耳嚢 巻之三 古へは武邊別段の事
「耳嚢 巻之三」に「古へは武邊別段の事」を収載した。
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古へは武邊別段の事
水野左近將監(しやうげん)の家曾祖父とやらん、至て武邊の人なりしが、茶事(ちやじ)を好みけるを、同志の人打寄て水野をこまらせなんとて、茶に相招きいづれも先へ集りてけるが、左近將監跡より來りて、例の通帶刀をとりにじり上りより數寄屋(すきや)へ入りしに、先座(せんざ)の客はいづれも帶劍にて左近將監がやうを見居たりければ、左近將監懷中より種が嶋の小筒を出して、火繩に火を付て座の側に置ける由。昔はかゝる出會にて有りしと也。
○前項連関:特に連関という感じではないが、味で粋な計らい(しかししっかり将来の利潤を計算している企略なのであるが)から、人の上を行くニクい仕草で、何だか連関している。この話、すっごい好き! 格好ええ~なあ!
・「水野左近將監の家曾祖父」「水野左近將監」は水野忠鼎(ただかね 延享元(1744)年~文政元(1818)年)肥前唐津藩の第2代藩主。忠元系水野家9代。従五位下左近将監。以下、参照したウィキの「水野忠鼎」から引用する。『延享元年(1744年)、安芸広島藩主・浅野宗恒の次男として生まれる。安永4年(1775年)9月23日、先代藩主・忠任が隠居したため、その養子として後を継いだ。幕府では奏者番を勤め、藩政においては二本松義廉を登用して財政改革を行なったが、天明の大飢饉に見舞われて失敗に終わった。享和元年(1801年)に藩校・経誼館を設置している』。彼の曽祖父は水野忠輝(ただてる 元禄4(1691)年~元文2(1737)年)。三河国岡崎藩の第5代藩主。忠元系水野家6代。以下、参照したウィキの「水野忠輝」から引用する。『水野忠之の次男』で、『宝永元年(1704年)、将軍・徳川綱吉に初目見えし、従五位下右衛門大夫に任官。正徳2年(1712年)に右衛門佐に改める。享保14年(1729年)には大監物に改め、翌享保15年(1730年)に父・忠之の隠居に伴って藩主に就任した。享保18年(1733年)には領内治世を賞せされた。元文2年(1737年)岡崎にて死去。後を長男・忠辰が継いだ』とある。底本の鈴木氏注に『領内の政事よろしき旨をもって賞せられた』とある、但し、鈴木氏は続けて、『この話の主人公としては、忠輝の父忠之』『の方がふさわしい感じがする。』と記されている。水野忠之(ただゆき 寛文9(1669)年~享保16(1731)年)は「水野和泉守」「卷之一」の「水野家士岩崎彦右衞門が事」や本巻の冒頭部の「水野和泉守經濟奇談の事」で既出。江戸幕府老中。三河国岡崎藩第4代藩主であった譜代大名。元禄10(1697)年に御使番に列し、元禄11(1698)年4月に日光目付、同年9月には日光普請奉行、元禄12(1699)年、実兄岡崎藩主水野忠盈(ただみつ)養子となって家督を相続した(忠之は四男)。同年10月、従五位下、大監物に叙任している。以下、主に元禄赤穂事件絡みの部分は、参照したウィキの「水野忠之」からそのまま引用する。『元禄14(1701)年3月14日に赤穂藩主浅野長矩が高家・吉良義央に刃傷沙汰に及んだときには、赤穂藩の鉄砲洲屋敷へ赴いて騒動の取り静めにあたっている。』『また翌年12月15日、赤穂義士47士が吉良の首をあげて幕府に出頭した後には、そのうち間十次郎・奥田貞右衛門・矢頭右衛門七・村松三太夫・間瀬孫九郎・茅野和助・横川勘平・三村次郎左衛門・神崎与五郎9名のお預かりを命じられ、彼らを三田中屋敷へ預かった。』『大石良雄をあずかった細川綱利(熊本藩主54万石)に倣って水野も義士達をよくもてなした。しかし細川は義士達が細川邸に入った後、すぐさま自ら出てきて大石達と会見したのに対して、水野は幕府をはばかってか、21日になってようやく義士達と会見している。決して水野家の義士達へのもてなしが細川家に劣ったわけではないが、水野は細川と比べるとやや熱狂ぶりが少なく、比較的冷静な人物だったのかもしれない。もちろん会見では水野も義士達に賞賛の言葉を送っている。また江戸の庶民からも称賛されたようで、「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残っている。これは細川家と水野家が浪士たちを厚遇し、毛利家と松平家が冷遇したことを表したものである。その後、2月4日に幕命に従って』9人の義士を切腹させている。その後は、奏者番・若年寄・京都所司代を歴任、京都所司代就任とともに従四位下侍従和泉守に昇進、享保2(1717)年『に財政をあずかる勝手掛老中となり、将軍徳川吉宗の享保の改革を支え』、享保15(1730)年に老中を辞している。
・「左近將監跡より來りて」ここは「左近將監」ではおかしい。曽祖父の水野忠輝や鈴木氏の言う水野忠之であるなら「大監物」でなくてはならない。現代語訳は水野忠鼎とはっきり区別するためにそう直してみた。
・「種が嶋の小筒」「小筒」は弾丸の重量が三匁半(約13g)程度の火縄銃を指す。ただ懐から出しているので、これは猟銃タイプの小筒ではなく拳銃様の短筒である。拳銃も本邦では火縄銃伝来直後から国産が作られていた。
■やぶちゃん現代語訳
古えの武辺これまた格段にぶっ飛んでいる事
水野左近将監(しょうげん)忠鼎(ただかね)殿の曾祖父の逸話であるらしい。
この御仁、至って武辺勇猛なるお方で御座ったが、同時にまた、茶事(ちゃじ)をもお好みになった風流人でも御座った由。
ある時、彼の朋輩らがうち集うて、
「一つ、水野を困らせてみようではないか。」
と相談一決、水野大監物殿を茶席に招いておいて、彼らは皆、わざと早々に茶室に入って御座った。
そこへ大監物殿、後から――とはいうものの時刻通りに――ゆるりと現れ、茶事作法に従(したご)うて帯刀をば外し、にじり口より茶室へ入った。
……と……
先座せる一同は――これが皆、腰に刀剣二領挿しのまま、彼をじろりとねめつけて御座った……
……ところが……
大監物殿は――これがまた、表情一つ変えることものう、徐ろに――懐から種子島の短筒を引き出だいて――「フッ!」――とやおら火繩に火を付け――己が着座致いたその傍らに、トン!――と置いた……
……昔は、如何なる折りにも、かかる心構えをなして御座った、という何やらん、うきうきしてくる話では御座ろう?
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