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2010/11/03

耳嚢 巻之三 梶左兵衞が事

「耳嚢 巻之三」に「梶左兵衞が事」を収載した。



 梶左兵衞が事

 日光慈眼堂(じげんだう)の奧に、梶左兵衞といへる人の墳墓あり。贈位四品(しほん)にてそのいわれを尋るに、大猷院(だいいふゐん)樣御小姓を勤て生涯御近邊に扈從(こじゆう)なしける由。飽迄篤實の人にて、御取立の儀御沙汰有けれども辭讓して、一生妻子を持ず。子孫を顧て眞忠の御奉公成がたしといひし由。大猷院薨御(こうぎよ)以後は、日光山へ御供なして日光にて終りけるが、朝暮の御膳獻備(けんぴ)にも御別所に相詰て、聊にても供僧など不束(ふつつか)あれば免(ゆる)さず憤りて、御在世の如く仕へて日光にて物故なしければ、嚴有院樣御代四品の御贈位有りし由。右の覺悟ゆへ其名跡(みやうせき)と言(いへ)る者もなし。左兵衞召使の幸助といへるを日光御殿番に被召出、今に其子孫小野善助とて御殿番を相勤、左兵衞が年季追福は御靈屋の御別所龍光院にて修行なせども、墳墓の掃除等は善助家にて執行ふ由也。異人眞忠なる人も有もの也。

□やぶちゃん注
○前項連関:日光山実見録シリーズで直連関。

・「梶左兵衞」梶定良(さだよし 慶長171612)年~元禄111698)年)幕臣梶氏の養子で。寛永9(1632)年より三代将軍徳川家光に仕え、御腰物持・御小納戸役を勤めた。慶安4(1651)年10月に四代将軍家綱の命により日光山に赴き、翌承応元(1652)年7月より日光山守護職(日光御宮守・日光御宮番・日光御廟所定番などとも呼称する)となったが、それから後40数年間、87歳で死去するまでの永きに亙って大猷院家光の廟を守った。その忠誠を讃えて大猷院廟の後背、大黒山に葬られた。本話にも示されている忠臣の内容が、底本の鈴木氏の注に「寛政譜」からの引用として掲載されている。いい文章なのでお示ししたい。なお、私のポリシーに則り、恣意的に旧字に代え、難読語には私の正しいと考える読みを歴史的仮名遣で附した。

 定良嘗て日光山に在のとき、毎旦御廟で殿前に侍座し、烈風膚(はだへ)を犯し、積雪身に砭(へん)するの時も自若としていますにつかふるがごとし。かくすること四十七年、一日の怠りあらず、年八十五に及びてはじめて往還乘輿(じようよ)すといへども、廟門にいなればかならず杖をすつ。祿二千俵に及びても一身の俸を意とせず。水患火殃(くわあう)あればよく散じて賑救(しんきう)す。日光山下の民これが爲に生を全うするもの亦すくなからず。のち水戸中納言光圀(みつくに)卿其訃音(ふいん)を聞て愛惜せられ、孝子親の墓に廬(ろ)する者はこれをきく、忠臣君の墓に廬するはいまだきかざる處なり、今定良にをいてこれを見るよし、文をつくりて祭らる。

「をいて」はママ。「砭する」の「砭」は、原義が針治療に用いる石の針で、突き刺さる、の意。「いなれば」は「往成れば」であろう。行き着くと、の意。「祿二千俵に及びて」とあるが、、底本の鈴木氏の注に「梶左兵衞」注に、日光山に赴いてからも『再三の加増により天和三年には廩米二千俵の禄とな』った由の記載がある(「廩米」は「りんまい」と読み、知行取りの年貢米以外に幕府から俸禄として給付されたものを言う)。天和3年は西暦1683年で、定良70歳の時である。「水患火殃」は水害と火災。「殃」は「禍」と同義。「賑救」貧者に金品を与えて救うこと。賑給。賑恤(ほら! 中島敦の「山月記」だよ!)。「水戸中納言光圀卿」は言わずと知れた水戸の黄門様、徳川光圀(寛永5(1628)年~元禄131701)年)、常陸国水戸藩第2代藩主。彼は寛永111634年)7歳の時に江戸城にて将軍家光に拝謁、寛永13年(1636年)に元服して家光から、その偏諱(へんき)を与えられて光国と改名した(延宝7(1679)年52歳の時に光圀と字を改めている)。「廬する」の「廬」は庵(いおり)であるから、庵を結んで追善に勤しむこと。

・「日光慈眼堂」家康のブレーンとしてしられた長寿の怪僧である大僧正南光坊天海(天文5(1536年)?~寛永201643)年)の廟堂。諡号は慈眼大師。歴代の日光山座主門跡である輪王寺宮親王塔の墓もある。個人のHP(と思われる)「ようこそ日光へ Welcome to Nikko「慈眼堂」に『(引用 日光市史 日光東照宮の謎―高藤晴俊氏著)』の引用注記を伴って以下の記載がある(孫引きであるから、本来はそのままであるべきだが、読みにくい部分があり、一部空欄を排除し句読点の補正を行った)。『天正18年7月(1590)北条氏の小田原城が落ちると 豊臣秀吉は8月に家康を関東に移封、9月には小田原方に組した日光山領(戦国期日光山領は66郷寄進地を含めると71郷あった)を没収、寺屋敷、門前、足尾村のみを安堵とした。慶長3年8月(1598)豊臣秀吉が没し、慶長5年(1600)の関が原の戦、慶長8年(1603)、徳川家康は江戸に幕府を開く。慶長10年には秀忠に将軍職を譲り慶長12年には大御所として駿府へ移っている』。『家康と天海の出会いには慶長13年、15年、18年説などあるがたぶん慶長13年から15年にかけて家康の絶大な信頼を得たものと思われる。そして慶長18年(1613)日光山の貫主として任じられる。慶長19年大阪冬の陣、元和元年(1615)の大阪夏の陣が過ぎ元和2年4月家康が没する』。『家康は遺言でもって、一周忌を過ぎてから日光山に小堂を建て勧請することを指示した。日光山は関東屈指の山岳信仰の霊山、霊場であり、家康が尊敬する源頼朝の信仰の厚かった所である。また江戸のほぼ北にあたり、宇宙を司る神.不動の北極星と江戸城の間にあり、神として再生した家康が国家の守護神となるにはこの日光に遷座することが重要だったのであろう。(この頃の時代背景としては長い動乱の世に辟易した人々の切実に太平の世を望む気持ちが、天下を統一した秀吉を大明神とし家康を大権現として神格化したことは容易に受け入れられたものと思う)この神廟経営には権現の神号の勅許に功績のあり、かつ日光山の貫主である天海があたる事になる。元和3年4月に霊遷が行われる。寛永9年(1632)1月大御所として権勢をふるっていた秀忠が死去、(元和9年(1623)7月より3代将軍家光)家光の時代となる。家光は大恩あり尊敬する家康のため寛永11年(1634)東照宮の大造替を着工、寛永13年4月に完成する。今の東照宮の姿である。天海の影響はいうまでも無い』。『家康、秀忠、家光と三代に仕え絶大なる信頼を勝ち得た天海も108歳で寛永2010月に入寂する。葬儀は盛大を極めたという』。『天海の葬られた大黒山の慈眼堂の建立は正保2年(1645)天海蔵には天海の霊前への奉納書、天海の蔵書、寄進本などが収められている(国宝 大般涅槃教集解 重文 大日経疏 他)』。『慶安元年(1648)天海に慈眼大師の大師号が宣下され』、『慶安4年(1651)三代将軍家光が没すると遺命により日光山の大黒山慈眼堂の近くに埋葬し、承応元年(1652)家光を祀る大猷院廟を着工し翌年10月完成し入仏の儀を行っている』とある。

・「贈位四品」幕府は大名・武家統制のために、事実上の授位権を将軍が握っていたが、大名に与え得る位階は、公家における武官の家柄であった羽林家の伝統にに従って、通常は従五位下までとされた。但し、特例として一部の大名家や旗本に対しては四位(四品)以上に昇叙することが許された(多くの場合は従四位下の叙任)。梶定良は天和3(1683)年に従四位下に昇っている。

・「大猷院」第三代将軍徳川家光(慶長9(1604)年~慶安4(1651)年)の諡(おく)り名。

・「御小姓」現在のシークレット・サーヴィス相当職であった五番方(御番方・御番衆とも言う。小姓組・書院番・新番・大番・小十人組を指す)の一つの通称であるが、梶定良の事蹟には小姓組入りの記載はなく、広義の、将軍側近として梶が勤めた御腰物持や御小納戸役を含んだ謂いである。

・「薨御」親王・女院・摂政・関白・大臣の死去を言う語。徳川将軍家は歴代、右大臣・左大臣・内大臣・太政大臣の何れかの地位を朝廷から得ているから、かく呼称出来るのである。

・「御膳献備」神前に供物を捧げること。

・「御別所」寺社にあって祭殿や本堂からやや離れた一定の同一区域内に置かれた、神職僧侶の修行道場・別院のことを言うが、どうもこれは「別当所」の略意で、後注で述べる大猷院廟別当職が住まう大猷院霊廟別当所龍光院のことを言っているらしい。現代語訳はそれで訳した。もし誤読であるならば、識者の御教授を乞いたい。

・「嚴有院」第四代将軍徳川家綱(寛永181641)年~延宝8(1680)年)の諡(おく)り名。家光の長男。

・「日光御殿番」慶安元(1648)年7月設置。定員4名。内3名は東照宮内の奥院(天狗堂附近)・御宮内番所(別称赤番所)・仁王門下にあった3個所の警備詰所を巡回警備を担当し、1名は大猷院廟堂入口番所警護を担当した。支配下に同心36名(以上は「栃木県立図書館レファレンス事例」の「Q 日光奉行所支配同心に関する資料はないでしょうか。」の「日光史」(1977年日光史特別頒布会刊星野理一郎著)の事例データを参照した)。

・「小野善助」小野良直(よしなお 生没年未詳)。底本の鈴木氏注に、本文に示されたように梶定良は結婚せず、嗣子がいなかったため、彼の拝領した領地は没収されてしまった。しかし、この良直が御家人として幕臣に取立てられ、『日光の御殿番となる。その孫安蔵まで御殿番をつとめ、その子にいたり、御殿番から日光奉行吟味役となり、寛政十年御勘定格に昇進した』とある。定良の没年は、既に第五代将軍綱吉の御代の末期であった。この梶及び小野への取り計らいは一応、将軍家綱吉のものと考えられるが(御家人・幕臣・日光御殿番という順調な流れは当然のことながら将軍裁許がなくては許されない。現代語訳ではそこを補足しておいた)、これはあくまで私の想像に過ぎないが、先に引用した「寛政譜」に光圀の言葉が特に引かれていることからも、綱吉とは犬猿(勿論、犬は綱吉!)の仲であったが、隠然たる発言力を持っていた彼が推挙したという可能性も考えられないことはない。また、寛政十年は西暦1798年で、「卷之二」の下限天明6(1786)年時点では、この栄誉までは記せなかったというわけであるが、やっぱり、お墓の掃除をしている善助子孫のラスト・シーンであってこそ「異人眞忠なる人も有もの也」なりとは合点!

・「龍光院」日光山でも僧方の総支配の重職であった大猷院廟別当職が住まう大猷院霊廟別当所龍光院。重要文化財として現存。

■やぶちゃん現代語訳

 梶左兵衞定良殿の事

 日光山慈眼堂の奥に、梶左兵衛定良殿という方の墳墓がある。

 格別に四位を賜った方で御座ったれば、その謂われを調べたところ、大猷院家光様御小姓を勤め、生涯御近辺に扈従致いた御人の由。

 その性、あくまで篤実のお方にて、上様より出世栄進を仄めかされた御沙汰が御座っても、事前に一切固辞致いて、また、生涯、妻子を持たなかった。この未婚なるに就きては、

「子孫を顧みんとする思い、これ、少々にてもあらば――真実(まこと)に忠誠なる御奉公は、これ、成り難し。」

と若き日より、常々口に致いておられた由。

 大猷院様薨御以後は、御霊(みたま)とともに日光山に御供致し、そのまま四十数年の生涯をそこにて終えられた。

 朝晩の廟堂御霊への御膳献備の際にも、欠かさず大猷院霊廟別当所龍光院にお詰めに相成られて、少しでも供僧に不束なることこれあらば、厳しく叱りつけて御座った由。

 このように、正に今も家光様御在世で御座られるが如くお仕えし、そのまま日光にて物故なされた由。

 かくも忠臣にて御座ったればこそ、厳有院家綱様の御代、特別な計らいにて、存命にして四位の御贈位、これ、御座った由。

 さて、以上示した通りの御覚悟にて御座ったがため、その家名名跡(みょうせき)を継げる者が御座らなんだ。

 ここに左兵衛が召し仕って御座った、これまた忠実なる家来に、善助という者が御座った。

 当時の上様――綱吉様の有り難きお取り計らいにより、その者、日光御殿番に召し出され、今に至るまで、その代々の子孫――同名を名乗る小野善助が、やはり御殿番役を相勤めて御座る。左兵衛の毎年の追善供養は、畏(かしこ)くも御霊屋のある日光山別当たる大猷院霊廟別当所たる龍光院が主宰にて祭祀なされて御座るものの、当左兵衛殿墳墓の払清(ふっせい)などは、今も、かの小野善助家にて執り行(おこの)うておる由。

 いや、何と並み外れて、真実(まこと)の忠心を抱き続けた美事なる御仁、これ、御座ったものである。

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