の南麻布一丁目の一部の一区画にだけ存在した小さな町。参照した Kasumi Miyamura 氏の「麻布再見」の「麻布古川町」に『古くは麻布本村の一部であったが、元禄111698)年に白銀御殿用地として幕府に召し上げられたため、三田村のなかの古川沿いに代地を受けたのが始まり。古川は元禄121699)年の改修工事後は新堀と呼ばれるようになったが、町名は古くからの川の名を採り麻布古川町とした。隣には三田古川町があった』とあり、現『港区立東町小学校の向かいの一角あたりか』と同定地を示されている。江戸切絵図と現在の地図を比較して見ても、この同定は正しい。

・「山崎與次」不詳。――これ、まさか、近松門左衛門の世話物「山崎与次兵衛寿の門松」(やまざきよじべえねびきのかどまつ)で江戸で一旗挙げた山崎与次兵衛じゃあ、あるめえな?

■やぶちゃん現代語訳

 鈴ヶ森八幡烏石の事

 鈴ヶ森八幡宮の境内に烏石(からすいし)という石があり、碑銘も彫られて御座る。

 これは書家の烏石(うせき)という者が建てた石である。

 この烏石という男、元来、親はスサキリを生業(なりわい)とする、下賤の商家の出であったが、幼き頃より、その手跡の巧みなるに、盛んなる精進を致いて、三年ほど、名書家で御座った細井広沢や佐々木文山の門を叩いてその筆法筆想を盗み取り、古き中国の法帖(ほうじょう)に執心致いて、遂には能書家の誉れを勝ち取った男である。

 が、その果ては、京都に遊んだ折りに、親鸞上人大師号に関わるかの贈収賄の一件に関わることとなり、遂には勅勘の罪人となった――後年になって、その罪は免ぜられてはおるが――。

 さて、かくの如く、この烏石、生来、何かと『ことを好む』――天然自然傍若無人生涯無頼の――所謂、とことん斜に構えた風流人であった。

 麻布古川町に長らく転がって御座った奇石を安く買い叩いて手に入れると、己れの名を世間に広めんがためにのみ、同好の好事家どもを言い包めては示し合わせ、やおら、この石を鈴ヶ森に持ち込んで――図々しくも己(おの)が名そのままに『烏石(うせき)』と名付けて――立碑したのである。

 世間では「烏石」と申す、このけばけばしき立て看板の如き名ばかりが知られて御座るが、これが実は本来、「鷹石」と呼ばれて御座った古き由緒ある奇石で御座ったことを知るものは、これ、御座らぬ。

 何でも、この鷹石は、その昔の山崎与次というた、誠の通人として知られし町人の、茶室の庭に配されて御座った名石であった由、私は聞いて御座る。

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