耳嚢 巻之三 町家の者其利を求る工夫の事
「耳嚢 巻之三」に「町家の者其利を求る工夫の事」を収載した。奇人書家烏石の逸話であるので、本日、二篇めであるが、アップする。これで「卷之三」も余すところ、二篇のみとなった。本年中に、気持ちよく終了出来る。
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町家の者其利を求る工夫の事
右烏石上京せんと思ひし時、日本橋須原屋(すはらや)にて金百兩借りてけるが、元來放蕩不覊(ふき)の者なれば右金子返すべきあてもなかりし故、流石に面目なかりけるか、須原屋へ絶て來らざりしを、須原屋さるものにて、烏石が住家を尋て呼取りしに、右の金子の事いひていなみけるを、聊の金子に古友をかへり見べきやとて、無理に請じて暫く養ひ遺しに、其内同人の書記を以て開板(かいはん)なし、藏板として利德を得ると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:奇人書家松下烏石エピソードで直連関。奇人変人の上をゆく、商魂である。
・「烏石」松下烏石。前項注参照。
・「上京せん」烏石が晩年、京都に移って西本願寺門跡賓客となった、明和年間(1764~1772)のことか。前項注参照。但し、親鸞大師号事件以降に烏石が帰府した事蹟は見出せないので、現代語訳では玉虫色に誤魔化した。
・「須原屋」須原屋市兵衛(すはらやいちべえ ?~文化8(1811)年)本屋。家号は申椒堂(しんしょうどう)。須原屋茂兵衛分家として日本橋通二丁目に開業。平賀源内・大田南畝らの著作、杉田玄白らの「解体新書」等の蘭学書や武鑑を刊行して全国的に知られた出版元であった。寛政4(1792)年の幕府の対外政策を難じた林子平筆「三国通覧図説」刊行時は、発禁と共に重過料の処分を受けている(以上は主に講談社刊「日本人名大辞典」の記載等を参考にした)。松下烏石は京都に移り住んでからも「消間印譜」その他多数の法帖を刊行しているが、それらの版元が須原屋であったか。
・「金百兩」1両を10万円と換算しても1000万円。当時の日常的価値からすると、もっと高い。
・「書記」出版元の意。
・「開板」開版とも。新しく版木を彫って本を印刷すること。上梓。
・「藏板」蔵版とも。出版物の版木や紙型を所蔵すること。現在で言う独占出版のこと。
・「かへり見べきや」「かへり見捨つるべきや」の意の反語。一種の対偶法か。
■やぶちゃん現代語訳
町家の者利を求めんがための奇略の事
前の話に出た、かの烏石が、いよいよ腹蔵ありて上京せんと思い立ったが折り、彼、手元不如意であったがため、前々より法帖出版なんどにて何度も世話になって御座った日本橋の出版元須原屋市兵衛から金百両を借りた。
しかし、元来が放蕩不羈天然自在勝手気儘なる輩で御座ったれば、かの金子も返す当ても、これ、全くなく――流石の木石の如き鉄面皮(おたんちん)烏石も合わせる顔がなかったのであろう――その後、須原屋へは絶えて足を向くること、これ、御座らなんだ。
しかし、その須原屋は――もっと大物で御座った。
わざわざ京に上ると、烏石の家を探し出し、
「――困窮の極みとお見受け申す――一つ、一緒に江戸へ戻り、我が家に身を落ち着けなさるがよい。」
と言うた。
余りの意外さに、流石の厚顔無恥木石無情の烏石とても、素直にかの大枚の借金返済の不首尾不届きを詫びると、
「……不誠実なる我らに、これ、過ぎたる恩幸なればこそ……」
と、須原屋の申し出を固辞致いた。ところが、
「――烏石殿……かくも微々たる金子に――古き友を、これ、見捨てる須原屋市兵衛と――お思いか?!」
と言うや、須原屋、飽くまで烏石に己(おの)が提案を無理矢理受け入れさせると、そのまま暫くの間、彼の生活が安定するまでの面倒を見て御座った。
その後、須原屋、元来が文人に引く手数多の流行書家で御座った烏石を、自身版元の専属作家となし、夥しい数の著作を出版の上、尚且つ烏石の版権を悉く独占、それこそ――百両がはした金に見える――想像を絶した利潤を得た、とのことで御座る。