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2010/11/16

耳嚢 巻之三 飢渇に望みて一飯を乞ひし事

「耳嚢 巻之三」に「飢渇に望みて一飯を乞ひし事」を収載した。

 飢渇に望みて一飯を乞ひし事

 予がしれる廣瀨某は元來大坂の者也し由。至て貧乏にて大坂より下りし時も纔(わづか)の路用を持て下りしが、神奈川の驛迄懷中の貯(たくはへ)一錢もなく遣ひ切りしに、江戸に至ればしるべもあれど、以の外空腹也けるが、風與(ふと)思ひ付て六郷の奈良茶屋の前にて轉倒して倒れければ、右茶屋の者ども大きに驚て、水など顏にそゝぎ藥など施して、活出(いきいで)し趣にて厚く禮を述(のべ)て、右鄽(みせ)に腰をかけて奈良茶など食し、初て快(こころよき)由を語り、扨々厚き世話に成し事也、代物拂ひ可申處、連(つれ)の者の先へ至れば追てこそ可遣といひしに、奈良茶屋も鄽先の倒死を遁れし事を悦びて、いかで左あるべき、快(こころよき)こそ嬉しけれとて立別れぬ。其後此廣瀨靑雲の仕合(しあはせ)ありて武家の養子と成、後は御目見以上に昇進し、御用にて通行の折から彼奈良茶屋を休みになし、古への事申出て厚く謝禮なしけるに、程過たる事、殊に日々の往來も多き事なれば見覺べきやうもあらざれば、かゝる事もありしやと大きに驚きけるとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。

・「廣瀨某」底本の鈴木氏注には、不詳としながらも詳細な推定が記されている。以下に引用しておく。『寛政譜に広瀬姓は一家のみで、同家は光貫が延宝八年御徒に召し加えられ、のち御徒目付に進んだ。その次は養子半右衛門光栄(ミツヨシ)で、父に先立って没し、遺跡は光貫の孫貫吉が享保十二年に継いだ。話中の人物は右の光栄か。』とされ、岩波版の長谷川氏注もこれを踏襲している。

・「神奈川の驛」現在の横浜市神奈川区神奈川本町付近にあった宿駅。現在のJR横浜駅の西口の東北にある高台。直下はすぐに海であった。

・「六郷」江戸から川崎宿に入る手前、六郷川の左岸。この渡しを渡ると川崎宿であった。

・「奈良茶屋」奈良茶茶屋。奈良茶飯を出した茶屋のこと。奈良茶飯は、一種の炊き込みご飯で奈良の郷土料理であったが、江戸時代には川崎宿の名物料理として知られていた。ウィキの「奈良茶飯」によると、『少量の米に炒った大豆や小豆、焼いた栗、粟など保存の利く穀物や季節の野菜を加え、塩や醤油で味付けした煎茶やほうじ茶で炊き込んだものである。しじみの味噌汁が付くこともある。栄養バランスにも優れ、江戸時代に川崎宿にあった茶屋「万年屋」の名物となった』とあり、この店は「江戸名所図会」や十返舎一九「東海道中膝栗毛」にも登場する有名な奈良茶茶屋で、現在の新六郷橋車道下を潜った第一京浜国道右側の旧街道沿いに万年屋跡の案内板が立っている。本話柄の店もこの万年屋であった可能性が高いものと思われ、ウィキの記載にも『万年屋は江戸時代後期には大名が昼食に立ち寄るほどの人気を博したと言う』とある。奈良茶飯は『元来は奈良の興福寺や東大寺などの僧坊において寺領から納められる、当時としては貴重な茶を用いて食べていたのが始まりとされる。本来は再煎(二番煎じ以降)の茶で炊いた飯を濃く出した初煎(一番煎じ)に浸したものだった。それが江戸や川崎に伝えられ、万年屋などで出されるようになったとされている』とある。本場大和高田市葛城広域行政事務組合の「かつらぎ夢めぐり」の「かつらぎの味 四季巡り」のページで画像とレシピが見られる。私は食べたことはないと思っていたが、この画像を見たら、28歳の昔、奈良で食した記憶が蘇ってきた。

・「御目見以上」将軍直参の武士で将軍に謁見する資格を持つ者の意。大名も含まれるが、現実的にはこう言った場合、旗本を指す。

■やぶちゃん現代語訳

 あまりの飢えに臨み一芝居打って一飯を乞うた事

 私の旧知の朋輩広瀬某は、元は大阪の者の由。

 若い頃、一念発起致いて――とは言っても『一っちょ、やったろかい!』程度の甚だ心もとない漠然とした思い付きからでは御座ったが――江府へ向かわんとせしが、当時の彼は至って貧乏の極みに御座って、実際に大阪から下って来た折りも、雀の涙ほどの路銀を持っているばかりで御座った。

 途中、神奈川の宿に辿りついた時には、遂に懐中の貯え、一銭残らず使い切って、すっからかんになって御座った。

 江戸に至らばこそ知る人がりもあれ、ここにては……しかも、折り悪しく異様に腹も減ってきて御座った。

 万事休す……と……ふと思いついたは――

 廣瀨、川崎宿は六郷川の川岸に御座った奈良茶屋の真ん前まで、如何にも……ふらふらよれよれ、躓きずるずるひょろりふらり……と、力なく歩んで参ったかと思うと、

――すってん、ぱったーん!

と、風に吹かれる紙屑の如、すっ転んで倒れて気絶した――振りを致いた。

 それを見た奈良茶屋の店の主人一同、臍で茶が沸いたが如く吃驚仰天、顔に水を浴びせかけるやら、気つけの薬を含ませるやら……と……

廣瀨、目蓋を震わせながら薄っすら眼を開くる……

「……か、か、くゎたじけ、なぃ……」

と辛うじて言葉になるかならぬかというような、蚊の鳴き声(ね)にて礼を述ぶ。

 店の者は、

「……お前さん、何やらえらい痩せて、げっそりやな……まずは何より、この奈良茶飯でもお食べになるか?」

と言うてくれたが――待ってましたと知れるも恥かしければ、黙ってうち震える顎の先で以って微かに頷く――さても横たわって御座ったかの店先の縁台に、起き直ってはようやっと腰を掛け……運ばれて御座った奈良茶飯をがつがつと喰らい、ようよう背と腹の僅かな隙間に茶飯納まり、

「……いや、いや、いや、いや……これにて、人心地ついて、御座った……」

と、廣瀨、やおら語り出す。

「……さてもさても……大層世話になり申した……御礼奈良茶飯代銭外(ほか)お払い致さんと思いますれど……実は、金子持つ連れの者……これ、先へ参って御座れば……追っ付け追いて金子受け取り……それから取って返して……必ずやお返し申すによって……」

と、まあ、如何にもなことを、これ、申した。

 すると、奈良茶屋主人、悦んで――彼にしてみれば、店先にて行き倒れが出でんこと、これもまた、迷惑なればこそ、

「何をおっしゃるやら。まんず、ご快気、よう御座んした。」

と、そのまま廣瀨を送り出した。

 ――――――

 その後(のち)、廣瀨某、切歯扼腕刻苦勉励、美事、青雲の志を遂げて、良き廻り合わせを得て武家の養子と相成り、遂には御目見得以上直参旗本にまで昇進致いて御座った。

 ――――――

 そんな出世致いた、ある折りのこと、御用で東海道は川崎宿を通行致いた折り、かの奈良茶屋に立ち寄りて休み、昔と変わらぬ思い出の、かの縁台に腰を下ろすと、

「――拙者、いつぞや――かくかくのことあって、痛く世話になった……。」

と昔の恥、これ、隠さず述べ、厚く礼を致いた上、用意して御座った茶飯一飯の代金外、謝礼の品々をも引き渡いた。

 ところが――かの折りと同じ、奈良茶茶屋主人で御座ったが――、

「……さてもさても……遠い昔のこと……殊に日々往来も多く御座いますればこそ……失礼ながら……かくも御立派なる御殿様御姿……これ、御見覚えも致いて御座らねど……はてさて……そのようなこと、御座いましたかのぅ……」

と、茶屋主人、大いに驚いて御座った由。

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